残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

「何者かになる」の何者って、なに?~「クンフー論」補論

クンフー論についての過去記事

「クンフー/祈り」試論(1) - 残響の足りない部屋

「クンフー/祈り」試論(2、後半) - 残響の足りない部屋

●何者か、になること

 

クンフー論。それは手段を目的化し「楽しむ」を追求すること(13488文字) - 猫箱ただひとつ。

べるんさんがクンフー論について書いてくださいました。待ってたぜ!(キャラが違う)

ここのところ、べるんさんとはずいぶんとこの「クンフー」についてお話をさせていただきました。深夜の激論大会。御世話になりました。

で。

自分のクンフーの捉え方は、結構「苦行」タッチのようです。対してべるんさんは「楽しい! を突きつめること」という。

いえ、自分も「楽しい!」の突きつめという点はもちろんあるのですが、どこかで「人生は受苦である」という前置きがあるんですね。だってこれだけ苦しんでるんだもの。精神病とか世間の軋轢とかで。人生は地獄である、と。

マァそこんとこをべるんさんと戦わせるつもりは、お互いさらさらなく。それは人生の捉え方の違いですし。わたしがべるんさんに「人生は地獄だ!」、べるんさんが残響に「人生はハッピーだ!」と押しつけあっても仕方が無く。むしろそのポイント・オブ・ビューの違いから生まれるさまざまな哲学を語りあい、参考し合うことこそが、「議論」の正当なる楽しみではないですか……。

で。

べるんさんが仰ったいくつかの疑問について、ここでは答えさせて頂きたいと思います。当然ながらべるんさんの記事をもとにした形で(というわけで、べるんさんの記事を読んでないかたは、是非お読みください。残響のそびえたつ神話級クソみたいな記事より、よっぽど読みやすく、また論点が整理されていて、かつ深い考察をされている)、ここから語ります。

べるんさんが仰ったいくつかの疑問のうち、クンフーを積んで「何者」かになる、ということで、この「何者か」という……社会実現・自己実現が、べるんさん御自身も、明確な定義をあてられなくて困っておられる、とのことでした。もっともそれはクンフーの文脈というよりは、単純にこの世界における「何者」の意味、と言うことですが……

それを、わたしの場合はtwitterで、

「経済交換の原則(原始共産社会のような)に基づき、お互いの【できること】が交換できてれば、それはそれで「何者」になれとる」

と返しました。

単純な例でいうと、ある人が野菜を作っていて、ある人は魚を取れる。

じゃあ、お互いのそれらを等価交換すれば、お互いはっぴはっぴーよ、みたいな。

もちろんここから「貨幣」というものが登場してきて、富の偏在が生まれる、というのは、経済史の基礎ですが、基本的に社会における「何者」か、というのは、残響はざっくりとこのように……「誰かの役にたてる自分になること」と捉えています。

 

では問題なのは、「役に立つ」の定義で。

世の中のひとは、さまざまの個性を持っています。魚がとれるひと、文を書けるひと、音楽を奏でられるひと、マッサージが得意なひと……えーとえーとそれから……なんか他あったっけ(お前の社会認識しょぼすぎないか?!)

いや冗談冗談。

とかく、世の中で「仕事」とされてるもん、それが「役にたつもの」の、一応の定義ですね。

じゃあ世の中で仕事とされてないものは……? とはいうものの、これって、逆に考えて、あまり出てこないくらい、少ないんですよ。強いてあげるなら、えーと、鼻くそを取るのがすげー上手いくらい?

でもこの「鼻くそをとるのがすげー上手い」というのも、突き詰めれば……耳鼻科のプロにだってなれますよね。耳鼻科が鼻くそ取りの専門家、っていってるわけじゃないですよ。でも、「鼻に対する知見」がものすげかったら、鼻くそのメカニズムとか、鼻の病気だとか、するっと身に付けられそうな気がするんですよ。応用とはそのようなことで。ましてや、鼻くそ関連の病気があったとして(あるだろうな)、急務として鼻くそをとる必要があったとして、そういう「鼻くそとるのがすげー上手い」人ってのは、必要とされるわけです。何回鼻くそいうねん(笑)

このように、何だって仕事になるわけです。

じゃあ、役にたたない、とはなんなのか?

答えは、「人に迷惑をかける」ことです。

 

例えば暴力ですが、これは平和時においては「ひとに迷惑をかける」ものです。ですが戦争時においては、これほど「役にたつ」ものはありません。よく言われますが、武士は戦国時代においては役にたちますが、江戸の太平においては役にたちません(だから往々にして、国内平定後の、外国への侵略戦争というのが起こる。「暴力しかない奴ら」の食い扶持をあてがうために)。

例えばセックスですが、基本的にこれはプライベートの領域ですが、「すげーセックスが上手く」、かつ「不特定多数とのセックスを許容できる」ひとなら、セックスのプロ……娼婦・男娼になれます。世間的には「闇」の領域ですが、受容はあります。人の役にたってるということです。

それが悪か善か、というのはさておき。功利主義の問題点は、このように既存の道徳と接触するとこなんですよね……。

上記ふたつの「暴力」「セックス」ですが、倫理的に問題とされてるのは、原理的に「誰かに迷惑をかける」からだ、といえます。そのものに問題がある、というよりは。

 

さて、いまの社会において「ひとに迷惑をかける」とはなんでしょう。

……マァようするにあなたが迷惑だと思うことなんですが。というものの、そう定義してしまったら、かなりのブレは生じますよね。ここにおいて「道徳」「常識」ってもんの有用性が出てきます。

日本はここんとこ……最近「空気を読む」ってことまでいわれるくらい、道徳的な国ですよ。生きづらくなるくらいにね。だから、皆さっさとこの領域(道徳の発生論)的なとこまで「もいちど降りて」、やり直したらいいと思うんです。そしたら、もっと寛容になれるんじゃないかと。

 

 

ああっと、「何者」から、相当話がずれたような。

つまり「何者」とは、

1)ひとの役にたつ

2)ひとに面倒をかけない

……この二点くらいしか、思いつきません。

 

べるんさんには、社会学的・社会史的方面から語ってもいいですよー、的に言ったので、その方面からちょいと語ります。

まず、江戸の末期までは「何者」って概念は、そもそもあんま抱いてはいけなかったんですね。士農工商の制度があったから。というか抱いたところで、何かになれるわけでもなかった。あてがえられたキャリアの中で、最大値を目ざすほかはなく。しかもそれ以前は、生きるか死ぬかの戦国時代。「何者」の前に「食う」必要があったわけです。これは、大体どの国でも同じかと。

で、明治期に、先進国(西欧列強)から「個性」の概念が入ってきたわけです。近代的自我というか、個性的な何者かになることが「人生」の意味だ、と。明治期の文学を読み漁ると、このあたりの苦脳、というか日本人の思考錯誤が見えてきます。

……どの国でも同じ、って書きましたけど、日本においては、個性ってのは、「外付け」なんですね。外からもたらされた概念。

それが戦争(第一次・第二次)で一時中断になって。

で、その後の戦後教育のなかで、「人権を尊重しなかったからあのような戦争になったのだ」的な反省があり。でも一応は「人権」はセットしたものの、それまでの村社会的な風土(日本的風土)は、なかなか治りません。

そのあたりで……いわゆる全共闘団塊の世代、と呼ばれるひとたちの「反抗」がはじまります。

学生運動とか、カウンターカルチャーとか、ロックンロールとか……いわゆる「若者文化」の炸裂、です。それまでの「個性抑圧」から「個性開放」へと。もっとも、この「個性開放」はこれまでの歴史でよくありましたが。

ただ、団塊の世代が「今」に繋がってくる、というのは、我々(団塊ジュニア=ロスジェネ世代)が、上の世代が作った社会制度の中で「何者」になることを求められているからなんですね。

いわゆる「戦後派」が、高度成長期に作った社会制度(上昇志向・功利主義・物質主義)の中で、その後の世代に「おめーらもこの制度のもとで社会実現・自己実現しろよ!」っていってるようなもんで。

そりゃあ、今の世代が「何者」にならなきゃいけないんじゃないか、とか、「何者」に成る必要なんてあんの? って悩むようにもなりますよ。だって、時代が違うもん。前提が違うもん。

そもそも、この「社会における何者かになる」ってのは「既成の社会にうまく自分を適合させまくっていく」と、上の世代は認識しています。ということは、その世代がまだマジョリティである以上、この「何者かになるべし」論は、続くということです。さらには、その上の世代の言うことを盲目的に追従するひとたちも……。

 

で、一番の問題は、上の連中が、

「社会とはこういうもの」「仕事とはこういうもの」「ひとの役にたつとはこういうこと」

と、それぞれの物事のアップデートを、未だにしていないことなんです。さらには、我々の世代でも「自分で考えないひとたち」=「上のいうことをそのまんま真に受けるひとたち」は、これに染まっています。ようするに社畜的考え。

本当はもっとシンプルなんですけどね。わたしが上に書いたような(1)(2)くらいに。

さらには、一番「ひとの迷惑になる」ことっつったら、「犯罪」ですしね。それしなかったら(あと経済面の都合さえつけば)ニートでも別にいいじゃん、どーせひとのことなんだしさ……みたいに考えるのがわたしです。それよりは自分のクンフーが大事だ!(笑)

 

おおむね、「何者か」問題の社会的側面は、こんなとこでしょうか。

だから、問題が、現代においては、やたらと複雑になっちゃったんですよ。本来は「自分のやりたいこと」「自分のできること」を、素直にひとと交換してればよかっただけの問題なのに。

まあ、「自分のできることと、やりたいこと」は、往々にして一致しないもんなんですけど。ましてや、自分が「皆に求められてる」ことも。

例えば、ある人が消防士になりたかったとしますよね。でも極端な話、そのひとのオナニュイ(自慰行為のフランス語版<嘘)が、なんか知らんが超芸術的で、世の中のひとが、それを見たくって見たくってしかたがない、って場合、どうするか、ってもんですよ。

そのひとは、消防士になるべきなのか、オナニュイをするべきなのか?!

これに対する答えはひとそれぞれとしか言いようがないですが……「なりたい!」と「お前これをしろ!」の差ってのは、それくらい大きいって話。

つまり「何者になりたい」ってのが見つかったとして、しかし「俺らの求める何者かになれ!」って要請は、絶えずされるわけで。

で、その中でも最も大きい要請は「奴隷になれ!」なんですね。社会の、権力者の、そして大衆自身の。

大衆自身が、大衆たちの奴隷になれ、という。ニルヴァーナというロック・バンドは良く言ったものですよ、「Serve the Servants(奴隷に仕えよ)」と……


Serve The Servants (Live On "Tunnel", Rome ...