残響の足りない部屋

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クンフー論、その後


もう一度読んでほしい。2014年を振り返る18記事 - 猫箱ただひとつ

 

(このブログのクンフー論)

「クンフー/祈り」試論(1) - 残響の足りない部屋

「クンフー/祈り」試論(2、後半) - 残響の足りない部屋

クンフー論 カテゴリーの記事一覧 - 残響の足りない部屋

 

 

べるんさんの問いに答えます。(脚注4のところ)

えーと、自分はこの一年、趣味領域において「クンフー」という観念を設定して、やってきたつもりです。
クンフーというのは、
ほぼ無心に日々○○をし続けることで、やがてあるひとつの高みに登る
行為のことです。
で。
やってきた「つもり」、というのは、「うっしゃ、クンフー積み立てたぜ!」という感覚が、今もって全然ないからです。

もっとも、クンフーを積み立てた、というのはいつまでたっても「つもり」の領域なんでしょう。どこまでやっても、自覚がないというか。だって「満足」してしまったら、クンフーの死ですからね。もっと先に、もっと奥に、もっと深みへ、というのがクンフー的無意識です。これすらも、意識しちゃいけないんだと思います。だって、クンフーってのは、日々において「ほぼ無意識に、気づいたらやってる」レベルのもんだと思いますから。

 

ただ「やったつもりが全然ない」というのは、もうひとつ理由があって、

「自分はクンフーを積むのをサボってたな……」
という思いがすげーあるからです。

というのも、最近このブログを三ヶ月ばかり放っておいているという事実。
クンフーの自分なりの積み方、というのは、絶えず読書し、絶えず音楽し、絶えずエロゲし、というインプットをまずし、その上でレビュー/感想/考察、というアウトプットをする、ということ。
そういう意味では、べるんさんの方がすげークンフーをやっている、と思うのです。自分は「クンフー意識」ばっかり高くて、それを実際やってないわけですから。

でも。
クンフーやる、っていうの、結構しんどい、というのはあります。
常に趣味やる、っていうのは、別に言い換えれば「楽しくなくてもやる」ということで、この点は以前様々なひとに「?」と疑問を投げかけられました(そのひとりにべるんさんがいる)

そこまで苦行じみてクンフーをやる意味ってなに?
と。
第一、こうやってサボっている時点で、クンフーの苦行性というのが、実証されてるようなもんです。

 

●でも、そういうクンフー人は、格好いい。というのは、消えていない


いや、クンフー鍛錬者へのワナビ精神、といわれたらそれまでなんですが。
でも、ペトロニウス氏にせよ、LD氏にせよ、海燕氏にせよ、「思索」「思考」がかっちょいいんですね。これがクンフーを積み重ねている人……それを数年単位で積んでいるひと、という。

もひとつ例をあげるとすれば、悶絶メタルのページの管理人さんですね。この人もクンフー的に音楽レビューをあげてる人で、それこそ大体二枚のCDを二日に一回、数年アップを続けておられるのです。その持続力。

そうだ、いま思ったのですが、まずもってクンフーとは

  1. 持続力というものが当人に備わっているか
  2. その持続力のもととなる「好き!」の精神が自分のなかにあるか
  3. 持続する思考を、つづれおりのように複合させて、ひとつの壮大なる思考の伽藍を作り上げられるか

という三点が、クンフーをし続けるうえでのキーポイントだと思います。

自分がクンフーを中途半端でサボっていて、でもクンフーしたい!と思っているのは、このように「鮮烈に生きたい!」と思っているからなんですね。

それは、とにもかくにも、すぐネガティヴにいって、(海燕氏の言葉でいう)「闇属性」にいってしまう自分を、いささかでも救うため。

とはいいつつも、サボっている時点で、闇に堕ちてってる自分を救う、ということを積極的には行っていない、という事実。

だから、べるんさんにクンフーを熱く語っておきながら、今の体たらく、というのは、ああ恥ずかしい。いや自分自身を責める形で恥ずかしい。


●しかし問題は、クンフー精神そのものではなく、修行のやり方だったのかもしれない


自分は、CDを全曲レビューするかたちや、漫画/エロゲの構造的レビューをするかたちで、クンフーを積もうとしてたわけです。

でも、それは「本来の自分の鑑賞の仕方」だったのかいな、と強く思ったのです、最近クンフーをサボっていたなかで。

自分の鑑賞のしかた、というのは、まずもって「感動」が第一にあったはず。
というか、自分の感動とは、表現物に触れて、何らかの「情景」をビシビシと幻視して、それが「自分と世界を離れた、もうひとつの世界」として、強烈に空中楼閣を、こころの世界に生み出すこと。
それが、自分にとっての「芸術」の意味。そうやって芸術を自分だけのものにすることが、芸術の意味。

分析は、あくまでそのためのツールだったにすぎないはず。
ところめが、自分は「他者の目」というのを、いつしか気にしだしたんですな、昨今のブログマネタイズ/アクセス数向上ムーヴメントにほだされて。
分析すればするほど、誰かに認められるんじゃないか。実際、そうすることによって、いささかの感謝めいたものを得たこともありました。
でも、それだけやっていて、自分はブログ執筆、レビュー執筆して、「芸術の本当のところ」を活写しているのか、という深い疑問に襲われたわけです。

生半可に、自分に分析スキルがあったから、このことは起こってしまったんですね。
それと同時に、自分の学生時代の「研究」という行動を、変な形で援用してしまったこと。

話はクンフーに戻りますが、「何をクンフーしたいのか」ということが、いつしか抜け落ちてしまったわけです。
言い換えれば、自分の何を鍛え上げたいのか。

これは答えは簡単で、自分の闇なるものを、光なるものに……というか、闇を少なくともゼロにするために、鍛え上げる必要があったわけです。

最近、自分はこのようなツイートをしました。

この考えについては、これ以上の説明はないわけなんですが、なんのためにクンフーするか、というと、この考えに立脚するはずだ、というのは、ほんと最初のクンフー論記事で書いたんですよ、自分。

でも、そこから「何をクンフーするか」というところまで、考えを煮詰めることはできなかった。それが自分の愚でした。

何をクンフーするか。何が自分にとって大事なのか。まずもってそれを見極めないことには、クンフーではなく、ただの「妄信」です。


クンフーの先にあるものはなにか


こればっかりは、実際に生きてみなきゃわからんなぁ……と思うのです。
というか、実際に生きることこそがクンフーなのですが、最終的にあるのを予感するのは、おそらく「凪のように穏やかな精神」だと思うのです。わかってるんじゃねえかw

達人の境地、ということで、こういうことがよく語られるわけですが、まあ。

でももうひとつ、こんな話があります。

 

修行半ばの禅僧と、修行を相当積みまくった禅僧の脳波の違い。
座禅をしているとき、脳波検査をして、ふたりの違いを探ったそうです。
座禅中、時折鈴をならして、そのときの脳波の揺れを検査する。
で、修行半ばの禅僧は、脳波はゆれない。
ところが、修行を積んだ禅僧は、遥かに揺れているそうです。
これは、どういうことか。
この記事を書いたひとは、「禅の修業を積む、ということは、木石のように感情を無にするのではなく、むしろ「いつも新鮮で何事にも感動する」という領域なのではないか」
というのです。

 

これは、どうでしょう?
自分は、クンフーを、一応一年、闇雲に積んできたんですが(といっていいのか、傲慢ではないのか)、それは、どちらかというと、「感動を鈍化させる方向」だったかもしれない、と思うんです。

いつもCDやエロゲを解析的に分析して、じゃあ「感動」「幻視」が余計強まったか、というと、別にそれはなかったかもなぁ……みたいな。
でもそれが無意味だったとまでは言いませんけど。ただ、このブログの更新が止まったということは、どっかで「飽き」が出たんでしょうね。

自分にとっての感動、というのを精査する必要がある=クンフーのやり方を精査する必要がある、とはそういうことで。
「飽き」はクンフーの道からして邪道です。
無心、とはまた違うのですから。

無心にやる、ということでは、次のような記事を去年書きました。

ガンダムビルドファイターズ 第十七話「心の形」感想 - 残響の足りない部屋


この考えは、今もなお思っています。
つまり無心とは、「楽しむこと」「好き勝手やること」
と、上記記事では結論しましたが、それはまったくその通りなのです。

まあ、それは「やり方の精査」と食い違っていないか?といわれたらそうなんですが、でも「自分にとってのたのしみ」「自分にとっての好き勝手」というところを明確にしたら、自分の分析スキルも、きっと生かされてくる。そう思い始めました。やっとね。


●祈りとは?


これは、最近思うのですが、「初心」をいつまでも持ち続けることと同義なんじゃないか、って思うんです。

恋春アドレセンス」のレビューでも少し書いたんですが、子供が「遊ぼうよ!」って子供心で約束すること。遊び続けようよ、と青空のもとで約束すること。
このことの邪気のなさ。
そしてどこか永遠を含んだ観念。

なんの邪気もなく、ただ光に満たされて、「私は初心のままいます。誓います。どこの誰かかはわかりませんが、私はあなたと自分自身にこれを証明し続けるまま生き続けます」
と、おりに触れて祈ること。

これに、どんな意味があるのか。
現時点ではわかりません(おい

ただ、存在するのは、「もうくじけません。くじけたとしても、汚いことはしません。闇にのまれるよりも、光に手をのばします」
ということを、どっかの誰かにいいたい……そのことを通して、自分自身にいいたいんでしょうね。

なんでかっていうと、自分がクンフーをやめがちなこと、怠惰になりがちなこと、そんなのをすっげーよく知っているからです。

そんな自分を否定するよりも、それを踏まえたうえで、「誓う」ことで、いささかなりとも、自分を変えていくこと。これがクンフーの隣接するところの「祈り」なんじゃないかなぁ、と。

恐らく、自分は幾度もクンフーとは?祈りとは?みたいなことを考えていくと思います。
なぜにそんな苦行を?鞭打つような真似を?と思うのですが、前はそれを「誰かに許してほしかったから」とツイートしたように思ってました。
でも違うのです。
自分で自分を許すために、クンフーするのです
と。