残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

ネットコミュニケーションとエゴのこじらせ

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前回の続き。フーハハァ眠い!眠いが、なんか書きたくなってしょうがないので、書く。自分はなんでネットをし始めたんだっけ、と思ってしょうがないから。
自分はなんでネットをしたんだっけ。そりゃ最初は……もう12年か……最初は「新しいものだ!」「最先端がコンピュータだ!」っていう概念があったさ。そのうちにアングラへの興味っていうのがありましたね。そこからエロゲ/オタ文化へ一直線でしたわ。体系だった把握までは無理でも、「なんかここに可能性があるらしい」ってことは感じていました。


そこから、いざほかの人とコミュニケーションをとってみる、までに、時間がかかりました。自分にとってネット上の人々っていうのは、コンテンツ作者も、レビューサイト管理人も、サイト掲示板常連も、みなひとりひとりが、「舞台にあがってる人たち」の感覚があった。役者さん、というか。自分がそこに入っていっていいのか、の感覚。


だからROMが長かったネー。その間、結構自意識をこじらせてしまっていた。で、自分がネットにはじめて書き込んだとき……そのときの内容はともかく、テキスト表現が、実に痛々しい。「神!」とかってやたらと使ったりして……。


ようは、自分と文章と他者、との距離感がつかめていなかった。


それは今はどうか、というと、まあ多少は「慣れた」といっていい……とうか慣れなきゃ、おまえ12年間なにをしてたの、っていうか。
ただ、過敏症にはなった。こじらせがよけいひどくなった、というか。ああ、じゃあ、自分はネットをよき方向には使っていなかったのか。そうじゃない、そうじゃないんだ、自分はネットでよき人たちと会うことができたんだ、いささかなりとも孤独から脱することができたんだ、可能性ってやつを、広がりってやつを得ることができたんだ。それは嘘じゃない。


ただ、その可能性と広がり、を、自分自身の手で、より開拓していく方向……自分自身を表現していく方向、に、もっといってもよかったよなぁ、と今ちょっと思う。
まあ自分のこれまでなんて、なるようにしかなってこなかったのだけど、それでも「もうちょっとなんか……」っていうのはある。ネットは自由だという思いをもう一度取り戻せ。何がインターネット生態系だ。ネットのしきたりだ。空気ってなんだ……ネットにまで空気か。


あるのは、古きネチケット(この言葉を使うのも久しぶりだ)。それだけで十分だと思う。それさえも十分に守れていないのが俺なのだから。俺はそこに立ち返れ。そして、井戸端会議の参列者にだけなってるのをやめろ。


ふと気づいたときに、自分の好きなコンテンツの「語り」の場を、ためすすがめつして見ている自分。それはそれでいいものだ。自分が好きなものを、同じように好き、と語り合っているひとたち。自分よりも豊かな表現でもって、以外な表現でもって、好き!を語り合っているひとたち。そのひとたちはぼくにとって眩しかった。
彼らにも彼らなりの人生はあるのだろうけど、自分(ぼく)のよーな他人にはそれをビラビラと見せない強さが彼らにはあった。ただ「好き!」を語っていた彼ら。


今のネットは……いや、今のネットユースがどう、といってもしょうがない。キヨラカに、マネタイズになってってる方向をいってもしょうがないし、向こうもこっち(ぼく)には興味があるまい。
反発しあう磁石のように、強烈な違和感どうしが語り合っても……。
ぼくは、ぼくのネットコミュにケーションを、もう一度考えなくてはならない……ということもなく。
ぼくと語ろう、としてくれてる方々を、てきとーにあしらうようなまねだけはしたくない、ってだけだ。ぼくはそのようなことを訓戒しなくちゃならんまでに、墜ちたか。


なんでこんなことをウダウダ書いてるか、というと、やっぱりリアルでこういうことをウダウダ考えているからで。文体も論理もかなぐり捨てて、とにかく思ったことを吐き出す。韻律(ライミング)も語彙も気にせずにとにかく書く。書くということに己がある。己の限界は、今このようにして書いてるものだけだ。それ以上に己はない。自分の可能性、ってやつも、このかかれたテキストにしかねえ。「もっとマシな自分」はない。「もっとコミュニケーション巧者な自分」もない。「テキスト巧者」な自分もない。「思想的に豊かな自分」もない。「表現者としての豊かさ」もない。ああ、今ここにしかない。可能性ってやつは、限界を見据えたところにしかない。そして今の限界は、まさしくここだ。もっと文章を練って、思考を練ればもっといいものができるって? 君はそうかもしれんが、ぼくは今こうやってジャズアドリブをするかのごとく、言葉を吐き出すほかねえ。息(ブロウ)を吐き出してメロディらしきものをつかみ取っては、それを自分だって、詐称するんだ……。


なんの話か。コミュニケーションの話だ。
まあもっとも、自分はコミュニケーションだけに全振りしているスキル人間をヘイトしているのは事実で。まず人格なり、そのひとの固有スキルなり、固有コンテンツなりがあって、そこからコミュニケーションははじまる。コミュ術なんて所詮は潤滑油だ。(コミュマナー=ネチケット、とはまた別ですよ)
そう、自分が固有コンテンツを耕しきれてなく、結果自分がどんどん墜ちてってしまってるから、ひとは……かつて和やかに会話していたひとたちは離れていったのではないか。
じゃあ、ネットが、SNSが悪いんじゃない。自分が悪いか。その自分の悪さに、自分自身が耐えられないというだけだ。


どうも自分は自分を攻撃するのが得意でしょうがない。テンサイだ。その攻撃の弁舌を、ほかのもんですればいいのだろうが、どうも自分にいく。自分を攻撃すれば許される、という論理。だけど最近はその論理も破綻して、ただ自分を殺せば、なんかよくなる、というふうに信じ切っているのだからこまる。


それでいて、自分の攻撃性を、つぶさに観察して、小説にでも仕立てることも……できず。攻撃性を、音楽に仕立てて、ひとを熱狂さすことも……できず。
ただ、こういうコンプレックス文章を、吐き出すようにして書くだけ。そこまで墜ちたひとを、過去の自分はどう思うか、ということもまた、考えても仕方なく……わかりきったことだ。

コミュニケーション。
そこに祈りも介在せず、いつしか「当然」もなくなってしまったこと。まあそのようにして鈍化した存在に自分がなってしまったから、生き延びられているのだろうが、それはそれとして、いつか仕返しがやってくる……違う。だれか、がそのように悪墜ちするんじゃない。自分が、自分を攻撃するタネをもっと拾ってくるだけだ。


文字が文字としてこの紙面を黒に埋め尽くす。そんなに怨念のなか生きているようになってしまったのか。生きてるのなんて楽しくねえよ。


なんつうか、自分が自分であるだけで、自分を肯定できたら、ってほんと思うよ。
そうじゃないから、自分が何かをつくらないと、自分を肯定できない、って信じ込んでるから
そして、だから、作る手が、止まる。止まったら、よけい自分を攻める。攻撃。否定。そんな自分。
自分は自分にこだわりすぎてる、ということだ。もっとエゴを離れろ、結局エゴは作品の出来を損ねる。
そうはいっても、自分を動かしてるのはエゴだ。何かの奉仕として生きたい自分もいるけれど、それは結局肥大化したエゴの裏返しだ。それは俺が一番よく知ってるよ。
もうこんなエゴなんていらない。石炭のように、くべてしまえばいいのだ。そして表現のスチームエンジンをわかせ、なんでもいいから作ってしまえ……。もう考えたくない。考えたくない。考えたくない。
「若さ」なんて、もうないよ。気づいたときには失ってたよ。あるのは、「これまでの惰性」という慣性上の動きだけだよ。そんなベクトルだけの存在に墜ちてしまったのかよ。
誰を愛することも忘れ、誰を大切に思うことも忘れ、ただこのようなポエムにだけ自分を託して、これなんかが自分の限界で……ひどい。


疲れたので、また今日はここで記事書くのやめる。こんなの書き続けて、どうにかなんのかな自分は。ああ、また自分のことを考えている……