残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

暁け暮れ明星日記「本CDを売った」(第2回/全20回 9/24分)

●本やレコードを売った。

 一般人がびっくりするほど売った。オタクでさえも「え、それって残響さんという人間存在において、象徴的な作品だったじゃん」って証言するだろうものまで売った。

 なぜなら、その作品の数々に関しては、もう魂と血と肉に染みわたっている確信があるから。「血肉になった」という慣用表現は、正しい。自分の肉体を行き渡る血の水分のなかに、その作品は偏在している。脳内のシナプスに、その作品は宿っている。構成物質。

 管理が出来なくなった、という情けない理由もある。こうして本棚や倉庫から引っ張り出してみると、まあ出るわ出るわ(本とレコード)。「さっと耳クソを取るくらい」と思っていたのが、あれやこれやで、ちょっととんでもない量になった。これは耳クソの量ではない。

 そんだけのものを「死蔵」していたのだ、と考えると、ちょっと愕然とするものがある。自分は「大切」という感情に、かなりの「惰性」を交じりこませていた。

 別にミニマリストになるのではない。しかしミニマリストとやってることは変わらないか?でもいまだにある程度の本とレコードがある。これらは「血肉レベルで大切にしてはいるが、まだ現在進行形で養分を吸収する余地があり、自分をすぐに奮い立たせ勇気づけてくれるもの」である。ややこしい書き方をしているが、まだこれは、自分のなかで「伝説」になってはいないモノだ。。神格化ではない。今、自分と共に歩いている物だ。そういう物まで売ることはないだろう。

 

●かといって「創る」という義務は採用しない

 

 ときに、一部の人間はこういう風に、思い定まったら断捨離をする時があるらしい。少なくとも人間椅子・和嶋の自伝本でそういうエピソードを読んだ。

 あるいは、いつかこういう日が来るということも、自分は予想はしていた。自分を託していたものに、いつか別れを告げて、どこかへ旅立つ日だ。

 どこへ行く? 数日後に実はリアル旅行を控えているけど、それが「どこかへ旅立つ」という意味ではない。まだ少々は、このガランとしつつある部屋で、事を為すつもりだ。それは大いに作り「かけ」たり、大いに遊びまくるのだ。

「売った(別れを告げた)からには、創作せねば」の悲愴ではない。そんな、人質にナイフを突きつけるかのような「取り引きの創作」なんて、ロクなもんじゃない。人生は義務ではない。創作は義務ではない(もちろんこのブログ日記も義務ではない)

 そうじゃなくて、作り「かける」のだ。作品にせねば!と思って作品に取り掛かるのではない。遊びの延長線上として、「まあ作品として形作ってもいいかな」程度のものだ。

 「遊び」こそが、(あくまで)自分にとっては、根幹なのだ。

 

●遊び

 

 「自分の限界がどこまでかを知るために僕は生きてるわけじゃない」という歌があったり、「俺は俺を証明する必要なんてない!」という歌があったり。

 昔はその意味がわからなかった。

 今は分かる。

 限界を証明して、だから何なんだ。世界に自分を刻み込まなければ自分の価値はないってか? いいや、その類のマインドゲームには乗らない。わたしの価値にして神は、ダイヤブロックガンプラジャンクをガチャガチャいじって遊んでるこの(たなごころ=手のひら)の中にあるのだ。あるいは、掌動くときがまさに神の実在を感じるのだ。これはおれの神だ。あなたがたの神ではない。おれだけの神だ。わたしは、こいつ(掌の神)なら信じても良いと思う。ずいぶんこの神に、自分は冷や飯を食わせてきたけど、いまだにこいつは自分を見守っていてくれてるのだ。

 その掌の神が告げる。「世界ニンゲンいいね!レース」に不参加表明でもいいんじゃないか?と。少なくともこの両の手(掌)は、ブロックやジャンク、あるいは画材や楽器を使って、ひとつの「自分にとっては悪くないバイブスの、なんか楽し気なもの」を作ることが出来る。例えば、ガンプラジャンクとダイヤブロックを組み合わせたオブジェをつくる。それは、精密さでは遥かに有名モデラに及ばない。それでマネタイズが出来るわけでもない。

 しかし自分は、まずこの世にこういうオブジェを、ガチャガチャといじって遊んで、作ることが出来るのだった。そんで、気が向いたらそれを画材でイラスト、あるいはコラージュアートにしてみる。写真を撮ってさらにサンプリングコラージュしてみるのも良い。また、そのオブジェの「なんとなくこんな感じ」のイメージに合いそうなコードを、サンプラーで録音して、切り刻んでビートにして、MTRで曲を作ってみたりする。

 そうして、自分の「神話」が、少しだけ豊かになる。それで、良いのだと、思う。作品にせねばならない義務はない。自分がネットを介してその「神話」をひょいと置いてみるのは、ただ単純に自分が楽しいからであって、バズなんてどうでもよろしい。というか、ぶっちゃけるとこのオブジェを中心にした「神話」に関しては、どう考えても自分は他人に「見せてやってる」上から目線が凄い。他者には「見せてやってる」のだ。例外的に、うちの同人活動でイラスト描いてもらってる小西さんだけは、「これどうでしょう?」と意見を求める。もちろん、これは「創作者と創作者の神聖でたのしい意見交換」である。バズなんぞといっしょくたにしないでくれ。

 

●血肉の本、CD

随分、助かった。これらの血肉の作品のことを、忘れない。というか、このまま死蔵していたら、なんか惰性のままに「忘れて」しまいそうな気が物凄い。それは、違うだろう。だから、自分は手放すことに決めた。

あるいは、そういう手放しを、「いつかそれらの作品のレビュー書くときに困るよ」という向きもあるかもしれない。それは前は思っていた。だからため込んでいた。でも、もうそういう「資料を駆使して、誰かにツッコまれないような、技術と理屈のレビュー」はやめたんだ。自分が、その作品の「凄い読者/リスナー」であることも、手放したんだ。

 ただ自然に遊べばいい。あの時あの作品たちからもらった感情が今も自分の中に息づいていて(まちがいなく、いる)、それが何かこれからの「遊び」「創るかもしれない作品」に、形を変えて芽吹いていればいいな、と思う。誰かに知識量でマウント取るのが趣味の本質じゃないことは明らかだ。すげえ!と言われることでこの世に証をたてることは、すごーく歯ぎしりして疲れるっていうことに気が付いた。