残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

敗北と復帰のめもわーる

過去の自分を振り返ることが、少しだけおおくなりました。回顧主義……というほどではないですが、なにかそこから学び取れることがないか、と。

たとえば、大学(院)時代、ろくに小説がかけず、代わりにエッセイめいた日記をまいにち飽きもせずに(そう、一日10枚は余裕)かいていたこと。

たとえば、それなりに院退学後の事務生活が過ぎ、自分なりの生活スタイルが確立され、朝早く起き、数時間小説に集中し、それから運動をし、そこから仕事をする、というルーチンワークを延々続けていた、ここ数年間。

年をとったのでしょうか。それらが輝かしいものと断言するのは、ちょいとためらわれますが、まあ、今にして思えば、暗黒ではありませんでした。

そこにあったのは病魔でした。
それとの戦いのなか、少しでも「なにかを残そう」と、ときには自分のキャパを越えてでも、ことをなしていました。
思い返すのは、その努力と、ときたまあった、それら一切を忘れるためのエアポケット的な、オフの時間です。

「あのころはよかったよねぇ」
的なことを死んでもいうまい、と思っていたのが、過去の自分でした。
いまでもそう思っています。そう思わなくなったら、ほんと自分はおしまいだとおもいます。
それでも、過去のことが、ふいに懐かしくなるのはなぜでしょうか。
−−そこには、いまの自分が、無茶をしている、というのがあげられます。

たとえば、僕はいま、四月の締め切りにむかって、最後の小説の追い込みをしています。
ここのところで、自分は小説家になる資質・価値があるか否か、という自問を繰り返していて、一時は小説家になるのやめるか……とまで追いつめて考えていました。
その理由は、あまり……というか相当口にだしたくないのですが、「てめえの小説がなんかおもろくない」からでした。
自分の作品を客観的にみつめることは、クリエイターの義務ですが、そこにおいて「己の資質の根本的な疑義」にぶちあたってしまったわけです。

途方に暮れる、とはこのことでした。
いままで己がより所にしていた「己は小説家になるのだ」という熱が、そもそもの間違いだったのではないか、と。

それと補助線としてもひとつ。自分が過去にかいてきたテキストで、小説よりも批評(レビュー)のほうが、ウケがよくて、自分でもすらすらかけた、ということです。
んじゃ己の才能は批評家のほうにあるんじゃねえかと。

迷い。
わたしはどちらに進んだらいいのか。

このことを、そうですね、年明けから、延々数ヶ月悩みました。
やっぱ初志貫徹で小説やるか
求められてる批評やるか
仕事である事務文筆に徹するか
アフィを使った広告収入で批評をメシの糧にするか
ほとんど説教ににた己の批評を「思想」の域にまで高めるか
……己は、なにをしたいのか。
……己は、なにを求められてるのか。


それが、ふっきれてきたのは、ここ最近でした。
やはり自分は、小説を選びました。
小説の利点はいくつかあります。
ひとつは、批評にくらべて、稼ぎやすいということ。
もひとつは、キャラを生みだすことが職業ということ。キャラの生きている姿とともにあり続けることは、小説家冥利です。
それから、思想だろうが、批評だろうが、自己省察だろうが、小説という形なら、全部ぶちこめる、ということ。

……というかですね、院を退学してから延々小説かいてきて、己の体質というのが、完全に小説書きのそれになってきてるのです。
資料をかき集めるのは、論考のデータ集め、論証の不備をなくすため、というよりは、世界を作るための資料。
なにかを学ぶのは、自己の批評眼を高めるよりは、小説のネタにするため。

もちろん、自分は小説家として、いくつか致命的な欠点をいだいています。
たとえば、キャラの丁々発止な掛け合いのスリリングさに欠けてますし、ダイナミックな物語展開にも欠けています。
また、最近主流の小説の読み方「断片的でリーダブルで改行多めの文体で、ほとんど四コママンガ的に読む」というのにも、適していません。
いわば「王道」には向いてないのです。

それでも小説をかきたい。そこにしか道はないように思える。
だったら、自分の資質を最大限に発揮して、かくしかありません。
資質とはなんぞや、ということですが、これは「自分は批評の経験がふつうの小説家よりもある」っつーことです。
これを裏返せば、かなりブッキシュで理屈っぽくて、相手とささいなことでも論争するかのような「会話」がかけねえか、ということです。
それは己の芸風になるのではないかと。そういうのは、わりにあまりないことですから。

……そんなことを、最近考えています。
プランは、このようにして、作りつつあります。
問題はモチベでして。
で、最初にもどりますが、だからこそ「無我夢中に小説に打ち込んでいたころ」を、いやがおうでも思い返したいのです。
そのころの自分は、猪突猛進でしたが、少なくとも、ある種のきれいさ……純粋さはありました。
それを、今の「金稼ぎ」的な打算でもって、統合することは、より一歩成長(いやな意味はまったくありません)にあたるのではないかと。


ここまでかいてきて、「過去を振り返る」……なつかしむだけということではないことに気づきました。
いま失われつつあったものを、もういちど手に入れ直す。
先に進むために。
わたしが一番いやなのは、「ああ、昔は小説とか俺もかいてたよ」「みんな若い頃はそうするさ」みたいなことを酒の席でいうことです。若気の至りだったさ、みたいな。
俺はそんだけ人生の悲哀をなめてきた、とか、人生の玄人だ、みたいなツラをして。

わたしはそれはいやです。
討ち死にするなら、全力で戦って死にたいです。
そのために、過去一番、やる気の鮮度が高かった時期……ただものを書いているだけで、あしたが楽しかった時期、あるいは、追い込みの時期における苦しさと、それゆえの生の強度を得られていた時期と。

つらさはあります。
けど、それでこそ得られるなにがしかはあります。
ほとんどスポーツです。
でも、そんな人生はきらいではありません。

……あーあ、こんかいなにを書いてるんでしょうかね。