残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

誰かに楽しさを教わった者は、それを誰かに伝えるべきだ!――『ガンダムビルドファイターズA』二巻読解

●今日の買い物

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●本part

大日本絵画月刊モデルグラフィックス」2014年九月号(いわずと知れた、主にメカ系模型雑誌。ちなみにどうでもいいが残響の定期購読雑誌)

・「月刊アーマーモデリング」2014年八月号(ミリタリー系模型雑誌)

・「ネイビーヤード」vol.26(昨今艦これ度が高まりまくってる艦船模型専門雑誌)

・漫画:今ノ夜きよし シナリオ:千葉智宏ガンダムビルドファイターズA(アメイジング)」二巻

 

●模型part

 

・ぜかまし……じゃなかった、タミヤ×アオシマのコラボ製品、ウォーターラインシリーズの新パッケージ(艦これパッケ)「駆逐艦 島風

・あとそれから、切らしてた流し込みタイプ接着剤

 

 

やっぱね、外に出なきゃだめですよ(それをこのヒキー残響がいう!)。

というわけで、外に出て(病院の帰りだったわけですが)、書店に行って、模型屋にいって、以上のものを買ってきました計8000円なり。いやぁ模型趣味ってコスパいいですなぁ、ゲームなんて新品で買った日にゃあ一本でこの金額がっ、アルコールショップいった日にゃあ……いや、恐ろしくて勘定できないですな。

 

いやしかし、艦これ人気ですな。

まあ、一応自分も垢とっているわけなんですが、提督の。しかし何ヶ月放置してるかな……叢雲さんを初期設定のまま完全放置で何ヶ月たってるかな……恐ろしくて勘定できないですな。

 

それに引き換え、自分の模型……とくにミリタリー系模型の熱がハンパない。

艦これガルパンの影響……ということなのかな。一応は。まあ考えてみても、この二作がなかったら、自分がミリタリー系模型に出戻りするのは、だいぶ先だったと思われること間違いない。

 

いや、じぶんは基本的に、ガンプラ+鉄道模型、な初心者モデラーですから。子供のころに多少はミリタリー系……戦車・ヒコーキ、戦艦、もやりましたが、それはあくまで「やるべきガンプラがなかったから仕方なしに、手すさびに」というひどい動機でしたし(まあ、それはそれで、いつものガンプラとは別のたのしみがありましたが)

 

この傾向は年をとるごとに加速していきましたね……別にガンダム作品をろくにアニメで見てない自分なんですが、ガンダムのメカはすき。あと、鉄道模型のマニアックかつ芳醇かつ高貴なる世界に触れていったから、というのもある。

 

このふたつのカテゴリにあるのは「自由」の精神で。

逆にスケールモデル(実物をそのままリアルに縮小するタイプ。要するにリアル派)は、自分の目からみたら、あまりに「スケール」にこだわりすぎているようにみえた。

実際、スケールモデラーの、なんちゅうか……偏狭な態度・視点というものを、過度に仮想敵にしてた面もありますし、わたし。

 

……ただまあ。

ビルドファイターズでもって、「自由なるガンプラ」への道を完全に切り開き、ますますガンプラ改造に熱をいれている昨今の残響なのですが。

艦これガルパン。この二作が、これまでの「リアル一徹」だったミリタリー系の模型趣味に、結構な風をいれてくれたのです。

いやそれは、美少女が出てるからとか萌えとか、世間一般的なそれではなく……やはりここにあるのも「自由」の精神ですね。

別に史実にもとづいて作らなくてもいい(アルペジオなんかその一例で)。逆に史実を参考に作ってもいい。

なにせ、作中において、自由に彼女ら(艦娘、戦車道の乙女たち)は、メカを操っているわけですから。

あるいは……モデラーにとっては、こっちのほうが重要だったかもしれんが、

「必ずしもうまく作る必要もない」

ってことで。

いや、うまく作るに越したことはないんですが、それでも一方で「作るたのしみ」というものを、素直に享受する、ということも、大事という。

 

それはビルドファイターズの教えなんですが、その一方で、ガルパンファンや、提督たちが、不慣れながらも模型をはじめた、という心あたたまるニュースをきき、余計に思ったことでもあります。

 

●べるんさんが自分の感想レスで、記事作ってくれましたが

これです

何故この現実世界をゲーム化する必要があり、何でもありのこの世界で「流儀」が必要なのか? GALAXSystemとシュビラシステムで考える(6335文字) - 猫箱ただひとつ。

ありがたくも、記事にまで発展さしてくださいました。

で、この記事後半にある「流儀」について、今回は、今日買った「ガンダムビルドファイターズA」を参考テキストに、語ってみたいな、と。

ざっと「流儀」について、自分の思っていることを書くとしますと。

 

――流儀。

己が己であるために自己規定するルール。それは基本的には社会通念に沿ってたほうがいいが、別にそれにこだわる必要もない。ただし、社会と自分のエゴが抵触していた場合は、それを自分で「慣らして」いくこともまた、流儀の一部である。

正確にいえば「自分が社会・世界のなかで、しっかりした己であるために」策定するルールとでもいおうか。

もちろんそれに縛られるのも、負けフラグ的なメタ観点からいえば問題なのだけど、しかし縛られることなき流儀というのもつまらないし、何より「そんだけの力をもたない流儀」ってもんの、実行力っちゅうもんも怪しいモンだ。

 

……まあ以上は、べるんさんの記事でも書かれていることですが。

 

さて、「BFA」で書かれていた、若き日のユウキ会長……ユウキ少年は、己の流儀を、この二巻でほぼ確立しつつあります。

ユウキ会長の流儀ってなに? ていうかユウキ会長って?

では、とりあえずニコニコ大百科の記事をどぞ

ユウキ・タツヤとは (ユウキタツヤとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

 

ユウキ会長とは、

1)普段は温厚、模型部部長・生徒会長、果ては「三代目メイジン・カワグチ」(BF世界でのカリスマと目してくれたらと)まで襲名するほどの、文武両道・成績優秀、品行方正・心技体すべて兼ね備えた、完全なるイケメン。

2)しかし模型マニア、ガノタ

3)勝負に手を抜くことを何より嫌う。燃え上がれ……燃え上がれ……燃え上がれ!ガンプラ!!!

上のニコ大百科の温厚な顔が、

 

 バトルになるとこの悪人顔!

おめー二重人格じゃねえかってくらい……では、ないんですよ。

 

ユウキ会長のもつ温厚さ、上品さっていうのは、まぎれもなくガンプラバトルで培われた「勝負の神聖さ」からきているのです。

あ、勝負の神聖さをBFから読み解いた当方の記事はこちら

 

ビルドファイターズとオリンピック(2)/第十九話「アストレイの刃」感想 - 残響の足りない部屋

さて、この二巻で、ユウキ少年は、あこがれだったモデラー/ファイター、イオリ・タケシ(本編主人公・セイの父親。長い間ニート疑惑が持たれていたw)の圧倒的な勇姿・圧倒的な先達としてのカリスマに触れ、その後の模型人生を決定します。

ときにべるんさんは、流儀の三ポイントについて触れられておりました。

・流儀の見つけかた

・流儀の定着方法

・流儀の貫き方

 

これを、GBA二巻のいろいろな点に比較してみてみましょう。

 

・流儀のみつけかた

 

「その胸、お借りします!」

これは、身も蓋もないいいかたすれば、実際、まず当事者が「鼻っ柱おられて、負ける」必要があります。

ユウキ少年は、最初からタケシにリスペクトして、勝負をお願いしたわけなんですから、当然「鼻っ柱」は最初からないようなものです。

「僕はあなたに憧れ、何年も頭の中であなたと戦ってきた! けれどそれはあなたとだけではない! 多くの強豪ビルダー、そして作品(ガンダム)パイロット! 僕は彼らとずっと戦い続け、学び取ってきたんだ! 今日、この日のために!」

実に真摯な言葉じゃないですか。

しかしタケシはそれをよろこびながら一蹴、

「名のあるパイロットとの脳内バトル、そんなのはこちらだって経験済みだ。 誰もが、通る道なのだよ!」

……いや、これ、ただ単に「俺達ガノタはみんな妄想好きだべ?」ということを、こんなに堂々と語ってるだけのことなんですけどねwしかも目をキラッキラさせてw

別に妄想は優等生の御曹司の特権ではない、ガノタならば皆すること……

そう、この場面においては、ユウキ少年が、優等生とか御曹司とかではなく、ひとりのビルダー、ファイター、ガノタとして、洗礼を受けたようなものなのです。それまでユウキ少年に求められていたのは、優等生であり、御曹司であることだけ。しかし……ガンプラバトルの場面においては、そんなの不要!

 

これが「見つけ方」とどうつながるかというと、

「特権的な場で、高みの見物してるような身の上から、【熱き現場】へと降りる」

ことなんです。

たとえば、レビューブログ設立してみたり。たとえば、エロゲー批評空間でアカウントとって、レビューを投稿してみたり。例えば、自作曲をニコニコやM3で発表してみたり。

そのようにして、それまで「あこがれ」だった「場」へ、自らを「投企」すること。投げ出すこと。そこでは、完全に実力主義です。より多くの、新しい知見を提出することだけが求められる、戦いの場です。

流儀を得るには、この「場」に降りる必要があります。絶対に、高みの見物は許されない。そうしないと、本当の流儀ってもんは、かけらのかけらすらも、眼前に現れはしない。

そして、その場において、リスペクトしていた人間と全力でぶつかり、まずは鼻っ柱おられる必要がある。……まずはそこで、「場の一員として、立つ」。そこから、はじまるのです。

自分だって、いまでこそここだったり(はてなブログ)、えろすけ(エロゲー批評空間)だったり、あるいは大学の研究室だったりで、鼻っ柱おられてきました。でも、だからこそ、そこで「流儀を貫ける自分」を、まずは「場に立たせる」ことができたのです。

 

・流儀の定着方法

 

これ、以前べるんさんに、記事の御礼として、あえて異論をちょいと唱えてみたのです。次のツイートがそれです。

 

ここですべて「流儀を自分で語ること」のおろかさは書いていますね。

カッコ悪いのですよ、自分でこう、流儀を開陳してしまっては。「自分語り」がたいていなさけないのと同じです。

ではいかにして、定着させるか。

そこにおいて、我々ブロガーは楽です。

「ブログを書き続けばいいのです」

流儀とは、自分で自覚するものでは……あんま、ないような気がします。むしろ、他人が自分に求めているものと、自分のエゴの間に、なんとか見つけていくような気が(うん、こっちだったら、まだかっこいいぞ)

まず、流儀は、自分が決定するものではない。日々のなかで、自分が獲得していき、自分に身に着けていくもの。それが「定着」の意味では?

なので、ブログを書いていきましょう。日々の思考と行動の結実として。あるいは、自分では見ることのできない、自分の思考の「背中」を、ブログは、そしてブログの常連さんは、見せてくれるものですから。

twitterでもそれはいいんですけど、twitterの場合「流れる」傾向ってあるじゃないですか。でも、時折、長文で自分にお相手してくださる方がいて、そういう方とお話していくと、ブログと同じように気付かされること、ってあります)

ほんとうに「流儀」が試されるのは、むしろ「負け戦」のときです。この二巻では、ラストのコシナ・カイラとのバトルがそれに値します。――そこにおいて、ユウキ少年は自らの「流儀」を、公明正大に言い放つことができました。……いや、それまでのガンプラ塾のシゴキのなかでも、ユウキ少年は負けずにいられました。

流儀の定着は、ひとつに「負けないこと」があります。他人にもですが、ましてや「己」に、一番負けてはいけないのです。

 

・流儀の貫き方

アラン「メイジンを目指していない……? ならば君はどうしてここ(ガンプラ塾)にいるんだ!」

ユウキ「ガンプラが、好きだからさ。僕はガンプラが好きなんだ。動かすのも……作るのもね」

アラン「なっ そんな甘い考え、ガンプラ塾では……!」

ユウキ「ああ。それは実感している。けど、ガンプラは楽しい。それも実感している。知らない知識を学ぶのが楽しい。新しい技術を得るのが楽しい。到底敵わぬ強敵と相対するのが楽しい。だから僕にとって「メイジンになること」に大した意味はないんだ」

 

(中略)

 

ユウキ「もちろん勝敗にはこだわるよ」

アラン「は?」

ユウキ「父との約束もあるからね。それに強敵と戦うのは好きだが……負けるのは嫌だ」

アラン「つ……つまり君はメイジンにはなりたいわけではないが、負けるつもりはないと?」

ユウキ「そうだ。」

アラン「自分ひとりの力を磨きつづけて?」

ユウキ「そうだ」

アラン「ガンプラを楽しみながら?」

ユウキ「そうだ!」

アラン「き……君、すっごい無茶苦茶言ってるぞ!?」

ユウキ「わかっている。けれど、自分の考えを曲げずにそれを追求していけば、立派なスタイルになると信じている。そう、これが僕だ。ユウキ・タツヤだ!」

 ユウキ少年は、自分のスタイルを構築するうえで、もっとも大きな影響をタケシに負いました。タケシはいいました。

楽しさを教わった者は、それを誰かに伝えるべきだ!

 

それはBF本編において、後半「三人目の主人公」となったユウキ会長が、常に念頭において行動していたことでした。

自分が受け継いだ楽しさ……この場合では、幼少時のトオルであり、ロンドン留学時のタケシであります。

この受け継いだたのしさを、「実際の場で」みんなに伝えていくこと。それもまた、ユウキ少年の流儀であります。

 

それは教条的に「これ楽しいんだからこれしろよお前ら!」と命令するのではありません。

自分がたのしむこと。

TVでもユウキ会長はいってたじゃないですか。「世界中のガンプラファンたちが楽しめる戦いにしよう!」と。

それは、ガッコー的「教育」では、得られないものです。少なくとも俺は得られんかった。

誰かが真摯に楽しんでいる姿でもって、はじめて得られるもの、はじめて学べるものです。

 

最初に、わたしは模型雑誌を買ったり、ぜかましchangの模型箱写真をアップしたり、あるいは最近twitterで、作ってる最中の模型の写真をアップしたり、つぶやいたりしてました。こんなふうに。

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次の更新では、ひさびさに模型ブログをやろうと思ってますが、自分を引き合いにだせば、少なくとも、趣味の流儀を貫くからには「つまんねーつまんねー」とばっかり言ってても仕方がない、とは強く思います。

それだったら、常に「楽しい!」をアップしていくこと。こっちのほうが重要だと。

 

また、ある方からも言われたんですが「実際に批評、レビューやってるんだったら、自分のスタイルとか目指すものとかは、批評、レビューの形に落としこんでく以外にないでしょう」ということを。

まさにおっしゃるとおりです。

それにいくばくでも近づけるように、勤しんでいるところです。

 

貫くのは、自らの信念……エゴ、みたいなあやふやなものを「そのまま」貫くのではなく、日々の「行動をそのまま」の形で貫いていく。そう、行動ありき。行動のはてに、流儀が見えてくる。

そう、思っています。