今日、すごく怒り心頭だったんですね。
あ、M3レポですが、今もまだ怒り心頭がつづいて、体がもたんので、また落ち着いたときに書きます。大切な記憶ですからねあれは……この怒りコンディションで汚したくない。
えと、とにかく怒り心頭でさ。
最近はとにかく、ふとしたときに怒りが湧いてきてしょうがない。心の中の阿修羅がのたうちまわっている。そして心臓をその剣でざくざくみじん切りにする。いたい。
この、怒りに、理由がないっていうのがなかなかすごい、。ほんとに理由がたいしてなく、ふとしたときに、烈火の怒りがわく。
なんでだろう?
●それをネット(とくにtwitterで)表さないという処方箋
twitterで言われましてね、あるフォロワーさんに。それもDMで内々に。
「残響がtwitterでネガを率直にいうと、人は心配する傾向にある。血みどろ血反吐を吐きながら、「ぼくは大丈夫です!」とへらへら迫ってくる感じすらある。それはちょっとどうかと思う」
……それは、ほんとに耳を傾けるに足る、痛い言葉でありました。それ以来、自分はtwitterではネガをはかないようにしてますし。
まあtwitterなんつうのは、何かを「吐く」には都合のよろしいツールであります。スイスイと流れていくTL、表明しやすい140字、深夜テンッショーンヌ。
だからこそ、踏みとどまってSNS地獄に足を踏み入れ為さんな……そのひとの訓戒を、それなりに時間がたった今でも、結構訓戒として、素直に受け入れてる自分です。
ぼくはわりとひとに影響されやすい人間で、あんま自分の核っつうものはないと思う。あったとしても、とても淀んだ混沌であり、都合のよろしい矛盾だと思う
それが吹き出るのが今日なんだろうな、と。
それを対処するのは、自分の核から出た信念……と、長い間思っていたけど、そもそも自分の核自体が歪んでいるんだったら、荀子流の性悪説=人格矯正メソッドに基づいて、他者の言葉を訓戒にして自分を正すほかはないんだろう。
ちうか。
自分の核っちゅうものがなくて、しかしその核は他者を汚すようなもんだったとしたら。ドロドロダラダラとね。そういう自分の核をどーにかしてまっとうにせんといかんのよね。他者の言葉をつかいつつ、自分自身が自分の核をどうにかしつつ、核を「強い意志」にしていかんといかん。この双方向。
ええとおなじこといってんな……
ふたつの矛盾した思いがあってさ。
この怒り、淀み、っていうものを、(1)自分の創作として、オリジナル小説とかに昇華さす
か、
怒り、淀みを、(2)全部そのままぶちまける、か。
●さらに今日苦しかった、ていうか最近苦しいことについて=表象、創作
でも、この怒り、淀みをそのまま、今日怒った・淀んだよーに、それをそのまま創作すんのって極限にムズくてさ。
簡単な理屈で、たとえば、ある日常系ラブコメ書いてたとする。で、今日まで書いてきたシーンが積もり積もって、やっと告白のシーンに至ったとする。そんとき、今日みたいな怒りがふつふつマンだったら?
――それをぶつけるわけにはいかんだろ、告白シーンに、JK……(女子高生ではない
創作とは、無数のカードをひとつひとつ作り上げ、それを無限に適切に配置していく作業、ともいえる。
今日思ったことを、べらべら喋る作業とは違う。
ある理想宇宙に基づいて、適切にくみ上げていかなければならない。よくいう自分をエモーッショーンを表す、というのは、その理想宇宙が自分のナマを求めたときに、適切にナマをぶっこめるかどうかである、という理屈。
同時に、ナマが必要なときまで、自分のナマエモーションの猛りを保持しとけるかっちゅうはなし。
大作長編小説が完成しない所以だわな……。
だから、自分のストレスを解消しよーと思ったら、(2)ぶちまける、の方向にいくのだが。
これやるとね、先のtwitter賢フォロワーのいうように、所詮見られるのが「血反吐」なんよ。血へドマンやんてめえ、と。
それは美しくないなぁ……。
ようは、創作とは、「自分」をあらわすものであるが、「美しく」なくてはならない。誰もドブ池を求めてはいないっちゅうはなしだ。
あ、反論として「ドブ池も創作には必要だ!」って反論は、レイヤを履き違えているからね。手法としてドブ池的汚さ手腕を求められる場合、モチーフとしてドブ池光景を用いる場合があるけど、それでもそれを切り取り、描く場合には、つねに作家の詩的精神の美しさが必要で、そこからドブ池を浄化していくことにこそ、作品の真髄がある。反論おわり。
ドブ池からくみ上げた腐り水を、観客にむけてビシャーっとさしても、それはねえ……うーん、ほんと、今言ってることは、先のtwitterフォロワーさんの言ってることとおなじなんよ。
意地でも、「作品」にするからには、自分の心がいま「ドブ吐き出す」ことを求めていても、我慢して、キレイな告白シーンを描かねばならない。
……まあ、告白シーンのきれいさで、テメエが浄化されるって理屈もあるんだけどね。しかし、鬱が極まって、怒りが極まって、ちょっとそっちのクリエイトに向かない/おっつかない、って場合の話ですよ、いまは。
その「美しくない方法ではしちゃいけない」というのと、でも「ぶちまけてしまいたい!」ということの相克。
作品にするために、冷静に見極めろ、という理性と、
そんなことしてられっかよ!という本能(苦しみ)。
このあたりが、どーすればいいのか、というので、最近苦しかった。
なにより……テメエのドブ池のニオイを常にかぎ続けてるのは俺だかんね。
●寝ろ!/あるいは、回路
それが一番いい解決法なんですかね。どう考えても人体コンディションにもとづく不調なんだから。
しかし、この怒りエネルギー、ただ寝て消尽さすだけでいいのかいな、という思いがある。この怒りエネルギーを、鬱エネルギー(マイナスエネルギー)を、何かに変換できないものか。
そうして変換してクリエイトしてものが、自分を癒さないものか。わかんねえな、ここまでにいたると。
……というか、クリエイターのひとは、すでにこういう変換できる「回路」をつくっているんだと思う。
小説書きのひととか、漫画家のひとは、私小説の鬱作品、っていう形で。音楽家だったら超ディープなヒップホップとか、折れそうなピアノ曲とか。
おそらく、回路を作れたからこそ、生き残っているのが、プロのクリエイター、か。どんなに誰に何を言われても、とにかく回路を動かすことによって、作品を「作っちまう」。
うらやましいよ、その回路が。
なんでそいつらに回路があって俺には回路がないのか、というと、
……「努力」としかいいようがないなぁ。
この場合、天才とか才能とか、っていうのはそんなに関係がないと思う。だって、これは苦しみ、に対する処方箋であり、対処療法だから。それを個人がどうやって作り上げたか、だから。……ああいうひとたちだって、苦しかったんだ。だからこそ、必死に努力して、回路をつくった。
翻って自分のことを考えると、もっとわかいウチに回路をつくっておくべきだったんだ。自分を「ナニモノかにならねばならない」と焦るばっかりで、自分に降りかかってくる苦しみを、何かに浄化さす回路を、是が非でも作っておかねばならなかったんだ。
どっちが生きてるのがたのしいか、っつったら、「作ってる」ほうですよ。この歳になってるとな、まわりのオタクたちのなかで、「自分は消費者のままでいいのか」っていう思いと、「でもクリエイターになれなかったな」という思いで無限に落ち込んでいってるパターンを良く見かけるようになってくる。20前半よりも、もっと。俺だってそうだ。
(古いネット友人・義実さんの書いた記事です)
ともかく、俺はいまの俺の怒り、わけのわからない怒り、30を越えてまだ怒ってる俺、をどうにかせんといかん。
ひょっとしたら「理想宇宙を作る」という創作のしかただけではなく、
「ドブ池を突破するための回路」としての創作ってもんを、マジに早く……1日でも早く、作り上げないと、どーにもならない。金なんてどうだっていい。自分が癒されるものでなければ……癒されればどーだっていいのだ、手段など、形式など……。
(今書いてるブログがそうだろ、って?そうかもしれない。あるいは、ほんとにそうかもしれない。だったらぼくはこの「残響の足りない部屋」を今日まで生き残らせていたのを感謝すべきなんだろう)
(でも、もうちょい、ブログ/雑文/散文以外に、なんかオリジナル世界創造、オリキャラ動かし、という方向で探ってみたい自分もいる)