残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

論理の欠陥をバカにされたすべての物書きに捧ぐ

公衆は醜聞を愛するものである。白蓮事件、有島事件、武者小路事件――公衆は如何にこれらの事件に無上の満足を見出したであろう。ではなぜ公衆は醜聞を――殊に世間に名を知られた他人の醜聞を愛するのであろう? グルモンはこれに答えている。――
「隠れたる自己の醜聞も当り前のように見せてくれるから。」
 グルモンの答はあたっている。が、必ずしもそればかりではない。醜聞さえ起し得ない俗人たちはあらゆる名士の醜聞の中に彼等の怯懦を弁解する好個の武器を見出すのである。同時に又実際には存しない彼等の優越を樹立する、好個の台石を見出すのである。

「わたしは白蓮女史ほど美人ではない。しかし白蓮女史よりも貞淑である。」

「わたしは有島氏ほど才子ではない。しかし有島氏よりも世間を知っている。」

「わたしは武者小路氏ほど……」

――公衆は如何にこう云った後、豚のように幸福に熟睡したであろう。

          ――芥川龍之介侏儒の言葉

 ※「醜聞」、とは、(性的な)ゴシップ、スキャンダル、という意味です。

●三段論法でブログを書くことをバカだと言われた

去年、自分はブログの更新の方法を悩んでいまして(今も悩んでる。だからこのエントリ書いてる)、そこで「を? このやりかたアリなんじゃない?」と思って、しばらく続けたのが、

序破急、の三段論法」

です。
序破急、とは、ようするに三段論法です(説明になってない)
ようするに

「こういうのがある」→「それはどうよ」→「じゃ、反対意見もふまえて考えて見よう」

言葉を変えれば、ヘーゲル弁証法アウフヘーベン……テーゼ→アンチテーゼ→ジンテーゼと同じですね。

おお、論理的な文章がコンビニエントにいっちょあがりだぜ!これでいこう!と思ったものです。

何しろ残響の文章は、論理的にハタンしている。それは自分でもよくよく承知のうえです。
そのくせ理屈っぽいですからなー。どうにかせんといかん!とよくよく思っていたわけなんです。

ところめが。

バカだと言われたんですね。このブログに寄せられた批判の中で。
その批判発言をここで引用はしませんが(したって卑しくなるだけだし)、とにかくバカだと言われた。その批判の中には、単純に個人攻撃なんじゃないか、っていうのもありましたが、しかしマトを得ているものもありました。
で、この「三段論法はバカ」っていうのも、考える余地はあったのです。

 

●フェアな批評とは何か?

それは「すべてをくみ尽くす」批評でしょう。良きも悪きも全部指摘し、新たな知見をこの世に投下する、という。

つまり、世にはそーじゃない批評……中途半端な批評が多いということ。
確かにそれはそうです。
ひとつほめるとこがあって、それをほめるばかりに、批判すべきポイントを逃している批評っていうのたくさんあります。俺のとかな。
その逆もしかり。ヘイト文に終始して、ほめるべき良い点を……

ただまあこれは、批評に100点があれば、の話です。
読み手ほど(ワナビほど)こう思います。

「お、この批評、ハラたつなぁ。この点を見逃してるじゃねーの、ハハハバカでー、俺のほうが頭いいじゃねえか」

と思い、レビュアーが見つけた点よりも、レビュアーが「見逃した」点をヘイトする。そーすれば、そのワナビ氏はレビュアーよりも高みにたてますからね……

まあそこまではいかんでも、よく批評が批判されたり、新たな知見・作品が批判されたりするのは、このパターンなんです。
ヘーゲルふうに言えば、提示されたテーゼに対し、「こういうのもあるじゃねえか」的アンチテーゼを浴びせかける、という。

ただそれは前にも書きましたけど、「レビュアーが見いだした知見を土台にして、その上で議論を重ねている。レビュアーをバカにしながら」という、卑しい構造ではあります。
ちょっとはレビュアーを認めてもよかろうよ、と思うのですが、まあ言っても詮無いことですかね。はあ。

まあとにかく、三段論法はバカらしいです。その人がいうには。
三段論法が「100%フェア」な批評か? いや、そう言われたら、確かにアラは多いんですよ。
三つしかトピックをあげられないわけですからね。たしかに、フェアではない。その作品や知見に、とりあげるべき点がいくつもあったら……たった三つだけあげて、それでよしとするのは、確かに問題かもしれません。

 

●俺らは神じゃねえ

とはいいつつも、それでも……ちょっとした疑義を発せざるを得ません。

人間は神じゃないです。
完璧なんて、できません。

もちろんレビュアーやるからには、完璧を目指すのは、倫理的なんでしょう。
でもそんなんいちいち教条的にいってたら、なにも書けませんよ。だいたい完璧主義は鬱を引き起こすんだいっ!

そもそもが、レビュアーは、完璧ならざるところからはじまる存在です。
完璧じゃない、偏見ありまくりで、文章力も論理力もアラがある人間が、レビューブログ/HPやってくことにより、鍛えられていくのです。それがレビューのクンフーです。

だからレビューが完璧じゃなくても許してね、というのではなく。それは甘えです。
ただ、レビューの不完璧さをあげつらって、「俺のほうがsugeeee」とするのは、時として、いかがなものかと思うのです。同じレビュアーとして。

一例として。
イケダハヤト氏のブログは、よく批判にさらされます。

まだ東京で消耗してるの?


たとえば、文章が短い、極端だ、twitterと大して変わらん、「論」になってない、極論だ、フェアじゃない……

でも、イケダ氏は、好みや論理の正しさとは別にして、ちゃんとwebの大海の中で、地歩をしめています。発した言葉は、議論を呼ぶ。「無」ではない。

論を、意見を発する、とは、そういうことではないでしょうか。
もちろん、なんでも好き放題いっていい……というわけではなく。マナーはありますよ。
それをふまえた上で、レビュアーが「欠陥、取りこぼしのある」レビューをあげる、ということ自体は……そこまで問題か? というのが、わたしの言いたいことです。

第一あなた(「欠陥のあるレビュー」をヘイトするひと)が批判するその考えですら、先だってのレビューがあっての考えですからね。
ご自分のヘイト感情も、レビューがあってのことですから、感謝まではいかなくても、シネとまでは言わなくても……

いや、まあ、言ってもいいです。少なくとも残響にたいしては言ってもいいです。

いくらでも批判は甘んじてうけます。個人情報/プライベート荒らさない限り。(荒らすようなことがあったら、そりゃあ金とか使ってでも怒りますよ)

……わたしが言いたいのは、
「完璧な批評なんてない」
ってことで。

もちろん、欠陥はあります。そっから花開く議論もあります。
だからこそ、わたしはよくても、多少の欠陥を即座に「荒らし」「炎上」につながるような批判のたてかたは、控えたほうが、いいんじゃないか、って思います。
あなたがたは炎上させますが、実はあなたがた自身が、その対象記事によって生かされているという事実に、ちょっとは気づいてもバチはあたらんだろう、と。
だって、あなたがた、その記事がなかったら、その記事が提示した問題にすら、気づかなかったべ?

どのみち、荒らすのは、ワナビです。観客です。遠巻きに見ている連中です。記事書いてる人間に、直接論説ぶつことができない人間です。

だったら、あなたもレビューブログ、書いてみましょうよ。
あなたがあなたとして、Webの大海で城をかまえてみましょうよ。

そして、記事を書いてみてください。
はたして、欠陥を完璧につぶしきる記事が、最初からかけるかどうか。


……さらに個人的な体験をふまえていってしまえば、欠陥が見えなくて、論理的破綻もなくて、でも、
ちっともおもしろくねえ
記事って、往々にしてあるんですよねえ……
そうだよっ! わたしの過去記事でも、けっこうその手の記事あるよっ!ウワァアァァァァアアン!
ていうか、論理的破綻をつぶせばつぶすほど、「速度」「ピカレスク」は薄れる傾向にあり……うむむ。


まとめると。

提示者(作家・「最初の」レビュアー)は、欠陥があるけれども、勇気がある
批判者は、頭はいいかもしれんが、人類や世界のために何かを付け足すような人種ではない。

 

自由は山嶺の空気に似ている。どちらも弱い者には耐えることが出来ない

            ――芥川龍之介侏儒の言葉」