残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

「クンフー/祈り」試論(1)

ネテロ46歳 冬

己の肉体と武術に限界を感じ、悩みに悩みぬいた結果、彼が辿りついた結果(さき)は

 

感謝であった

 

自分自身を育ててくれた武道への限りなく大きな恩。

自分なりに少しでも返そうと思い立ったのが

 

一日一万回

感謝の正拳突き!! 

冨樫義博HUNTER×HUNTER」二十五巻

 

普通のひとは意味がわかりませんね。しかし、今のわたしには、ぼんやりながら、これの意味がわかるような気がするような気がするような雰囲気のような気がする心地です(わかってねえんじゃねえか)

いや、これ「わかる」って、あんまいいたくないんですよ。前から「クンフーとは?」「祈りとは?」ということを……趣味とか人生の求道において、このふたつの観念について、さんざっぱら考えていたのです。一年くらい(短けえな)。

ただまあ、もともとは海燕氏のクンフー論を、自分なりに拡大解釈&発展させて、いまの自分の指針にしてる「クンフー/祈り」論ですが、ありがたいことに(というかほとんど予想もしてなかった)この論に興味を抱いてくださるかたがいらっしゃいまして。

だったら、まだ未熟な自分といえど、書き遺しておこう、自分の思考の形を……と思い立って、書きます。

本来なら、まず五年は修行してから、ようやく序文だけ書けるようなモンだっつううのはわかってます。が、未熟なてめえを曝すことも、これまた修行、と思って書きます。

 

クンフー(1)「そこに至るまでの心理」

 

【無料記事】だれにも愛されなかった人間がひとを愛せるようになるにはどうすればいいか。(8976文字):海燕の『ゆるオタひきこもり生活研究室』:ゆるオタ残念教養講座(海燕) - ニコニコチャンネル:エンタメ

まずこれをお読みいただきたく思います。

長かったら、今回クンフー論を御希望いただいた方であるところの、べるんさんが、過去にこの記事をまとめてくださっています。ダイジェストとしてそちらをどぞ。(引用記事の各部で。そこからのべるんさんの考察も読みごたえあります)

海燕さん運営『ゆるオタ残念教養講座』の力作記事を読んで「人を愛する」にはどうすればいいかを考える。│ 「アンカー論」で私たちは救われる?

 

べるんさんは、ここで「アンカー論」とまとめてらっしゃいますし、海燕氏も「アンカー」というところで最終的に落ちつけてらっしゃいます。

その論をまたここで解説すると、この記事すげえ長くなりそうなので、各所で要点だけさらっていくことにします。

では、はじめます。

 

 

クンフーとは、上記海燕氏の論で言うところでは、まず「光属性」のひとはいらんものなのです。(光属性=リア充とかっていわれる、いわゆる「自分の生は、まあ間違っていないんじゃない?」って素直に思えるひと。健康なひと)

闇属性の人間こそ、このクンフーはいります(闇属性=自分の存在っちゅうのに、どうしても納得がいかないひと)

なんでかっちゅうと、闇属性のひとは、そのままだと自殺するしかねえからです

どちらかというと、闇属性のひとは、光属性よりも頭はいいです(僭越ながらわたしも含め)。ただし、使い方を間違っている

人生を生きるにあたって……まあひとそれぞれ、目的とか手段とかいろいろあるかと思うんですが、それに共通項を見い出すとすれば、「快」……ヴィトゲンシュタインが言ったように「幸福に生きよ!」です。

「スマートに生きよ」「誰よりも頭よくなれ」「誰よりも健康になれ」じゃないです。

なぜなら、頭がよくなったところで、健康になったところで、確実に「幸せ」になれると保証されたわけではないからです。

 

 

こんなことを言うと「障害者のひとは不幸せなのかー!」ってクソ言説がくると思うんですが、そもそもそういうふうに言うひとこそ、しっかりきっかりまるっとエヴリシング的に障害者を差別してると気付きなさい。あなたのまわりの、いわゆる障害者は、障害をもってることを恨みに恨みぬいてますか? だとしたらヤバいです。

ですが、それを乗り越えるなり、なんなりして、「障害とはまたべつのところで、幸せを見つけてる」としたら、そのひとは、闇属性を乗り越えたひとです。(これは真のクンフーでありますが、いまはここに話を接続はしません)。そういうのを踏まえないで、「障害=不幸せ」とする短略的短慮こそ、最大の差別だと気付きなさい。

 

 

話が多少ずれましたが、まず、個人の「ステータス」は、あまり幸不幸とは、関係がないのです。

例えば、世界一走るのが速いひとがいたとします。オリンピック五連覇とか。

でも、もしそのひとが、「いや……実は、俺、それよりも、絵がうまくなりたいんだよね」

って、心底思ってたとしたら、別に「足速い世界一!」は、意味をなしません。

そんなもん天才の悩みじゃねえか!

ってひとは多かろうと思うのですが……じゃあ、例えば、

「盲人の天才ミュージシャン(レイ・チャールズとかスティーヴィー・ワンダーとか)は、世紀の名盤をめっちゃくちゃ送り出したけど、彼らが【絵を見たい】という気持ちまで、あなたは否定するのか」

って話です。

彼らの人生のなかで、なんっかいもあったでしょう。アーティストとして、視覚芸術に触れたい、というのは。才能と幸せ、が必ずしも直結しない、というのはあるのです。これが「個人のステータスと幸せの接続問題」です。

じゃあすべての障害者は闇属性か?

こういうと必ず議論は起こるのですが……わたしもある種の障害者として言います(精神・神経の病気&薬副作用。主なのは統合失調症とかアスペルガー障害)。

「そりゃあ……闇を抱えざるをえないだろうよ……」

それ(闇属性)を、ドロドロした怨念のままにしないのが、クンフーなのです。

 

闇っちゅうのは、恐ろしい物で……わたしの場合の話しますね。

わたし、過去に精神病で、発狂あと1mmまでいったこと、何回もあります。例えば……まああんまりキツめの話するのも問題なので、サラっといくと、閉鎖病棟で顔が血だらけになるまで洗顔したりとか(当然止められた)。

この闇は、闇をさらに呼ぶんです。

嫉妬、憎悪、恥……プラナリアが増殖するように、こころを焼く。顔を血だらけにした人間が言うんだから間違いないです(僕、もっとひどいことしてるし)

まるで、胸のあたりに、どろどろと黒い酸が入りまくっている、魔女の大釜があるみたいな。

闇っていうのは、ある程度、比較による嫉妬、っちゅうのが大きいです。障害者/病人の視点からしたら、「なんで俺はこんななのに、あいつらは幸せそうなんだよおおおおおおおお!」って具合。

……その闇を、未だにわたしは抱えています。

そんな人間がよくいま社会復帰してるよなぁ……と自分でも思うわけなんですが(この文章、仕事あがりで書いてます)、まあそれは、ひとえに……この世に芸術とかの「快」があったからですなぁ。

いや、それは「ウェーイ!」的に楽しむから、精神病がなくなった、っちゅう話ではないです。

むしろ、一番最初にネテロがやってたように、「自分自身をそだててくれた」……それは音楽であったり、エロゲであったり、漫画であったり、哲学書であったり、模型であったり……ようするにこのブログで取り上げてるモンです。

それらにふれて、楽しんでるときは、そんなに考えなかったんです。やっぱりわたしも「ウェーイ!」的に楽しんでいました。

ところが。

いつしか……あんまこういう言い方はアレですが、自分がマニアとして、多少は中級あたりに辿りついて(まあ、CD1000枚くらい手に入れてることに気付いて)、わたしの中に蓄えられた養分・滋養というものは、確かにわたしをこの歳まで活かしてくれてた、と気付いたのです。

音楽の幅広さと深さ、そして天上的愉悦が、「世界も、まあ捨てたもんじゃないんじゃない?」って思わせたり。

イチャラブエロゲの甘さに「うわー、自分こういう妄想ずっとしてられたら幸せだわぁ……」と思ったり、シナリオエロゲの透徹さに「きれいや……」とと思ったり。

模型を作りながら、一個一個パーツが「かたち」になっていく様、そして、模型をつくるときの「すごい心洗われてる!」感。

ああ、自分は活かされてたんだと。むしろわたしを、迂遠なやり方ではありますが、ひとかたの人間にさせてくれてたんだと。

それまでの闇属性(血だらけ洗顔するような)を、かなりの領域救ってくれていた。

しかも……世の中はまだまだ広く、いろんなレビューサイトとかから情報得たり。

聞いた盤/プレイしたエロゲが、どのようなものに影響されて作られているかとか。また類似するようなジャンルとか。

そんなのが、この世にはまだまだある、と。

だったら、うーん、マニア/オタク的生き方最高ーーーー!

ってなりますよね。

ネテロのように、感謝のひとつもわいてこないようだったら、俺は死んじまったほうがいいんじゃないか、って。

 

 

でも、そこで、「自分はどういうオタクとして生きていきたいのか?」ってふと、思ったんです。

自分はある程度の中級者になった。でも、そんなんは、数をこなせばだれでも出来ること。

むしろ……自分は、この「闇属性」をどうにかしたほうがいいんじゃないか。

自分は、闇を、いままで、趣味の「快」でもって、だまくらかしてきただけなんじゃないか、と。

いや、それはそれで意味あることなんですし、いまもそうしているひとをとやかく言う……資格なんて自分にはねえなぁ。いつ自分も、また闇に舞い戻るかはわからねえ。

 

じゃあ、自分は、趣味のクンフーを積みながら、自分の人格をマシにしていこう。

 

こう考えるようになったのは、自分にはネット上に、年上のオタク友人/師匠・兄貴的存在がいたっていうのが大きいです。

彼らは、自分のオタク的人生(大なり小なり、彼らも屈託を抱えていた)と、リアルライフ(こちらも同じく屈託を抱えながら)を、御自身なりにバランスをとって、各々の人生哲学でもって、自分のライフを生きておられる。

ああ、彼らはそのようにして人生を生きているんだ……と感心すると同時に、彼ら自身も、膨大なオタククンフーを積んでいたことに、思い至ったのです。

彼らとも年月を重ねたつきあい(をさせていただいてる)ですが、彼らの、質・量ともに、オタクとしてのクンフーを積んでいる……それはエロゲであったり、アニソンであったり、漫画研究であったり。

いやこれは、彼らネット友人だけでなく、レビューサイトの、わたしが尊敬してるレビュアーに対しても思っているものなのです。

レビュアーとして、数年、十年、生きるということ。それを、自分もオタククンフーを積むことにより、多少は理解できるようになりました。

 

どういうものかというと。

まず、CDやエロゲの「本数」に拘らない。そして、真剣に相対する。当然ながら割らない(笑)

……彼らは、自分の人生において、自分の対象物(音楽、エロゲ……)を位置づけようとしていました。

それを、何年も、何年も。そのジャンルに対する愛情を、変わることなく。それでいながら、ジャンルに対する屈託を持ちながら(愛ある屈託!)

 

格好いい……と思ったものでした。

そのあたりですね、わたしがレビューブログやろうと思ったのは。それまでもちんたらブログを運営していましたが、きちんとレビューやろう、と。

 

で、いくつかブログを更新してきて。

そこでネテロ会長の言葉が「宿った」のです

これはクンフーだ、と。

 

ちょっと疲れてきたので、いったん切ります。クンフーに至るまでの心理としては、このようなものです。

つまりは、自分が屑だから、自分を鍛えなくてはいけない。

そのために、自分が好きなものに、より真剣に相対する必要がある。それは、自分の、「それ」に対する愛を鍛え、精査することと同じ。鍛え、精査するとは、すなわちレビュー行為である。

ではレビューをどのように行うか? それは、「よかった探し」「加点主義」

なぜそのようにするか? それは、自分の関心が「客観レビュー」から「個人的に読みとって、自分をこのように活かしてくれたことへの感謝な感想文」へと移行したから……次回は、ここんとこについて語ります。

 

(「クンフー、2」につづく)