残響の足りない部屋

音楽旅行と模型人生と愚にもつかないジョーク

取扱い説明書(2022/04/23更新)

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そのサントラを作りました。同人音楽サークル「8TR戦線行進曲」名義で、M3春オンラインで発表します。

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創作漫画制作日誌(3)ネームの為の画力

現在、漫画コピ本同人誌第三作目「Port Sacevo,Phantasmagoria ~幻想軍港佐世保」を制作しています。

アナログ作画環境

通常、画力の話となると「完成原稿の画面の美麗さ」になります。それが現在の残響さんの漫画で一番足りていないところだ、というのは、まことその通りなのですが(要するに漫画の画面が美しくない)。

ただ、画力と言うのはそれだけではなくて、「ネームの為の画力」というのもあるのだな、ということを、漫画を描くようになって改めて発見した次第です。今回はそのお話。

アナログ作画環境2

漫画を描くには、最低でも

発想→ネーム→ペン入れ

の工程を踏みます。時に、超絶画力や脳内パースを持つ荒武者みたいな神絵師・漫画家は、発想していきなりペン入れ(ネーム無し)で漫画を描いたりしますが(宮崎駿の雑想ノート浦沢直樹のTV番組「漫勉」を参照)、そういうバケモノのことは今は置きます。

www.nhk.or.jp

「ネーム」のところで何をやるか、は個々人の漫画描きスタイルで異なりますが。自分の場合は、ネーム作成のところで、セリフやシナリオ・プロットをライヴ感で作成していきます。それと同時に漫画的演出をどうキメるか、ということを、かなり試行錯誤します。

この場合の漫画的演出、とは、コマ割りに始まって、コマの中でキャラがどういう動きをするか。背景のパースをどう取るか。背景をどこまで書き込み、どこまで余白に託すか。そういうことをいちいち考えて、雑な絵で指定&活写していきます。ネームの段階では描きこまない……というか「描き込めない」。キャラの動き(モーメント)ひとつを決めるにしたって、いろいろ紙の画面上で動かすトライ&エラーが必要になるから。もし「描きこむ」ような意識にするなら、自分はペン入れ原稿の下書きのところでそういう意識になります。するようにします。

そう、このキャラの動きにせよ、背景のパースにせよ、画面で描くキャラや背景の動き・配置の「正解」はいろいろあるわけなんです。
例えば「彼女は雨の中立ち尽くしていた」という一文をビジュアライズするだけでも、正面から描くか、脇から描くか、斜め上か、アオリか……ってだけでも、絵では、次々カメラの可能性が浮かんでくるのです。発想はいくらでも出来る。ただし、その発想力は、かなりの場合己の「画力」に限定されます。

今回のお話の「ネームの為の画力」、とは、ここで必要になってくる類の画力です。ここでは美麗さや繊細さは求められていなく……ようは一言で言えば「デッサン」ですね。それもかなりクロッキー寄りの。(ここでは明度や彩度よりも、速写で「動き」「配置」をどう捉えられるか?という話) なぜ画力が必要か? それだけレベルが高い(美しい)漫画を描くことが出来る。

然り。……しかしその一方で、玄人漫画読みたちは皆「漫画の本質はネームにあり」と言います。「漫画力」とはネーム力(りょく)のことだ、と。どれだけキャラを生き生きと動かせることが出来るか。背景を生きた「世界観」にまで高められるか。キャラの動きとセリフが混ざり合い高め合うことが出来るか。コマ割りの勢いが漫画的ダイナミクスに成っていくか……! 

それを作りだすのは、まぎれもなくネームを練るときの試行錯誤です。そして、ここでは「発想力」だけあっても仕方がないのです。ある程度の画力が必要なのです。なぜか? それは、「ネームの為の画力」があれば、それだけ発想が殺されずに済むからです。

例えば「ある角度からのキャラの動きが苦手」。絵を描くにおいてこういうことはよくあります。「俯瞰視点で、箒に乗った魔女が、上空からゆっくりビル街の三叉路に着陸する」というシーンなんかわたくし吐き気がします。今描いている漫画のシーンですよっ!

それでも、脳内で思いついてしまったシーンがあるとして、それを演出(ネーム)段階で殺してしまっては、何のために漫画を描いているかわかりません。ここで渇望の叫びがあるわけです。「絵が上手くなりたい」ッ!! 発想したシーン、漫画がより面白くなる演出!これらを殺したくない!おれの手でおれの漫画を殺したくないッ!!

よく、「演出」というと「小手先」というニュアンスで語られる場合がありますが、とんでもない。演出は、漫画のネームで言えば明らかに「自由度」です。そしてその演出の土台になっているのが、「ネームの為の画力」です。そういう理屈です。いわばこれは、美の為の画力というよりは、「自由のための画力」とでも言いましょうか。……まぁ、それはちょっと勇み足の議論でしょうか。そもそも企画を立ち上げる発想力(妄想パワー)がなかったら、確かにこの「ネームの為の画力」は「演出スキル」となり、「小手先」の技術に終始するでしょうから。

しかし、自分で漫画を描くと、こうも発見が多いものですね。というか、自分がここで書いていることは、結構レベルの低いことだ、とも言えると思います。「ネームの為の画力」って、画力としては結構最低限のレベルに近いぞ、と。ただそれでも、ネームをこうして試行錯誤することで、キャラクターの言葉や動き、背景や世界観が導き出されてくるこの感覚は、悪いものじゃない……自由だ、と思っています。

……絵が上手くなりたい、ですね……。

 

風のように異国情緒

たぶん、三十歳を過ぎた頃からか。外国語で遊ぶようになった。それ以来年々、外国語で遊ぶのが増えていっている。毎日、外国語の本を読んでいる。本とは、洋書のことでもあるし、外国後の教科書や単語帳のことでもある。

三十歳も半ばを過ぎると、「中年を迎える虚しさ」についてよく聞くことになる。固定化していく世界観や人間観、という具合だ。私の場合、この外国語遊びが、世界観や人間観の固定化に、健やかな揺さぶりをかけてくれ続けている、と感じている。

一例を挙げれば、私の語学力のクソ貧しさがわかりやすいだろう。例えば街中で外国人の子供とすれ違う。私が今学習している外国語を、もともと母語としている家庭で育った子供だ。その子供が流暢に外国語を喋るのをちょいと耳にして、「私は全然ダメだな」と思う。語彙力もだけど、発音の音楽的流麗さもだ。

ただそこで、意識をなるべく、こうシフトさせる。「私、伸びしろあるじゃ~ん」と。ポジティヴシンキングである。三十歳を過ぎた人間の伸びしろis何?という正論もあろうが、それはさて置く。このように、さて置いてしまえるのが、外国語遊びがもたらす「健やかな揺さぶり」である。三十歳を過ぎたおっさんスキルなのかもしれないけれど。

で、その子供の外国語を聞いて「あ、そういう表現あったのね。自分の勉強、抜けてたわ」とか「なるほど、この言葉はこう使った方がストレートか。なるほど」と、私は素直に思う。随分素直でポジティヴだなぁ、と、我ながらこれを書いていておどろく。ただ、「健やかな揺さぶり」によってこう思えるのは、良いことだと思う。少なくとも私にこの揺さぶりがなかったら、私はもっと鼻もちならない人間になっていたと思うのだ。それが、世界観や人間観の固定化、すなわちダメな中年化なのだということは想像に難くない。

 

なるべく意識して、「知らない(無知)」ということを「伸びしろ(可能性のたのしみ)」と捉えるようにする。しかし、これはある程度意識しての思考であるから、自分の鼻もちならなさは、まだまだあるのだろうと思う。傲慢……知識のひけらかし……といった心性は私のなかにまだまだある。修行が足りない。

ただ、「知らない」を「伸びしろ」と考える外国語観については、けして無理にそう考えているわけでもない。外国語を勉強……いや、外国語で遊ぶことは、知らないことを知っていくこと。その無限の繰り返し。永遠の途上であり、ことばはどんな路上にも転がっているーーそんな、天蓋の星々にも似た、異国のことばの無数さを、今の私は楽しむことが出来ている。それで充分だ。

 

異国。
異国情緒
そう、自分は外国語で何かエラくなりたいわけではない。とくに金を稼ぎたいわけでもない。誰かの役に立てば、それはそれで良いと思える(ちょっとした翻訳や通訳を手伝ったことがあった)。
でも基本的には自分は外国語で遊んでいるだけで。では、この外国語で遊ぶことのたのしさの、中核というか本質は何なのだろう?と思っていた。なんで自分は外国語にこんなに魅せられてしまったのか。

それは、一言で言えば、まぎれもない「異国情緒」に魅せられているのだ、という簡単な話だった。

異国が、自然に普通に異国としてそこに在って。そんな異国に、「ここではないどこか」の風に、自分は興味が止まない。

日頃外国語が楽しいー、とか、ロシア語の語尾がー、とか、ウクライナ語との比較がー、とか言っている私である。単語を覚えたり、文法を学んだりする外国語学習が、自分の「何」に結び付いているのか、というのが、今までやや不透明だった。何でこんなことを自分はしているのだろう、と。

異国情緒、ということに気づいてから、自分の外国語学習が、言葉の学習だけに留まっているわけではないことにも気づいた。むしろ、言葉に付随している異国のイメージや、当地の名産や歴史、地理の知識というものにも、自分は興味がかなりある。

異国をイメージしたい。もっと異国を知りたい。この感覚には覚えがある。自分が子供のころ、はじめてファンタジー系の物語やRPGゲームに触れた時にとてもよく似ている。あの頃自分は、知らない魔法やアイテムや町の描写を、延々と見続けていた。RPGゲームなんか、クリアするのも忘れて、延々と町をうろついたり、飛空艇で空を駆けていた。

そう、自分は異国情緒に魅せられているのだ。昔から今までずっと。いや、今はこの魅せられているものがきちんと分かったからこそ、目の前に広がる「異国たちの全世界」の深さが、より「はっきりと垣間見える」。(変な表現だが、どうもこういう言い方になってしまう)

 

それはこのブログで何度も書いてきた「全世界・全時代・全ジャンルの音楽」を追い求めるのと同じだ。というか、全世界の音楽を求めることこそ、異国情緒を追い求めることの一部に他ならない。自分はまだまだ音楽を聴く絶対量が足りないと思っている。それだけでも果てしないのに、この先、異国の全てを知ろうと考えると、この音楽の量の何倍、何十倍も、世界には様々なものが満ちているのだろうか。概観だけでも相当なものだ。

でも、その一方で、「世界のすべてを知ろう」などとは考えていない。ここで話は最初に戻るが、自分が様々な外国語を極め切ることなど到底出来ないだろう、とも思う。「知らない」という「伸びしろ」があるだけで自分は楽しいし、それで充分なのだ。なんというか、神経症的に、強迫的に「すべてを知ろう」というのは、とても良くない。異国情緒は自分にとって、風のようなものだからだ。

風のように。異国の言葉や話は、何かの拍子に、時たま軽々とこちらに吹いてきて、その香りに魅せられる。なにか懐かしく思うような、甘酸っぱいような。そして風は異国から吹いてきたのだから、異国は遥か彼方に確かに在る。私は今日も、外国語で遊んだり、異国の知識を蓄えたりして、遥か遠くの異国を想う。それで私は充分だ。

 

●参考記事

外国語で遊ぶことについて - 残響の足りない部屋

こんな音楽を聞いてきました その1:アメリカ大陸、ヨーロッパ大陸(世界音楽履歴書2020年現在) - 残響の足りない部屋

趣味外国語、記念すべき10カ国語めにアラビア語に入門したら全く歯が立たないがそれでもリアンナハー・ルガ・ジャミーラ・ワムムティア - 残響の足りない部屋

 

backtolife.hatenablog.com

backtolife.hatenablog.com

(↑ 最近良く読んでいる、記事を日本語と英語で両方書いていらっしゃる「踊る猫」氏のブログ。氏の「英語のある生活」の健やかさを、とても善いものだなぁ……と思える)

 

www.mofa.go.jp

(↑ 外務省の各国駐在大使のインタビューや、各外国語との付き合い方など、大ボリュームで面白い)

本屋・レコード屋通いというギャンブル

自分はどうにもギャンブルに向いていない人間のようです。博打(ギャンブル)=ギャンブル性ゲーム+お金を賭ける事、なんですが、どうにも賭け事の一連の流れで、楽しむことが出来ないのですね。落ち着かない。

というか、ほとんど「ギャンブル性」というものと、自分は結構相性が悪いというか。日常生活からギャンブル性はなるべく排したいと考えるのです。ランダム性がもたらすメリットorデメリットというものに、どきどきしたくない。期待もしたくない。そりゃ向いていない話です。

ではお金は清廉潔白に使っているか、というと、そんなこともないですね。だいたい本やレコードに使っています。そして最近気づいたのですが、本屋やレコード屋に向かう際に覚えるこの心の毎回の高まりは、結構ギャンブル性を持っている……のではないか。というか、単純に言って、書店やレコ屋に行くっていうのは、パチンコ屋や競馬場に行くのとそんなに変わらないんじゃないか?自分的には……?と考えてしまったのです。

●賭けるチップ、それは未知に対する期待

新しく見つけた本屋やレコ屋のドアを開けるのは、いつだってわくわくします。本屋なら、自分はまず模型関連と音楽関連をチェックします。モデグラ関連(月刊モデルグラフィックスや、大日本絵画の出版物)はどうか。TMS(鉄道模型趣味)はあるか。ホビージャパンエクストラは入っているか。電子工作&ラズパイ関連はもしかしたらパソコン書関連のとこかな?レプリカントはどうだ、ドール関連は……。

次に音楽書籍をを見るとしたら、ミュージックマガジンかレコードコレクターズはあるか、とか、音楽機材系、とくにエフェクターマガジンはあるか、とか。楽器でもマイナー楽器の入門書はどうだ、とか。

それから最近とくに熱を入れているのが、外国語関連ですね。辞書もです。意外なところに意外な面白い外国語関連書物があったりするのです。こないだ買い逃したインドネシア語の教科書、未だにちょっと後悔してるんだよなぁ……。洋書があったら超めっけもん。あ、そうそう外国語関連の雑誌&ムック本もチェックですよ。

これらをだいたい5分以内にざーっと見ます(スキャニング)。頭の中にメモをしておき、そこからさらに漫画を軽く見て(ハルタ関連があるかどうかは気にする)、ラノベコーナーのTRPG関連(ルルブ、リプレイ)をじっくり見る。そして店内をうろついて、万が一ゲームブック関連があったら即ゲットする。それから後に、科学書やエッセイコーナーを見る……。

そんな感じで本屋を時間をかけてうろつきます。古本屋&新古書店に関してはまたやり方が微妙に異なってくるのですが、上記のように大体のカテゴリに分けてスキャニングをするのは変わりません。

レコ屋では、まず「店主のおすすめ」的に目立つところに置いてあるのをじっくりチェックします。この店はどういうジャンルに強いかをまず把握。これは1分でわかりますが、その1分の間に自分とレコ屋の間で透明な火花が散ります。こちらは全世界全時代全ジャンルを聴くと決めた音楽人生なのです。いわば1人の音楽リスナーvs無数の触手を持つオンガ=クトゥルー神です。相手悪すぎないか。

まぁようするに、自分の専門分野のレコ屋ならよっしゃ、自分の専門とちょっとズレるレコ屋でも、新たな可能性が生まれるかもしれないからこれまたよっしゃ、って具合です。最高ですね。で、自分の場合だったら、「店主のおすすめ」の次には、基本的にオルタナロック→古典ロック→モダンジャズワールドミュージック→クラシック、テクノ……といった順番でレコ棚を見ます。ただカセットテープがもし在ったら、優先順位はカセットを上の方にします。

例えば、ピクシーズのデモ曲集があってうれしいな、とか、ジェリー・マリガンは基本的にどれも購入対象だけど、今回はコンボ編成時かそれともビッグバンドか、とか。お、こんなん知らなかったぞクラッシュのダブmixアルバムよ、とか、バッハのヴィオラ曲集なぁ……地味なのはわかってるけどその地味さが良いんだよなぁ……とか。それからボサノヴァはー、英国トラッドはー、イスラム宗教歌はー、とか、アフリカ民族音楽はー、デレクトラックスはー、ファットボーイスリムはー、最近のジャックホワイトはー、チップチューンはー、とかってやっていると、あっという間に1時間なんて軽く過ぎます。毎回思いますね、「レコ屋では時間が足りない」。理想を言えば、1日目と2日目とで分けて通いたいですが、そんな時間は旅先ではなかなかない。ついでにお金もない。

さぁ、このあほの所業ですが、どうにも最近自分は、こういうので「ギャンブル」をやっているのではないか、と疑うようになりました。いわば未知(の本、音源)に対する「期待」というものを、チップに変えて場にbetしているわけです。

基本的に購入予定金額はあらかじめ決めていますし、あんまりレアな本or盤があっても、よほど高かったら買いません……が、まれにあるんですよね。「ぐぉっなかなかのお値段……しかしこれを買わなかったらわたくしではない……っ!」と悲壮な勇者の貌で本or盤を見つめる時が。そんな時「買わない後悔より買った後悔っ!」と自分を鼓舞するのが正しいのかどうか。その答えは未だに風に舞っております、マイフレンド……。

うん、こうして書いていて、やっぱギャンブルなんじゃないの、本屋レコ屋通いってのは?って訝しむわけです。少なくとも、本屋レコ屋に毎回行くのは、「今回は何があるかわからない」というギャンブル性(ランダム性)ゆえ。……っていう側面は確かにあります。

そして陳列されている本やレコードに対し、自分は「試されている」って感覚になるんですね。ここにある本やレコードは、素晴らしい内容かもしれない。難解かもしれない。けれど、読者・リスナーたる自分は、それを乗りこなせるかッ!?という。

もう既にいろんな本やレコードを吸収してきたじゃない……? なんて助言に耳を貸したことはありません。というかそんなこと、本屋やレコ屋で物色しているとき、脳裏にかすめたことすらありません。脳は「どの本or音源を買うか」で支配されています。それはつまり「未知」への開拓精神です。

「未知への期待」というのは、自分の知らないジャンルが世の中にあることへの期待、っていうことも確かにあるんですが。しかし最近は、「自分が今まで偶然見過ごしてきたもの」を新たに掘り起こすという意味合いで、「未知への期待」を捉えているかもしれません。たまたまこの時期のイエスプログレバンド)をあんま聞いていなかったけど、今聞き返したらどうだろう、とか。このクラシックの曲、この指揮者・演奏家で聞いてみたらどうだろう、とか。

自分はどこまで「知って」いるのかどうか。そりゃ音楽史的なカタログ知識はいろいろ持っていますが、実際自分がどう感じるのかは、まだわからないわけです。古い音楽でも、「自分が聞いていない」というただ一点では、実は今流行りのミュージシャンの新作と、そんなに変わらないとも言えます。

そんな「未知」に対する読書や音源聞きをアレコレやっていて、未だに飽きていません。未だに本屋レコ屋に通っています。でも、これは真面目な勉強、とも思えません。ある程度ここにはギャンブル要素があることを、今の自分は認めます。その上で、もっと本屋レコ屋に通いたく思います。

物語に餓えている

先日「ネタバレを自分は全く気にしなさすぎる」という内容の記事を書いたのですが、あのあと少し反省しまして。

ネタバレがわからない - 残響の足りない部屋

記事内容は自分の性質の白状ということで、全く嘘のない内容なんですが、しかしわたくし個人から発せられる「今の楽しさ」が感じられない記事であったな、と。

ネタバレを気にしないのは気にしないで良いんですが、それだったらそういう性質のもとに、今自分はどういう風に物語を楽しんでいるか、ってことを書くべきでした。オタクとして。これは反省です。機嫌よいオタクでありたいものですね。まったく。

(記事のup当時、内容への丁寧なご感想をいくつか頂きました。皆さん、凄く丁寧にあの記事を読んで頂き、自分の性質を「そうか」と仰って頂きました。その丁寧さが有難かったです)

 

ところで、その一方で現在リアル仕事が非常に忙しいのです。GW(ゴールデンウィーク)だっちゅうにね。ガッツだぜ!ウィークの略じゃないですよGWは。

でもその一方というか、そんな風に忙しい今だからこそ、ふつふつと「作品を読みたいな……」と考えています。ふつふつとコンテンツに対する読書欲が、肚のなかで煮えてきています。これは良い傾向です。流行りや惰性で作品に触れるのではない、フレッシュな「読みたい」欲があるのですから。

 

とは言いつつも、そういう風になっちゃうくらい、どんだけリアルが忙しい毎日だったのだ、って話ですねこれは。オタクとして、これまた別の意味でかっこ悪いのです。社会人として合格って言われてもねぇ。趣味人としてどうなんだい、っていうところですよ。この近頃、M3新譜とかの聞き込みも足りていないですし。漫画もちゃんと読めていない。模型もね。

ちょっとずつ「いつか時間が出来たら読もう」と思っている本やノベルゲームが溜まってきてしまっています。これでもかなり量を厳選しているのですが。量的に言えば往時の1/10くらい。それでも、この忙しさで手をつけられていない。

もちろん、この忙しさから少し脱したら、その「いつか読もう」の本やノベルゲームを大事に味わうつもりです。なんだか死亡フラグみたいな記事になっていますね今回の日記は(苦笑)

 

健全な餓え、ってものを大事にしたいです。自分のなかにそれが残っているのは、良いことだと思いたいです。少しずつ年を重ねていくと、安定安牌思考とか、「刺激を回避」みたいな精神になっていきます。それもそれで処世術ですが。でも健全な餓えは、健全に満たしてあげるのが、趣味人ってやつですよね。

 

……ところで、そんな自分であっても、ガンダムビルドダイバーズRe:RISEに関しては、あの「安定」志向であった時期であっても、なぜあんなにのめり込むように見たのかは、ちょっとした謎です。結構ガッツりクる骨太なシリアス話です。リライズファンはこの作品を「基本的に楽しい話ではない」と言いますが、言いえて妙です。その通りです。ガッツりクるしんどい話です。自分だって実は1回でほとんど切ってた。その後なんとなく見てみて、凄い勢いでハマってしまった。「初代」ことビルドファイターズは自分の中でバイブルですが、それとは違った位置の「魂の作品」であるのは間違いないですリライズは。

 

まぁそれはさておき、この作品、物語への「健全な餓え」を大事にしたいです。きちんとおなかを空かせましょう。そして、めんどくさがらずに、オタクアンテナをきちんと張って、今まで個人倉庫にため込んだ作品をまずチェックしなおすことから始めます。すぐにバリバリ読破・ノベルゲークリア、っていうのは無理です。今はやはり仕事が忙しい。でもこの「餓え」は悪くない。悪くない気持ちです。

絵・漫画が描けないコンプレックスからの脱却について

この文章では、あるコンプレックスにまつわる嫉妬の地獄について書きます。そしてどうか願わくば、同じコンプレックス、嫉妬に苦しんでいる人たちにこの文章が届いて、ほんの少しでも楽になる手助けが出来れば、と思っています。この文章が同胞たちを救えるなんて言えません。しかし何かしらの参考データくらいになればよいと本当に願う。同胞たちがコンプレックス地獄から抜け出せるための指針をどうか同胞たち自身で掴んでほしい。なぜなら、同胞たちの嫉妬の苦しみは、この筆者たる自分が、「真綿で首を切り締める」思いで心身を焦がしたから、よくわかるのです。

そのコンプレックスは、「絵・漫画が描けない」というものです。

嫉妬歴史

いつの頃からだろうか、「自分には絵画スキルがない」と思うようになったのは。自分の絵の下手さに自分自身でイヤになる、という。

そのくせ漫画やノベルゲーム(美少女ゲーム)などで、目が肥えるからいけない。素晴らしい躍動感の漫画や、流麗で繊細なタッチの美少女ゲー原画。そして思うのです。「自分は絵が下手だ」と。絵師の先生たちのような「絵を描ける」人生は、自分のこの人生では与えられなかったな、と。

苦しかったです。脳内にはいろんな創作イメージが湧くのです。キャラの心情の情景が、世界の風景が。浮かぶけれど、自分には表現手段がない。せめても文章(小説)の情景描写で、表現しようとしました。何作も長編小説を書きましたが、結局文章は文章です。「絵を描いている」わけではない。

模型(ジオラマ)を作っても、音楽を作っても。この「絵、漫画が描けない」コンプレックスだけは癒せなかった。渇きが満たされない。そりゃそうです。「絵を描いていないから」です。

自分は絵が下手です。でも絵を描かないことには、このコンプレックス、渇き、絵師への嫉妬……絵への渇望は、満たされないことにようやく気付きます。36歳です。もう絵を、漫画を描くしかない、と悟ります。しかし、ここから実際に絵を描くまでにさんざん迷いました。足踏みをしまくった。

描くしかないのになぜ迷うか。それは「怖い」からです。自分の下手くそな画力を目の当たりにするのが怖い。素晴らしく美麗な漫画やエロゲ原画を見まくって、肥えてしまった自分の「眼」が、自分自身の下手くそな絵を許せない。許せないということは自己否定です。そうなるのは容易に想像がついたから、怖かった。清水の舞台というか、断崖絶壁に足がすくんでいるくらいの怖さでした。自分の心の中では。

最終的に「描く」ことを決めたタイミングは、今ではちょっと思い出せません。なにせ恐怖で頭がぐるぐるしていたのです。ただ、いろんなちょっとした手段で、ハードルを下げて下げて下げて、「ええいッ!もうッ!」って感じでやけくそで処女作漫画同人誌「雨とハープシコード」を描きました。

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今この作品を読み返すと、明らかに画力は下手です。本当に下手です。でも、それでも「漫画コピ本同人誌を一冊でっち上げることは出来た」という成功経験が、自分をほっとさせてくれました。嫉妬で熱くなったコンプレックスの氷が、ある程度「溶けた」のです。そのことは自分を本当にほっとさせてくれました。これ以上、漫画やイラストを見て、嫉妬で身を焦がさなくても良い、と。

以下、漫画を描くにあたって、「役立ったこと」「下げたハードル」を列挙してみます。それは最初のひとつを除いて、ほぼ技術的なことなので、コンプレックスの同胞の皆さんも応用できるものだと思います。

●20年近くオリジナルの箱庭世界で遊んでいた

つまり、漫画で描くべきキャラ、設定、世界観はすでに出来上がっていた、というのは、最終目的(作品完成)ということで考えると、かなりのアドバンテージだ、と今さらながら気づきます。漫画を描きながら、キャラや設定で迷うことがない、というのは、かなり「楽」なのかもしれません。しれません、というのは、自分は漫画の描き始めから、オリジナル世界観が在ったので、それ以外のやり方を知らないので、比較が出来ない、という意味です。

でも考えれば、これは二次創作漫画でも同じですね。キャラや設定があれば、あとは自分なりの解釈やシチュで漫画を描けば良い話です。「二次創作から漫画をはじめよ」というアドバイスが、世に確かにあります。そういえば、自分オリジナルの世界観と言いましたが、わたくしにしたって、「オリジナル世界観の二次創作漫画を自分で描いている」感覚が確かにあります。

そういう意味では、まずキャラや設定を、オリジナルでも二次創作でも「決めて」しまってから漫画を描くのは、良いのかもしれません。

●資料を用意しまくった

手持ちの写真集・資料集・画法本・図鑑や、ネット検索を駆使して、漫画作中のアイテムの「お手本」を逐一見ながら描きました。もちろんトレスはありませんが、「自分は見なけりゃ描けない」「自分は見なけりゃ描けない」と強く念じました。

思えば、画力がない人が、資料を見ずに想像だけで描くなんて、ほぼ自殺行為です。この場合の自殺行為とは、防具を身にまとわずに銃弾飛び交う戦場にヒョイと出かけるという意味合いです。

「画力がない」ということは、目にしたものを正確に描けない、ということはもちろんなんですが、それ以前にそのアイテムを「ぼんやりとも描いたことがない」ということです。だって絵を描いてこなかったんですもの。脳内にあるモデルを紙に線描することもしてこなかった。紙にアタリを付けてデッサンすることもしてこなかった。おおまかな描線を下書きとして、さらに細かく線を加えて描いていくこともしてこなかった。

これは責めているわけではなくて、「してこなかった」のだから出来ないのは道理である、という再確認です。痛いですね。ではどうすれば良いのかというと、「ラクに」描くための努力をしよう、という話です。

資料をトレパクするのは問題ですが、資料を良く見て自分で絵を描くことが問題なら、絵画表現って何なのだ、って話です。資料は見て良いんです。ペン1本だけでスラスラスラ~っと一筆書きで描ける神絵師がこの世にはいますが、とりあえずその存在は忘れましょう。同胞たち、今わたしたちは自分の作品……絵を、漫画を描きたいのです。「神絵師が一筆書きで描けるスキル」は確かにこの世にありますが、それを想定・想像するのはやめましょう。ついつい脳裏に浮かんでしまいますが……否ッ!大事なのは自分の作品なのですッ! 同胞よ、自分の絵を、漫画を描きましょう。

資料は「ぼんやり見る(シルエット把握)」にも、「詳細に見る(ディテール把握)」にも、どちらにも役立ちます。むしろ、役立たせようと思って世の中のモノを見ると、何だって資料になりえます。路上のアスファルトや、雑草なんて、どれだけ情報量が多いか。今まで自分はぼんやりとしか世界を眺めていなかった!ということに愕然とします。そして、「こりゃ退屈している暇はネェな……!」と、これから得られる情報量にゾクゾクしてきます。

ところで、こうして少しでも資料を見ながら描いていくと、神絵師がいかに凄いか、っていうことに気が付きます。自然と神絵師を嫉妬ではなく尊敬するようになります。その尊敬は、嫉妬のような心泡立つものでなく、ファンボーイのような「キャー!」でもなく、もっと静かなものです。本当に凄い人が頑張って今日も努力してるんだな、よし、自分も頑張ろう……と自然に思わせてくれるのです。

●自分に合った画材を

わかってる、わかってるねんで、デジタル(デジ絵)にした方が完成度は高くなる、っていうのは。どこまでも細かく描けて、UNDO(やり直し)も自在、っていう。

でも、どうにも自分の場合、デジ絵では「発想」が出来なかったのです。PCやペンタブレットや、スマホタブレットPCを用意したのですが、デジタル絵の画面をいじっていても、漫画のコマひとつ「発想」できなかったのです。なので自分は、「ある程度までアナログで描き込み、ゴミ取りなどの修正やデジタルトーンだけデジ絵で」という手法でいくことにしました。

この選択はどちらかというと愚かな選択だと思います。フルデジタルにしたほうが絵の画面の出来栄えは確実に良くなるのは解っているのですから。それでも、自分は「絵、漫画を楽しく描きたい」ということに焦点を絞りました。自分に合わない手法で無理してレベルの高い絵を描こう!という完璧主義は、自分をどこへも運んでいかないだろうな、と思ったからです。

あくまで自分の場合ですが、アナログ画材と紙で原稿を描いていくのは、とても楽しい作業でした。絵をアナログで描いていると「発想」するのです。指先の感覚過敏があるのか、どうも自分はデジ絵のツルツルした感触が、「発想」するには向いていない。逆に、ゴミ取りの修正をするには、「こりゃデジタル万々歳だわ」と、デジ絵に頼り切っています。

ともかく、自分は絵・漫画を「楽しく」描きたいのです。コンプレックスの解消に、さらなる苦行を持ち込みたくなかった。嫉妬を殺すために苦行で対抗する、っていう世界観はキツいなぁ……と。それよりももっとラクに、楽しく、自分が心なごむやり方でやった方が、今の自分には良いだろうと判断しました。ある程度の作品画面レベルの低下という、犠牲を払ってでも。

一番大事なのは、絵、漫画を描くことを、好きになることなのですから。

●この作品で個人的に何を描きたいか

自分が「漫画を描きたい」と思うようになったのは、panpanya先生の漫画作品がきっかけです。上記の「アナログ絵も良いよ」と思う根拠も、panpanya先生の影響です。panpanya先生といったら「背景」です。ノスタルジーの郷愁と薄暗い狂気の甘美を併せ持つあの背景です。

さて、漫画を描くにおいて、多くの人にとっては漫画は「テーマやメッセージを伝えるための表現手段」でしょう。自分にしたってそこはある程度同じで「自分の脳内にある様々な情景を、紙(二次元)に落とし込みたい」と思っています。

しかし自分は、漫画を描くという手段そのものを愛したかったのです。何かを描くための苦行としての漫画、ではなく、「漫画を描いているその瞬間が楽しい趣味」としての漫画をやりたかった。

これはかなりアマチュア的態度であるのは明白ですが、とにかく今の自分は「絵が描けないコンプレックス」から脱却しないといけない。その脱却はなるべく楽しい物であるに越したことはない……という理屈です。

自分にとって「漫画を描く楽しさ」を味あわせてくれるのは、背景を描くことでした。マニエリスム的態度、といったら言い過ぎですが、背景を描くのは楽しいので、その楽しさを充分に味わおう、と思ったのでした。そんな感じで作ったのが第2作「仙境ヤマナシ旅行記」でした。

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「たのしいことをしよう」これがモットーです。そうでなければ、絵、漫画描きというのをあなたの生活に加えたところで、ただあなたの人生に苦行が加わっただけです。

 

●方法論の技術的分解

そーはいっても、ある程度絵が描けないことには、絵は描けないのです(トートロジー)。同胞たちはおっしゃるでしょう「とにかく絵が描けないんだよ!」と。わかる、わかるぞ。自分もかつて叫んでいた。「とにかく絵が描けないんだよ!」と。

しかし……この「しかし」を言うのは心苦しいのですが。あなたが目と手を持っていて、その二つが使える以上、絵は描ける可能性はかなり高い、と言わざるを得ないのです。例えば、目と手が使える人は、文字が書けると思います。アナログ筆記で文章を書く、とまでいくとちょっと疲れるかもですが、少なくとも俳句や履歴書くらいの文字量は書けるはず。

これはバカにしている話ではなくて、「文字が書けるならなぜ絵が描けないのか」というのは、考える価値のある問いだ、ということです。

絵には、二つの機能があります。「意味」を表す図示的機能と、「美しさ」で人をトロけさす美術的機能、と。

もともと文字にしたって、書道があるように、文字の「美しさ」でひとをトロけさすことが出来ます。その一方で、文字の基本的な意味は、情報の伝達です。

絵も一緒なのです。絵をどこまでもシンプルに「二次元上の像」と捉えましょう。例えば道路標識などを想像してみてください。ピクトグラムと呼ばれるように、あの標識は「美しさ」でトロけさせようとするものではありません。しかし、標識の図は、「止まれ」「一方通行」など、意味がわかります。

これが「図示的機能」……「何が描かれている絵なのかわかる」というものです。それはほとんど文字と同じ情報の伝達です。(象形文字の歴史を補助線として考えても良いです)

絵が描けない人は、「図示的機能」と「美術的機能」の両方を一気にゲットしようとしているから、すぐに神な絵に到達できない自分がイヤになるのです。自分や同胞たちは、まず絵の「図示的機能」を学ぶことから始める必要があります。すなわち、美しくはないけれど、何が描かれているかわかる、シンプルイラストです。ポンチ絵とも言う。

それは確かに「美しく」はないです。神絵師のようにトロけさせる絵ではないです。でも、図示的機能にまずは振った学習方法をすれば、少なくとも人に、絵で情報を伝えることが出来ます。それを重ねれば、漫画が描けるようになります。トロけさせる絵ではないですが、それでも漫画は漫画です。

このようにまず図示的機能のシンプルな絵を、脳に蓄えることが必要です。同時にシンプルな絵を紙にラクに描くことも必要です。シンプルな絵を「覚える」のです。言葉を覚えるように。

おそらく、絵が描けるようになる、とは、この図示的機能を持つシンプルな絵を「単語」のように覚えることです。まずインプットし、アウトプット出来るようにする。そして単語を組み合わせて、文章にしていくように、シンプルな絵を組み合わせて、やがて複雑な絵にしていくのです。

この手段の理屈は、自分は、趣味の外国語勉強のメソッドから援用しました。外国語学習の王道にして究極は、「スムーズに、暗唱を仕上げる」ことと「世の中にある何でも、その外国語で表現してみる」を繰り返すことなのです。外国語で読める事&自分で表現できることを、少しずつ、しかし確実に増やしていく。そして絵の場合の「暗唱」「表現」は、シンプルな絵を考え、描けるようになり、脳内に保存することと全く一緒なのです。

おそらく、ひとつの絵、ひとつの線は、言の葉に、凄くよく似ていると思うのです。そして言の葉である以上、絵を構成するものは、かなり理詰めで分解していける。

……と、まずは信じましょう。絵を描くにはセンスとか絵心が必要とか、まずは置いておいて、「図示的機能を持つシンプルな絵」という言語を学んでみましょう。そこまで絵のハードルを下げる必要があるのです。

我々は、いつしか絵を神話や魔法の領域に置いてしまっています。そうじゃない、絵、漫画、これは単純な「技術」なんだと。少なくともそのように追い込める領域はかなりある。全部が全部センスや絵心という神の魔法というのは、あまりに救われない話でありますよ。

凡人でも、絵は描けるのです。絶対描けるのです。描こうと思えば描けるのです。問題は手段が悪かっただけなのです。

最後に……、

●人の評価を完全完璧にアテにしない

これは、あくまで「絵が描けない」コンプレックスからの脱却の話です。自分が絵を描いたからって、他人から誉めてもらおう、ちやほやされたい、承認欲求を満たしたい、っていうのは、完璧に除去しましょう。そっちに幸福はない。

ありえない話です。我々が絵が描けたからって、神絵師と同じような扱いを受けるわけがない。そこの自惚れは除去しましょう。

とにかく「自分は絵が描けたんだ」っていうほっとした感情を大事にしましょう。これは、今この文章を書いている自分こそが、一番大事にしたいと願っている感情です。あの日の焦燥に焼かれたコンプレックス嫉妬にまみれた自分、というのを忘れたくない。自分は漫画同人誌を二冊描いたけれども、それは結構幸運なのだ、という風に思うべきだ。傲慢になりたくない。

とにかく「絵、漫画を描けないコンプレックスから脱却」出来た……のなら、それで目的はオールオッケー的に解決されたのだ、と。それ以上に承認欲求を満たそうだなんて、虫の良い話がありません。

……本当にそう思っているかお前は?って問いたくなってます? ええと、これに関しては、自分は本当にそう思っています。コンプレックスを癒せた。それだけで本当に満足しています。

だって、あの焦燥感・嫉妬から、抜け出せたんですよ!あれがどれだけ苦しいか、同胞のあなたが一番よくわかるでしょう! あの感情ですよ!四六時中漫画やゲームの絵を羨んで、自分には表現が出来ずに、けれど漫画やゲームに対する愛を消したり捨てたりすることの出来ない、ほとんど呪いに近いあの感情ですよ! 忘れるものか!

それを本当にどうにかしましょうよ!だって辛いじゃないですか!この苦しさをずっと抱えて、死ぬ前に「ああ悔しいな……」って思うの、ひどすぎるじゃないですか!人生として!

実際の話として。一冊同人誌を仕上げると、これくらいの画力の向上がある、っていう、非常にバカらしいほどウケるビフォー&アフター画像があるので、最後に貼って話をおしまいにします。お読みいただきありがとうございました。

 

ビフォー

漫画同人誌を描く前(本気)

アフター

漫画同人誌最終ページ