こないだの「自殺のこと」が、よくもわるくも反響ありまして、第二弾書いてみようと思います。
といっても、いまのわたしは結構元気です。
先日、ビルドファイターズにすこぶる感激して記事をアップしたのですが、まさにそこで得た教訓というか指針は
「無心であれ、好き勝手!」
というものです。
思うことを、思ったタイミングで、ひとの反応よりも己のこころの反応に、スポンティニアスにライヴ感覚……!
それが、ブログ道だ!……かどうかは知りませんが、「シロクマの屑籠」のシロクマ先生も、ブログを書くにおいて、余計なこととか、かくあるべし論を排すべきだ、ブログは俺が俺のために書くべきものだ、と仰ってますし。これとかこれとか。特に最近のシロクマせんせいはこの手のことを良く仰るようになりましたね……
で。
なんで自分がこの手の記事を書くかというと、まあそりゃあどこまでも自分のためなんですが
(前回記事参照)
あと、意外にも自分のお知り合いでこの手の問題に悩んでおられるかたがいた、というのもあります。
もちろん、自分が「救える」というツラはしたくないです。
ただ……自分は、はっきりいって、一番自信が持てるジャンルというか、確信が持てるジャンル、この手の問題に関しては自分ほど考えた人間は確実にいないであろう、みたいな異様な自信があるのです、自殺云々に関しては。
もうそりゃあすごいですよ。
日ごろわたしの文章は偉そうですが(レビューとか)、そのことでバツのわるい思いをしていることも事実です。倫理性に欠けてるな、とか。まあそれは、自分の自信のなさと表裏一体なのかもですが。
ところめが、自殺とか鬱とか自己破壊に関しては、自分ほど考えた人間はいない、と断言できます。すごい自信です。なぜなら、ほんとにやってきたからです。自慢にならねえ!
はっきり言えば、わたし、今日死んでもべつにいいんです。
なぜなら、それ以上のーー死ぬこと以上の苦しみを味わっちゃったからです。
死ぬ以上の苦しみなんてあるわけない!
といえるひとは、幸せなひとですから、そのまま幸せにいてください。お願いします。これは皮肉ではありません。
あんなものは誰もあじあわないほうがいいに決まっているのですから。
とはいえ。
足を切断したことのないひとがその苦しみをわからないのと同じように。
目が潰れたことのないひとがその苦しみをわからないのと同じように。
わたしの苦しみも、ほかのひとにはわかりません。
わからなくていいんです。もし世の中のひとが全員わかるようになってしまったら、この世は核戦争以上の地獄です。
ただまあ、自分の苦しみの「表現力」だけはあげておいたほうがいいかな、って考えるのは、物書きとしての思考でしょうか。
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わたしはよく、ひとに自分がかつて(いまは大丈夫ですが)抱いていた「発作」について説明するとき、
「蟲風呂」
という言葉で説明します。
これがどんなだかは、覚悟のあるひとは、画像検索してみてください。やめといたほうがいいと思いますが……本気で。
意志でどうにかなるのでしたら、苦労はないです。
まず、上下左右の感覚というか、重力の概念(上から下へ)の概念も、消え去ります。
わかんなくなっちゃうのです。
そこから、なぜかあいうえおの五十音表があたまの中に浮かびます。で、聞こえてくる言葉すべてを、その五十音表にあてはめなくてはならない、という異常な発想になります。そのうち、聞こえてくる言葉が、なぜその言葉であるのかが意味がわからなくなります。「みかん」だったら、なぜ「みかん」は「み・か・ん」なのか。
その配列……「み」「か」「ん」には何か悪意があるのではないか。古代日本人の感覚にまで思いをはせます(この時点で意味がわからないですね)。
やがて、時間というものもわからなくなっていきます。昨日あったことが、数値に分割されて、データに分割されて、そこにある情報(廊下を歩いただとか、椅子に座っただとか)が、自分の脳内にふわふわ浮くのです。ゲームのアイテムのごとく。
今が昨日で、昨日が未来で、みたいな感覚。
で、そんな脳の状況。
「思いこみじゃん!」って、よくいわれました。
ええ、これが思いこみだってことはわかってるんです。
問題は、この狂気を制御できないんです。
やがて思考は、あいうえおの表から、宇宙にいきます。
なぜこの世界は地球という不安定な球体に存在しているのか。
そもそも宇宙の発生とはなんなのか。
すぐ次の瞬間にでも、量子力学的に、すべては失われてしまうのではないか。
意味がわかりませんね!
でも、これらすべてが、「体で考える」のです。
だからこその「蟲風呂」。
すべての異常な思考が、体をはいずる蟲のごとく!
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そんなのを、誰かに説明しようと思ってもムリっすね。
というわけで、誰かの言葉を借りようと思って、心理学の本を読みまくりました。
パ二ック障害、というところまでいったのはいい線いったのですが、それでも主治医に相談すると、違う、とのこと。
わたしはわたしの医学知識を信用していないので、この点では、主治医の言葉を信用しました。
よく薬を乱用するひとに限って、主治医を信用してなかったりするのですが、これはあまりにもオロカな所業です。
まずは信頼できる主治医に「巡り合う」べきなんです。むしろメンター(師)的な。
こころの問題というのは、切った貼ったではありませんから。ひととひととの問題ですから。
「……結局自分の病気ってのは、なんなんですか?」と、わたしは主治医に質問しました。
長く、主治医はこの問題について、言葉を濁していましたから。
で、言われたのが、
ということでした。
なるほど! それじゃ、わたしのニワカ仕込みの医学知識なんぞ役にたたねーわ!(笑)
でも主治医氏はいいました。
「【名前】が問題ではない」
と。
「対処することが重要なんだ、対処さえ出来ればいいんだ」
と、何回も、何回も。
これ、真理ですよ。
分析は、究極的な意味では、役にたたない。
そりゃ、分析することによって救われるんでしたら話は別ですが……
で、さきほどの「蟲風呂」現象をもいっかい思い返してみてください。
――これ、実は、わたしの「分析しがち」な頭の回路が、逆に自分に襲いかかっているようなもんなんですね。
あいうえおの狂気言語学も、宇宙思考の狂気哲学も、全部、自分がそれまで学んできた思考をなぞって、悪用して、こうなっているのです!
だから、そんな自分を分析しようとも、時間の無駄。
だからこそ、どんな手を使ってでも、自分を保つこと。
「保つ」
そのためには、いろんなことをしてみるのが重要だ、と、主治医氏はいいました。
で、自分の場合、それは音楽であり、おもちゃ(模型)であり、多少の仕事であり……そして、本でした。
先人の知恵というか、むしろ「過去に苦しんだ同類」の言葉は、自分を非常に救ってくれました。
ぷらす。
これは、自分のことは、自分でホメオスタシス(精神的、肉体的)を整えていかねばならない、という発想です。
少なくとも、自分を律するーー生活を立てなおす、ためには、ある程度の基準が必要です。
また、精神にも規律が。
がんじがらめの生活じゃないか、っていわれそうですけど、どのみち自由にしててもクソなんですから(この感覚、メンヘラのひとにはわかるはず!)、ここは先人の「清らかな生活」ってものを、参考にしてみるのもアリなんじゃないか、とふっきれたんですね。
誰かに褒められるよりも、まず自分を褒めたかった。
というわけで、ちょっとトイレにいってきて(健康な排泄行為は、すっごい重要ですよ?)、そこから、鬱ブックガイドを書きます。