残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

心が闇に墜ちても、作り続けるしかない全てのひとへ

Y・MとC・Tのお二人に。

あるいはT・Yに。あるいはバンドFのTに。
もしくは死んでしまった旧友Tのために
そして全ての「我ら」のために

 

 

ねぇ、お客様。果たして、何かが何かと真に決別することなど可能なのでしょうか?

ーー

存在しないものから完全に逃げ果たせると云うことがどれ程困難か、少し考えればお解りでしょう?

ーー

…どうしてこんなに暗いのか、って? 今更何を仰るんです? 最初から、灯火なんて何処にも在りませんでしたよ。貴方はずうっと、この暗闇の中に座っていたんです。

--Krik/Krak「黒い森」より「Akt 9:再び、囁く者達の言葉(耳を貸すべからず)」

 

 

(今回、勢いだけで書いてますので、細かいことは気にしないでください)

 

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●心が闇に墜ちたら


いつからか。
足下が泥のような感覚になっているのは。起きている間中、目眩の感覚になっているのは(スッキリするのは朝の数時間だけである)。
スタミナ/動物的エネルギー、とやらが乏しい。とにかく疲れる。生きているだけで疲れる。
何もできていない癖して。


いつからか。
ここまで追いつめられるようになったのは。
全ての追っ手を想像の中で切り殺し、それでもなお逃れられない感覚を得ているのは。
目をつぶれば、鮮やかな過去の過ちが喉を締めあげる。リアルに「うえっ」と声がでる。


いつからか、いつからか……
しかしそのように「いつからか」という問い自体が、薄ら笑いするかのごとく「意味のない」ものだと知ったのは、これまたいつだったか(!)
どうせ全ては起こってしまったことなのだし、現在は過去とつながっているのだし、現在(いま)まさに身を切られている事実は変わらないのだし。


一日中、まともに動けて、才能、というか、能力を十全に動かせている人間に、無類の嫉妬をする毎日。
恐ろしいことに、年下の人間の生き生きとした才能が次々でてくることに、周回遅れの恥ずかしさ的な嫉妬をするまでになってしまった


今部屋でこんな文章を、たるんだ肉体で打っているわたし、この豚を、そのまま渋谷のスクランブル交差点に投擲してみよ。
ああ、衆目にさらされる、この臭い。存在そのものが臭いである。


道がひとつだけある。
過去から今まで、ドブの臭いがする筋道が、ムカデの跡のように伸びている。
そして「今」のこの地点に、一振りのハサミのような、包丁のような、何かの刃物がある。
道の先はーー選べる筋道はおよそひとつしかなく、しかしそこには無数の神経という神経が絡みついている。
それは思い出になる感情? ご冗談を。キリキリと脳をつんざく神経にすぎない。
腐った神経は何になる?
というものの種になる。


道の途中に落ちている、ハサミのような包丁のような刃物。
この神経全部を切り落とすことができたら、できたら、ああできたら、と夢想するものの、臆病なわたしはいつもすんでのところで留まってしまう。
おっくびょうものー、と童子の声がする。ひどく気に障る声だ。
それがカノンのように輪唱して、ディレイのようにこだまして、やがて目の前に「おっくびょうものー」の大聖堂ができるのだ。まるでモネが、白内障の瞳で描いたあのルーヴル大聖堂のように。

おっくびょうものー、おっくびょうものー、おっくびょうものー……


ひゅっ……!
と、何かがよぎる。
その一撃だけで十分だ
闇とは
……ああ、闇とは!

 

●創作の善性


それでも、作ることだけは、
きっと悪ではないと信じて。


人間の汚濁をヘイトするのが第一段階。
己の汚濁をヘイトするのが第二段階。
己の己を削り続けるのが第三段階、
そして鉛筆削りのようにこれらを繰り返す


この負の循環から逃れるためには……
嫉妬から、自己破壊から、
自己判断の狂った投薬から、
身内破壊から、自己漏電から(ありのー、ままのー、自分をさらけだしたら人は引くのよー)、
自殺から、自殺未遂から、刃物と紐の幻痛から、
神経と脳髄の発作から、砕いた足の奇妙な感覚から、
自己矛盾から、辞世の句の幻想から、
自分が去ったあとの人々のササヤキ幻想から、
高邁な自分という幻想から、
自尊心から、
ああ、病みきった自尊心から(対比するは、何もできない自分)……!!
これらから、救われるためには……!


そのためには、何かを作る/創るのだ。
それ以外にないのだ。


ああ、分析に、救いがないことを知ってしまった。
解剖学はただ「分割」をのみ。
その果てに救いがあるのだと思っていた大いなる阿呆はわたし。


批評/分割/分析は、容易である。
なにせ、ひとの創ったものをとやかく云えばいい。
舌で舐めるように。


……でも、それはほんとうの批評をしていなかっただけなんだよね。
ほんとうの批評は、創ることと似ている。
少なくとも、自分を救っている。はずだから。


そう、
一番の問題は、「ほんとうの批評」よりも、
「鬱人間の自分」を、批評/解剖/解析のメスで切り刻んだことなのだ。


なにをやっている
なにをやっていたんだ!


だから……この方向には、何もない。
神経を細らせていくばかりだ。


だから、何かを創るのだ。


砕くことは容易である。
作ることは困難である。


その困難さこそが、創作の善性を保証してはいないか?


我ら鬱病患者にとって、創作に求められるアレコレは、あまりに遠い。
集中力、
体力、
持続力、
健全な神経、
ポジ思考、
正しき認識、
……ああ、「こころの闇を道具にして」などという戯言は、それができてから云え。健全者だろうとそれはできるのだから。


遠いが。
遠いのだが。
困難だが。
困難なのだが。
……それだけに、「間違ってはいない」と、強く断言できる。


自分にムチを打て、というのではなく。


作り、積み上げるために、休む、という迂回路の善性を「批評家」として誉めよう。
あえて困難な道に挑むために、自らを「創作世界」に放り投げる勇気を、芸術家として誉めよう。


作り続けるしかない。
神経の枝による樹木(セフィロト)を、ハサミのような包丁のような刃物で斬ることは、「痛みを伴う容易さ」だ。
筋肉を鍛えるより、よほど「作りあげる」ことは、絞りに絞りを重ねる困難さだ。


そしてそんなエネルギーなどどこにもないのだと知りながら。


でも。
創ることは、前進である。


我々にとって、闇の暗さは……心理学・脳神経学ではさまざまに定義されているのだろうが、我々にとっては「あれ」と表現するほかない「あれ」である。


その粘っこい「あれ」の瞳と爪をよぉく覚えているし、忘れられないし、一生つきあっていくのだろう。


けれど。
創って、幸運にも、人が何かをいってくれる。
この歩みだけは、「あれ」であろうと、奪えない。


さあ、わたし(筆者・残響)は、どこぞで詩のような小説のような何かを書くが(最近、サボりがちなんだよね(涙))、そしてWEBマガジンに寄稿さしていただく記事を書くが、
あなたは……
……いや、きっと、あなたも「創る」だろう。
安易ながらも、ただ、ひたすらに、そう信じて。

 

…赤く非力に火屋の中で夢想を慰め 眠る様に安らかに逝く為だけの 灯火に囚われた迷える魂に救済を…

ーーKrik/Krak「黒い森」より「Akt 1 黒い森 (連動のSchalter《A》、彼方にて幕は閉じ)

 

 

 

(すいません、「黒い森」の感想レビューがすげえ遅れてますが、この作品、一番聞き込んでるんです、この春からめっちゃくちゃ。読み解きに読み解きを重ね……)