残響の足りない部屋

音楽旅行と模型人生と愚にもつかないジョーク

自分の文章が反吐が出るほど嫌いだから、自分を変えていく

●自分の文章が嫌いだ

いつしか、自分の文章が好きになれなくなっていました。

それは何故か?と考えて、即座に理由として思いつくのが自身の「薄っぺらさ」でした。どうにも自分の書く文章に重みがないように思える。そして言葉を紡ぎ終わって感じるのが、自分の吐いた吐息の臭さ、自分の文章の醜悪さ、というのだから、なかなかこじれております。

当然、ここしばらく、文章を「書くこと」自体も好きになれなくなっていきました。それでもこの20年近くずっと文章を書いてきたのですから、それ相応に言葉を扱える……扱えて「しまう」のです。下手に口が回る。舌が回る。美辞麗句を自由に扱える。雅語もスラングも思いのまま。語彙だけはある。その果てにあるのが、自身の文章に対する嫌悪、っていうのだから救われません。

●考えてない

年末、以前より尊敬している、ある方とお話をしました。

その方を前にして改めて自分自身で感じたのが、わたしはその方に比べ、物事をきちんと考えてない、ということ。当然、たいして考えきってないまま文章を出力するから、文章が醜悪になるのだ、ということ。
思考の強度。その方が良い文章を書かれるのは、文章に対する誠実な思いあってのことですが、それ以前に「しっかり考えておられる」から、という当然の事実を、改めて思い知りました。


※上記のことは、その方に言われたことでは全くありません。
お話や、これまでの氏の文章や自分の文章を踏まえ、わたし自身が勝手に「自分で考え、納得し、結論した」ことです。

 

だいたい自分の文章は、仮説であったり、何かに対する賛歌であったり、自身を鼓舞するものが多いのです。
自身でしっかり考えて、実践で試し、その結果を報告する、という「ちゃんと思考したよ(過去形)」の過程を踏んでいない……あるいは、思考→実践の現実実際での過程をサボっている、というパターンが多い。空理空論とはこのことか。

どうすれば良いのか、っていうのも、もう上記で書いているようなもので。「ちゃんと考えて、丁寧に文章を書きなさい」ということです。あんまり思いつきとか、仮説とか、世間の話題に対するいっちょ噛みとか、絢爛豪華な言葉を用いた戯言とか……を、よしときなさい、という話で。

単純な話ですね。そして人間性の「重み」っていうのも、こういう「余計なことを言わない」「ちゃんと考え、丁寧に文章を書く」ってことから生まれるのも明白です。そしてそれは、ほとんど「生き方」と同じことなのです……。

自分は口、舌、言葉が、わりと良く回る人間です。軽薄ですね。軽薄だからこそ行くことの出来た場所、というのも確かにありました(経験)。でもそこでしっかりと留まって思考し続けなかったから、結局見えなかった地平、というのがあるのです!(真理)

●変えていくこと

この数年、自分の吐く言葉に嫌気がさして、いつしか「言葉は現実世界の全てではないッ」と、言語中心主義に対する嫌悪にまで行きついてしまいました。
何のことはない、自分が言葉でしっかり思考をしていなく、言葉を丁寧に紡いでいない、というだけの話でした。
別に自分の戯言が、至高の妙なる文章だ、ってわけじゃあるまいに……(当然

しかし、何かのヒント(ひとこと)があれば、自分は自分を愛せる人生になるはずだ……!っていう考えに憑りつかれていました。何かの一言があれば、そこから人生が良い方向に変わっていけるんだ……!と。

違う。自分自身で「変える」と努力することの方が大事で、言葉はたまたまそこにあるだけなんだ、と今はうっすら思っています。こんな自分じゃだめだ、と心を入れ替え、実際の世界で少しずつ手を動かし、少しずつ形にしていくことでしか、自分は変われない。

そうして努力していく過程において、初めて光を放つだろう言葉がある。そういう言葉を既に自分は蒐集しているのだけど、きっと「これから」光を放つ言葉が沢山あるはずなんだと。言語中心主義がダメとか言う前に、自分はまず努力をして、変えていって、そしてこれまでの言葉が放つ光をもう一度受け取る必要があるのだと思うのです。

 

とにかく今年は変えていきたいと思います。醜悪で軽薄な自分を変えていかねばならない。このまま死んでいっても別に良いのだけど、ここから生きていくのだったら、やっぱり変えていかないともったいないような気がする。