残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

小説を書くのがすごい苦しいから止めてみようかという話

苦しい。まだ続くかこのキモチ。
というのも、今自分はまだ苦しがってる。というのも……

●小説が書けない(思ってるように、憧れてるように)


創造的な欲望を抱いているひとにとって、「実際に創造(クリエイト)できない」というのは地獄であります。
どうして?なんでこんなに小説が俺はかけない?
キャラが動かない。文章が連綿と物語を、風景を紡いでいかない。ストーリーの大河が流れていかない。サァーっとするように文章が映像を流していかない。

困ったなぁ……というのは、まだ穏当な言い方で。はっきりいって、ノイローゼチックになっている。
なにせ、自分のなかにキャラがいるのだ。そいつらが、表現を求めているのだ。

……だが。
キャラは、なんか動いているが、具体的にどううごいているか、というと、どうにも、なんか、定まらない。
たとえば、些末なことはよく思い浮かぶので。キャラが居合い抜きをして、あたりの敵キャラをずったばったと斬り伏せるとか。
あるいは、魔法を使って、不思議な魔法アイテムを展開して、なんかイマジネーションあふれるギミックがー、とか。
でも、そこで終わる。そこから「物語」につながっていかない。

とあるブログで読んだのだけど、中島梓がかつて小説作法的な本で、
「キャラが作中で成長しない小説など、手抜きだ」
みたいなことを言ってたとか。

竹本泉や東方のファンである俺としては、それに対して異論を出そうと思ったのだが、しかし……考えてみるに、自分の作品においては、この「艱難辛苦の果てに、成長があるビルディングスロマン」というのを、かなり廃してきた俺がいる。

なんか、艱難辛苦は、現実の俺が受けてる艱難辛苦だけでいーよな、と思って。物語のなかでは、キャラがワイワイ騒げばそれでいいよな、とか。それが、俺の妄想物語のやりかただった。
つまり、キャラ=自分の分身、に、重い苦しい艱難辛苦を味あわせたくない。それよりは、自分(俺)の癒しとして、キャイキャイしていてほしい。のどかに、静かに。

……そんな「俺にとってののどかで、静か」な物語を、誰が求めるか、っちゅう話で。場合によっては、俺自身ですら求めないかもしれない。

あるいは。
そういう、キャラが成長していくあれこれ、というのを創造/想像できてない時点で、俺はどうにも、物語創造というものに向いていないのかもしれない。

現実で、艱難辛苦は精一杯なのである。妄想は、自分にとって逃げ場所。そこで癒しを得たい。とするならば、敵とも闘いたくない(あるいは、戦闘はもう済んでいることにしたい)。成長もとくに……いや、すればしたでいいのだけど、だけど成長は痛みがないようにする形であってほしい。……そんな成長になんの意味があるか、ということは、わかっているさ。

かくして、どうも自分は……小説というものが、苦手なのか? 
考えてみれば、一日中小説を読む、ということはない。読むと結構疲れる。で、すばらしい小説があったとして……小説内で結構成長を疑似体験さしてくれることがあったりして、それはしんどいながらも、意味あることで。
……じゃあそれと同じようなことを自分の小説でやるとすると? そりゃあきついよ。自分のキャラをしんどい目にあわしたくないよ。敵っていう、いやな奴を創造したくないよ。疲れるよ。
……そう、物語創造とは、疲れるもんなのである。それを選んだからには、疲れるのを義務としなければならない……。もちろん、対価はすげい。なんといっても、「物語」「血の通ったキャラ」を作れるのだから!

……そのあたりの、責任とか、義務とか、疲れとかからの、逃げなんだろうね、ぼくの物語に対するアレさっていうのは。


●じゃあどうするのか、これから。創作は。


創作をやめるわけにはいかない。一度、創作の味を知ってしまったからには……
ただし、物語を「無理して作ることはない」ということ。物語を、ひとの作ったものをインポートしていって済むのであれば、それでいい。
まあ、自然に自分のなかから物語がわいてくることもあるかもしれないしー。そのときを待つのでもいい。

つまるところ、自分は「物語れるはずだ」という思いこみがあって。「物語を作るひと」への「強烈な憧れ」があって。自分は「そうならなければならない」という気持ち、思いこみがあって。
だって、それが一番自分にとって、優れた生き方だと想っていたから。

……そうでもなかったの、かな。艱難辛苦を物語のうえで施せる人物こそが、物語作者ならば……。
そして、今の自分は、自分にリアルでやってくる艱難辛苦を、分析するほうが、より得意だっちう話である。

批評と創作は、やっぱ違うだろう。
あるいは、批評と「物語創造」と言い換えてもいいけど。
どちらにせよ、病んだひとりの人間が、世界に対して、自分が世界とどう向き合い、どう幸せになるかの希求なのだけどね。考察なのだけどね。批評も、物語も。
そうじゃない、って人もいるだろうけど、自分にとっては……よく言われるように、たとえ自分のレビューが褒め殺しだろうと、自分のレビューが欠点をあまり指摘しないものだろうと(「欠点指摘」をすることが、自分にとってあまり意味がない……)、そうであっても、やはり、自分がどう幸せになるか、の考察なのだろう。あるいは、批評行為とか、物語行為をしてって、誰かに何かを残せたらいいな、ということなんだろう。きっと。そうして、俺らはひょっとしたら、つながっていけるのかもしれない、そう信じながら。

とすると。
艱難辛苦を物語キャラに与えること不可能な俺ならば、さてなにをするか。
……美を謳いあげる、ということを即座に考える。
それは物語とか、艱難辛苦とかをスルーすることができる。その反面、あんまキャラ性はつくれないけど……。
作曲とか。絵を描くこととか。詩を読むこととか。……ようは、非ー小説の分野だ。非ー物語、の分野だ。いや、物語と接続することもできるけど、まずはメロディであったり、色使いであったりの分野だ。
それでいいのかな。自分が無理をしないでいられることに没頭すれば、いいのかな。

というか。
そもそもなんで、自分のリアルライフ(人生)はこうも艱難辛苦なのだろうか。生傷ばっかなのだろうか。どんなにほかの人が作った物語とか、音楽とかで埋めていっても、それでもボロボロ傷になる。おかしくなっていく。狂っていく。なんだこの人生は。

みんなそうなんだよ、といわれるかもしれないが、知ったことではない。なんでこんなにくるしいんだ、と俺は想う。物語創造すら阻害されるくらい、なんでこんなに苦しいか。

おそらく、まあ、外側(外部)の要因が結構苦しい、ってのもあるだろうけど、やっぱ内側(内部、残響の心理的本質)が相当苦しい、ってことの現れなのかな。そう考えれば少し楽になる。楽になったからってどうしたもんでもないけど……。でも、どこに敵がいるか、の所在の確認にはなる。

やれやれ。変な人生だよな、と想う。10年間、物語創造に頭をつかってきて、その最果てが「おまえそんなに物語創造に向いてないよ」だという自分からの回答だとはね。
……そうはいうものの。ここまで書いたはいいものの。それでも、まだ未練が残るという情けなさ。どうしたもんかね。