残響の足りない部屋

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男性プレイヤーは百合の主人公を「やりやすい」か?

考えさせられました。

●質問回答こーなー

以前の記事……「男性は百合キャラに感情移入・投影・没入できない。男だから」というぼくの記事に、コメントいただきました。
曰く、ちょっとした違和感的異論、ということなのですが、その方曰く、

 

「自分は昔『思い出のマーニー』を読んだけど、自分はアンナ(主人公の少女)になりきって読めた」

 

という実例をこめて、です。自分とにているキャラには、性別関係なくのめりこめる、と。

 

「マーニー」という「アンタわかってるネエ!」とこのコメ主さんとシェイクハンドをかましたい今日このごろですが、さて、では、この「百合男子の実感」について、今回は詳しく見ていきましょう。
 

 

●百合没入と、主人公のキャラ性

 

男がすなる百合は基本無理で、観測になる。
女がすなる百合は可能で、実感になる。

 

……まあ、確かにこの図式に問題がある、といえるのかもです。
ぼくはより正確には、
「ぼくらのような屈託ある男や女がすなる百合は、没入無理だから、観測になる」
というふうに、「ぼくらのような」と限定して語ったほうがよかったかもしれない。

 

ただ、コメ主さんも仰っているのですが、「男は観測にならざるを得ない」ということを言うひとは、やっぱりそれなりにいるのです。ぼくもよく聞きました。

 

では、このテーゼにどれだけの妥当性があるか?

 

ここで、図式を整理するために、このようにしてみましょう。

 

プレイヤー →主人公 →ヒロイン

 

一般的な「物語受容」「物語ゲームプレイ」の図式ですね。なにを今更。
でも、ここにおいて……図式こそ変わらないものの、「各要素における情報量・傾向」は、
男性プレイヤー、女性プレイヤー、男性(エロゲ)主人公、女性(百合ゲー)主人公、というそれぞれの要素で、微妙に異なっている。今日はこの点の指摘です。

 

はじめに、エロゲの場合、

 

プレイヤー→男主人公(無色)→ヒロイン

 

であることは、だいたいの通念となっております。この場合の主人公無色性は、男が、ヒロインに恋し、没入し、えっちするための「感情移入」です。

 

対し、百合ゲーの場合、「没入」と「観測」で実はふたつに分かれるのです。

 

(1)乙女ゲー没入図式:プレイヤー →主人公(色あり) →ヒロイン
 
(2)百合ゲー観測図式:プレイヤー(強) →主人公(ヒロイン1)←→ヒロイン(ヒロイン2)←プレイヤー(弱)

 

(1)は対してエロゲ図式と変わりませんが、しかし後述するように、主人公の情報量は多い。「個性の強いエロゲ主人公」は、こっちのパターンにいずれなっていく。
本論では(2)を主にとりあげますが、その前に、コメ主さんの質問からはずれないようにしましょう。
すなわち、「男は百合主人公に没入できないのか」です。

 


●色のついてない主人公、ついてる主人公

 

エロゲの主人公には「色」がついていません。「積極的に個性をつけていかない」ということです。
「ついてる主人公もいる!」もちろんです。ですが、そっちの話をしていくと話が膨大になりますので。一般論で失礼。それに、「色ついてる主人公」は、ぼくの見立てでは必然的に、ある程度は「百合観測」に近いメソッドになっていく、とも思えてくるのです。

 

さて。
エロゲ主人公には色がついてません。これは先にも述べたように、没入の仕掛けです。スムーズな没入の。

 

言い換えれば、それは空想を助けるため、情報量が少ない。「余白」が多い人物像です。余白多すぎるともいえる。

 

対し、百合ゲー主人公には、けっこうそれなりに色がついているのです。
彼女らの情報量は、エロゲ主人公の一般像に比べて、圧倒的に多い。第一、エロゲ主人公の名前を忘れることあっても、百合ゲー主人公の名前を忘れることはあるでしょうか?
そして、余白が少ない。かなり、決め打ちした情報性を持っている。彼女らは。

 

さて、一気に論を飛躍さしますが、つまり、余白/情報量とは、「カップリングの関係性の材料である」ということです。
ほとんど言い換えが必要か?というようなもんですが。とにかく、カップリングは、主人公(女子)と、相手ヒロインが、それぞれの情報を持ち寄って、それぞれの余白を埋めていく、というものです。

 


●なりきりの「難しさ」「やりやすさ」

 

話をさらに、もとのコメ主さんの指摘に戻します。

 

「自分は女性主人公にもなりきれる」
という主旨ですが、やはりこれは、ひとつにはコメ主さんの想像力の豊かさに起因しているでしょう。
ただ、百合ゲーの図式……百合主人公の図式というのは、「たんに没入すればいい」というものではないのです。没入しつつも、どこかで俯瞰する必要がある。それがカップリングの原則なのです。

 

百合とは、関係性のダイナミクス(力学)です
ひとつの関係性の揺り動かしであり、リバーシブルの可能性であり、攻がどれだけ攻めて、受がどれだけ魅力的な言葉を放つか、です。
いわばそれは、ベクトル(方向性)がある程度限定された関係性物語といえるでしょう。

 

対し、エロゲの場合は、ここまで考えてない……というか、考えてない、というより、もっと「自由」です。
主人公=プレイヤー、は、作中において自分自身でいられる(原理的には。それが達成できてないゲームも多いですが)のですし、自分と主人公キャラを同一化さして、ヒロインにアタックしていき、恋をしていく。
その際……まあヒロインのキャラ性にだいぶ左右されるといっても、関係性を結構自由に動かせます。少なくとも百合のように、攻×受なんて枠に従わなくていい。

 

いわば真の意味でプレイアブル。そして……百合ゲーは、そこまでプレイアブルになれないのです。

 

百合主人公は、ひとりの人格、として求められます。
対し、エロゲ主人公を、ひとりの人格として求めまくる!というひとは……オタクのなかでも半分切るのではないでしょうか?

 

さて、「男性が女性百合主人公になりきれる」か。
想像の翼ひとつあれば、なれますさ。

 

ただ、百合側の主人公造形は、「なりやすさ」をどこか邪魔する。
というか「別にならなくてもいいですよ」と。一体化しなくていいですよ。と。
「観測してればいいんですよ」
とする、図式・情報構図の力学が働いている。

 

そもそも、ストーリー開始の時点で……というか、HPに情報が開示された時点で、百合キャラは「描きこまれた」存在です。情報は多く、余白は少ない。

 

もちろん、そのような主人公に没入できるひともいるでしょう。ただそれも、「キャラが合えば」の話であり、ここまで書き込まれたキャラに対して、万人がすんなり没入できるかどうか、というのはまた別問題です。

 

よってぼくの側からの結論は、
百合主人公は、実は簡単には感情移入・没入できにくい構造を持っている
ということで、「出来なくはないが、ちょっと努力がいる」「想像力のないひとは、自然と観測にいってしまう。観測のほうで想像力をつかってまう」ということです。
今回の記事は、ひとえに没入の「やりやすさ/やりにくさ」について語りました。

 

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