残響の足りない部屋

音楽旅行と模型人生と愚にもつかないジョーク

Feedback Guitar Noise Symphony is writting Daydream World Diary

この記事は、オルタナ音楽・ノベルゲーム感想ブログ「Nothing is difficult to those who have the will」管理人・カナリヤさんへの、以下の記事への返歌です。

 

mywaymylove00.hatenablog.com

 

●ノイズ音楽と筆者の履歴

わたくし(筆者)がノイズに意味を見出すようになったのはいつからだっただろう。ソニック・ユースのアルバム「デイドリーム・ネイション」を聞いた時か。ナイン・インチ・ネイルズの「ダウンワード・スパイラル」を聞いた時? それともピクシーズの「Vamos」のジョーイ・サンチャゴのチェーンソーギターノイズインプロを聞いた時か。
それらは自分が学生時代だったころ、音楽を聞き始めて半年で立て続けに起こったことなので、どのエピが最初かもう覚えていない。言えるのは、この時期に立て続けに「ノイズ音楽」を聴きまくったということ。
そのうちのひとつに、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインシューゲイザー・ノイズ音楽があった。

ところで、はじめ、自分にとってノイズを聞くことは、「先進的」な意味合いを持っていた。
なにせ、それまで聞いていたのが、ポップスやダンスミュージック(ユーロビートからトランスにシーンが移行しようとしている時分)ばかりを聞いていて、カナリヤさん曰くの「強度」の高い音楽ばかりを聴いていたのだ。この場合、強度とは、美メロとキャッチーなリフ、そして定型のリズムセクションだと、自分は解釈している。変拍子とかはないって話。

それらの音楽を、半ば決別(黒歴史)するような形で、ノイズ音楽表現を聞く事に行った。背伸びをしたかったのかもしれない。そういうお年頃であった。
しかし、背伸びだけで音楽趣味ってものは続くものでもない。自分が今に至るまでノイズ音楽を聞き続けているのは、この半年のうちに、ノイズの聞き方を会得したからだ。

ノイズは、ただのノイズではない。
そこには音楽的志向性の違いというものが歴然としてある。

疾走するノイズに、不思議な爽やかさを感じたり。切り裂くようなチェーンソーギターの唸りに、どんな流麗なギターソロよりも「英雄性」を感じたり。
やがてノイズに、世界そのものを見出すようになったり。

 

(完全な余談)

自分の家業は、職業柄、非常にノイズ(騒音)と共にある仕事であります。日がな、そのノイズがキツいなー、と思っていました。
たまたま、自分がソニック・ユースのアルバム「ソニック・ナース」のノイズ部を聞いていた時に、自分のマーマン(母君)が自室に入ってきて、

母「なにこれ」
残「音楽ですが」
母「どう聞いてもノイズなんですが」
残「音楽です」
母「これが大丈夫なら、仕事のノイズも音楽に聞こえるのでは?」

という問答がありました。
しかし違うのですよ。騒音のノイズと音楽のノイズは……w
閑話休題

 

●デイドリーム・ビリーバー

マイ・ブラッディ・ヴァレンタインをはじめとする「シューゲイザー」系のノイズ・ロック音楽。
シューゲイザーの沼に浸かった人間は、このノイズに美と意味を見出す。
しかしそれは言葉にし難い。あまりにもし難い。むしろ絵やCGにしてしまった方が、ノイズの意味を表現できるような気がする。

思うに、シューゲイザーはノイズで「世界」を表現しようとしている。それも、現実のリアルの引き写しでなく、現実から離陸する白昼夢の世界を。流行りの言葉でいう、異世界と言っても良い。
シューゲイザーの世界。それを現実逃避と言う向きもあるかもしれない。だがそれにしては、彼らがギターとエフェクターを使って極めて意識的に音を構築している様は、ほんとに「逃避」という言葉が似つかわしいのだろうか。
むしろ、彼らは現実から決断的に「離陸」しているのだ。リアりティでもってビートとリフを鳴らす音楽世界とは別のものを求めて。
そういう意味においていえば、カナリヤさんの友人氏の「BGM」というマイブラ評価は、ポジティヴに牽強付会すれば「この音楽は何かの世界を描いているようだ」という感想にもとれなくはないだろうか。

アンビエントというジャンルがある。静謐の中に世界を作る音楽。BGMという標語はこちらのジャンルに近い。
で、シューゲイザーアンビエントは非常に親近性のあるジャンルで、ほとんどノイズがやかましいか、やかましくないか、だけの違いかもしれない。
音楽要素の強度……メロディ、リフ、リズム。それの強度のみを追求する音楽とは、別の音がここにあることがわかる。
響き。揺れ。音のサラウンド。ざ……ざん……残響って言葉がありますけど、響きの残りし空間に、意味と美の存在を信じる音楽ジャンル(筆者は言ってて面はゆい)

つまり、シューゲイザーを聞くことは、音(響き)のただ中に居て、即ちその音の「世界」のただ中に居ることになる。
別に他の音楽でもそういう白昼夢トリップはしばしば起こることではあるけれど。とくにこの文章の筆者は、どんな音楽でもそのトリップを求めてるのだけど。しかしとりわけ、シューゲイザーアンビエントというジャンルは、そのトリップを意識的に行おうと企て、実行に移そうと強く考えている。

シューゲイザーは甘美なノイズで白昼夢トリップを。アンビエントは静謐の響きで異世界トリップを。
そしてここから、ドリームポップの話をする。

 

スピッツ、ドリームポップ、日記音楽

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シューゲイザーの祖先というか、どうしようもなく遺伝子要素として持っているのが、「ドリームポップ」である。ぶっちゃけ、シューゲイザーからノイズを抜かしたら、だいたいドリームポップになるんだと思う。

ドリームポップは音楽史のどの瞬間にも居た。ビートルズの昔から。あるいは一部のジャズもそう捉えることは可能だし、それより古い懐メロスタンダードナンバーだって。さらに遡って、クロード・ドビュッシーのように、西洋クラシック音楽の中にもドリーム・ポップ性を見出せる音楽はある。

白昼夢トリップを誘発するような音楽。甘いメロディ、揺れ揺れな音。しかしノイズや強靭なビートではない。ここではドリーム・ポップを簡単にそう定義する。

スピッツ
彼らは初期において「和製シューゲイザー」と呼ばれたことがあった。ネットでもそういう評価は見ることが出来る。
だが、マイブラほどの轟音ノイズの壁はない。「ライド歌謡」というスタンスを自覚的にとったこともある彼らだが、ライドほどもないのではないか。しかし以下の音源の「揺れ」っぷり、シューゲイザーを通過した耳で聞くと、結構また違って聞こえるものであって。

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それでも彼らの一部の曲(とくに初期。1st~3rd)に、シューゲイザー要素はやはり、ある。彼らの音楽がドリームポップであることは今さら言うまでもない。そしてもう一つ、シューゲイザーを使った「日記文学」的な音楽アプローチを彼らはたびたび見せる。


今世紀になって、DTM技術の進歩により、パソコンひとつあれば、個人が自室で多重録音をすることが可能になった。いわゆるベッドルーム・ミュージック、宅録だ。
そして全世界の一部の者たちが、ベッドルームの自室でシューゲイザーをやりはじめた。
自分のこころが見た心象風景を、ノイズに託して表現する、孤独なシューゲイザー。生活の中の色彩、大切なもの、光と影、屈託。そういったものを、ノイズで表現しようとしてみる。同時に(いわゆる)美しい音でも表現する。
その日記文学としての音楽といおうか。かつてのロック音楽のような、大きなスケールで世界に鳴り響け、じゃなく。自分の生活にそっと寄り添うような日記としてのシューゲイザー。そういうことをする音楽家たちがどんどん出てきた。「彼らのような日記音楽家」が紡ぐようなシューゲイザー、それはスピッツの音楽のようなものだ、と、強力な例示として、自分には思える。

シューゲイザーファンが全員ドリームポップファンになるとも限らないけれど、ことここに至ったら、ノイズすらまた絶対ではないのだ、とすら思ってしまう。ちょうどロック愛好家が、フォーク音楽に、何かを見出してしまったかのように。
……と、それはシューゲ話からズレてしまうからここで止めておきたい……けど……ごめんもうひとつ。
ノイズ沼は、ひょっとしたら「ノイズの強度」競争に行ってしまいがちである。でも、やっぱり自分はノイズを使った白昼夢トリップこそに意味があると、(自分にとって)思っています。

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●「さぁ、やっていこう」と思えた君の行く世界には、何一つ苦悩なんてありはしないだろう?(Nothing is difficult to those who have the will)

シューゲイザー
自分は、「時間性のない音楽」だと思う。世のトレンドとは全く無縁。白昼夢が世の流行とは全く無縁なのと同じ意味あいで。
自己の精神の深淵に入っていく日記文学が、本質的には世の流れといささか異なった所にあるのと同じように。

時間性がないだけに、誰もが通過する音楽でもない。だから、ある意味奇跡的なのだと思う。シューゲイザーとの出会いっていうのは。
……そう、誰もがノイズに意味を見出せるだけの耳を持ってはいない。偉そうな書き方になるが、仕方ない、しょうがない事実であり。


ところでこう思うのです。ノイズに意味を見出した者は、ノイズと仲良くなるべきなんだと。ノイズ強度競争でもなく。シューゲイザー古参ファン競争でもなく。
で、この文章の論理でいくと、ノイズと仲良くなるってことは、白昼夢世界と仲良くなるということで。そこは、我々もう出来てるからええねん。

 

要するに自分はカナリヤさんがまぶしいんだな。かつてTHE NOVEMBERSを上手く消化できなかったけれど、様々なものを通過され、こうして今再びTHE NOVEMBERSを聞いて、彼らや、シューゲイザーの豊穣なる世界に今まさにドップリ浸かってる、氏のこの瞬間が。だってそれこそが音楽の愉悦そのものじゃないですか。氏の前にはシューゲイザーが広がりすぎてる。

 

ノイズ(白昼夢世界)と仲良くなるってことで……日記文学としてのシューゲイザーやドリームポップを通過するってことを踏まえると、どこかで今の自分自身の生活を愛しく思えたら良いですよね、って思う。この世界にはいろんなノイズが満ちていて、それが世界の響きであるとも言える(全部じゃないけど)。
美や意味を見出すのは自分自身だって話です。萌えと同じように(強制される萌えは苦痛であります)。我々はシューゲイザーを奇跡的に見出したのだから、できない話じゃない。
色眼鏡、そうか、色眼鏡か、シューゲイザーの白昼夢は?
けれど、世界が色眼鏡で違った風に見えたら、それはとても良いことではないでしょうか。世界に意味を見出すっていうのはそういうことなんだと強く考える。