残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

無限の後退戦



1.少年時代

(※ 2013/12/24~25日あたりに書いた記事です)
(現在「ガンダムビルドファイターズ」にハマっている残響です)
(今回の記事、暗いです)

ビルドストライクが組みあがりました。素組みです。塗装してません。スミ入れもしてません。もとからあんまり継ぎ目処理は気にしない人間です。
そんなヌル工作でさえ、組みはじめが一週間以上前……下手したら、二週間くらいかけて、ぐだぐだちまちま作っていたのです。

……信じられない。

腐っても、1/144のHGの工作、わたしが子供のころだったら、学校帰って、一度家にランドセル置いて、プラモ屋行って、その日の内に作ったもんです。
別に深夜まで起きてるわけじゃないです。どんなに遅くても、ご飯のあと、最終的な仕上げをするくらい。

……まあ、もっとも、それはガチスピード工作であったのは事実で、
本領は、土日にじっくり塗装も含めて取り組んだものです。
素組みを一通り終わらせて、数時間それで遊んで、おもむろに既存パーツ、ジャンクパーツから改造をはじめたり。
あるいは、素組みの流れ(モチベ)のまま、ガンダムマーカーと油性ペンとティッシュを手に持ち、塗装に入ったり。

そのときの工作の成果(倉庫に入れてある完成品)を見ると、そりゃあ乱暴な出来です。
ですが、工作のスピード……それはすなわち、工作の熱意。
それは、速かった。疾風迅雷、と今なら言えます。

そういえば、餓鬼のころ、クラスメイトの皆が、ゲームをクリアするのが異様なまでに速いな!と思っていたのですが
(だいたいFF6とかマリオRPGとかクロノ・トリガーみたいなRPGを、わたしはクリアするのに一年くらいいった)
わたしがこのスピードで模型を作るのに比肩した同年代は……うん、いなかったな。
しかも制作過程で改造・塗装までスケジュール(というもんを考えていたわけでなく、本能的に)に盛り込んでいるくらいなのは。

2.オレは「趣味をしている」のか、「趣味をしているオレに満足している」のか、どちらなのか?


皆がゲームやる勢いは、多分自分にはなく(いまでもなく。まあエロゲ(ノベルゲー)はともかく)。
その勢いが模型にあったというだけ。

ただ、持続力というか、根気がなかったので、ロクにジオラマ/レイアウト、完成させたことはなかったけど……。
(計画だけは山とあった)
あと、ジオラマにディスプレイする場合、模型を「固定」しなきゃアカン、というのが、なおさらジオラマ離れを加速させた。


……じゃあ、今はジオラマ作れるか?

高校、大学と、ずいぶん模型から離れてしまった。
で、社会人あたりになって、なぜかむしろ復活したのです。

それは前の記事である森山さんのこともあり。
また、最近になって、昔のキットの復刻が進んだ、というのと、
マイナーなモデル(趣味ドンズバ)のが次々でる、というのと、
そもそもモデルの出来が格段にあがった、というのと(SeeDあたりの素体の革命以降、旧キットガンプラは、やはりどうにも古臭く見える。ましてや今回のビルストの可動範囲なんかガイキチレベルのヌルヌルである)
あと、モデルを完成させる根気が多少はついた、というのと(大人になったなぁ……)。


……言うなれば、そんなモデルを取り巻く幸福な状況と、
そして……自己鍛錬、まるで禅の修行のように、模型を作っているいまの自分、というのが重なっています。

というても、苦行のように超巨大複雑モデルを作っているわけではなく(例えばPGのウィングゼロカスタムとかね)。
……なんつうか、作っていると「心が洗われる」のです。

子供のころは、そんなことは考えもしなかった。
ただ作っていれば満足だった。

……ある意味、汚れてしまったかなぁ、と。
大人になるに従って、余計なことばっか考える。
その余計な出来事とか、余計な考えで、頭がパンパンになるのが常になって……

でも、模型を作っていれば、そのことは忘れられる。
心が洗われる、というのは、そういう意味で。

なので、模型をゆっくり作るようになった。
それは完成度のため、とまえは思っていたけれど、
実際は、「一分一秒でも、この心を洗う行為を続けたい」ということだと思う。

LP盤でクラシック……それも大編成の交響曲とかじゃなく、弦楽四重奏室内楽とか(えーと、ハイドンとかモツとかドヴォとか)ゆったり聞きながら、
あるいはラジオ/webラジオとか聞きながら(思いもかけずよかったのが、「玲緒っぽいらじお」であった)、ただ、淡々と作る。

……それほど、疲れているのかなぁ。

でも、これは「模型を作っている」のか、
それとも、「模型を使ってストレスを浄化しているだけ」なのか。

3.無限の後退戦


どちらでもいい、と自分では思う。
……いや、思わなくては、やってられない。
この日々(最近、ほんと忙しい。そんで、かなりイライラしてる)を乗りきるために。

それは、趣味のありかたとして、あまり麗しくはない。上品ではない。
上品っぽくクラシックやお茶を飲みながらゆっくり作ってるけど、実際は……どうだというのか。

もちろんこのブログ名「すべてじぶんのために」の通り、
自分のためになればいい、というのが趣味の本領であって。
「どちらでもいい、それでいい」というのは、やっと落ち着くことができた自分の境地でもある。
あるが……それでも、いささかの「やましさ」があるのは、事実なのです。
どうもオレは……趣味を神聖なものとして捉え過ぎなのかな。


ただ。

困ったことに、そんな趣味……たかがHGのビルストひとつ作るにしても(非ガンプラ勢のため説明しますと、これ、いまのバンダイが「模型を本気で始めよう」的なユースのための初心者用キットとして位置づけようとしているもんなんです)、二週間もかけるかね。

時間がとれなかった、というのが第一に。
それでも、時間は作るもんだろう? 自分を模型で心洗うために。
その怠慢がひとつ。

さらには、やはり集中力が続かない。
とくに目の疲労と手の疲労。
高密度の集中に、目と手が耐えきれない。
まあ手に関しては、筋トレすればいいし(模型で筋トレが必要になるとは!)、目の酷使の肩こりも筋トレすればいいし(模型で以下略!)。
ただ、集中力の問題……目、これは、加齢ですなー。
老眼、って、実は診断されているんです。オレ28歳だけど。ちょっといろいろあってね(緑内障に移行しないことだけを祈る)。
きょう、ようやく完成させて思ったわ、わたし、模型にかなり体を酷使させてる。

このブログなんですけど。↓

「シロクマの屑籠」ソーシャルゲームとコストの問題の記事

ここで書かれていることを「模型」に転用していただくと、いまの自分の思っていることが、上の文書と合わせて、ある程度説明出来ます。
あまりこういったことを書いてもしかたがないのですが、それでもさらに書くと、
この歳までこうやって模型を作り続けていられることは、大小誇りに思ってもいいと思うんです。

思うのですが……それでも、これは「無限の後退戦」なのではないか、と。
たとえば、目。
老眼鏡を手にして「おお、楽だ!」とかいっているような目。
すばらしく体力というか、身体条件の低下です。もっとも、視力の弱い人は、この不便をずっと前から背負ってるのですよね……。
そう、各々が、それぞれの「苦」をしょってる。その上で、趣味を続けていく。

趣味は趣味であって、「楽しむ」、それ以外の価値はありません。
昔、森博嗣氏(博士)が、「趣味でストレス解消とか、ひととつながるとか、そんなことを考えているようではまだまだ趣味の奥深い孤独の境地には至っていない」
というていたのですが、そのときは「そんなもんかな」と思っていました。

ところめが、実際、30歳も手前になってみて、自分の衰えを感じながら趣味をやってみると……プラス、社会にでて、様々なストレス(というか制約条件)が重なり、それでもいろいろなものから学ぼう、としてやっている現在……(このブログのタイトル!)

ああ、意味わからなくなってきた。

いいたいことは、ひとつ。
「自分は趣味を純粋にやれてるのだろうか?」

それに対し「純粋でなくてもええやん」
というさらなる問いがかえってくるのはわかってます。よくいわれますし。

答えはわかっています。
「明日につながるような形の趣味ライフをするのだ」
と。

どのみち人生は有限です。
じゃあ、すべての営為から、なにかしら学んで、活かして、って具合で、模型とかの趣味をやっていけばいいじゃないか……道理です。

そりゃあ、そうしていちいち学ぶっちゅうやりかたは、傍目からは愚かしく写るかもですが、最終的に「たどり着く」のは自分ですしねえ。(いやらしい笑み)

……ただ、最後に。
それも、ひとつの功利主義じゃないか、と。
それは、趣味の「本当の楽しさ」じゃないんじゃまいか、と。

その、ちいさなちいさな疑念。
……まあ、それを悟るには、まだ経験というか、修行が足りない……精進ですなぁ。