残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

ことのはアムリラート長文感想のためのカード(1)推し事構造、言語学習はそもそもイライラしてしまう営為

この記事は百合ゲーと言語学習についての断片的メモです。

sukerasparo.com

・百合の「推し事」構造

なんでユリアーモなんつうエスペラント語を学ぶのかって?

「ルカがかわいいんだよ!」(凛
「ルカを推す凛もまたカプ萌えなんだよ!(ルカの部屋の観葉植物と化した百合ゲープレイヤー」

 

ところでこの「自分を普通だと思っている女の子(本質は攻」が「美の権化たる少女に夢中になって推す(本質は受」っていうアイドル推しみたいな「好き!」の表明少女な造形。


対象の美少女にも「好き!」を表明しつつ、
「どっかのだれか(プレイヤー)もわかって当然でしょこの美!いやわかるべきでしょこのかわいさ!」って表明していく推し事(おしごと的な愛の表明。世界の美のヒエラルキーの絶対頂点は、自分が推す少女にこそあり。自分(凛)はルカを推すために在る、というアイドル×ファン、みたいな構造。

これってどうやら百合文化にのみ特徴的な構造であり、テイスト(味わい)のようですね。ヘテロ恋愛ゲーマーから、こういう「推し事」な百合美学視点について「ついていけない」と聞かされたことがあります。テンションもそうですが、この「推す」というやり口に。

自分は百合ものが好きなので、この構造、テイスト、やり口を肯定するんです。その美少女が美であるのは当たり前、という世界観とか。美少女を推す少女の特質性から物語がどんどん進行していって、深みを増していくという醍醐味とか。やがて明かされるお互いのコンプレックスとか。いや、良いですね。。ちょっと雪子「ふたりべや」最新話(Comicブーストweb連載)まで一気に単行本(現在7巻)読み返してくるからちょっと待っててください。

 

……、ふう、同棲イチャラブ日常百合を堪能してきました。


ところで、この「ふたりべや」をこないだ知人に説明したのですが、「基本、桜子がかすみちゃん好き好きー、って言ってるだけの同棲4コマ」って説明したら、「非常にダメな、駄作の証明みたいに聞こえる」と言われました。
よく考えたらそれも然りかな、と。自分の説明が悪すぎた、っていうのもあるんですが、この「美のヒエラルキー固定」や「推し、という感情の固定」からはじまる、百合関係の感情方向の固定性、っていうのは、確かに他人から見たら「固定しすぎでダイナミズムもないつまらなさ」って見えるかもです。

しかし、自分の愛好する百合は、このあたりを少しずつ揺らしていくのです。当たり前が当たり前である鉄板性を、こっちから見て、あっちから見て。美少女の美は鉄板であり、それが世界を照らす光である安定度こそが太陽(陽性な、ちょいギャルっぽい場合)、あるいは無慈悲な夜の女王としての月(クール、ダウナーの場合)。
それに対し、推していく少女の「美への隷属性」もまた絶対。

美少女の太陽に対する、ファンは月のようで。
しかし、仮にクール系だとしても、夜の女王たる月もまた、日中のおだやかな日差しをファン少女という太陽からいっぱい浴びて、輝きを秘めるわけです。
おお、ちょっち何を書いてるかわかんなくなってきたぞ

 

ようは、凛がルカを推すというやり口は、この世界観では絶対のものとなっていますが、それはノベルゲーや恋愛ものにおいて、絶対に普通で一般的か、といったら、それは違うわけです。そこはちょっと把握しておきたい。
そのうえで、このやり口に萌えてしまったら、もうこの「ルカ推し」の構造に疑問を挟んでも仕方がない、ということはありますね。

 

・外国語学習はなぜイライラするのか

 

英語を母語としない国では、「国際社会で栄達するためには英語を学ぶべし!」というお題目のもと、「第一の」外国語として英語を学ぶこととなります。
しかし、英語に対する学習上の意味付けが、それくらいしっかりしているにも関わらず、日本人口の半数以上が「何がなんでも英語を学ばねばならない」という必死さ(モチベーション)を持ち合わせている状況、ではございません。
なぜ、英語学習のモチベが低いのか?

これはひとえに、英語を使わなくても、日々の生活が充分事足りるからです。
例えば、朝起きて、自分がクソ眠ぃってことをぼんやり思って、パンとピーナツバターの賞味期限が切れてることに気づき、大学なり職場なりに行く途中でコンビニに寄ってパパッと朝食を買って食らう、っていう状況があるとします。

ここで「クソ眠ぃ」という自己の状態と、それに対する感情を表す言葉は、日本語です。
そして、パンとピーナツバターの賞味期限が切れている事を示す文字記号は、日本語の文字と、漢字と、数字です。
もちろん、コンビニで一連の買い物の手続きを済ますときに使われる言語も、日本語です。
この一例が示すように、日本での日々の生活では、「常に外国語を意識する」必要は、ありません。

英語に対する学習モチベが上がらない理由は、まず、英語を「何がなんでも必要としていない」というのが、ひとつ。
つまり、「国際社会で栄達するため」の片道切符としての英語、と言いますが、どこかそれも「大人のお題目」であります。
「栄達」のレベルにもよりますが、英語がなければしんでしまう、というレベルでもない。現代日本においては。

それは、この状況そのものが、日本の現在保有している、経済的、並びに文化的・歴史的な「国力」の証明です。
現在、たまたま日本は、その程度の国力を有しています。
英語が話せなくても、とりたてて問題なく日々の生活を過ごせる国力。

なお、英語を用いなくても日本では生活ができますが、古来より豊秋津洲日本列島では、日本語それ自体の高度な運用や、「世間」という神経社会において常に「神対応」を求められます。
膠着語としての日本語が異様に発達させた、敬語法・謙譲表現。あるいは助数詞のバリエーションの異常さ(建物を一棟と数えたり、鳥を一羽と数えたり)。これらが日本語の「高度な運用」として、日本語学習者の超絶イライラポイントである事はよく知られています。
しかしこの豊秋津洲日本列島では、こういった言語運用・世間知の神対応をスムーズに行わないと、「外人(ガイジン)」として、日本人圏域(インナーサークル)の中から暗黙のうちに排除されることとなります。よく、バラエティ番組で外人タレントを「外人っぽい言葉遣い」として特別枠にしたりするじゃないですか。あのやり口です。

この、言語に内包する差別構造について、今は批判を、さて置きます。本当は相当批判したいですが、今はまだ。

 

さて、もうひとつの「英語学習のモチベが上がらない」理由といたしましては、「そもそも外国語学習はイライラする構造になっている」からです。

英語を含む外国語学習は、「語彙蒐集に始まり、語彙蒐集に終わる」と言っても過言ではありません。
わたしたちは、I am を覚え、thisとthatの違いを把握し、thatを使った関係代名詞の構文を覚えます。
子供のころから缶ジュースを飲みますが、英語でも缶はCanだったりします。しかしそれ以上にcanといったら「可能」であり、「出来ますか(can you~?)」であり、「Can I ~(オーイちょいと●●さしてもらってもよいかね?)」であり、May I構文との違いを把握したり、be able to表現をどういう場合で使い分けるのかを覚えたり、です。
このようにどんどん語彙は増えていきます。
そしてそれと同時に、「自分の限界」にブチ当たります。これはイライラします。「お前はもう死んでいる」って言われ続けるって構造です。

どんな語学学習者であろうとも、「この言葉知らないっ!」から逃れることは出来ません。
「どんな」語学学習者であろうともです。You are just only same students.

仮に英和辞書をすべて暗記した人でも、東南アジア系のピジンクレオール英語(現地語との混合英語)まで行ったらどうなのか。そこまですべて把握しているのはもはや人間ではなくアカシックレコードの領域です。
では「スマホがあるから、知らない言葉は検索すれば大丈夫よ」という向きに対しては、二つの反論があります。


ひとつ。「即レスが求められる状況において検索なんぞ出来るのか」。
例えば、海外でひったくり盗難に会った場合…この場合正しいのはどういう言葉でしょうかね?"Hey stop!"で止まりゃしませんよね。じゃあふぁっきゅーを言えばよいのか、っていうと、それを聞いて他の人が「この哀れな東洋人を助けてやろうかいな」ってなるかも微妙です。"You must stop;because ofナンタラかんたら"って言ってる場合じゃないのも明白です。"I'll kill you!" X JAPANを出す場合じゃない。正解は、むしろ日本語で「だあああーっ、どチクショウが!」って叫ぶのが関の山では。むしろそこから現場に居る人たちを何とか味方につけるべく努力するとか、警察で冷静に事情を説明し、何とか警察を味方につけるべく努力するとか(ここは外国であります。警官が親身になってくれるというナイーヴな考えを捨てよう)。結局何が言いたいのか、っていうと、こういう状況でもスマホって言えますかね、っていうことです。そして、口頭コミュニケーションでの言語運用は、だいたい即レスが求められます。(もっとも、口頭コミュニケーションが「外国語の本質にして全て」かどうかは、非常に疑問があります。世の中はここを思い違いしていると思います)


もうひとつは、「それが知らない言葉である以上、スマホ検索で出た答えがマジで正しいと断言できるのか」っていうのがあります。
たとえば、自分がフィンランド語の市民講座に行った時の事なんですけど、構文をアレンジして「ケーキ2個ください」って言ってみたんですよ。ところがそれはフィンランド語で「うんこ2個ください」になってしまっていたんですね。講師氏(フィンランド人の女性)に平謝りでしたよ、言語初心者のあたくし。マジでアンテークシ、パリョンパリョン(ほんとにほんとに)Anteeksi......(平謝り


「お前はもう死んでいる」
この構造においてなお、外国語を楽しむには……そう、答えは、このイライラを楽しむしかありません。つまり「(この言葉)知らないッ」という感情をそのまま「知らない言葉を知ることが出来てうれしいなぁ」と自然に思うようになること。
どんなマゾか、って話ですが、自分も言語学習を進めるようになって、こう思うようになってから、急速に外国語学習が楽しくなったのですよ。自分の限界でもがく事、それが自分の外国語を鍛え上げ、生きた外国語の中で言語してる、っていう。それは、外国に居るとか日本にいるとか関係なくて。

 

(メモなので続く)