残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

読書日記(ひまわりさん二巻読解)

●業務連絡


・「聞こえリライト」21000文字、原稿用紙63/400枚
・筆の進みは順調なのはいいのだが、いつまで経っても第一話が終わらねぇ。これじゃスケジュールが立てられないじゃないか。おいおい。
・ともかくも12月末までには第二話完成にまで持っていきたいところ(全八話、いや全話こんな文量じゃないけど。書き出しが妙に多くなってブーストしてしまって…)
・「気球」母君からの感想・アドバイスをもらう。好感触で何より。しかし的を得た忠告だったので、素直に従うことにする。書き直しはまだ後。
・「柿」はこのひまわりさん原稿を仕上げてから
・先月開店した店だけど、軌道には乗っているのかな? 探り探りってな感じもするけど。ただ、来年あたりからわたしの仕事が増えるのよね。Web活動(ブログ・通販)を「おめーに任せた!」って父君から言われてるから。……うむ!時間を削らねばならんな。
・それに加えて今月22日頃から年末進行の地獄。食品加工業には盆暮れなんてないのさ。……大丈夫か?自分。
・だから冬コミにかまけていられる人、皆さんは幸せなんですよ?


菅野マナミ『ひまわりさん 第二集』読解(前編)


前置きが長くなりましたが、本文も長いよ!(何)
さて、前々から予告しておりました通り、わたしと義実さんと青井さんの間で話題沸騰中、Nagaleさんまでそれに興味を持っていただいたという、今話題(局部で)の本屋漫画「ひまわりさん」の読解です。
今回も前回と同じように分析的に漫画批評したいと思います。そうするだけの価値のある漫画です。
はじめに結論を言いましょう。
傑 作 で す。
話面白い、キャラ立ってる、漫画力・画力さらに向上、「連載物(長い話)」を作る力がついてきている、とくりゃあ、前にも書きましたが、こういう作家をリアルタイムに追いかけていられる喜びを感じますよね。
一読した後、こんな感じのメモをとりながら読解していったのですが、

今回は全体を通して、という形よりも、一話一話に焦点を絞って読解していきたいと思います。それだけ個々の話のクオリティが高いという証拠であります。
何しろ長いので、前後編で今回の読書日記お送りします。まさに長文乙であります。


・第九話
まずこの話全体を通して感じたのは、「ネタの過積載」。なまじ話、キャラの行動、心理が面白いだけに、尺を長くとって前後編でもよかったのではないか、と思わせるくらい。
また、これは後半とくになのですが、コマ構成の不自然さ(前々から書いていた菅野氏独特の「大きいコマ」)……具体的に言うなれば、まつりの「つめたい!」で、その鮮烈さを鮮やかに描こうとすること。
意気込みは伝わってくるのですが、どうにも唐突という感が否めません。ともすれば漫画的ギミックとすら思えてしまいます。
また、話と話の間がシームレスに繋がっていくのに少々難があったのも事実。前半の「各キャラはどう思う」で1ページ使ってネタを展開しオチを付ける「四コマ風」なのは効果を十分に奏してますが。
批判的に書きましたが、それだけ「話が良かった」ということでもあるのです。「理想の物語」→「まつりの不可思議さ」→「思ったことを書けばよいのだ」、どのパーツをとっても味わい深いものです。それだけに性急に進めたのが惜しいといえば惜しいですが、しかしこれ、連載第一発目なんですよね。
ひまわりさん」の連載に至るまでは、これ結構苦難の作品でして(リンク先の作者ブログ参照)、いつ打ち切りになっても仕方がない。いくら漫画的に面白くても、アライブ的に優先されるべきはメディアミックス作品。こういう地味な作品は作者や担当氏が書いているように「続刊すら不透明」……はぁ、日本の漫画業界情けねぇ。こういう作品こそ存続を確かにすべきだろう、と。
そういう環境下での「連載開始」ですから(その意気込みがカラー扉でしょうか。青井さん、ブチ抜かれましたか?)、ネタ過積載でも、読者を掴む(フック)という意味でも詰め込む必要があったのかな……確かに、そういう視点から見ると、前後編は無茶かな、と思うところではあります。


・第十話
こちらは打って変わって、ぐっとまとまっています。
というのも、プロットがシンプルな分、いろいろな心理の綾を張り巡らせて、風子が「ああもう姉ちゃんなんであんなことしたんだよ、心配じゃないか、でも嬉しいし、でもどうしよう」、そこにひまわりさんがきて「どうしようどうしよう」が加速し、最終的にはひまわりさん超イケメン伝説で片をつける、という感じなのですが(どんな紹介やねん)そういうふうにプロットが一本でダーっと駆け抜けていく感じ。音楽で例えれば、リズムは速い感じで一定でも、フロントのギターやサックスの絡み合いが、時にあっちいったりこっちいったり、みたいな自由さがあるので、理解しやすいですし、風通しも良いです。
「心理の綾」と書きましたが、様々なアプローチが取られているので、「AでもあるけれどもBでもある、けれどCという感情もある」というこの話、まあ一言で言えば「シスコン万歳」で片づけられますが、こうしっかり、視点(心理的)やアングル(画面的効果)を変えながらなので、プロットはシンプルですが、「飽きない」。実に上手い短編です。
それから背景に関してですが、これは後編において詳しく語ることとして、ここでは一言。「描き込みすぎ(いい意味で)」


第十一話
まつりと書架の描写ですが、魚眼レンズを通したかのような画面設定は、「本屋/図書館」の幻想性を表すにおいて古典的な手法です。
しかし古典的であるから悪いという理屈はありません。その手法が有効だからこそ「古典」として残るのですから。でなければここでのこのロマンチックな描写はないでしょう。
この表現は絵画的に見たら「あえて歪ませている」というものですが、しかし上記の理由により「ギミックに走っている」といった感情は抱かせません。むしろ星屑のようなトーンと相まって、実に幻想的です。こういう漫画表現は好きですね。しかし、思えばトーンの使い方が上手くなっているというか。影を付けるにしても……そう、画面の濃淡が実に絶妙。
最近の漫画を見ていると「上手いんだけど何かPixivで見たことがあるような絵だな」と感じることがあります。
それはタッチの方面からも見ることが出来ましょうが、第一に(モノクロ)漫画表現に限った話をするなれば、「デジタルトーンの多用」にあると思います。上手いことは上手い、過去の偉大な作家たちをよく勉強している。しかし、自分のものにしているか、といったら……酷な評語かもしれません。しかし「何かPixivで〜」のインプレッションが消えないのは、これ漫画の潮流的にどうなんでしょうかね? これもこれで新たな「派」が出来たのか、と見るべきか。
しかし「ひまわりさん」=菅野マナミ氏のように、画面の濃淡に対して明確な哲学を持って――黒い所はベタでしっかり、白いところはきちんと白く、影や心理をトーンで繊細に表現……そう、つまりは画面構成に対する哲学の問題で、デジタル処理に振り回されている作家には「固有の哲学」が見えないのです。上手いといっても善し悪しがありますね。
技術の向上は喜ぶべきことですが、哲学の有無を小器用さで隠すのは感心出来ませんね。それだったら自分もアナログ礼賛に立ち戻りたくなります。安易に立ち戻ってはいけないんですけど!


何か大いに脱線してしまいましたが……ああ、これだけは言わなくては。


「お客さんはみんなそれぞれ/趣味だって考え方だって違う/好きな本も抱く感想も違う/色んな人がいてだから色んな本がある/好きな本の話をしている時はみんな楽しそうで/好きな本が違っても好きだって想いはきっと変わらない/本を通じてそれを感じられるのが私は好きなんだ」


自分を含め、世の本好き……つーか(自称)評論家が肝に銘ずるべき言葉ですね。
このセリフがあるからこそ、だからわたしはこの作品が好きなのです。


第十二話
ひまわりさんが可愛い&黒井里先生シスコン。以上(えー)。


次回に続く……(制限文字数の四倍ってどういうことよ?今回の原稿)


本日のBGM:カラヤン指揮、モーツァルトフィガロの結婚」(先日出た小澤征爾×村上春樹の本「小澤征爾さんと、音楽について話をする」を読み終えました。感激ひとかた尋常ならず)