残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

私はオタク(物語エリート)じゃなかった

こういう吐露はあまり良くないのかもしれない、と思いながらも…。愚痴です。

 

もう私はオタクという人種ではないのかもしれない。そう思う最大の理由が「自分には物語というものが向いていないのではないか」と思ってしまったということで。

 

オタクとは何ぞやという定義は、ここでは「次々に物語を摂取出来る人」=「物語エリート」だ、とする。
持論の展開がどうとか、二次創作が出来るとかはまず置いておいて、そもそもの素質素養として「物語エリート」だと。

 

この10年ばかり、私の物語摂取スピードはどんどん遅くなっていっている。ラノベなら早く読めるだろう、という話ではない。ラノベこそ最も時間がかかる。

元来私は小説のテキストを脳内で完全にビジュアライズして読むタイプの人間だ。初めて小説を読んだ時以来、物語を脳内で映像化する以外の読み方を知らない(ほとんど脳内で一本の映画を撮る感じ)。なので、キャラのビジュアルをや動き、舞台背景を想起する必要のあるラノベなどの物語を読もうとするのがしんどい。

なら、いっそキャラのビジュアルや動きや情景のない会話劇ならどうか? 今度は「人間模様にイヤになる」というのだから、今回のこの話はひどい。

 

 

正直に言って「物語に脳を専有されたくない」という気持ちがある。物語に心を動かされたくない。

前に、物語作劇上の「トンネル」がしんどいという方の意見があった。「トンネル」とは、作劇カタルシスのための陰鬱なパート、読者がストレスを抱えるパート、あるいは「うわぁいたたまれない」という共感性羞恥を抱えてしまうパート、のことだという。これが今の私はとても良く分かる。

 

そもそもこれだけ物語を咀嚼しづらい人間なのだ。どうして世のオタクたちは次々に小説やゲームをそんなに早く読んでいけるのだろう、と常々思っていた。彼らは次々に物語を読めるのだ…。咀嚼出来るのだ。そしてご自身の栄養にしていける。素晴らしいと思う。
私はエリートではなかった。
そんなはずはない、と自分で思い込んでいた。自分はいろんな物語の類型や設定を知っているではないか。
でも、やっぱりエリートではなかった。だって物語を次々読んでいけないのだから。

 

さらに。私は創作で模型や音楽や漫画をやっている。以前は小説もやっていた。そして今、自分で「物語を紡ぐ」ことに「向いてなさ」を感じている。小説や漫画で、良い情景やキャラのかけあいのジョークは浮かぶ。しかし、そこにたどり着くまでの「物語のつじつま合わせ」をするのが拷問に近いほど苦痛だ。漫画のネームも得意ではない。思いついたシーンをバシッと描いて、それでヨシにはならないものか…とずーっと前から思っている。でもそれでは「物語」にならんのだ。

 

「物語」が悪いのではない。自分が物語エリート、オタクでないからいけないのだ。オタクの皆さんと同じようなペース・やり方で物語と向き合おうとするから疲弊するのだ。私は物語エリートではない。ただそれだけの話だと思う。前に、「1年でゴブリンスレイヤーの新刊を読むだけで、その年の私の小説量はいっぱいいっぱいになってしまう」と書いたが、これは本当なのだ。

 

どうすれば良いのだろう。「もっと適当に小説を読みなよ」とアドバイスをもらったことがある。私も一応速読の技術は持っている。それで適当に内容をスキャニングして、自分にフィットする物語を選び、ゆっくり自分のペースで物語を読んでいけば良い。そのとおりだ。
そして物語を読むことは義務ではないのだから、読みたくない時は読まなければ良い。そうだ…。

 

でも、私は、一応自分のことをオタクだと思っていたのですよ。

それがこの37歳になって「自分は物語が向いていなかった」という結論を突きつけられるのは、精神的にちょっときつい。アイデンティティクライシスと言ってもよい。もっと前に気づいていれば、という「たられば」が浮かぶ。そんな事を言ってもしょうがないだろう、ああ情けない。

そんなことにも気づかずに、オタク界隈に居続けて。それはオタクの皆さんにとっても迷惑であっただろう。

 

どうすれば良いのだろう。これから。草葉を自然観察、道路のアスファルト路上観察、とか。音楽を聞くとか。下手なりに模型を作るか。うーん。

 

創作の方のダメージが結構深刻だ。いろんな沢山の物語を書きたかったのだが、それだったらすでに書けているはずなんだよね、物語。

 

残念ですよ。物語を読む方々は楽しそうだ。そんなこんなもあって、最近ちょっと気分が暗かったのですね。