残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

書店・句読点「Only Reading Club(純粋読書会)」に参加、東南アジア諸語の話

私はシマーネ農業王国という地に住んでいます。近隣の大きな町は出雲市なのですが、出雲市駅前の商店街に「句読点」という本屋さんがあります。

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人文系の新刊と古本を扱う、とても雰囲気の良い書店です。私は、句読点がこの商店街に店舗を構えたはじめの頃から通うようになりました。もう数年になりますね。

人文学…つまり文学、歴史、哲学、文化人類学、美術、暮らし、などなど…といった良書を取り扱っています。ちなみに、実は私が描いた漫画同人誌もお店のZINEコーナーに置かせて頂いています。いつも有難うございます。

redselrla.com

句読点は、店長さんと副店長さんの二人で経営されている個人商店(独立系書店)です。お二人は、「生活者」としての視点を常に忘れない読書家です。書店経営だけでなく、お店で積極的に様々なイベントを開催されています。

 

本日3/17(日)、句読点で、「Only Reading Club(純粋読書会)」が開催され、私も参加しました。ORCとは、下記のような内容です。

参加者の皆様は、おのおの本を持ち寄って、黙々と1時間30分読書。終わったら、本・読書生活をテーマにした座談会が開催されます。希望者は、副店長さんが拵える軽食を食べることが出来ます。(句読点は奥のスペースで小さなカフェもやっています)

 

私は本日、趣味である外国語関連の本を持っていきました。フィリピノの教科書、マレーシア語の教科書、インドネシア語の教科書。それから東南アジア九か国の単語帳、そして家族がどっかのスーパーで買ってきたマレーシア産のクッキーの箱です。最後本じゃないやん。否っ、この箱には英語・マレーシア語(アルファベット表記&アラビア文字表記)、フランス語が併記されている、「生きた言葉」そのものです。まぁでもこれはあくまで資料であって、基本はやっぱり本です。

今回私は、ちょっと私的に学習の進みが遅いフィリピノ語をなんとかすべく、近隣・東南アジアの国々の言葉を学んでみよう、という趣旨で、マレーシア語&インドネシア語の教科書を持っていきました。いわば「ことばの東南アジア旅行」をしてみよう、という話です。

 

どうにもフィリピノ語、文法がめっちゃ難しいのですのよね…。語の活用が千変万化って感じ。語尾が変化するだけならまだしも、語頭も変化するし、語の中間部に入り込むっていうのも当たり前のようにあるし。人称も代名詞も、距離感と「私が話題の中のメンバーか否か」によって変わってくるし。語順もVSO(動詞→主語→目的語)という、ヨーロッパ系言語からしたら「What's!?」ってなものですし。このあたり、「やや能格構造に似ている」と表現されているのを読んで「ああなるほどなぁ、上手いこと言う!」と思いましたが、これ「グルジア語とかの、難しいことで知られる言語構造に似ている」って言ってるのとほぼ変わりはありませんからねギャフン。

そんなわけで、どうにも感覚が掴めないフィリピノ語(タガログ語)でして、ヒントを近隣諸国の言葉、マレーシア語やインドネシア語に求めて、本日ORCに臨んだわけです。

 

で、結局ヒントは得られたのか?
ええとまず、マレーシア語とインドネシア語は、かなり近い言葉です。少なくとも私はそのように感じました。語彙はもちろんところどころ異なりますが、語彙や表現で「同じの」を使える所は多い。

今回、どちらかと言うとマレーシア語を中心に勉強したので、そこからインドネシア語を眺めると、単語を重ねたりして表現するところとか、単語の中にいろんな言葉が「混じって」くるところとか、確かに島(地理)がフィリピンに近いだけあって、インドネシア語の方がほんの少し…ほんの少しだけフィリピノ語に参考にできるとこがあるのかなぁ?って思うくらいでした。

でも、文法構造的に言ったら、マレー語(マレーシア語、インドネシア語)とフィリピノ語(タガログ語)は全然違う! それが今回の「ことばの東南アジア旅行」で確実に知れたことです。文法学習においてのヒントはあんまり得られない。今回マレー語に親しむことは出来たのですが、フィリピノ語は依然として難しい。語順構造や、語の活用の仕方が全然違う以上、多少共通している語彙があったとしても、だからといって楽にはならないなぁ、と。

つまりフィリピノ語で私が難しいと感じたのは、日本語でいうところの「てにをは」なんです。語を繋いだり、主語述語を表現&定義したりする、あのおなじみの「てにをは」。マレー語の方にヒントがあるか、という私の目論見はここで外れたわけです。マレー語の方は、フィリピノ語的な千変万化の「てにをは」はない(もちろんマレー語独自の「てにをは」はあるのだ、というのは当然ですが、それでもフィリピノ語的ではない、ということです)。

結局、基本的なフィリピノ語の語彙をまず大量に頭にぶちこんで暗記してから、「てにをは」に挑めってな話ですな〜。これは日本語学習においても全く同じで、海外の日本語学習者に「最初に「てにをは」を学びなさい」って学習法を教えるのがナンセンスなのは誰だってわかるじゃないですか。でも今回、私はその愚をおかしてしまいました。賢しらなショートカットなんてない、って話ですね〜。頑張りましょう。

それより今回よかったのは、マレーシア語、インドネシア語を楽しく学べたことですね。語を後ろから形容していく表現方法のような文法の個性や、音の魅力といったマレー語独自の面白さ。そしてマレーシアやインドネシアにある仏教やイスラームやインドの影響など、混合海洋国家としてのマレーシアやインドネシアを知り、少しは東南アジア諸国についての知識も増えました。よかったですね。

 

 

……っと、ORCの話からだいぶ逸れました。失礼しました。そんな風にORCの1時間30分を、東南アジアのことばの学習で読書をし、終わった後の座談会で皆さんの読書トークに参加させて頂きました。

文化人類学、松村圭一郎、平野啓一郎、森田真生(数学者)、原田マハ、シベリア抑留の体験記、須賀敦子「コルシア書店の仲間たち」……様々に話題が出て、話題が関連しあって。まるで星座を編むような「読書を語る」楽しみを味わうことが出来ました。

また今回参加者の中に、「今まで読書が苦手だったけれど、これからもっと読書をしていきたい」と語る方がいらっしゃいました。
本当になんと素晴らしいことだろう、と私は思いました。その方に対して私は例によって口下手でうまく語れなかったのですが、せめて「これから楽しいことがいっぱいありますよ!」って事はもっと伝えてもよかった…といま反省しています。本の楽しみ方も、本の内容も、著者の人たちも…書物の世界というものは本当に膨大なのですから。自由に楽しんでいってほしい。そう願うばかりですし、そのことをもっと熱く語りたかった。

 

でも、改めて思います。句読点さんはお店を営むことで、こういう「本を読みたい!」という方の熱い思いに応えているわけです。句読点に来て、新しい本を知ることが出来た。だから私達は通うし、書店を信頼する。

句読点のお二人が持つ、書物、そして「知」に対する尊敬と信頼……それを少しでも世界に広げていきたい。押し付けることなく……、という意志を、私は店長さん、副店長さんから感じています。

これからも句読点のお二人には、頑張っていってほしいと思います。本日のORC、店長さん、副店長さん、参加者の皆様、有難うございました。また参加したく思います。よろしくお願いします。

ダイエット日記 2024年0313

過去一番の肥満

先日、家族M氏が私の姿を写した写真を見せてくれました。たまに家族M氏と外出する時、家族M氏は「せっかくだから記念に…」という感じで私の姿の写真をスマートフォンで撮ります。その写真を数年分見せてもらったのですね。

そしたらなんてこったい、私は今が確実に一番太っているのですね。でっぷり。

私の自己認識としては、この数年体重は増えはしないものの、とりたてて減ってもいない……つまり確実に痩せてない、と認識していました。
それでも…徐々に悪化はしているけれど、基本現状維持なのかなぁ…と思っていたのです。

ところが、数年前の写真を見たら、確実に私は今より痩せていました! 数年前も、自己認識は「太っているなぁ、不健康だなぁ」でした。実際そのようにこのブログで日記を書いています。↓

闇の色は脂肪の白さ --仕事に忙殺される日常、スマホ電子書籍依存、生活メンテナンス - 残響の足りない部屋

えーっ、では2024年の現在はこの頃(2020年)より格段に酷く太っている話ではございませんか。2020年の当時でさえ腰痛ピリピリが目立っていました。この4年、私は何も身体が向上・改善されなかったのかい、って話です。そんなあ。

家族はスマホで、約半年ごとの私の姿の写真をサササーッとスライドして見せてくれました。ここで「変化」を見ました。確かに今より痩せている。そして毎年少しずつ太っていってる。そして最後に、一番古い写真と、2024年令和6年辰年3月の今を見比べてみます。

 

わぁ!(すごい驚き) 普通に、肉が蓄積されたな! 中年!

 

未来の苦しさと痛み

よーし、よくわかりました。これはまずい。

自分の姿が太って醜くなった、というのも良くない知らせですが、それ以上に「このままいったら、普通に苦しく&痛くなっていくんだろうな、体…」って思いました。もともと私は神経&精神に持病を抱えています。それの対応も当然しなくてはなりませんが、それと同時に、この不摂生(肥満)状況のままだと、これから生活習慣病を筆頭に、どんどん「苦しい&痛い」状況になります。
具体的には、痛風、腰痛、ぎっくり腰、脳梗塞、尿路結石…山程あるなぁ。というか、今まさに現在、虫歯の治療中ですし…(そこからかよ)

これはまずい。
神経&精神の持病は、なんとか飼いならすというか、お付き合いしていく術を長年かけて身につけてきました。これは、適切な服薬治療を重ねていけば共存は出来ます。

しかし不摂生(肥満)による「苦しみ&痛み」の到来はまずい。どう考えても、絶対に上記のどれかがやってくる。全部やってくるかもしれない。というかやってこない方が不思議であります。それにパッと思いついていないだけで、生活習慣病・肥満由来の病気はまだまだありますぞ。

何度か、この日記で「今が不健康の底値」と書いてきましたが、本当に底値が見えつつある…。少なくとも血圧は主治医氏から「今なら引き返せます」と言われています。ギリギリで血圧の薬は飲んでいません。でもギリギリって状況じゃねぇ。

まずい。本当にまずい。今は歯痛だけで済んでいるのが幸運だと思いましょう。
そんなわけで、このブログではこれまで模型や音楽の話をしてきましたが、これからはダイエットや健康の話題もしていくと思います。使えるものはなんでも使うのだ。2009年からやってきたこのブログですが、こういう路線になっていくとは予想していなかったですね。ていうか私も順調に典型的な中年男性になってきた、って話です。ーーおめでとうございます!人生の新たな展開です!

 

2023年のダイエット日記

日記06/18 多忙感と体力不足 - 残響の足りない部屋

日記0701 ダイエット、血液検査、呼吸がむずかしい - 残響の足りない部屋

 

 

2023年に良く聞いていた音楽(3)

だいぶ間が空いてしまいました。申し訳のないことです。

このブログの筆者が2023年に愛好していた音楽の記事です。今回がそのシリーズ最後の回です。

modernclothes24music.hatenablog.com

modernclothes24music.hatenablog.com

 

選考基準は例年と同じく

発売年度を考慮せず、【自分が去年よく聞いていた】という縛り

ですが、記事に入る前に、ついさっき(2024/03/05)ヨルシカの新曲「晴る」のMVが出まして、これにとても心打たれたので、ちょっとだけ書きます。

 

反戦歌、平和への祈りとしてのヨルシカ「晴る」MVについて


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この曲はアニメ「葬送のフリーレン」第2クールのオープニング曲です。「葬送のフリーレン」はとても静謐で情感のあるファンタジー作品でして、私も原作漫画1巻が出た時から愛読しておりました。ヨルシカがOP曲を書いて、その似つかわしさに良かったと思いました。

そしてこのMVは、アニメとは関係がなく、ヨルシカの「映像作品」としての発表です。ヨルシカはシングルカットされた曲はすべてMVを出していて、いずれも「物凄く」力の入った映像作品です。その意気は確実にn-buna氏の「映像へのこだわり」によります。

cgworld.jp

そして本作「晴る」MV。

そうか、n-buna氏、本曲を「反戦歌」としましたか。

少年、今は亡き父親(「幽霊」と書いただけでもうヨルシカ世界の住人ですね)、軍用機、破壊された思い出の町、汚れた服、手紙と喪失、墓と芽吹き……「嘆き」、そして「壁」……ラストのsuis氏のアカペラ、「遠くまで遠くまで」と壁の上を飛びゆく鳥。

朗らかな曲調で、一個も歌詞では戦争について語っていません。MVも隠喩の数々です。でも今列挙しただけでも、この2024年の戦火に、思い当たるところが多すぎます。

私はこのMVに感化され「うおぉぉおお反戦反戦!」て言うつもりはないです。文字にして改めて思いましたがちょっと馬鹿っぽすぎるじゃないですか…ヨルシカファンを名乗れないぞ。「晴る」は素直に良い歌で、n-buna氏もこの曲に政治性を絡ませまくるのを意図しているわけではないはず。

それでも私はn-buna氏がこの曲に「反戦歌」そして「平和」への意志という側面を持たせたことに、じんと胸打たれるものがあります。

音楽と、社会派・政治性が一緒になってがなりたてる事は、時に意味がありますが、時に正直「勘弁してくれ」と思うこともあります。そのあたり、前にも書きました。「私は」、音楽と政治を結びつけることは基本的に良いことだっ!…ってなかなか思えない人間なのです。(私は、ね。他の人のことは知らないのです。ご自由に)

modernclothes24music.hatenablog.com

それでも私は、今回のn-buna氏が「晴る」MVで提示した「反戦歌」という側面を支持します。

ヨルシカファンとして言えば、n-buna氏という作家は「考えすぎてしまう」男です。芸術至上主義のスタンスをとる氏ですが、自身(ヨルシカ)が「どう見えるか」というのを精密に考えることも出来てしまうクレバーさを持っています。だから、n-buna氏は今回のMVを作る際に相当考えたと思うのです。それも、自己批判的に。

「それでも」と。n-buna氏がいろんな思考や自己批判にぐっと堪え、それでも、とこのコンセプトで世に放ったことを、私は支持したいです。

この現実世界には確かに希望が足りない。でもこうやって意志を形にして作ることも出来る。鳥が飛んでいくように。

反戦歌についてはZAZEN BOYSの項でも書きます。

 

人間椅子「色即是空


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本作、サウンドが実に重い…!どのリフもメロディも、重く、そして切れ味鋭い。歌詞も文学的・哲学的で、人間の生き死にを真っ向から見つめます。

人間椅子の歌詞は、ただ狂気と猟奇でデカダンスの愉悦に浸るだけではなく(それはそれで素晴らしい)、もはや「生きた説法」と言うべき刺さり方をします。「三途の川」の時もそうでしたが、人間の生き死にを見つめ、「それでも!」と強い励ましを与える歌を歌います。それが彼らのハードロック、プログレッシブロックです。

ラストの曲「死出の旅路の物語」が特に好き。勇壮なメロディーとリフ。直線的に疾走していく曲ですが、世界観は新約聖書ヨハネ黙示録を引用しつつの「死」を見据えるものです。そのようにハード極まりないですが、曲としての説得力が凄い。

アメリカ民謡研究会「戻れ戻れもどれもどれも」


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トランシーなシンセサイザーサウンドに乗せて、詩の世界が虚空の天球に響く!

私が去年聞いた曲の中で、ベストです。こういう音の世界にずっと居たい、世界にすうーっと吸い込まれたい。手が届かない、とか、もう戻れない、というように感じさせる切望のエモーショナル。

上海アリス幻樂団 東方獣王園BGM「タイニーシャングリラ」


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東方project新作のBGMです。この二十年来、私は東方=上海アリス幻樂団=ZUN氏が世界一好きな作曲家なので、今作も楽しみにしていました。ゲームをプレイし、音楽を聞かない話がないのです。

一番好きだったのがこの曲。胡弓のシンセ音源をZUN氏が導入し、それが世界観的にすごく良い仕事をしています。この音あっての東洋神仙中華幻想ですよ!疾走感あるトラックに、美しく、悠々とたゆたう胡弓シンセ。やはり良い…。ZUN氏が影響を受けている東儀秀樹、そして東洋ニューエイジ音楽を思い出したりもします。

ZUN氏が同時代を生きる作曲家として今も活動を続けていらっしゃることがどれだけありがたく、嬉しいことか。これからも楽しみにしています。

MONO「FENDER SESSIONS」のライヴ演奏


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昨年の年末に聞きました。このシリアスな音響、ノイズ、世界観、ギターノイズシンフォニー……素晴らしいです。私のシューゲイザー観、ポストロック観、シリアス音響観はやはりこういうサウンドだよなぁ、と、原点をビシビシ感じさせてくれました。このギターノイズと空間音響をずっと聞いていたいです。これがオルタナティヴロックです!

 

なみぐる feet.ずんだもん「ずんだパーリナイ」「ずんだシェイキング」


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MONOの次とは思えない選曲ですがw しかし私は聞き逃しません、この作曲者・なみぐる氏、絶対ブラックミュージック好きですよね。曲調に、どうしようもなくファンキーさがあります。それはずんだもん(合成音声、キャラ)のファンキーさだけでなく、音にR&Bが、ディスコが、ファンクが刻印されています。リズムアレンジにJB(ジェームズ・ブラウン)のライヴ演奏の疾走する「血」を感じさせますね。第一歌詞でアート・ブレイキーとか言ってる時点で以下略。

Где Фантом?「Это так архаично」


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2019年より活動している、ロシアのポストパンクバンド。最初、例によってSovietWave的に聞いていましたが、だんだん「もうこれ現代ロシアン・ドゥーム・ポップだな」と思うようになりました。

なんてったって、バックトラック(オケ、演奏)がポストパンク的に軽快なのに、ヴォーカルが暗すぎる。イアン・カーティスジョイ・ディヴィジョン)の数割増しで暗い。最初聞いた時「なんでこんな暗いんだ」と思いましたし、実は今聞いても「なんでこんな暗いんだ」って思います。

しかし音楽って面白いもので、その暗さ、ミスマッチさがクセになるんですねぇ〜。この演奏とvoの調和が、このバンド独自の個性と考えるようになってきました。独特の世界観があります。そしてなんといっても、「異国」の感じが、味がします。ロシア、ユーラシア大陸の味というか。これはこの地域の音楽にしか出せない味です。

 

ZAZEN BOYS「永遠少女」


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ヨルシカのところで予告しましたが、これも反戦歌です。人間に歴史あり、って良く言われるけれど…時に、人は歴史の中に呑まれちまっている。どうしようもなく、歴史がもたらすブルースを、引き継いでしまっている。でも、苦悩をどこまでも引きずっていくだけが永遠じゃないはずだ、とこの曲は歌います。

向井秀徳は、この曲が収録されている新作アルバム「らんど」で、歴史を継承している「人」を見据えるようになったのだな、と思いました。これまで少女や冷凍都市の中に、憧憬や皮肉や、一瞬のキラメキや狂気を見出そうとしていた向井でした。顔のない、無記名の匿名の「彼ら・彼女ら」を描いていました。

それが本作「らんど」では、町の中で生きている、顔のある「人」たちを、彼らの歴史込みでしっかりと見据えて、深いところから大きな心で掬いあげるかのような、やさしさ、愛おしさ、強さを感じさせました。その人間的深みを私は支持します。

ベース・MIYAが本作から加入しました。素晴らしい。不穏でゴリっとした大蛇のようなのたうち回り方。ドラム・松下との相性もとても良い。ギャリっとした向井のギター・コード・カッティングに、カシオメンの紡ぐ悠久さすらあるフレーズが絡むと、なんだかそのサウンドは、「歴史を見つめる眼差し」ってやつすら思ってしまいます。

この曲「永遠少女」も、そんなわけでとても好き。あとすごく気に入ってるのが「YAKIIMO」という曲。「いしや〜きいも〜」という焼き芋屋のサウンドをそのまま歌っている曲ですが、なんだかどうしようもなくブルースを感じます。焼き芋屋の人生、市井の人々のブルースを…。

そうです。反戦、そして平和への祈りは、この「市井の人々の見る景色」を絶対に失ってはいけません。それがなかったら空理空論でしょう。というか「市井の人々の見る景色」を守りたいからこその反戦なのです。争ってる場合じゃない。内ゲバってる場合じゃない。冷凍都市であるけれども、そこに生きている人々はたしかに熱い血が通っているのだと。もしかしたら人々のエゴが都市を冷凍させてしまうかもしれないけど、それでも人の暖かさは…純朴さは…。

私は向井が日和ったとか、ヌルくなったとか、ただチルくなったとかって絶対に思わない。これが向井の音楽家として、詩人として、人間としての成長、深化なのだと強く思う。「らんど」、大好きなアルバムだ。

 

おわりに

そんなわけで、2023年に良く聞いていた音楽でした。

今年も、いろんな世界やいろんな時代の音楽を聞いていきたいと思います。

推し呉服店の2024年春のきもの市のご紹介

人は言う。このブログの人、いつもこの呉服店を推してるね?と。
その妄言がthis is 馬鹿野郎……いつも推す!からこその推し活なんでしょうが。見なよこの生の輝きを…!(つるまいかだメダリスト語法)

さて、寒が戻り気味の昨今ですが、それでも「冬来たりなば 春遠からじ」と歌われているように、春は近いです。

そんなわけで、岡山県井原市商店街にお店を構える笹井呉服店さんが現在開催されている、2024春のきもの市のご紹介です。

www.sasaigofukuten.jp

開催期間は2/23(金)~2/26(月)です。
申し訳ありません!開催期間中のご紹介となってしまいました。私、大失態です。

 

今回のきもの市の目玉は、「新作振袖発表会」と「きもの福袋」です。

新作振袖発表会の方は、振袖・帯・長襦袢の特選振袖フルセットです。

和装作家の心の形です。ガンダムビルドファイターズで例えれば、セイ君が手塩にかけて制作したビルドストライクフルパッケージのようなものです。グレードはまさにRG!

きもの福袋は、

正絹訪問着セット(訪問着&名古屋帯、2点お仕立て付)

・同(訪問着&袋帯、2点お仕立て付)

洗える着物セット(洗えるきもの&洗える京袋帯、2点お仕立て付)

といった内容です。セットものというか、コーディネートの妙。まさにビルドダイバーズリライズのプラネッツシステムを想起するではありませんか。わかりにくいですか。そうですか。もうガンダムで例えるのやめようかな……(賢明

 

また、洗えるきものセット、というのも私たち和装初心者にとってはありがたいお話です。

きもの、日々の使用においてメンテナンスの大切さを私もこのブログで書いてきていますが、それでも実際に和服を洗う、となると難しいですよね。その気持ちはわかります。

メンテにおいて、どこまで手を入れればよいのか。どこまでがやりすぎなのか。そういう初心者にとって、メンテナンスがやりやすい「洗える」きもの、というのは、良い選択肢なのではないでしょうか。

 

それから、お買い上げの方は開催期間中着付けが無料とのこと(要予約)。また、きもの市の開催中、来店プレゼント・紹介キャンペーンとして京漬物のパックを頂けるそうです(数に限りあり)。笹井呉服店さんはこういう試みを毎回されていらっしゃいますね。その営業努力に頭が下がります。

 

そんなわけで、春風近くなってきた頃合い、和装のある生活にも新たな風を通してみるのもいかがでしょうか。推し呉服店さんイベントのご紹介でした。本当、イベント開催中のご紹介で申し訳ありません…!

 

笹井呉服店さん Instagram

https://www.instagram.com/sasaigofukuten/

 

前回のイベントの時のご紹介

modernclothes24music.hatenablog.com

 

何かを尊く思うこと −−熊代亨『「推し」で心はみたされる?』感想

私は熊代亨氏(シロクマ氏)の文章を長く愛読していて、新刊が出たら無条件に読むことにしています。そんなわけなので新刊を読みました。

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

昔の話をさせてください。私が年若い学生の頃の話です。この本を読んで思い出しまして…。

私は当時、リアルタイムでCLAMPカードキャプターさくら」という漫画を読んでいました。とくに中盤からの、さくらちゃんと小狼くんの恋物語にハマります。いわゆるカプ萌え観測です。純粋でかわいい少女とツンデレ美少年。このカプ妄想をしていると、現実での嫌な出来事が浄化されていくような感覚を覚えました。夜な夜な布団の中で甘美なイチャラブ妄想をしては、その分入眠が安らかになるという。

やがて「CCさくら」は、恋物語の成就という形で完結します。そこから私はさくらちゃんと小狼くんのアフターエピソードオリジナル妄想をさらに繰り広げます。どうやって小狼くんと桃矢(さくらちゃんの兄)を和解させるか、とか。イラスト集2巻の風邪ひいて心細い小狼くんへの桃矢お兄ちゃんのお見舞いがあったじゃないか?素晴らしいエピだが足りぬわぁ!とか思いながら。

そうやって毎晩毎晩「CCさくら」世界の妄想を続けて半年。…いい加減ネタが尽きました。だって物語が完結しちゃってるんだもの!

ここで、現実の私はリアルに異様な虚脱感・空虚感をおぼえました。甘美なイチャラブ妄想を逃避先としていた私です。(当時は続編たるクリアカード編など影も形もありません)。でも、当時の私は、ネタ切れによりこれ以上の妄想は出来なかった。そして心に去来したのは虚脱・空虚の感情でした。「あ、なくなっちゃったんだ」という。

今思えば、これを現代の用語に言い換えると「推し」の卒業とかサ終(サービス終了)、あるいはアカ消し、活動終了、とほぼ同じものだと思います。当時の私は、その虚脱感を適切に取り扱える術を心得ていなかった。

どうやってその虚脱・空虚感から回復したか、というと、今度は赤松健ラブひな」にハマって、けーたろ×なるのカプにハマったから生き延びました。そして「ラブひな」も完結しました。もちろん私は同じようにその後半年くらい、ひなた荘世界を舞台にしたオリジナルアフターエピソードを妄想しまくりましたが、完結によるネタ切れは如何ともし難かった。

 

これじゃだめだ、と私は思うようになりました。作品による、外部からのカプ萌えインプットだけに全てを頼るのは、安定度の確率は低い。いづれ他の作品(カプ)にハマっても、完結したらやがてネタが切れる!妄想世界が終わってしまう!

そこで、私は自分でオリジナルの世界とキャラを作り、自分の創作世界で遊ぶようになりました。オリジナルの箱の中に注ぎ続けるのならば、自分の妄想遊びを終わらせる必要がなくなる! 自分の妄想熱量が、虚無の中に吸い込まれ消えて虚脱感を覚えることはなくなる! 自分にとっては、これはある種発明的でした。

そんなわけで私はオリジナル創作をするようになり、その後、葉鍵ゲー(LeafやKeyの美少女ノベルゲーム)に同じようにハマって以前と同じくイチャラブ妄想をするようになっても、オリジナル世界と並列して楽しむことにより、「ネタ切れ」の虚脱感を心配することがなくなったのでした。よかったよかった。

 

…という話を、この本『「推し」で心はみたされる? 21世紀の心理的充足のトレンド』を読んで、まず最初に思い出しました。

ここでポイントとしたいのは、私という人間は、「推し」で妄想をするのが現実逃避の常道とする人間だったということです。それはほぼ一貫している。

私はたまたまオリジナル世界観の創作、という方向にいったから、この虚脱・空虚感問題はいつしかクリアされていきました。じゃあ「創作」こそが病める現代を救う処方箋なんですねッ?…という話に結びつくのでもないのです。

私はCCさくら世界やラブひな世界、こみっくパーティー世界やKanon世界に逃避することで、ハードな色彩に感じていた現実からの癒やしを得ていました。あの世界(たち)には本当に感謝しています。あの世界とキャラは本当に素晴らしかった…私の「推し」は素晴らしかった。

ですが、ここに問題があります。

 

・推し妄想による「逃避」だけで、現実との対峙が済む話じゃない

 

イチャラブ妄想は、結局甘美な逃避です。それで何が悪い? 妄想自体は全然悪くないです。

ただ、私は何回も「完結=ネタ切れ」→「虚脱・空虚感」のパターンを踏み、そのたんびに空虚感を抱くという良くないことになっていました。私は夢中になった世界観・キャラ=「推し」への逃避に、妄想の世界で依存してしまう傾向にあるらしい。

「現実世界との和解」をどこかでしなくてはならなかった。私の場合は、創作世界をどんどん作り上げることが、ひとつの解決の糸口になりました。なにせ、現実には創作のネタが山程あります。言語、地理、魔術、文化、天候、風景、工芸品、機械…。それらをいちいち勉強して、創作世界に盛り込んでいくだけで、ネタ切れの心配は全然ない状態になっていたのです(笑) ネタ切れ問題が、現実に対する興味関心を引き起こし、自分から勉強をするようになっていった、という話ですね。

 

↓ noteで書いた、その創作世界観の話です。

note.com

 

さて。本書のテーマは書名にすでにありますが、「推し」で心はみたされるか? これは「満たされます」と言えます。

が、そもそもの自分の「推し方」は、何度も再考する必要があるかもしれない。あるいは言い換えれば、推している「自分」のポテンシャルや健康状態を、ある程度冷静かつ客観的・定期的に測って、「いま、自分は健やかに推しを推しているのだろうか?」と自問する必要すらある、のだと思います。

 

本書でも熊代氏は、現代の「推し」文化の良い面も悪い面もきちんと指摘した上で…それでも節度ただしく「推し」を推すことで、自分自身を良い方向に導いていける、と主張します。

なぜなら「推し」を推す心の持ちように、理由があります。私達が推す時に「尊い」という言葉がありますが、何かを尊く思うことは、やはり基本的に良いこと……尊く思うこと自体が尊いのだ、という話に基づく、と私は思います。

何かを尊いと思うこと。それは「好き」からいくらかはみ出して、自分の人生に「推し」存在を取り入れたいと積極的に思うことです。それは「貢ぐ」とは違います。ほとんどこの場合の「尊い」とは、リスペクト(尊敬)の意味です。「好き」や「愛」の中に、リスペクトの感情が内包されています。

先に述べたようなカプ萌え観測ですら、私はリスペクト(尊敬)が内包されていると思っています。とくに私のようなカプ観測趣味の人間は、素晴らしいカプを見て「尊い…」と浄化されるような気持ちになります。

彼/彼女らが作る(限定された)世界観は本当に素晴らしいものである。でも、もしかしたらその世界観に学ぶことが出来るのかもしれない。少なくともあのカプのように静かで丁寧な生活を愛せるようになりたい、とか。言葉遣いを丁寧に出来たら、とか。そういう風に、カプ萌えをきっかけにして、私自身の生活を正していくことは、ささやかだけども愚かなこととは思えない。このあたり、私がオリジナル創作をして「現実世界を勉強するようになった」くだりと同じものがあります。

 

この本の第4章は【「推し」をとおして生きていく 淡くて長い人間関係を求めて】、第5章は【「推し」でもっと強くなれ 生涯にわたる充足と成長】というタイトルです。人生に対する処方箋です。「推せばそれで全てハッピー」なんて安易な文章を熊代氏が書くものですか。

きちんと現実に向き合う。そして「推し」への感情の奥底がリスペクトである以上、「推し」の所作や思考、ことばから、汲み取れるものはいっぱいあるはずだ、と。

そして、私達の身の回りにいる普通のひとたち。家族。職場関係。そういった関係性の中にも、「推し」への萌芽…リスペクトへの可能性は常にあるのだ、という話を本書ではなされます。「推し」を尊く思える精神ーー仏教における「発心」に近いものなのかなぁーーがあれば、その健やかな精神はきっと周囲の人々へのリスペクトという形をとれるかもしれない。なかなか思えなくても、頑張ってみれば、案外見つけたりするものなのかもしれない。なんか鍵ゲーでも「CLANNAD」思い出してくるな。実際熊代氏もそういう文脈で「CLANNAD」に対して幾度も尊敬を込めて言及されていますし。

 

つまるところアレだ。私が過去の推し活のネタ切れで虚脱・空虚になっていたのは、作品の完結によるものだけでもないかもしれない。作品や推しカプがもたらしてくれる様々な善きものを、私自身の現実生活にうまく結びつけられていなかった…少なくとも当時は。私自身の修行が足りず、オタクとしても未熟。また、自分自身が今どういう健康状態にあるかの把握も不足していた。そういう話なのでしょう。

良く「推す」ことは、自分自身の中のリスペクト(尊敬)精神を、正しく誠実に取り扱うこと、ということなんでしょう。なんだか道徳的な話になってしまいましたが、いや、この話は私は間違っていないと思えた。盲信でも、「貢ぐ」でもない。「推し」の輝きを、対岸の輝きとするだけでは、足りない。自分自身の人生に活かせ、学べる余地はかなりある。

「推し」への逃避や依存じゃないんだ。「尊い」と思えるリスペクト精神を誠実に取り扱っていけば、いつしかきっと人生も良くなっていく。ここでそういう風に自身を「律する」みたいな道徳的な書き方をすると、ちょっと苦行みたいで息苦しいなぁ、って思われるかもしれませんが、そうではないです。

「推し」を尊敬するとは、推しの作品・表現を楽しみながら、正しく「推し」の輝きを私たちが一人の人間として理解することです。盲目的にハマるだけでは、正しく理解は出来ていない。「キャー!」とファンボーイするだけだと、ちょっともったいない。「推し」の彼/彼女らをきちんと見据えて、自分の人生に活かせるところを学ぶ。

私にだって学べるのだ、人生に活かしたいのだ!という。誰かを「尊敬する」というのは、まずそこからはじまりますから。それは自分自身を諦めたり、逃避したりするのとは真逆の精神性です。彼/彼女ら「推し」だって、きっと我々がそうやって健やかに向上していくとするのを、心の中できっと応援して……我々を「推して」くれる!と思いますよ。

本書を読んで、そんなことを思いました。何かを尊く思うことは、それ自体が尊い。私はそう思います。

 

●過去の熊代氏の著書の感想

「「若作りうつ」社会」の感想と個人的重い思い - 残響の足りない部屋

 

熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』一読目の感想 - 残響の足りない部屋

 

『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』感想その2 - 残響の足りない部屋

 

清潔を巡る問答ーー熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』感想その3 - 残響の足りない部屋

 

「何者かになりたい」とか、天啓とか、ルサンチマンとか人生とか - 残響の足りない部屋

 

●過去の私の推し活日記

2019年令和元年のこみっくパーティーの長谷部彩について - 残響の足りない部屋

 

「メイドさんのいる暮らし」と小宮裕太「沢渡さん」シリーズについての気持ち悪い比較考察文 - 残響の足りない部屋