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ラジオヘッド日記2021年冬

零和2年 闇月ラストムーン日

ミュートピアvol.3の準備をしておいた方がいいのに腰が重い。つまり新曲の作曲なんて全然出来ていない状況。ネックウォーマーが欠かせない寒さである。

零和2年 猿月ワンラヴ日

あれ?と気づいた時にはもうすでに鬱に入っていた、というのがいつものパターンである。例によって今回も鬱に入っていた。この年、いつもよりは警戒をしていたが、ヌルっと滑り込むような形で、こころの隙間に鬱が入り込んでしまっていたようだ。

1日のなかで、フートン(布団)に潜る率が高くなる。仕事以外はだいたいフートンで過ごしているような気もする。もちろんミュートピアの準備は進んでいない。

猿月タクシー日

相変わらず鬱が消えない。今回の鬱は「疑心暗鬼」の妄想鬱だ。去年から他人の視線というのをモチーフにした妄想が多発している。あの人はああいう気持ちでいるんじゃないか、とか。あの人も自分を嫌っているんじゃないか、とか。全部妄想である。他人の言葉の欠片からそんな感情を読み取ってしまう(妄想です)

親戚の訃報があった。祖父の妹だ。90数歳で、最近は老人ホームに入っていた。祖父と母との付き合いが時たまあって、先日見舞いに行っていた。それが最後だった。

Radioheadを聞き始めることにした。前から、良さがよくわからなかったバンドである。ブログコメントをしてくださる常連読者さんのご意見を伺ってから、また聞こうと思い出したバンドだ。ちなみに、彼らのアルバムでは、

1st パブロ・ハニー……聞いた

2nd ザ・ベンズ(曲げる)……聞いた

3rd OKコンピュータ……聞いた

4th キッドA……聞いた

5th アムニージアック(記憶喪失者)……聞いた

6th ヘイル・トゥ・ザ・シーフ(ドロボウ万歳)……聞いた

7th イン・レインボウズ……まだ聞いていない

8th ザ・キング・オブ・リムズ(枝葉の王)……聞いた

9th ア・ムーン・シェイブト・プール(月はプールみたいな形してるね)……まだ聞いていない

という状況。和タイトルは自分が勝手につけた。

猿月グリーン日

このラジオヘッドというバンド、OKコンピュータ以降、「バンドサウンド」を念頭に置いて聞くのは、ほぼ間違いのような気がしてきた。むしろ「プロジェクト」として聞いたほうがいいのか?エレクトロニカみたいに。

自分はこの日記においてRedioheadをラジオヘッドと表記する。馬鹿にしているのではない。1997年にOKコンピュータが出たとき、リアルタイムで村上春樹はそれを聞いていて、自身のホームページに、1997年の新譜ベスト3の一角としてOKコンピュータを入れていた。その時にRadioheadを「ラジオヘッド」と表記していたのだ。それを受けてのことである。今となってはどうでもいい話であるし、その後のラジオヘッドと村上春樹の関係性では、もう村上春樹も「レディオヘッド」と呼ぶようになったのだから。

今となっては。
こういう風に、今となってはどうでもいい、という感慨を持てるようになるのは、歳をとっての役得と言えるかもしれない。老害かもしれない。それにもともと、大したことのない話なのでもある。村上春樹がラジオヘッドと呼んだことなんかね。世間の「レディオヘッドは世界でもっとも先進的なバンド!」っていうのにムムーンと思っていて、「自分のバンド」として聞きたいからラジオヘッドと呼ぶのである。こういう意地も、きっといつかはどうでもよくなるんだろうか。

猿月ヴァイオレット日

人のことを考えたくないーっ!と強く思ってフートンをかぶる。このように考えている時点で相当人のことを意識している。「興味ないね」と言いながら実は興味しんしん、っていう図式に似ている。目を手で多いながらも、他人の陰部をチラ見してしまうのにも似ている。そんなに自分は他人を意識する人間だったのか、という驚きがある。

ラジオヘッドのキッドAを聞く。前よりは悪くない、と思えるようになった。でもトム・ヨークのあの歌唱がどうにも頼りなく聞こえる。

猿月ゲルゲル

ミュートピアの手続き第一陣を終える。疲れた。鬱(他人妄想)を飼いながらの作業は疲れる。というか、後回し後回しにしすぎていた。……違う。後回しにすることにより、こころの中で手続きが「重く・大きく」なっていったことが原因である。つまり妄想か。

キッドAを聞く。中盤の、空間的でありながらザクンザクンしたギターが何とも落ち着く。というか、この盤の「どこでも聞いてもいいし、どこでも途中で聞かなくなってもいいし……」みたいな雰囲気が今となってはありがたい。

ラジオヘッドをそういう風(「通し」で聞かない適当な聞き方)にして聞いていいのか?とも思うが、今の自分にとってはそういう聞き方が有難いんだからしょうがない。だいたい、こういう自分を非難する奴らは、ラジオヘッド呼ばわりをする時点でキレてくるだろう……という妄想をする。だいたいこんなことばかり考えている。これが妄想だ。誰も言っていない非難を自分のなかで反復する、生産性のない行為だ。

猿月ニョッキ日

「アムニージアック」を聞く。眠い日。

猿月レベッカ

「アムニージアック」を聞く。そういえば猿月タクシー日の日記でちょっとだけ触れたが、その日、親戚が亡くなっている。自分はこの祖父の妹の老女氏のことを知らない。以前から家族での話には出ている。それくらいの話だ。だのに、妙にこの老女の死で、自分の感情がふわふわしているところがある。よろしくない、ネガな感じにふわふわしている。また他人の死に引きずられたのか? 自分は老女を悼むほどの付き合いをしてこなかったくせに。

猿月ドゥーム日

Adoの「うっせえわ」を聞いた旧ボカロ世代は共感性羞恥を抱いていたたまれなくなる、過去の黒歴史を思い出して恥ずかしくなる、という話を聞いて、ひそやかに腹が立つ。作品が悪い・恥ずかしいのではない。おまいさんの過去自体がよろしくないのではないか。いや、むしろそれを恥じるおまいさんの「今」が逆に卑屈に鬱屈しているのではないか?「こういうの若いころは聞いてたよね、あははw」というおまいさんの話をしている。おまいさんの過去を否定するのは、おまいさんの個人意志でもって否定するのが筋だろう。作品が悪い・恥ずかしいのではない。確かに作品が誘発する感情はあるだろう。しかし作品そのものが悪い・恥ずかしいのでは決してない。作品のせいにするな。自分のせいにしろ。それが自己否定者の筋ってもんだ。

同じようなことはネット(とくにSNS界隈)で良く見られる「例の漫画」っていう言い方にもある。これはnoteというサイトで投稿されていた、てつなつ氏の「3人でゲーム作るまんが」という作品に対する議論に基づく言い方だ。この言い方にも自分はひそやかに腹を立て続けている。

作品を語る際には、作者名とタイトルをきちんと言え。「例の漫画」と言うことによって、コメント者としての自分を「名無しさん」みたいな匿名化をするな。自分の傷は自分できちんと言い、表現しろ。作品に自分の傷を仮託するのが悪いってわけではない。それこそこの引用魔人たるわたしもよくすることだ。でも、だったら、作品への敬意として、ちゃんと言及をしろ。自分の名前を言え。そこで自分から引くな(匿名化するな)。つまり、傷つけてきたあいつらへの「当てこすり」をするな、という話である。おまいさんの敵はおまいさんが引き受け、対峙するものだ。敵が自分だったとしたら……しても、それでも、やっぱりおまいさんが引き受けるもんだ。殴るか引くかはおまいさんの自由だ。わたしの知ったこっちゃない。わたしはおまいさんの卑怯さを恥ずかしく思うだけだ。

……ということをSNSを用いて発言していたら、自分は長文ツイート連投して、これまた良くないことになっていただろうな、と思う。炎上云々よりも、鬱にまみれている自分の治癒が遅れるっていう意味で。

そもそもこういう風に腹を立てている時点で、妄想いまだ巣くい中、ってところである。なのでアムニージアックを聞く。フートン。

猿月セブンスヘブン日

いい加減手を動かせ……と自分でも思う。でもフートンからあまり出たくない(腰が痛い)。アムニージアックの音がとても納得がいく。落ち着く。体感として、最低限のところで、「安心」という糸で編まれた、なんかのスパイダーネットでキャッチされている感覚がある。どこまでも鋭く落ち続ける、っていうのではなく。だからこの数日これをずーっと聞いているのだと思う。これはLo-Fi HipHopの聞き方にちょっと似ている。

少しずつトム・ヨークの歌が「うん、これもこれで、有ってもよいものだな」と思えている自分がいることに気づく。前は妙に卑屈っぽくとろ~ん・にょろ~んとした歌い方する人だな、と思っていた。そんなに自己破壊と自己憐憫が好きか、みたいに。わたくし自身を棚に上げて。

詩人としての力量に疑問があるわけではない。あるいは、妙に自分の暗部に近しいものがあった同族嫌悪だったのかもしれない。なるほど、「うっせぇわ」に共感性羞恥をする若者たちも、それはそれでキツかったのかもしれない、と若干思った。(でもやっぱり彼らの態度はよろしくないと思うよ)

猿月ワイルダネス

なんとなく、ミュートピアの準備をしてみようと思った。少しでも気分が「落ちて」きたり、体調が悪くなったらやめようと思いながら。最初の一個、最初の一個だけでいいんだ。そう思いながらチップチューンやLo-Fi HipHopのMIXを垂れ流しながら作業、作業。

……そしたら、妙に作業が進んでいた。えーっ、意外なほどに進むな!と。結局、この日と次の日で、ミュートピアの用意の大体のところ、8割が終わった。最低限作るべきもの、用意するものは出来上がり、あとは最終チェック、ブラッシュアップ、データのアップロードだけ、という状況にまでなった。えーっ。今まで何をしてたんだ、っていうかあの「重い・大きい」と思っていた作業量は……アッハイ、それが妄想ですね。

猿月リバー日

昨日書いたように、このリバー日で大体の作業をし、作業量の終わりが見えてきた。通常だったら気分がアガりまくるところだが、意識してそういう風に躁っぽくならないようにする。

目の前のひとつの作業に集中する。「しっかり」やろう、とする。一歩一歩でいいんだ、とする。

今まで自分は、気分の波に乗る形で、「キターッ!」となった時の波の威力を用い、一気にこれまでの遅れ分をマクるやり方でやってきた。それで結局なんとかなってきた(ならなかったものもあった)。

今回は、そのやり方を根底から反省して、一歩一歩の地道な努力を続けることにした。この時、「努力」と書いたが、努力は「少しずつ積み上げていく」というニュアンスにするようにした。「義務」という観念を頭から排するようにした。

何も考えるな、目の前のものを一個やれ。今はそれだけを考えろ。

頭の中で、ラジオヘッドの「Let down」がずーっと、ずーっと響いていた。「OKコンピュータ」の中盤の曲だ。

www.youtube.com

自分の人生で、時たま、この曲がどうしようもなく頭の中で流れる時がある。それはだいたい、心が虚無的になってきたときだった。ラジオヘッドが凄い好きでもないのに、この曲が頭の中でリピートしてやまないときがあったんだよ。

でも、今回はちょっと違うかもしれない。

猿月レポート・オブ・リメンバー日

鬱が良くなっていっている。

「The king of limbs(枝葉の王)」を聞く。ちょっと前に自分は、「あまりラジオヘッドをバンドサウンドとして聞かなくても良いのではないか」と思っていた。でも今となっては、彼らの神経質な変拍子バンドサウンドが、妙に心地よい。彼らのバンドとしてのポリリズムが、何かを前に進めていきそうな心地になっている。

その時に唐突に思う。彼らはずーっと、創作の日々を続けていた、ということを。

ラジオヘッドはとくに、公式で長期活動休止期間というものを設けていなかったと思う(たぶん)。各バンドメンバーの個人活動はあっても(トム・ヨークのソロ、ジョニー・グリーンウッドの現代音楽作曲家活動など)、長期のバンド活動の休止はなかった。あっても1年くらい?これだけ実験的なことをしているバンドなのに。

つまり、彼らは自身の音楽性の実験性、探求性に飽きてはいないのだ。

コメントで、常連さん(カナリヤさん)が、ラジオヘッドの楽曲「Daydreaming」の感触について、仰ってくれた言葉を思い出す。

これは救いなのだろうか。救いとはこういう形をしているのだろうか。きっとそうなのだろうな。こう在りたいと願うんだろうな。こういった息苦しさ、焦燥感を具現化したような音像を彼らはずっとつくってきたのでしょう。こういう音像が彼らの軸なのだと思い至り、そしてそのことにとてつもない心地よさを抱いてしまう。そうなってしまうといよいよ僕はもう彼らを無視できません。

(中略)ただ僕が音楽に求めていたであろう意義をRadioheadは最初から携えて変わらず佇んでいてくれた。時に暴力的に。時にシニカルに。時に耽美に。そこがブレることがない限り、きっとこれからも彼らの足跡を追い続けて行くことでしょう。それが今から楽しみでなりません。

これは9th「ア・ムーン・シェイブト・プール」収録楽曲についてのお言葉だ。つまり、ラジオヘッドは昔からずっと、バンドを、創作をやり続け、それに飽き足らずにもっと、もっと、という日々を続けていた、ということになる。

彼らが「OKコンピュータ」を作り上げたとき、あるバンドメンバーはガールフレンドに「俺たち、凄いことをしちゃったんじゃないか」と電話した、というエピソードを前に読んだことがある。実際すごいことをしたわけなんだが。それは本当に「天啓」みたいなことだったんだろう。

でも、彼らはその後も作り続けた。一作ごとに違う音響実験、リズム実験を行っている。

今まで、自分はオルタナ者として、「レディオヘッドはいわゆる実験的、先進的バンドだから、その音楽的態度にリスペクトをする」という立ち位置だった。しかし愛好はせず。

今はむしろ、彼らの「毎日の音楽生活の営み」に興味がある。彼らは彼らで、一歩ずつ歩んでいった「音楽愛」のバンドなのだと思う。ラジオヘッドはいろんな音源をホームページにupしていることで知られる。バンドキャリアの早い段階からそうしてきた。今、わたしはそういう「音楽生活」をしているラジオヘッドのことが、とてもうれしく思う。

彼らの音の実験は、ただの実験で終わっていない。日々を良くするための、一歩一歩の毎日の楽しみとしての音の探求であるのだ、と思う。その音のアプローチから見えた、何らかの美というものを、楽曲として結実させているんだ、と。「トムヨークが曲を書いたからそれを実験的にアレンジして、はいレディオヘッドだよ世界の最先端!」という安易さではないのだ。彼らは毎日を、音楽で楽しみながら、楽曲を作り上げている。ああ、これがラジオヘッドというバンドだ、とそのとき、ようやくわたしは理解したのです。なんて理想的なバンドをやっているんだろう、と思ったものです。

ミュートピアの準備は順調に進んでいます。

猿月ポエティカル日(ミュートピア前日)

やれるだけのことは全てやった、と思う。少なくとも、準備のひとつひとつを丁寧にやった。各項目で、これ以上レベルを上げることはもちろん可能だけども、それをやるには実際にあと最低でも5日はかかる。これが現時点のベストな準備だ。

確かに、もっと前から準備していれば、そのベストには到達したかもしれない。けれども思う。この一週間ちょっとを、確実に一歩一歩進められた手ごたえというものが、何よりの報酬だ、と。その手ごたえがあるからこそ、今こうして、静かに喜びを感じられている。

これが同人活動の喜びだと思う。どれだけCDが売れたか、ではない。音楽生活を営み、その中でベストを尽くせたか、という話なんだと。そうか、自分は音楽のために努力をしてきたんだな、と今さらになって思い出す。それは誇ってもよいことなのではないか、と。

別に自分がラジオヘッド並みだ、って言いたいわけじゃない。そんなわけがない。でも、ラジオヘッドの音楽活動の日々というのが、今はとても尊敬できる。その結果として、ああいう音像がある。そのことが了解できた。

一歩一歩でいいし、不才の自分にとってはそれが限界でもある。でもその一歩一歩は確かにこうして自分を鬱から救ってくれたのだ、ということが、何より確かな事実である。今となっては、「一気にマクる」よりも、一歩一歩の価値・楽しさというものが、手作業を通じて、それこそ文字通り「手に取るようにわかる」ようになった。それで充分だ。

他人はどう思うだろうか……ってことをあまり考えなくなった。そういえばそうだ。

猿月、最近

ミュートピアは良いイベントだった。いろんな方が自分のサークルスペースにわざわざ足を運んでいただき、和やかにお話をすることができた。ありがとうございます。「他人はわたしを悪く思っている」という妄想はなんだったのか(明らかに妄想です)

 

ラジオヘッド、という名前について思う。ラジオは電波を受信する機械だ。受信する頭。

芦奈野ひとしヨコハマ買い出し紀行」に、「見て、歩き、よろこぶ者」という言葉(概念)がある。この物語の通奏低音になっている。

ラジオヘッドのメンバー、バンド活動の毎日も、それに近いものがあるんだろう。彼らはこの世界のいろんなもの……音、光、美、自然、人工、鬱、闇、そしてまた音、そういうものを、やたらめったら受信するんだろう。彼らの好奇心、実験精神っていうのはそういうことなんだと思う。

それは「センス」というものなのかどうか。彼らにしてみたら、「それは単なる頭なんだよ」と言いそうな気がする。5人の頭、がそれぞれ見て、聞いて、考え、歩き、よろこぶ。それはセンスというよくわからないものとは、別のものだと。どこまでも彼らの日常、音楽生活に根づいている、ただのラジオヘッド。

何回も書いたけれど、今は自分は、彼らのその自然さ、日常性、そしてそれが故の音楽生活の喜びというものに、とても尊敬を覚えている。自分もそうあれたら、と思う。時代の先端がーとか、音楽的実験性がー、とか、それよりも。もっとラジオヘッドのことを知りたく思う。彼らが受信した音のことも知りたい(どういう音に影響を受けたか、ということ)。彼らのラジオから発信される音を聞いていたい。

強く思う。音楽生活を営んでいたい。音を聞き、レコーダーでMIX、編集し、曲を作る。ホームページを整備し、世界観を説明し、たまにイベントに出る。CDやカセットがここにある。こういう音楽生活を、ずっと続けていきたい。

傍目からは何も変化がないように思えるわたくしのこの数週間であったと思うけれど、あるいは……。いや……まだわからない(と、思う)。とりあえずは、こういう風に自分はこの日々を過ごしたのですが。

ありがとう。

(サークル8TR活動)2/20土曜「ミュートピアvol.3」に出ます

このブログの筆者(残響)は、オリジナル作曲で、同人音楽サークル「8TR戦線行進曲」(エイトトラック~)というのをやっているんですが、明日2/20(土)に開催される、同人音楽webイベント「ミュートピアvol.3」に、サークル8TRで出展参加いたします。(残田響一、8TR残田名義)

 

イベント特設サイト↓

mutopia.hagall.info

 

出展頒布物(CD盤)や、委託CD盤などの情報は、こちらサークル8TRのサイトにまとめました。

redselrla.com

 

今、出展に関わるもろもろの作業を終えて、この日記ブログでの告知文章を書いています。
……本当に、同人活動、音楽活動というものは、良いものだなぁ、と静かに穏やかに思っています。

最近、ちょっと心身の体調を崩しておりましたが、この同人イベントの事務作業をこつこつやっていくことで、一歩一歩こつこつと、心身(とくに精神)の不調が治癒されていく感じがしました。

このコロナ禍のなかでも、こうしてサークル活動、創作・発表活動が出来るというのは、ありがたい話です。

中年音楽マニアとLo-Fi HipHop

●Lo-Fi HipHop

激烈に「刺さる」音楽を求めてきたわたくしでありました。シリアスに音と自己との対面・対話を求めるような音楽。速くハードなリズム。味わいの深い美しいメロディ、和音。美と世界観を表現するノイズギター。魂の叫びの発露のアドリブ。


ところが、そういうのとは対極の音楽に、35歳の現在になって、ハマることとなりました。今回のお話の主題は、Lo-Fi HipHopです。あるいはそれに近しい音楽。


RAINING IN OSAKA (Lofi HipHop)

実にタルい癒し系の現代R&BHipHopトラックです。リズムは穏やかで変拍子なんてない。生活に調和するかのような和音、コード進行。メロディは控えめで抑制が効いている。そう列挙してみると、なんだかボサノヴァに近いように感じてしまいます。うーん、実は一部のボサノヴァはかなりLo-Fi HipHopの美学に近いのではないか?と思っています。少なくとも、後述するLo-Fi HipHopフィルター、ないしLo-Fi HipHop的音楽美学でボサノヴァを聞いてしまってみると……

 

Lo-Fi HipHopを自分がどう楽しんでいるかを正確に書くと、わたくしは「チルい音像に浸る」ということを求めている節があります。
冒頭で書いた、シリアスな音と世界観に対峙するような聞き方でなく、生活そのものと近しいところで、音に緩やかに包み込まれる。

www.youtube.com

エレクトロニ子さんが頻繁に夜中upされているトラックはよく聞きますね。

 

●中年オタク問題

さて、これはどこまで自分が「中年になった(オタクとして劣化した)」証左か? ーーと、自分自身を煽ってみます。シリアスに音楽に真剣になっていた自分はどこに行った?みたいに。

でもその問いに対しては、「正直どうでもいい」とスルっと返してしまう自分がいます。なぜなら、シリアス世界観の音に対峙するのを止めたわけではない。まぁ確かにシリアスに対峙する回数は減ったかもしれません。ストップ、まだデタミネーション(決断)は拙速だ。
しかし、レコード(CD、カセット)やMIX音源を聞く回数は、Lo-Fi HipHopやSynthwaveやチップチューンにハマって以来、ますます増えていっているのです。結局、一日何時間も音楽を聞いている。
むしろ、Lo-Fi HipHopあたりのチルい音を取り入れることによって、音楽をずーっと聞くにあたって、うまいサイクル、ルーティーンが出来ているとすら言えるのです。Lo-Fi HipHopでうまく自分の機嫌や調子を整えつつ、シリアス世界観の音にもしっかり対峙し、しかもシリアス世界観の盤の中のタルいチューンをLo-Fi HipHopとして聞いてしまってみる、というねw

Lo-Fi HipHopの楽しみ方(美学)を一度「よし」としてしまったら最後、これまで良さを見逃してきた様々な曲が、違った輝き方をしてきます。それは例えば、ロックのアルバムの中のタルい曲。

例をあげるのもなんですが、Red Hot Chili Peppersの「By the way」の後半って正直ダルくない?という意見が、前に聞いたことがありました。正直音楽雑誌にまで書かれていた。自分もぶっちゃけた話このアルバム、#6のゼファーソングと#7のキャントストップあたりまでと思っていました。
ところが最近、この後半部がやたら面白い。激烈にリフで刺さってくるようなロックではないものの、チルい、とまで言ったら言い過ぎですが、なんとも味わいがあるように聞こえてくる。そういう耳でさらに最近のレッチリを聞くと、ジョシュ・クリングホッファー在籍時の「The Getaway」を聞くとまぁ染みる染みる。爆裂ファンク・ロックチューンを求めている「いわゆるレッチリ」ファンからしたら肩透かしも良いとこだろうと思っていたこの盤ですが、一度「音に浸る」ことを良しとしたら、まぁ実に良い。

こんな風にメインストリームのロックですらこうなのですから、エレクトロニカとか古いR&Bとかヒップホップとかもうdig(レコード発掘漁り)の宝庫。ましてジャズなんてすごいですよ。もともとジェリー・マリガンの「Night Lights」(ブルックマイヤーとジム・ホールが入ったやつ)なんて、「良い感じ……落ち着くなぁ……」と以前から愛聴はしていました。しかしさらに「都会派チルの聖典」としてチル・フィルターを通して聞くと、これが凄いんだ……何もかもこの盤にハズれってものがないんだ……。こうなったら従来、「趣味は良いが地味」と言われてきたビル・クロウ(ジャズ物書きとしても有名)のベース・プレイの再評価ともなってきます(自分内)

www.youtube.com

 

●退屈


Herb Ellis & Remo Palmier – Windflower (1978)

ハーブ・エリスのリーダー作をこういう形で聞き返してハマることになろうとはこの残響の目を持ってしても……っていうかわたくしの若かりし頃には想像もつかなかった……?
さて、どうだろう。自分の若い頃は「今はこういう風に轟音ギターロックや上海アリス幻樂団ばかり聞いてるけど、将来はゆったりしたフォークの良さがわかったりするようになるんだろうか……」と思いながら、(うーんローリング・ストーンズはタルい……)っていう風にしていたリスナーでした。フォークに関しては正直まだ、どうなるかわかりません。「タルいチル音に浸るため、ますますdigを頑張るようになる」っていう、チルくタルくなるんだか、頑張ってるんだかなんだかよくわからん状況になっています。どっちなんだ。しかし今、ますますレコード(CD、とくにカセット)のdig(レコード屋発掘漁り)が楽しくなっています。

その「ますますdigが楽しくなっている」という一点にフォーカスを当てれば、なんだか全然退屈していないんですよね。中年とかオタク劣化とかそういうのが全然頭にのぼっていない。若作りもしていないし、成熟たる老年であろうとしているわけでもない。ただ、タルい音でチルく浸るのを求めている。

そういうのを求めるようになるということが、即ち老化、劣化、退化、オタとしての敗北なんだよ、と言われたら、確かにそうかもしれない。しかしそのことを論議するより前に、今の自分はチルい音源のdigに忙しすぎて、オタ中年問題に関わっている暇がない。

ただ多分、オタ中年問題に一番フォーカスを当てるべきところは、最新のコンテンツについていけてるか否か、でもなく、オタ活アクティヴィティの熱量の高低でもなく。ハングリーヤングデイズvs楽したいブルジョワ中年の対立でもなく……もしかしたら「過去の自分への裏切り」問題ですらないのかもしれません。フォーカスすべきは「退屈しているかどうか」の一点だけなのかもしれません。今、退屈していますか? さて、どうしてみましょうか……っていう。

しかしLo-Fi HipHopフィルターという存在、これは妙に面白い。

  • 音はタルくて良し。ギターノイズは必須でない(あるわけがない)
  • リズムはオフビートが望ましい
  • ちょっとした郷愁、哀愁を感ずるメロ(でも哀愁演歌メロディアス歌い上げじゃなく)
  • 生活音の面白さ

っていうLo-Fi HipHopフィルターでいろんな音楽……過去に聞いてきた音楽、今聞いている音楽、そして生活音そのものを考えてみると、音楽、そして「日常」の見え方・聞こえ方が変わってくる。
この「これまで見過ごしてきたものが変容する」というのは、音楽ファンとして最大級の喜びだったりします。中年期を迎え、Lo-Fi HipHopを通して、その「変容」がもたらされたことが、自分にとっては最大級に良い。オタ中年問題よりも面白い、というのは、そういうことだったりします。

ところで、自分が作曲で活動している同人サークル・8TR戦線行進曲ですが、2/20の「ミュートピア Vol.03」と、2021春M3に、両方、webイベント参加をします。
サークルカットはこのように。

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サークルカット

mutopia.hagall.info

www.m3net.jp



ここで非常に恰好良いことを言うんですが、最近、Lo-Fi HipHopジャンルな曲を自作するようになったんですね。こんな感じです。

soundcloud.com

自分で作っていて、なかなか良い感じじゃないかと思うんです。上記の意味でタルくチルい音に浸っていられる。周囲の反応も「優しげでなかなか」という評価を頂きました。ありがたい限りです。
しかも最近、さらに生活環境音を合わせるために、料理している時のトントン音(包丁)、ぐつぐつ音(鍋)を録音するようになりましたからね……(苦笑

 

まぁそんな感じです。最近のみなさまの音の感じはどうですか?

 

●関係があったり、意識したりした参考記事

最近わたしの音の暮らしはこう - 残響の足りない部屋

ジャンル時流に乗るのを切っちまうのと、これまで伸びまくったジャンル世界樹が今ますます爆発する34歳の話 - 残響の足りない部屋

またいい未来で会いましょう。THE NOVEMBERS 配信ライブ 「At The Beginning」の感想を書いてみる。 - Nothing is difficult to those who have the will

オタク中年化問題 in 2021 - シロクマの屑籠

カセットテープが大好きです

ガールズ&パンツァー最終章・第3話のムビチケ特典が、カセットテープだそうですね。なるほどです。それから、ネットニュースで、カセットテープが取り上げられているそうです。

それはともかくとして、この数年間わたくしにとって、一番熱い音楽メディアは、まぎれもなくカセットテープでした。それも現在進行形……!

今日も新しいラジカセ(ラジオカセットレコーダー)と、空の10分テープを8本ほど購入しました。昨日は昨日で、通販でインディーポップバンドの新作カセットテープを4本購入しております。

 

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新ラジカセと空テープと新譜

なんでそんなにカセットテープが好きなのか?

まず何よりカセットテープという「モノの形が可愛らしい」というのがありますね。カセットテープはカセットテープの形として、完成しております。磁気テープを守るプラスティックの御姿。ラジカセに「ガシャッ」と入れたらくるくる回るテープ。カセットを購入したり、オリジナルテープを作成したり(後述)して、テープを自分のものとして、直に触る。撫でる。ちょっと匂いをかぐ。そして触る。磁気テープがたるんでいたら鉛筆入れてちょっと直す(クルクル)。「モノ」として扱っていて楽しい。

この点、こう言ってしまっては何ですが、レコード盤よりももっと雑に扱えるところが、モノとしての「可愛さ」に拍車が掛かっている、とみなすのがカセットマニアでございます。どうしようもないな。この「可愛さ」というのは、「おもちゃっぽい」とほぼ同じ意味です。そして、この文章の筆者は、「おもちゃっぽい」モノの形を、とにかく愛好しています。でなきゃ何度も模型やおもちゃの話をこのブログでするものですか。

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ミュージックテープその1

次に、「カセットの音」が好き、というのがあります。音楽メディア(媒体)である以上、音質の良し悪しの話は避けられないものであります。一般的に、カセットの音は悪い……というのが言われています。

しかし、わたくしが「求めている音の形」というのは、カセットテープの音なのです。

カセットの音は、ハイファイではございません。音圧も薄い。基本、モノラルで再生されるため、ステレオという観点から見たら、レコードやCDに劣ります。

ですが、カセットの音というのは、上記の欠点がそのまま良点に変わるのですね(マニアには)。モノラルで中域がぐーっと押し出されて、まっすぐに、半径1メートルで届く(完結する)親密な音、とわたくしは良点をとらえております。

それから、カセット特有のノイズ、と言う向き(批判)もあるんですが、これってほとんど、ユーザがラジカセ内蔵マイクで録音した音のことを言ってるんだと思います。実際にカセットで新譜を買って聞いてみれば、ぱっと流して聞いて、イライラするノイズって基本ありませんよ。いや、もちろんユーザが録音したカセットに乗るノイズっていうものも、マニア視点からみたらまた乙なものでして……(どうしようもない)

もとからわたくしは、ハイファイを志向するオーディオマニアではないのです。むしろ、「カセットの音」の半径1メートルの親密さ、というのを求めているのです。窓辺の机に座って、正面にラジカセを置いて、そこから流れてくる音。どこぞの世界から、未知の音楽が流れてくる。それを求めている。今も。

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ミュージックテープその2

令和時代の、今のカセットを取り巻く状況ですが、新譜カセットに「MP3デジタルデータ音源のダウンロードコード」が付くのが、当たり前になりましたね。ユーザがMP3プレイヤやスマホに音源を入れる際、ユーザにアナログ→デジタルのリッピングを求めるようなハードコアは、時代とマッチしていないだろう……という認識のようです。ミュージシャンやレーベル側も。

それから、カセットテープの美点として、「自分で作れる(DIY」というのがあります。なんてったって、録音メディアなのですから。

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メインで使っているラジカセ(白)とSANSUIのMP3ラジカセ(青)

例えば、SANSUIのこのラジカセなのですが(上記写真の左の青いの)、これは、USBメモリやSDカードに入っているMP3音源を、再生はもちろんのこと、カセットテープに録音も出来る、得難い代物なのです。

この逆はよくあるんですけどね。カセットテープの音源(アナログ)をMP3音源(デジタルデータ)にする、というコンバータ付ラジカセ。でも、SANSUIのこの機種のように、「わざわざMP3データを使ってカセットテープを作る」というのは少ない。もちろん、外部ライン入力が付いている高級カセットデッキがあれば済む話なんですけどね。TEACがこのご時世、ほぼ単独で出していますし。いずれ買います(決意)。

それはともかく、自前でMP3音源を用意すれば、あくまで私的にですが(売ってはだめよ)、これまでCDや配信音源でしかなかったアルバム作品を、私的にカセット化して、私的に楽しむことが出来るのです。カセット化して何をするのかって?聞いて、カセットを愛でるんですよ……!(当然すぎる)

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携帯カセットプレーヤと自作or自宅に埋没していた私的カセット

自宅から、もう誰も聞かなくなった想い出のカセットを発掘する楽しみもあります。さすが磁気テープ、傷がついていなければ、音が「持って」います(ダメなものもありました)

ラジカセから流れてくる「当時の音」や、過去の自分が演奏・歌唱していた音が流れてくる。無性にタイムスリップ。時間の流れ方がぐにゃっと歪んで素敵な午後の時間を過ごすことが出来ます。ときたま「ああ、こういう音楽もあったなぁ……」と思い、「じゃあ今はどうなってるんだろう」と、youtubeで調べてみるのも一興です。アナログとデジタルは、もはや敵とばかりは言えませぬ。双方の良いところを使っていきましょう。何よりすべきは、「音楽を聞く事」ですから。

 

令和3年(2021年)の今、カセットテープで新譜を出すミュージシャンが、すこ~しは存在しています。主にインディーポップ、エレクトロニカ、Vaporwaveの領域です。あるいはアナログ世代のベテランミュージシャンが出したりしています。

とりわけわたくしは、インディーポップ/カセットテープレーベルのGalaxy Trainを贔屓にしております。自分がカセットにこれだけハマったのも、Galaxy Trainの作品群を買いあさるのと、2019年の穏やかな光さす小春日和、東京・中目黒のアナログ/カセットテープ専門店・Waltzでカセットテープを買いあさったからです。

galaxy train (@GalaxyTrainTape) | Twitter

waltz | カセットテープ & レコード from 中目黒

自分なんぞ、先達のカセットマニアからしたらまだまだ新参です。ですがそれ以上に、カセットに対する申し訳なさが一抹ございますというか……これまで、家の片隅でホコリをかぶらせていた、申し訳なさがあります。すまない。すまない……。モノの価値がわかっていなかった無知なわたくしでありました。その分、これから可愛がっていきたいと思います。

出来るものなら、ラジカセのヘッドの調整など、ラジカセにトラブルがあった時でも、手前で対処できるようになっていたい、と考えています。

路上観察入門の日々(コロナ禍において)

●コロナ禍に対して言いたいことはなかったのですか?

この1年、当ブログではほぼコロナ禍について語ってこなかったことを、ひそかに「よっしゃ(ガッツポーズ)」と誇りに思っております。なにせ創作以外で自分がネット発言している場所は、当ブログしかございませんから。
多少の例外としては熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な社会の不自由さについて』感想文1~3で、コロナ禍で変異した社会を前提にして書いたところはありますが、それくらいかなぁ。

熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』一読目の感想 - 残響の足りない部屋

『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』感想その2 - 残響の足りない部屋

清潔を巡る問答ーー熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』感想その3 - 残響の足りない部屋

なぜコロナ禍を話題に出さなかったかというと、ノンシャランな趣味人としての自分を保っておきたかったから……というのが非常に大きい。
それと、「より一層の清潔」を志向する社会を見ながらの、過去の強迫性障害の自分を思い起こしてしまう論調だと、ブログを読んでいて実にしんどいから……というのもございます。

わたくしはバカをやっていたかったんですねー。コロナ禍の社会であっても。コロナを「語らない」ってことが、自分なりの政治的態度でした。この社会状況において、社会を語ることは、否応なく「社会にコミットしていく」のと同義だと、わたしは思っていました。
そうじゃない。自分自身はもっと、社会と距離を置きたいのです。最低限の食糧、水、電気、ガス等のインフラを共有使用出来て(原義の「共有」。シェアってテン年代現代語が嫌いです)、図書館と病院に行けたら、後は文句はない。もちろんそれこそが「社会にコミットしていく」ことの表れですが、「積極的に社会にコミット」したくはなかった。生活費を稼いで、あまり会話をせずに、ひたすら自分の趣味をしていればよい。何度もこのブログで書いていた「非=社会的」になりたい、というのはそういうことです。
社会のインフラを維持するということの為になら努力は出来ます。むしろそっちは率先して行いたい。でも社会(絆っ!)ってやつを自分のこころに内面化はしたくない。


さて、その趣味とは何か、というと、これまで通り創作活動であったり、読書や音楽鑑賞、模型工作というのは変わらないのですが、この2,3年で自分には「路上観察」という趣味が増えました。

路上観察考現学

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海辺の道路

今、いろんな面白い本はあります。しかし、そんな面白い本の数々に比肩するくらい、路上が熱い!(自分の中だけで)


例えば、道路。そう、皆さんが日がな外出するときに歩いているアスファルトの道路。この情報量の多さといったら凄い。電柱と電線が区切る空の青さが面白い。道路に記されている白い太文字の注意が面白い。アスファルト自体の経年劣化が面白い。そんな道路を割る形で草なんか生えていたらそのコントラストがめちゃくちゃ面白い。草……そう、草。雑草。花、樹木。有機物の生え方も実に面白い。

そして、ただ路上を観察するだけでも楽しいですが、「路上をスケッチする」絵画表現を前提として観察すると、楽しみはさらに増す……構図や色彩、草の形や分類を細かに見ることの出来る「目」が生まれるので、倍率ドン、さらに倍!的に面白い!
車も面白い。タイヤのホイール、ボディの流線、排気ガスに震えるマフラー。
標識なんて、路上の宝であります。ぽつんと立っている「とまれ」の標識、制限速度の標識。ピクトグラムそのものといえる標識。その切なさを見ていると絶頂すら覚える。

 

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山林キャンプ地での石段

それは例えば赤ん坊が、この世をはじめて見て、やたらと好奇心を爆発させるのに似ているんでしょう、この路上観察という趣味は。
もっと言えば、どうして自分はこういう情報量の多さを、これまで「当たり前」の名のもとに、これまで見過ごしてきたんだろう……という。

じゃあこれまでの人生は無価値だったのか?余計な情報をインストールしまくりでしかなかったのか?
違う。わたくしのこの30余年は、今のこの路上観察の楽しさに至るためにあったのだ、と思う方が楽しい。人文学の知見、漫画・絵画の構図。音楽の「神は細部に宿る」エモーション。全てが紐づいている。大樹が地に根付き、空へ延びるかのように。

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山林キャンプ地2

どの人間も、路上には当然飽きます。だって毎日歩くような道ですもの。飽きないほうがおかしい。
ところが自分は、改めて、じーっと眺めてみることに楽しみを見出してしまった。panpanya先生の漫画の影響ですし、いわゆる「VOWタモリ倶楽部」的な物の観方が自分の中にもともとあったとも言えます。これは、たまたま自分の視点・観点が、ズレただけの話なのかもしれません。
しかし、新しい視点・観点がひとつあれば、路上が輝いて見える。本をちょっとは読んできた自分が、「本と同じくらい面白い」と路上を思えているだけの熱が、ここにある、ここに居る、という。
おそらく、視点・観点をズラしてみることこそが重要なのです。固着化してしまったこれまでの視点から。
そしてそれは、「それまで」の人生が無価値だったわけではない。むしろ「それまで」の知見に新しい意味が見出せる。押し入れに眠っていたガラクタが一気に宝の可能性に変わった瞬間です。少なくとも自分の音楽趣味に「Vaporwave」が入った時から、リアルに押し入れに入れてたビデオテープ(VHS)が宝の山になりましたよ(笑

なんってったって路上は無数にある。自分の住む町にも何本、何十本も道路があるのに、隣町、市、県、国、隣国、大陸、世界……と考えていくと、もはや無限である。人間が扱える数ではない。
それでも人間は記録する。記録し、遠くの世界にある情報を、どっかの同好の士に向けて書き綴る。それはとても意義のあることと思える。

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コロナ禍において、ステイホームが言われるようになった都会では、路上観察者はいかがお過ごしでしょうか。
自分が住んでいる山奥の村では、ステイホームも何もあったもんじゃない、ナチュラルボーン・ソーシャルディスタンス=過疎村なので、雪が積もって路面が凍結していない限り、ちんたら冬の路上を観察することが出来ます(今年、シマーネ農業王国は大寒波の猛吹雪なのです)。
人間万事塞翁が馬と申しますが、これまでこの村を呪ってきた自分でも、この状況を「結果的に」利用出来ているのは、否定できない。
正直まだ、ぐちゅぐちゅにぬかるんだ雪解け泥の路上に美を見出すまでには修行不足なわたくしですが、いずれはそれも楽しめるようになれば幸いと思える。
まぁ正直、前述したようにpanpanya先生の漫画の受け売りから始まったこの路上観察考現学ですが、それでも日々を楽しめているのは嘘じゃない。
とはいえ、それを他人に認めてもらいたいとか、他人にも楽しんでもらいたい、とかは考えません。ただ自分が自己満足で楽しんでいるだけです。でもその楽しみを、未来の自分につなげていきたいと考えています。
このコロナ禍の社会状況で、なかなか難しいのは「自分を機嫌よくさせること」かと思います。なかなかの無理ゲーになってきました。己の精神衛生を健やかにするってことは。つい社会を論じたくなります。社会問題に義憤でもっていっちょ噛みしたくなります。
そんなときの自分自身は、やはり路上を観察すべき時なのでしょう。人間の欲徳とかとは、ちょっとズレたところにある路上のアスファルトや雑草を。

 

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