残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

ジャズマスターの妖しき美が喪われた世界で 〜追悼トム・ヴァーレイン

トム・ヴァーレインが死んだ。テレヴィジョンというニューヨークのパンクバンドのメインヴォーカル&リードギターの片割れである。

mikiki.tokyo.jp

バンドというものに通じている方ならこの表記の時点であれ?と思うだろう。ヴォーカルなのにリードギター

音楽史的にパンクバンドと書いたが、ヴァーレインの音楽は、スリーコードをかき鳴らすだけのパンクではない。彼の歌いながらのリフ弾きには常に知性があった。そしてそれ以上に、ヴァーレインがフェンダージャズマスターでギターソロを奏でるや否や、予測不能なフレージングが織りなすスリルとインテリジェンスと妖気が共存する音楽が生まれ出る。こちらにぐわっと現れるのだ。

テレヴィジョンの音楽は、右手(右脳)がヴァーレインのギター、左手(左脳)がリチャード・ロイドのギター、その絡み合いに他ならない。片方がリズムギターを刻み、もう片方がウワモノとしてリードギターを鳴らす、というのとは違う。2つのギターの旋律が有機的に絡み合っている。こういう事実ひとつ取るだけで、テレヴィジョンが、ヴァーレインが「NYパンク」と言われながら、その実いわゆる(ロンドンオリジナルパンク勢だのメロコアだのの)パンクロックとは全然違うことは感じ取れるかと。

 

知性と妖気。あるいは時代性を無視したところで、ひとり音響の中で美を見つめる詩人。それがトム・ヴァーレイン

2006年に同時発売された「アラウンド」(インストアルバム)と「Song and Other things」(歌ものアルバム)が遺作になろうとは。枯淡の境地、枯山水とも言える、クリーントーンギターの繊細でねじれたユーモアの音世界。そのモノクロの世界は聞いた当時ハードボイルドが過ぎるよ、と思ったものの、しかしいまも凄く記憶に残っていて、この2作、たまに聞き返す。

youtu.be

note.com

ヴァーレインの場合、なんというかファンボーイ的に熱心に「推し事」するのって、彼のファンっぽくないなって勝手に思うところがあります。ヴァーレインの知的な詩(ヴォーカル)を聞くこと、彼のジャズマスターから奏でられる予測不能な美を聞くこと。それは熱心に推すニュアンスとはちょっと違う。私残響のようにあほな自分であっても、知性のクールネスの官能性に触れ、静かに恍惚となる。聞いてる自分までもクールで居たいと願ってしまう。静かで居たい。そう思わせるのがテレヴィジョンの、ヴァーレインの美学だと思っているんですよ。

そういう文脈だと「追悼」というシチュエーションでヴァーレインを聞くのはあまりに変にハマりすぎていて逆に困る。実にイヤに困る。彼が世界に居なくなってしまったというこの静けき感覚。それはヴァーレインの音楽感覚とちょっと近いところにあることに気づいてイヤんなる。ヴァーレインは「死」を礼賛するような音楽を書いていたわけじゃないのにね。

youtu.be

テレヴィジョンの頃から、ヴァーレインはバンドサウンドで音楽をやっていたけれども、「いわゆるマッチョなロック・ダイナミズム」からは最大限距離をおいた音楽性だった。上記のようにヴァーレインの世界は、知性、狂気、静謐、音の絡み合い、官能性、といったものだからです。ロックのダイナミズムは「でっかくマッチョにやる」だけではない、と何も言わず音で示していた。2つのギターの絡み合いが、右のギターと左のギターとベースとドラムだけで成立する繊細で妖しいバンドサウンドが。詩人の世界が(ヴァーレイン、という名前はフランスの詩人・ヴェルレーヌからとっています)。

そうは言ってもヴァーレインがソロ作になっても名リフを作ることの出来るソングライターであったのも事実で。ただしそのリフにも当然のように妖気が漂っている。時に妖刀のように。血が滴っているかのように。あるいは夜中のガス燈のように。孤独な精神そのもののように。

youtu.be

この10年くらいしばらくのヴァーレインは、盟友パティ・スミスのステージでのサポートギターとして活躍していたと聞くくらいで、積極的に音源を出しまくっている、ということもなく。でもきっとどこかでジャズマスターを美しく鳴らしているんだろうな、と私は勝手に夢想していました。そういう風に安心していたのかもしれない。だから今回の訃報は寝耳に水だった。

 

この世界に彼のような音楽家が居るという、きちんとした重みがあった。ヴァーレインのギターに惚れた人間は誰も彼のギターを忘れることが出来ない。彼の音楽は、時代性を横見しながらどこかに進歩するというものではない。隠者とまでは言い過ぎだけど。どこかで彼は生きている、美しく在るのだろうな、と思えるようなミュージシャンだった。

フェンダージャズマスターのことを語るとき、田渕ひさ子やJ・マスキスやサーストン・ムーアやリー・ラナルドやケヴィン・シールズの他にも、私は絶対にヴァーレインの音に言及したくなる。あのクリーントーンのリフの妖しさ、予測不能リードギターの何という知的な面白さ! 世界にはこんな音楽があるんだよ、こんな美学を持ったミュージシャンが居るんだよ、ということが一介のファンであるだけの私ですら誇らしかった。でも、世界はそんな風にジャズマスターを弾く人を失った。ジャズマスターを持っている人は、よかったらヴァーレインの音楽を聞いてみてほしいのです。彼は本当に美しくジャズマスターを鳴らすギタリストだったんだ。