残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

すべて創作のためにブログを書く、ブログマネタイズ金は宇宙へ放り投げろ

なんでブログを書くかっていったら、まあ過去には多少は「目立ちたいー」とか「お金になったらいいじゃん」的に思って、無様な姿をさらしたこともあります。
それも遠い昔で、今となっては、このようにただ淡々と、思考を綴るのみ。まあ今年からのことなんだけどね。リアル日記を、そのままネットブログ日記にコンバートって具合さ。
その思考を綴るということが、吐き出すということが、自分にとって、ひとつの「意味ある排泄」になってます。排泄の果ては、おそらく創作だ。花詰み、とはよくいったもので……。
ぼくはこのブログで、自分の人格の完成を、「そこそこ」思い、でもここにテメエのすべてをかけようとは思ってはいません。l
自分のすべては、あくまでも「創作……現時点では、詩/短編小説の連作や、作曲。このふたつ。絵も描きたいけど、どうも時間がとれなくて。それに、どうも自分は萌えイラストがそんな得意ではないみたいで……まあいいや、今ふたつある。そこをしっかりさしてから、次にいこう。

 

創作しないと生きてけないってはなし

 

創作、ということでいうと、ぼくはこれがなくては生きていけない人間だということがよーくわかった。これがないと、ほんとに、強盗になんかを強奪された魂になる、とよくわかった。
なくてもイケるのかな?と思っていたけど、そんなことはなかった。この病……創作病は、思っていたよりも強固だった。ねばってた。そして……やっぱり創作の果てにみる光は、ぜんぜん悪いもんじゃない、光ってた。

なんで創作をやるか。いきるためか。いきる意味を見いだすため、刻むため。
なんでブログをやるか。思考整理……すなわち、創作の準備体操。もちろん、よくいわれるように、創作は創作で完結せよ、っていうのはある。ほかで話をしちまったら、内圧がとけて、創作の屹立ができんくなる、世界が屹立できんくなる、っていうのは、まあ、まま、ある。

いきなり創作にブッコミ!っていうのが、まあ正しい方法なんだろう。
でも今年のぼくはそれとは違った手段をつかう。
やれるときは創作をする。時間がなかったり、体力がなかったりするときは、休む……そんでか、もしくは、こうやってブログを書いて、考えをまとめる。
それくらいのモンでいいよなぁ、と思う。自分にとっての主戦場は、創作(あと、エロゲー批評空間での長文レビュー。まあこれは批評、のなかでも、俺的にずいぶん「創作」に近い)であって、そこのために、以後の全部……twitteだの、ブログだのを使う。

 

自分のなかにあるもんはなんだ?

 

まず、自分になにがあるか、を検討したい。そして、それを磨きたい。
自分になにがあるか、っていうのがわかんねえ、というのもヤキがまわってるが、そうとしか言えない。だって、ボヤケがひどくてね……これは病気か、それとも加齢か。あるいは社会のゴタゴタですり減ったか。まあなんでもいいや。とにかく、依然のようにシャープでも、頭のなかにモノを蓄えてるのでもないから、とにかくアウトソースというかたちで、文章をガリガリブログって、とりあえず脳内を整える。

誤字脱字なんて知らない、センテンスのまとまり……あ、これはちょっとは気をつけたほうがいいかも。だって、自分の文章、論理的能力がガンガン落ちてってるかんね。これはやばい。これは、創作においてもデメリットだ。

しかし、ある意味で、こうやって「自分のありもん」を並べて、という作業は、悪くない。自分は限りある存在なんだ、と。でもそこから進めるんだ、と。意志さえあれば……

ああチラ裏。なにがいいたいか、っていうと、自分がブログをどうやって活用していくか、、ってことです。
とにかく、チラ裏と称して、自分の思考をぶちまける。そんでもって、多少整理できたら、即、創作にうつる。ブログ飯とか、ブログでマネタイズとか、知らん。とにかく自分は創作が第一なのであって、ブログで宣伝かけたり、炎上させたりしていくのは、暇がないのだ。っていうか、金のこたぁリアル仕事だけでいいよ。

 

キヨラカでセチガラい2016年のネット

 

どーしてこんなにネットがキヨラカにセチガラくなったかなぁ。クラスの陰から、日向になった、っていう比喩をどっかでみたけど、それもさもありなん。
怨念は、どこにいったか。……いや、怨念がどこいったか、というよりは、怨念の存在するべき「自由の母胎」が、どっか削り取られていってる感が。

世界はどんどんキヨラカにセチガラかぁ。これもまたひとつの世界モチーフかな。キヨラカでセチガラって、誰もが否定できんからね。
でも、それがカオスを否定するんだったら、ぼくはさらにアゲインストするよ。
カオスのない、自由の母胎が少ないとこは、抜け道がないから。それすなわち、自分のよーな奴が、また一人殺されていくとこだから。んで、m自分もまた殺されるっていう寸法ね。

ぼくの創作は、世界を救うもんじゃないけど、自由精神だけは、いつも持っていたいと思う。
それは戦いの果てにつかみ取るもんかもしれんし、座禅の果てに見いだすもんかもしれん。落ち葉拾いの果てになんか見いだすもんかもしれんし、コンビニの夜更け、どこでもいけるという自由も、そうかもしれないね。

角度を変えれば、世界はオモロくシャープに見えて、写真がとれるよ!美しいよ! そんな具合に、詩を書けたらなぁ。そのためには、自分の言語を、「ただす」のではなく、どんどん「言葉に磁力を加えていく」のが正解で、そのついでに、論理的思考力をもったほうがいい。論理的思考力と、詩心は、相反しない。相反する、とするのは、ただのチンケロマンティシズムだ。