残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

Volume7を通して考えたこと

●はじめに


今回のプレイ日記では前回書いたように「プレイして考えたことを書きとめる」実際の例として、RococoWorks『Volume7』(以下ぼるしち)を取り上げます。
客観的な評価として、巷では、駄作……とまではいかないまでも、凡作として片づけられがちな作品であります。ですが、それ以上に与えられる評価は……「惜しい」。
そう、良作足り得る部分は持っていながら、それを総合的完成度に結び付けられなかった、惜しい作品なのです……これはその後のRococoの作品にも言えることですが。
この記事ではその「何故惜しいか」ということと、Rococoの看板である笛=J-MENTコンビについて語ることにします。それを通して、自分にとっての何かを語ろうとしています……。


ディレクション


ぼるしちが良作足り得なかったのは、結局この部分なのです。
設定は深くて……正直深すぎるくらい。この設定だけで何作も作れるくらい。Rococoは設定という面について言えば、大盤振舞いというか、贅沢です。アイディアは潤沢。
キャラもまた味があります。記号に頼り切らず、思弁的で(これは群像劇だからということもあるでしょうが)、癖もありますが、テンプレキャラに留まるまい、という気概を感じます。「ある場面においては」しっかりと生き生きしていますし。
音楽も良質。主題歌の「Perfect World」なんてすげえ良くないっすか? SFな本作、けれどその雰囲気を的確に捉えたBGMです。
絵は最高。言うことなし。この原画家さんにしては珍しく頭身高めですが、無問題。むしろ手札を増やそうという気概が感じられます。おじさまキャラ、美女キャラが魅力的に描けるとは。ロリ一辺倒の絵師さんではないのです(そのロリが素晴らしいのですが)。
ストーリーも見どころがあります。設定があれだけ面白いのですから、それがどう展開していくか。群像劇のザッピングによる深化。これは勉強になりました。自分自身「視点」というのには、短編小説を得意としているだけに、考えさせられるものがあります。ここでこれだけ「群像性」が出来るのだったら、自分の作品にも活かしてみたい、と思わされるほど、意欲的な群像劇です。とくに後半。


ただ、その後半が……どうにも駆け足というか、怒涛の如く設定が披露されるのはSFとして一種のマゾヒスティックな快感を得られるのでまだいいのですが、あのまとめ方はない、と思いました。それまで何だかんだで「物語」を紡ごうとしていたのが、あの超展開……いや、「端折り」ですね。そんなラストで「えええええーっ!」って思ってしまいました。
どうしてこうなってしまったのか……と考えると、ライターさんの技量、もあるでしょうが、むしろディレクション(企画進行)の下手さ、と思わされます。資金繰りに上手くいかなくて時間がなかったのでしょうか。ライターさんの筆が遅かったのでしょうか。ただ、プロットは仕上がってたはずです。それがあんな端折り方をしてたら……。


が、ディレクションなんて誰にでも出来るさ、とは言えません。とりわけわたしには。過去の小説執筆を振り返ってみてみると、計画通りに書けていったことなどほとほとありません。予定を次々に破っては……というのは、去年の8月によーやっと完成した長編第1作が証明しています。そんなわたしが、ここのディレクションをどーこー言うのが間違ってるのかもしれません。
が、やはり、作品を作品足り得るには、「書きあげる」ことが第一です。そのためには戦略を練り、スケジュールを管理し、ということが重要です。言うは容易い。設定を、キャラを、妄想を練るのは楽しい。けれど、作り上げるのは、やっぱり苦しいもんです。ましてやそれを納期通りに作り上げることをや。
それを考えると、ぼるしちのディレクション管理というのは、以上のように反面教師としてわたしに思わせることがあるのです。過去のわたしの作品で、最後がきちんとまとめられなかった、おざなりにした、って経歴があるだけによけいに。
うん、まずはね、締め切り守ろうよ。……自分に言ってるんですけどね。


原画家とライターがコンビを組むこと


このブランドは原画家・笛氏と、ライター・J-MENT氏が看板となってやっています。このコンビは相性がいいようで、でなかったらこれまで(カタハネ以来)コンビを組んでいませんって。……まあそのカタハネが傑作すぎただけに、こうしてRococoファンは希望を捨てきれないわけですが。
それはともかく、このようにライターと原画家がコンビを組むということはいいことだと思うのですよ。
ライターと原画家が連絡を密に取り合うことにより、作品のコンセプトは明確になり、より掘り下げられる。お互いの持ち味を持ちより、よりよいものが生まれる。ライターの脳内ビジョンを、原画家がビジュアライズする。そのビジュアライズされたものがライターにフィードバックして、さらに物語・設定が深化する。ブランドにとっても、過去の実績があるだけに、安心感がある。
他にもこのようなコンビがあります。トノイケダイスケ☆画野朗麻枝准樋上いたる高橋龍也水無月徹奈須きのこ武内崇丸戸史明=ねこにゃん、保住圭=ミヤスリサQ-Xもそうですね。枚挙にいとまがありません。
やはりこのようなコンビは、世界観がしっかりしています。それがユーザーを引き付け、このコンビならでは、ということになるのです。
「そうでない場合」=毎回原画・ライターを変える、ということを否定しているわけではありません。それはそれで「コラボレーション」の妙があるでしょう。ただわたしは、このコンビ制が作るものの力強さ、ということを今更のように考えるわけです。
……が、欠点がないわけでもなく。それは世界観が、筆致が、絵が、「閉じた」ものに……「一見さんお断り」になる傾向がないわけでもないかな〜、と。あるいは、マンネリが生じるかもしれません。ま、名コンビはそこらへんをがしっと乗り越えてこそのコンビですが。
ラノベでもこういったコンビによる傑作があります。ぱっと思い浮かぶのが時雨沢恵一黒星紅白川上稔さとやす、といった人達です。彼らは小説家のイメージを完全に己の画風でもってビジュアライズし、小説家はイラストレーターの描いた絵を自分のビジュアルとして活かす。絵から物語を生み出すこともある。
原作付き漫画でも、コンビを組んでやってる方々がいます。
……と、こう考えていくと、コンビを組むことの重要性がわかってきます。けれど、そのようなコンビが巡り合うこと自体、奇跡的な話と言ってもいいかもしれません。
天の定めは結局偶然です。けれどいざ合ったときには……というお話でした。


……………………………………


……というわけで、ぼるしちについてのプレイ日記を書いてみました。
短くしたつもりですがやっぱり長かったりして。ただ話題はシンプルにしたつもりです。
もっと短く書く技術を習得しなくては……。


本日のBGM:NHK-FMワールドミュージックタイム」(音楽評論家・北中正和氏がパーソナリティを務めるワールドミュージック民族音楽専門番組。こういうのを聞いてるとわたしの音楽経験(地図)の幅が広がります)