残響の足りない部屋

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引用論「5。結論:「正しい表現」とはいかなるものか」

※引用をめぐる長尺読み物連載、最終章です。

全部で44000字ある、最後の章です。8000字あります。

おたよりお待ちしております。

 

5ー1。引用=表現

 

 文事(ふみごと)の長い旅におつきあいくださった貴君らに、まずは謝辞を。わたしという船頭はたびたび羅針盤を無視し、横道にそれた。ずいぶん不安定だった道程であったと思う。申し訳ない。

 正しい表現、と、わたしはこの結論において、奇妙なことを語りだすように見えるかもしれない。

 「表現」に正しさなどあるのか? あらゆる個性の発露としての表現は、個性尊重の名のもと、侵害されるのは許されざることではないか?

 Da.然り。だがその論難は、ニェット、いささか論の梯子の駆け登りじみている。

 引用とは何か? それは、3。で述べたように、ジェノ/フェノ・テクストの意味を持つが、しかし、結局は、引用が用いられるのは、シニフィエを表現するための道具である。あらゆる言葉は道具である。引用は言葉である。よってあらゆる引用は道具である。Q.E.D.

 陳腐な三段論法で恐縮だが、結局「テクスト」とはそういうものだ。いかに学術的でブルジョワジーな引用をしたところで、文脈・内容に沿って、正しくそれらを表現していないことには、全く意味はない。下品な引用であっても、最大限に内容を表していれば、それは【限りなく上品なるものに近い】。(所詮ロジックの美しさを問うだけのものだから、イコール上品、かどうかは、危うい)。

 我々は、引用をするにおいて、正しく引用をしなければならない。これが教条すぎて聞こえるなら、「出来るだけ正しくあるよう努めなければならない」と言い換えよう。これ以上は無理だ。多少は義務めいたオピニオンにしないと、我々はすぐ怠惰になりかねない。4。の歴史を繰り返してもいいのか?

 ……さて、我々、と説いたが、引用なるものは、結局作中だけの問題ではない。一番最初に「こんなふうに引用ばっかりする人間」と書いたが、往々にしてそういう人間は嫌われる。それはインテリめいた衒学趣味、という以前に、文脈(会話の流れ)や、発言内容に、その引用が適していない、と断ずることも可能だ。――畢竟、人文学は「我ら如何にして生くべきか?」に対し、無数のケーススタディを応ふるものである。ケーススタディの単一性を求めるのだから教条的になるのであって(聖書におけるパリサイ人のように)、各々の立場を保ちつつ、その各々が「正しい姿勢」をしていれば、2。の最後に説いたような、特殊例学派のドグマなるものも、大幅に減るのではないだろうか。

 

 余談が過ぎた。少なくともこの論は、引用を巡る、さまざまののっぴきならない外部条件・内部条件を、ケースを挙げて論じてきた。ここまでみてきたように、単に引用一つとっても、それはほぼカオスである。そして引用は道具の一つに過ぎない、と、先の三段論法。道具……表現において道具とは、言葉であるが、言葉の壮大なアラベスクタペストリーたる「一作品」を論ずるのに、引用だけでもこれだけのフィールドがあるが、内容論、作家論、時代論、表現論、修辞論……目眩がしそうだ。

 これらすべてに、我ら国文学の徒は対応しなくてはならない。例えば引用の道を選んだのなら、まずその上位カテゴリ(その論の母体となった「学」)を、かなりの分量まで知っている必要がある。引用論の場合だったら、比較文学。次いで比較表象。むろん、当該テクストに対する読み込みが、浅くては話にならない。「比較論だからいいのさ」といういいわけは、自戒も込めて書くが「餓鬼のいいわけよりも愚かしい」のであるから。当然、母を知ったからには、次はきょうだいだ。引用論の近似領域……そのおおかたは、引用論も含め、表現論の中で語られる。

 引用とは、遂に表現である。表現に過ぎないが、しかし表現(字面)の檻を破って作品全体に侵犯する。

 では、作者は「文字を使って表現する」ことに、どの程度のモラルを持っているか。我々論客・批評家・研究者は、そのモラルなるものをどれほどくみ取るべきか。【正しい表現】なるもの、我々がよく使う言葉だ。それが、事実上、どれほど不可能に近い、「針の穴」を通るという聖書じみた表現すら使わなくてはならないほど困難なものなのか――遂に、引用とは、それほど難しいものだ。作者はそれを、文献的努力でなく、作家的肉体感覚で引用する。実作する。批評家は、それを、文献的努力でもって、批評家的「非」肉体感覚でもって引用解析する。批評する。

 わたしは最後に、実作者たちの肉体感覚の分析でもって、幕を閉じたい。彼らの引用の現場でもって。

 

5ー2。翻訳

 

翻訳夜話 (文春新書)

翻訳夜話 (文春新書)

 

 

 

翻訳夜話2 サリンジャー戦記 (文春新書)

翻訳夜話2 サリンジャー戦記 (文春新書)

 

 

 

翻訳教室

翻訳教室

 

 

 

水と水とが出会うところ (村上春樹翻訳ライブラリー)

水と水とが出会うところ (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

 

 

村上朝日堂はいかにして鍛えられたか (新潮文庫)

村上朝日堂はいかにして鍛えられたか (新潮文庫)

 

 

 表現において、なによりも正しさ、を希求するのは、翻訳である。

 もっともこの場合の翻訳とは、「創作」ではない。翻訳は翻訳、以外に書きようがないのだが、「創作」に対峙するものとして、あえて書くなら「文芸的伝達」である。

 翻訳に創作性を夢見る論客は多い。そこにこそ(trans-なんちゃら、の論である)、そこに潜む文芸上の【意味】の攪乱にこそ、次世代の【意味】生成と、過去のテクストの読み説きにおけるヒントがあるのではないか……あらかじめ【誤読】を前提とし、そこに夢すらみる立場。ジャック・デリダを卑近化するのではないが、デリダなるものの卑近な読み説きの類型化は、このあたりに夢をみる徒である。

 その論客のオリジネイター(デリダ他、翻訳誤読の立場、そして翻訳論)に対する論考は、わたしが今回論ずるところではない。が、類型化の徒に対しては一言。「次の諸例を見て、夢から覚めるがよろしい」。

 なにより、翻訳の創作性について、一番厳しい目で見ていたのが、世界レベルでの創作者であり、かつ現代日本において、現代アメリカ文学の力強さを伝える翻訳者たる村上春樹なのである。

 この論は、村上春樹にはじまり、村上春樹に終わることとなる。だが、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の作者、村上春樹/ハルキ・ムラカミと、レイモンド・カーヴァー全集」の翻訳家、村上春樹、とは、ほぼ別人といってよいのだ。もっとも、同じ人間、同じ文事(ふみごと)なだけに、この二者は、通奏低音、足下を流れる静けき水のような、影響をしあっていることは、確かではある。この論が、最終的にその領域に落ち着くのであろうが、わたしはそれを「村上論」として明示はしない。わたしはあくまで一般論を語る。

 村上は、翻訳に対して、創作的立場で望むのに、厳しい目を当てる。

 

「自分の味付けをなるべく表に出さないように、ぎりぎりのところまで地道に無色にテキストに身を寄せて、その結果として突き当たりの地点で自然に【ひと味】が出るのなら、それはそれで立派なことである。でも初めから独自の味付けを狙ったら、それは翻訳者としてはやはり二流ではあるまいか」(趣味としての翻訳――所収「村上朝日堂はいかにして鍛えられたか」)

 

「でも部分的にせよ、翻訳者が原作者と創作性を競い合うというような事態は、あまりいいことじゃないだろうと僕は思います。翻訳者というのはあくまで黒子であるべきですよね。極端な言い方をするなら、読んでいて「うまい翻訳だな」と読者に感じさせること自体が、悪訳の証であるということにもなるかもしれない」(村上春樹柴田元幸共著「翻訳夜話」)

 

 創作をしたかったら、翻訳ではなくて小説を書きなさい――それが、村上のメッセージである。翻訳はエゴの体系にあらず、親切心の体系なのだ。そのように言っているようにすら、わたしには聞こえる。話し手ではなく、聞き手としての能力こそが求められると。

 では、そのような精神性のもと、どのくらいまで「原作=原テクスト」を追い、忠実に、「聞き手」は「読み手」に伝達するのか。

 その現場は、「翻訳夜話」の共著者にして、ベテラン英文学者/アメリカ文学翻訳者・柴田元幸の講義録が、なによりも参考になる。

 簡単に、【翻訳の現場】を引用する。

 

N(生徒)「Katagiri still had his briefcase jammed under his arm」を先生は「小脇に抱えたまま」って訳してあって、その前に出てくるpinned the briefcace under one armも同じように「脇に抱える」と訳していますよね。jamはぎゅっと押しつけるイメージで、しかもstillっていう言葉を使っているので――脇に挟んで、ぎゅっと抱えるような片桐の緊張感を表した方がいいんじゃないですか?」

 

柴田 なるほど。pinnedよりもjammedの方が力が入っている感じなのに、僕の訳だとpinnedが「脇に抱えた」、jammedが「小脇に抱えたまま」であまり変化が出ていない。その通りだね。この学生訳みたいに「脇でぎゅっと」くらいの方がいいってことか。緊張が強まっていく感じが出た方がいいね。

 

N  「鞄を脇でぎゅっと抱え込んでいた」はどうですか?

 

柴田 「抱え込んでいた」に「ぎゅっと」は要らない気がする。「脇で抱え込んでいた」だけでいいんじゃない? jamって言い方はものすごく強いわけじゃないから。

 

 これが【翻訳の現場】である。ましてやこれは学部生レベルの講義であり、柴田が日々赴いている【プロの現場】の、いわば極北性たるや、想像を絶する。我々批評家は「一言一句のニュアンスまで」というようにして作家の文体表現を論じたり非難したりしている。が、それが我々の場合、「白髪三千丈」的な誇大表現なのに対し、翻訳家は、それを日常のものとして行っている。「推敲」のレベルが違う。

 つまるところ、翻訳家は、これを半ば知識で、そして 半ば(以上)を言語的肉体感覚でもって、翻訳する。伝達する。

 作家(創作者)の場合も、原理的には同じである。違いはシニフィエが、作者の内部に存しているか、外部に存しているか、の違いである。そして翻訳の場合、外部テキストは、異邦の言語でもって語られているだけに、「言語化」というフォーマットがすでに敷かれている。故に、方法論としては、「伝達」である。(むろん、外部テキストがあるが故の、誤読・誤訳が許されない状況が、極度の緊張を強いることを、ここでは何度でも付け加えておきたい。それはモラルであり、そのモラルが上記の講義を生む)

 作家がオリジナル・テクストを紡ぐ際には、まず「形のないもの(シニフィエ)」に対応する「正しい言葉(シニフィアン)」を選ばなくてはならない。少なくとも「リンゴ」と呼ばれるもの(物質)には「リンゴ」と。「リンゴの英語」と呼ばれるもの(概念・物質・翻訳)に対しては「Apple」と。ここまでは常識の範囲内だ。では作者の頭の中に「リンゴが笑った」というものが宿り、それを表現せねばならなくなったら――?

 ここで、表現・比喩・引用の論の出番である。作者の頭の中には、「リンゴが熟した」「リンゴが実った」の感覚として、連想として「リンゴが笑った」と、パッと思い浮かんだのだろう、とする考え方(理知的)。もしくは、作者は、ある種の共感覚めいた感受性でもって、本当に「リンゴが笑った」と、受け取った、とする考え方(直感的)。後者の考え方は狂人のそれではないか、という向きもあるだろうが、芸術家に「それがartだ」岡本太郎ばりに返されたら、ついに批評家は語る言葉を持たない。

 我々批評家がすべきは、芸術家の考え方の理論化や正当化ではなく、彼らが表現する際において、どれだけ「一生懸命」な誠実さをなしえていたのか、を考察することなのだと思う。そこにおいて、批評の存する意味はあるのだとすら思う。作家がなにをどう感じようと勝手だが(所詮人のことである)、作家が芸術・表現に対して、適当な態度で望むことは、やはり同じく芸術を愛し、論じる立場として、許すことはできないのだから。それが批評家なのだから。

 もちろんこれは、作者の表現「技法レベル」をとやかく言う、のではない。あえて言うなら表現「技法における精神」である。また、なにが「正しい表現」か、なにが「正しくない表現」かは、各々によって異なる。崇高な概念をあえて卑近な表現でもって崇高に描く、とは、狂人の戯言ではない。ある意味においては、村上春樹紫式部も、卑近な……言い換えれば、サブカル領域やアイテム、(当時の)現代風俗、海外からの引用、を縦横無尽に駆使して、崇高なカオスを表現した。そしてカオスとは、そもそも崇高さと卑近さを同時に持つものであるがゆえに、「崇高な概念を卑近で描く」は、ぜんぜん戯言ではないのだ。

 むろん、この論理は逆も然りである。その具体例は、あえて述べない。わたしにも仏ごころはある。

 

 要は、芸術の論理とは、煎じ詰めればたったひとつ。

 【結果オーライ】

 身も蓋もない論理であるが、しかしこれ以上に残酷な論理はあるだろうか? 作家が生涯をかけた労力も、あるひとつの作品の表現に失敗していれば(要するに「駄作」)、その労力は、風の前の塵に等しい。風雅な表現を用いたが、よりこの本質を残酷に言うとなれば……いや、この先はきっと、言わないほうがいいのだろう。

 

5ー3。【器】

 

 表現は、どこから来るのだろうか?

 「作品は時代の写し鏡である」学派の方々は、時代性の翻訳である、と芸術を論じる。故に、表現は時代から来る。Q.E.D.

 その論理にとやかく口を挟むことはしない(口を入れたが最後、その論理こそがその学派の立脚点であるが故に、論議の帰着点は和やかなものではあるまい)。ともかく、「作品は時代の写し鏡である」学派の方々は、「作品は神の贈り物(ギフト)である」学派の方々や、「作品は商業目的の手駒である」学派の方々と、論理的にはさして変わらない。作品・作家の【外部】にシニフィエ……イデアが存する、とする考え方だ。

 そしてわたしは、そのお三方(方々)を、この場で論難するつもりもなく、作品の【外部】とはなんぞや、ということも論議しない。あまねく表現者は、大なり小なり【外部】に影響されるのだから――場合によっては外部を【引用】さえして。

 まず、表現の【外部】というものを、とりあえずは仮定・設定してみる。外部よりもたらされし概念、外部よりもたらされし全体構想、外部よりもたらされしキーワード、あるいは外部よりもたらされし絵画上の構図、そして外部よりもたらされしメロディー……造形美術に近づくに従って、少しずつ、上記学派の論点のウィークが見えてくるが、それも今は置く。

 では、その【外部】からもたらされしもの、を、キャッチする才能、つまり芸術家、とはいったい?

 あるいは、【内部】から、こんこんと何かが沸いてくる場合もある――いや、こちらのほうが、真の芸術においては、喫緊なる重大なファクターであるだろう。その【内部】をキャッチしきる才能、つまり芸術家とは?

 

 これは、作家の才能の、あるいは人間としての、【器】の問題である。

 

 ……【器】は、才能、の前段階であるものといえる。まだこの段階では、表現すべきものを、どのように表現したらいいか、作家自分の中でも纏まっていないだろう。

 ただ、ともかくも、この【器】なくして、外部からも内部からも、何かのアクションがあったとしても、作家は何も得られまい。

 【器】の有無は、即、表現が存在するか、の有無である。【器】の大小は、つまるところ、表現の自由さの所以である。

 「正しい表現」なるものも、結局は【器】が、どれだけ、わき出る想念(シニフィエ)を抱え続けていられるか。【器】が、どれだけ、正しい表現・記号(シニフィアン)を探す努力を惜しまないか。翻訳のところで述べた、ほとんど尽きることのない偏執的な努力をさえ。クリステヴァはこの【器】を【コーラ】と表現……「受け入れるもの」であり、「場」であり「母」であり、「自ら振動して中身を揺らし、意味を与える」ものである。ひいてはそれが「意味によって万物に秩序が与えられたとき、宇宙が生じるが、コーラは宇宙に先んじて存在するものであるといえる」と定義する。

 クリステヴァのコーラ論は、やがて後期のフェミニズム論と繋がっていくゆえに、シンボルとして、子宮めいたものを連想させるが、ここではひとつの引用だけに止める。

 つまり、わたしはこの【育む】的な感覚こそが、作家が、創作するにあたって、外部・内部それぞれより受け取ったものを、保存し、活用し、調理し、表現する、という「創作」一連の流れで、感じ取っているもの、と表現してみたい。

 わたしは、さしあたっては、論の最後であるが、これを、作家の才能、と定義したい。そして表現が、才能によって作られるものである以上、表現の善し悪し・作品の善し悪しは、この才能によるものである、と。仮に本論に即して引用に限っても、引用の確実さも、作品におけるフィットさも、引用の深さも、各方面からインフォメーションをキャッチし作品に「引用」として活かす手法も、およそ引用に関わる全てのファクターが、作家の【器】にかかってくる、と結論したい。作家は5-2。で述べたようなカオス状況を、本能的に察知し、作品を創る。それを楽しむのも、耐えるのも、作家の【器】の度量である。引用の材料(インフォメーション。先で述べた「外部」に相当する)それ自体の価値を検討するのも重要だが、それに加えて、作者の【器】が、作中引用(ほぼ「内部」)で、如何に表現しようと持っていくだけの「器量」があったか。常に作品・作者という文脈で読むべし、とは、比較文芸・比較表象の徒にとっては耳タコだろうが、これをより詳しく言えば、引用は、作者・作品の【器】に即して読むべし、と言える。

 作品は、作家の子供である、と、よく表現される。

 ではその子供を適当に扱い、【育む】ことのないを、我々は本能的に許すことができないではないか? そして無償の愛を捧げて【育む】ことを続ける母を、我々は本能的に讃えたくなるではないか!?

 我々批評家が芸術家を賛美し、また、非難するのも、この芸術的=人間的な、本能ありせば、の話であろう。それをマザコンと笑う輩は笑えばよい。ただし、少なくとも、喪われた更衣なるもの、を一生追い求めた光源氏あたりは敵に回しても文句は言えないのだが……よろしいだろうか? 

 

 

 

引用論・了

(おつかれさまでした!)

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