残響の足りない部屋

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芸術と他者と幸福について

●しあわせもの

「うわ……そうか……なるほど、こりゃないわ」
と、己の才能の無さを骨身に染みて納得してしまった一人の作り手が居たとします。

ところがそいつは、才能が無いのを主観的にも客観的にも痛感、そしてしかと認定してしまったのも関わらず、それでも未だに作品を続けてしまっているのです。その作品を、ただ作るのが好きだ、っていう純粋な精神だけがそこにある。

わたくし(この文章の筆者)は今になって、このような作り手が、(いわゆる)才能を超えた、本物の才能(?)を持っているのだと思うような芸術観を持つようになりました。これで良いのだと。芸術活動っていうのは、本質的にこれで良いのだ。

それでは価値なんてないし社会的意味もない、っていう指摘があるのももちろん存じています。そしてその価値観を否定もしません。ただ、わたくしにおいてのみ、「他者価値が幸福なのだ」価値観は、「not for me」な価値観である、とだけ言います。そこで話はおしまい。お互い頑張っていきましょう。

 

●才能と自然さと他者

上記で述べた「(いわゆる)才能」、っていうのは、他人に認められる、社会的・商業的価値のある「才能」です。
上記の作り手が「ないわ……おれ」と痛感した才能っていうのは、つまり「社会的にはレベルの低い作品しか作れない才能」っていうことです。

そして作り手が「それでも」と思うにいたった、あまりにも不屈すぎる精神、作品への動機。これが上では「本物の才能」と表現しましたが、これは、見方によっては単に「諦めない精神、豊富すぎるモチベーション」と言えるものかもしれません。

その見方に立てば、「才能」ってやつは、天与のセンスの部分に属するものである。モチベーションの多い少ない、持続力の長短は、所詮個人のエネルギーに属するものだろう、ってされます。そう、1年くらい前まで、自分もそう思っていました。

でも、今はこういう、あまりにも諦めない作り手の、他者の目線を排除した、己のうちをどこまでも追及していって、己が作り続けることが最大の報酬となっている自己完結型の作り手の在り方そのものを、自分は「真の才能」って呼びたいんです。あくまでfor meな定義であって、他のひとに強制するつもりもないです。説教だってしないです。

 

そういう在り方は、どうしたら至ることが出来るのだろうか? 自分のこの数年間は、「そういう在り方」をずっと追い求めての旅でした。いろんなものに手を出して、いろんな考え方に頭を染めて。続いたものもあり、三日坊主に終わったものもあり。これはつまり、幸福を求めての思索と試作の旅です。

なんとなく分かってきたというか……長い間棚上げにしてたものをもう一回掃除し直したというか。あるいは長い間放っておいたものだったのにも関わらず、まだ君は待っていてくれたのかい、っていう涙の抱きしめだったりして。そんな感覚を35歳の今味わっています。

 

誰にとってもそのまんま当てはまるわけではないですが、試してみる価値のあることとして、

・昔から何だかんだずーっとやってきている事。これを、一度落ち着き、整理し、精度を高めて丁寧にじっくりやってみる

・他人の評判はどうあれ、自分にとってすごく使いやすくて、今なお触っていて楽しい機材。これの使い方を完全にマスターしてみる。

 

つまり、自分にとっての自然さを大事にする。「無理をしない」ってことです。自分にとっては、模型やブロックで箱庭遊びをすることと、MTR(マルチ・トラック・レコーダー)で作曲をすることでした。

 

作曲の方を話してみますか。

自分は、ミックス(ミキシング)はともかく、ゼロから自作曲を作曲するとき、MTRを使います。パソコンとDAWソフト(音楽制作ソフト)を使っての作曲(MIDI作曲法)が今は一般的なのは重々承知です。自分のスタイルは15年ほど遅れていると思う。ただ、自分にはあまりにMTRが肌に合うのです。

MTRの良い所といったら、まず録音の音質が一気にダイレクトに上がるところ、フェーダーを使ってのマルチトラックの音量調整がとてもやりやすく、「音の重なり」としての曲構成が把握しやすい所、PC特有のデジタルノイズやデジタルシンセのレイテンシ(遅延)とは無縁のところ、あとスタンドアロンで動作するから安定していること、とかいろいろありますが。

zoomcorp.com

とくに自分はZOOMのR8という機種を愛用していまして。これは本当最高の機材なんですね、自分にとって。録音や内蔵エフェクトの操作はほとんど把握しているので、手足のように使えます。目を閉じても使えるかどうかはわからないけど、目を閉じて録音するシチュエーションには現在なっていないので、リアルにまじめに考えて、とにかく自分はこの機材の使い方に「fitしている」。機材が自分に合わせてくれてるのでなくて、自分が機材にfitしているw

ところで最近、自分の曲のドラムがイマイチだと自分で思っていたんですね。これまで、ほとんどドラム音源のPAD手打ちと、バケツをバスドラに見立ててボスボス原始人のように叩くやり方でドラムワークを録音していました。

しかし最近、ドラムマシンを使ってドラムを打ち込もうとしたのですね。このあたり、ここ15年くらいのトリックフィンガー名義のジョン・フルシアンテのエレクトロ音楽の作曲法を参考にしてるんですが。あまりドラムをナマっぽくバシバシやるよりも、もっとドラムマシンやシンセでビートを定型的に刻んで、グルーヴを「揺らす」のはベースやギター、キーボードでやっていこう、っていうアプローチ。ということで改めてドラムマシンのハードウェアでドラム打ち込みをやっていこうとしまして。

そこで気づいたのが、このZOOM R8には、ドラムマシンとPADサンプラーが内蔵されていて、自由にシーケンスを組んでドラム打ち込みが出来るのですね。これまで、この機能をまるで使ってこなかったのですが、いざそれを試してみたら、極めて自分のとってやりやすい!ああやっぱりR8最高や!って話なんですが、かなり機材オタトークになってきて、「才能」話からズレてきてるのでここで戻りますw

 

●「幸福に生きよ!」と言う以外どう言えばいいんでしょうね

つまり、すべからく芸術というものは、まずはじめに・かつ最終的に、作り手の幸福のためにあるべきものなんだ、っていうのが「自分の」考えです。

じゃあ受け手たる他者はどうすれば良いのか、っていうと、良いじゃんかあなた、作品に触れて良い気分になれたんだから、って話です。

イマイチな作品が自分を崇高な高みに昇らせてくれんかったからって、それはそのときあなたにとって「not for me」が発生しただけであるというか。

でも作り手の幸福のお裾分けをもらって、まずそこで良い感情が生まれたんなら、それなら「ありがとう」ですよ。その「ありがとう」を世間に表明するのも全然悪いことではないですが、それより前に、まず自分の生活を、その作品をずーっと思い返して、気分良くするってことが、「惚れたファン」のやるべきことなんですよ。そしてそれは、まっとうに人生を生きてる人たちは誰もがやっています。

わかりますよ。「救い」を求めたがるっていうのは。作品の崇高性とか絶対性ってやつ。そういう芸術上の神秘体験があったからこそ、今の自分自身がある。でもそれなら、やっぱり自分の生活の機嫌をとっていきたい。

少し話はズレるんですが、芸術作品を他人とのコミュニケーションのネタとして使うっていう考え方、これもわたくしにとって「not for me」なんですよね。まっこと嫌いといっても良い。最近、「鬼滅の刃」あるじゃないですか。あれが異様なヒットになっていて、鬼滅を見なければ(読まなければ)ダメだ、世間に取り残される、っていう風潮が一部であるらしいんです。極めてくだらないし、作品と作者にとって失礼すぎる話であります。「社交ネタ」として芸術を使うっていうの、わたくしまっこと嫌悪しているんです。「みんな見ているんだから君も見なくちゃダメだよ~」式の言葉って、最高にわったくし嫌いなんですよ。

受け手にとっての、「おれの芸術はおれのタイミングで読ませろ」、っていうのは正しい感情であると思います。おれの楽しみはおれの楽しみなんだ!!っていう。本当にその通りです。「おれの楽しみ」の中に、いくらか「社会の楽しみ」が数パーセント混じるのはやむを得ないとして、しかしおれの楽しみが「社会の楽しみ」に塗りつぶされることがあってたまるものか!断固としてわたくしはそれに抗っていたい所存です。なぜならば、自分は鬼滅の刃の原作を3巻まで読んで、「良い漫画だ」と思えたからです。自分は、社会の力なんぞで、自分にとっての「鬼滅の刃」を、嫌いになりたくない。鬼滅をめぐるこのうんざりする同一化風潮なんぞで、鬼滅の刃という優れた漫画を嫌いになりたくない。

 

そして話は一気に戻りますが、この受け手の「おれの楽しみはおれの楽しみなんだ!」っていうのが、作り手にとっても全部言えるんですよ。作り手は自分にとっての「価値」ってものの為に創作しています。その価値って何よ?っていうと、まぎれもなく「作っている時の楽しさ」と「作り終えた自分への拍手」ですよ。特に前者の「作っている時の楽しさ」っていうのは本当に楽しい。それも、自分にとってとても自然なテーマを、自然な手段で作っている時。わたくしは例えばブロックで箱庭を作ったり、MTRで音を重ねたりしている時です。これは自分にとって自然。

でも、ここで例えば「ブロックよりももっと精密なものを工作せねば社会から評価されないぞ!」とか「MIDIを使って完成度を高めなければ笑われるぞ!」みたいな他者妄想が入ってきたとします。もう基本的にはこういうの排除したいですね。自分ひとりでもこういった妄想のささやきが聞こえてくるのですから、他人が言うのはもっともっと排除に越したことはない、っていうね。

つまり、それくらい、わたくしも作り手として、ずいぶん劣化してしまったものです。子供のころから、あるいは作曲をはじめた頃から。つい他者というものを考えてしまう。そしていつしか他者の評価とか「いいね!」みたいな不純物を創作活動の中に入れてしまう。情けないですね。心が弱っているのでしょう。

だからやっぱり、日ごろの創作は何をさしおいても、「自分の機嫌をとる」ってことを第一にしたいんですよ。何かのハードルを設定するもの良いですが、それはあくまで、挑戦(と書いてチャレンジと読む)という清々しさを味わって機嫌をとる、ちょっとしたイベントのようなものですし。そしてその挑戦でも、やっぱり挑んで機嫌がよくなり、成功して機嫌がよくなり、失敗しても機嫌がよくなる、ってものじゃなくちゃダメです。

つまり創作、芸術を創作する、っていうのは、自分の機嫌をとるって行動なんです。それをずーっと続けられるシステムを、生活上でも、精神上でも、築き上げることが出来たしあわせもののことを、「才能」って呼ぶ。今の自分は、そう考えています。

じゃあ「社会的価値」に基づかざるを得ない作品の価値(勝ち)……芸術界におけるランク、商業における金銭価値、承認欲求と多くのファン、みたいな様々なファクターはどうなのよ、って話が当然出てくると思うんですが、「皆さんその話をしすぎだから今こんなことになってるんじゃないですか?」っていう話です。まず落ち着いて、自分の趣味の創作を存分にしてから、時間と精神の余裕があったらそういう話しませんかほんと(この文章は昼間、MTRでベースギター中心のリフを1個作って、部屋を掃除してから書いています)

 

だいたいこういうあたりで、自分は芸術とか、他者と承認欲求とか評価とか、っていう話題について、落ち着くことが出来たんです。考えて考えてやっとこれでした。長い助走・準備期間だったナーとは思います。もうちょっと短縮も出来たんじゃないか、って言われたら、ウーンごもっとも、もっと創作そのものをバッシバッシすべきだったー、っていうのはあります。じゃあそれはこれからバッシバッシやっていきますから、とお答えもします。

あ、芸術上は他者を無視れ、っていう自分の考えですが、これを実生活においても他者を無視りまくれ、っていう風に誤解されても困ります。はい。むしろ創作をしまくって、機嫌悪くなって、実生活でイヤな人間になって人を傷つけていたら、やっぱりその創作はなんか間違ってるんじゃないの?って思いはします。

機嫌良く生きて何が悪い?って話です。それが芸術上のヒリヒリさを減じさせているのだ!っていう批評家の言葉ですが、「あ、なんか猿が日本語らしき声を出してるね」と思っておけば良いんじゃないかと。ただ、「自分の機嫌の良さが、世界にあまねく通じていくのだ!」っていうのも頭がお花畑でありまして、こちらもこちらでやはり猿であります。自分は自分。他人は他人。そして自然は自然。花も木も自分のためには生きていません。そんな自分・他人・自然の相互孤絶状態という世界の真理を、寂しくてつらいと思うか、「へー、君も生きているんだ、なかなかおもろいやんけ」と思うかどうかは個人個人次第ですが。ただ、「面白み」を見出せて退屈しないのは、後者ですよね、って話です。多分話していないことあると思いますが、まあだいたいこの路線上の話です。また思いついたときに書きます。