残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

読書日記2010・春(後編)

近況報告


パーフェクトにくたばってました。そして絶賛放置してました、このブログ。どうもすいませんでした。相も変わらず、持病の悪化です。この数週間はほんとに大変でした……ちょっとした文章ひとつロクに書けなかった、というあたりでお察しください。


ようやくこの数日ですかね……少しはマシになってきたのは。しかし、この数週間は本当になんだったのか。何も出来ませんでした。小説はおろか、ブログの更新はおろか(もう春じゃないよ、読書日記!)、mixitwitterでのちょっとした更新ですら出来なかった、という。考えれば考えるほど暗澹としてきます。


そして、未だ先行き不透明、という事実。これからまた週一ペースで更新できるか、といったら、言葉を濁してしまいます。しかし、書きたいことはたまっています。そして、文章を書きたい、という意志もあります。


自慢話になってしまいますが、このブログを登録している文芸系のとある検索サイトでのとあるランキングで、この「実験秋雨前線」がたまたま(でしょう。「たまたま」以上の理由があるとは思えん)ちょっといい感じになってるのを発見したのです。いや、正直、すごく嬉しかったです。こんな辺鄙なところの、しかもマイナーな話題(前回の話題にしたって、『あっちこっち』はともかく、アンソールの絵に関する云々なんて……)しか扱ってないブログ、誰が読んでるんだ、なんて暗鬼の念にかられていることも、ないわけではなかったのですから(それはあらゆる表現者の思い悩むところだと思います。少なくとも、文章を公表するということは、すなわち「誰かに読んでほしい」と同義なのですから。「そんなことはない!」と声を発するのは、嘘でしょう?)。


神経質であることは自他共に認めるところであります。その上に、自分の人格が複雑なのか単純なのかも判然としません。しかし……やっぱり単純なのでしょうか、こうして評価が目に見える形で現れたことに、結構気を良くしてしまっている残響さんです。そしてこれがまた文章を書くモチベーションにもなる、という、単純ながら健全な正の循環。


とりあえず、出来ることは、なるべく文章を書く量をこなしていくことですね。とにかく、どんな形でも文章に関わっている状態を保つこと。しかしそれを考えたら、去年(大学院時代)はよく更新していた方なんだよなぁ……。


もちろん、今執筆が停滞甚だしい長編小説(連作短編)を少しでも進めることが第一。ていうかいい加減ケリつけないと……。次に控えている小説がどんどんたまっている状態です。


とまあ、こんな風に一応はものが書けるようになったのも、ひとえにわたしの努力……ではありません。お薬と主治医氏の力です。あとは成り行きと運。わたしの力なんて何でもありません。謙遜ではなく、実際わたしは何もしなかったのですから。……ほんとに。


明日はどっちに転ぶのか……次の日わたしが普通に過ごせるかすらわからない状況ですが、しかし出来るだけは文章から、創作から離れたくはありません。なるべく努力します。このブログにしても。……それなりにネット歴を重ねてきていますが、放置されているサイトやブログを見て、昔は「何で放置なんかするのだろう?」と思っていたものですが、やっぱり自分でやってみなければわかりませんね(笑)。


あ、そうそう、プロフィールを若干更新しました。より現状を反映したものとしました。さすがに古い情報でしたし、内容にもバリバリの齟齬がありましたから。それから、リンク集を手直ししました。とくに、掲示板を廃止しました。twitterあるし、コメント欄もありますし。あんまり書くところばっかりあっても仕方あんめえ、ということで。


●読書日記……の前に


というわけで読書日記です。ずいぶんこれも長くなってしまいました。


もともとはこの読書録、サラッとした感じでいこうと思っていたのですが、いざはじめてみると、思いのほかマジな感じになってしまって、結果、こんなダラダラした長文となってしまったのです。企画書通りにものを作れない創作者はクソじゃ、とはさすがによう言いませんが(言っとる言っとる)、しかしコンセプトをきちんとしないところの表現は、結局は散漫なものに終わるということは歴史が証明しているところであります。何よりもこのブログの文章が証明しています。


しかし……少々自己のために弁明すれば、こうして本と向かい合って、とっくりと思うところを述べた、というのは、自分にとって久しぶりなことでして(このことがもの書きとしての自分のレベルの低さを表しているわけですが)、その意味では、なかなかいい経験になったのではないか、と。いつもこういうことをやりながらの読書になってしまうと、プライベートな楽しみが薄れてしまうわけですし、孤独に沈思黙考することも自ずと少なくなってきます。だからこればっかりでもいけないのですが、しかし、思ったところをアウトプットする、ということを通して、読書というものがより立体的になってくるのも事実でして。


だから、この読書日記にお付き合いくださった方はどう思っておられるかわかりませんが、自分としては久しぶりのこの読書日記で、本読みとして、なかなか悪くない経験をした、と思っています。この読書日記は2〜3月の読書の回顧録ということでしたが、それ以降ももちろん本を読んでいるわけです。最近は、どうやら「小説読み」の体になってきているようでして、ヴィクトル・ユゴーとかアナトール・フランスといったフランス近代文学の大家を読んでいました。次は久しぶりに漱石でも読もうか、あるいは、青春を振り返る意味で、国木田独歩を読むか、もしくはゲーテでも読むか、といった具合です。何か古いですね。新しくても、吉行淳之介庄野潤三遠藤周作、といった感じですから、もう何というか、ですね(笑)。


そんなわけで読書日記、最終回です。また機会があれば……いや、近いうちにまたやりましょうか。今回は二冊。時流に乗らないこと甚だしいマイナーなトークを今回もさせていただきます。


読書日記


○『レコード・コレクターズ』四月号


表紙にあのアフロが出ている、というだけで無条件に手が伸びてしまう、というこの傾向はどうしたものか……ジミ・ヘンドリックス特集でした。話題は、先日出た未発表音源集『ヴァリーズ・オブ・ネプチューン』についてです。


というか、最近『レココレ』買ってなかったのですよね。で、大好きなジミヘンの特集ということで、久しぶりに買ってみよう、と。感想は単純、いつもどおりで心楽しかったです。『ヴァリーズ〜』解析はもちろんのこと、トム・ウェイツ特集も、ライターが「個人的に楽しんで書いてるな」という気持ちが伝わってくる記事でしたし、いつもながら再発盤ニュース/レビューものんびりと読みました。総じて言えば、「落ち着く」って感じですね。馴染みの喫茶店的に。だからお前は後ろ向きの懐古趣味なんだ、と言われたら、まあ返す言葉がないわけですが(笑)。


落ち着く……個人的に、「のんびり楽しんで読める」という基準で音楽雑誌を選ぶとすれば、『レココレ』『ラティーナ』といったところでしょうか。『ミュージック・マガジン』も一時期熱心に読んでいましたが、「同時代的なるもの」に対する関心がそれほどでもなくなってきだしたあたりから、毎号買う、ということはなくなりました。今は、気になる特集があったらたまに買ってみる、って感じで。……あと、『マガジン』の、いわば啓蒙的ともいえる雑誌コンセプトに、少々つむじを曲げたところもないわけではないです。そんなに同時代性を押しつけられても……自分のペースで音楽は聞くよ〜、ってな具合で。それから、前にも言ったとおり、『ロキノン』系は趣味ではない、ということで。『SNOOZER』は、ライター(というか田中宗一郎氏)の個人色を出す、というコンセプトは買いますが、その音楽的趣味はともかくとして、いかんせん思想・筆致が好みではないので、「取らない」です。レベルが高いことを否むものではありませんが、この雑誌は「取るか取らないか」ですからね。(しかし、数年前に出た夏フェス特集号ではいくつか感動的な記事があったことは忘れていません)そういう意味で言えば、『ストレンジ・デイズ』。こちらも「取るか取らないか」――それは『SNOOZER』と違ってライター云々というよりは、編集方針の好み――ですが、この雑誌に関しては、好きです。はい。だから懐古趣味なんだといわれ(略)。まあ『レココレ』読者と『ストレンジ〜』読者って被ってそうな気がしますけど(多分当たり)。


さらに音楽雑誌について話していくと、前(奈良で学生してたころ)はよくジャズ喫茶で、ハーブティー飲みながら、店の『スイングジャーナル』読んでましたね。これ読んでて、ちと自分のジャズに対する態度がコンサバに過ぎないか、と思うところもありましたが、しかしこれもバップでジャズに目覚めた者の運命ですかね(笑)。いや別にコンテンポラリー・ジャズを否定しているわけではなく。クラブ・ジャズにせよ、北欧ジャズにせよ、モード再評価にせよ、そこに「新たな息吹」なんてない、というのは頑迷にすぎるかと。そりゃわたしはモダン・ジャズが好きです。しかしだからといって、現在進行形のジャズをロクに聞きもしないで「最近のジャズはダメだよ」としたり顔で言いたくはありません。知らず知らずのうちに、ジャズを巡る論議の中で、暗黙のうちにジャズが殺されてしまっている可能性だってないわけではないのです。我々ジャズ・ファンはそのことを認識し、注意深く言葉を選ばねばなりません。憎むべきは悪しき神格化と冷笑主義です。


おっと、話がジャズ談義になってしまいました(笑)。どうもジャズのことになると、駄目ですね、わたしは。話を戻して、その他に読む音楽雑誌といったら、やはりギターの機材/演奏家関連の雑誌になりますかね。というか、「音楽評論誌」よりもそっちを読む方が楽しかったりします。何故か? それは、ただ単純に「音」について論じているからです。音楽評論誌は、どちらかというとミュージシャンの精神性とか、ルーツ(歴史性)/歴史的立ち位置とか、歌詞のメッセージ性とか、そういう、いわば「人文的/社会的」な方から論じていきます。もちろんそういったものも興味深くはあるのですが、時に、「音楽の本質は『音』だろう?」と思いたくなります。そういうとき、ギタリスト系の雑誌を読んでいると、「音」に重点的に言及するその態度に、ほっとしたりするのです。


また、ミュージシャンが雑誌によってとる態度の違い、というのもあります。「精神性」を論じる「音楽評論誌」に対して、ミュージシャンは、自らの主張を伝えようとするため、あるいは、自己を防衛するため、ポーズをとることがあります。よくありますよね? インタビューで「いわゆるロッカー的言辞」をするロッカーって。そういうのを読んで、一面では格好いいと思いつつも、反面、ペルソナを被っている(被らざるをえない)のが、ちょっとなぁ〜、と思ったりします。しかし、機材/演奏系の雑誌だと、ミュージシャンは、思いのほか素直な感じで、楽しそうに語っていたりします。何故でしょう? 多分、自分が好きな「音」だけを語れる状況にあるから、メッセージ性とかを考えなくてもよくて、落ち着いた気持ちになれるんでしょうね。取材する側も、読者も、同じ「演奏者」であるわけですから、気が楽だ、と。意外かもしれませんが、ミュージシャンは、こういう雑誌の取材で、自分の機材やテクニックについて、かなり「手の内」を明かします。……これもやはり、相手が演奏者――「同類」だから、と認識しているから、でしょうね。わたしは、ミュージシャンのそういう面を見るのが好きです。


そういうわけでたまに『ギター・マガジン』や『プレイヤー』を読むのですが、しかしやはりこの手の雑誌でとどめをさすのは、季刊『THE EFFECTOR BOOK』ですね。この雑誌は、ギターのエフェクターについて毎回熱の入った記事を載せます。エフェクター使いに定評のあるプレイヤーへのインタビューや機材分析も読みごたえがありますし、エフェクター・レビューも充実していれば、個人エフェクター・ビルダーへのインタビューもマニアックな視点でツボを突いています(個人的に楽しみなのは、あの素晴らしきイカレ印のエフェクター・ブランド「Z.Vex」のザッカリー・ヴェックスの連載です)。最新号(VOL.7 2010春号)はブリティッシュ・サウンド特集……FUZZFACE、ロジャー・メイヤー、という名前が出てきた時点で即買いですよ。……というか、音楽雑誌で一番好きなのって、実のところは結局、『レココレ』と『THE EFFECTOR BOOK』だったりします。だ〜から世の音楽好きの大勢と話が合わないわけだわ(笑)。


その他の雑誌――鉄道模型誌や銃器誌、漫画誌など――に関しては、また機を改めて(次回の読書日記あたり?)で語ることにしましょう。というか、本当はそういった雑誌にまで話を発展させていきたかったのですが、いかんせん音楽雑誌を語りすぎ(笑)。企画書どおりにものを作れない創作者はクソじゃ(二回目)。


松林悟ロリコンフェニックス


さあ、読書日記も最後の本となりました……よりによってこれかよ。つくづく自分の業の深さを思い知ります。しかし、この漫画については触れておかねばなりません……一介のロリ者として(それもどーなの?)。


この漫画、漫画読みのブログで、コンセプトが「ロリコン古賀亮一」と紹介されていたものですから、「なんていうわたしホイホイ!」と思い、翌日には書店で全四巻(1〜3巻+「新食感」)を揃えて買っていた始末。つくづく自分の業の深さを(略)。


というわけで、買って、読んで、ひとしきり楽しんで……そして、古賀漫画と比較することと相成りました。これは仕方がありません。なんてったってわたしは重度の古賀フリーク、自らの言語センスとユーモアに多大(すぎる)ほどの影響を与えた人物なのですから、古賀亮一という男は。


古賀テイストとはどんなものか。では『ゲノム』二巻から。

「か、看護婦さーん!! 僕、股間のファイトレバーが勝手にオンになっちゃう病気なんです!! なでてくれなきゃ死ぬ!! 死ぬ!!」

こんな感じです。しかも、この手のセリフは古賀漫画ではさして珍しいものではありません。凡作家が一作でやっとひとつひねり出すことが出来るセリフを、古賀氏は毎話ごとにいくつも散りばめているのです。古賀ファンが集まって「古賀漫画名セリフトップ5」を選ぶとしても、参加した人数の分だけランキングが生まれるでしょう。そして恐るべきは、この芸風一本で長年ギャグ漫画家としてやってきて、今なおそのセンスとテンションが衰えることはない、ということなのです。先日新刊が出た最新作『電撃テンジカーズ』を読めばそれがおのずと証明されるでしょう。……ていうか読むのに体力がいるんですよ、この人の漫画(苦笑)。それほどのパワー、テンションの高さなのです。


さて、古賀亮一の賛美はこれほどとして、では、『ロリコンフェニックス』はどうか、というと……一読して、やはり聞いていたとおり、全編に古賀亮一テイストが溢れています。とりあえず最初の数ページを見ただけで、「あ、この作者バカだ」と素直に思います。登場人物の半裸&マッチョ率が高すぎるところとか、堂々と少女にセクハラするところとか。股間のやたらと長く伸びたブツを「我が魔槍ミストルティン」と呼ぶところとかいかにも古賀テイストです。はじまりから最後まで、ロリ萌えの変態パワーでとにかく押し切る。そのコンセプトは第一話から変わらず、回を重ねるごとにパワーを増していきます。やはり読むのに体力がいる漫画ですが、弾幕STGと同じで、パターンをつかめば慣れてきます。本当は(弾幕はともかく、ロリになんて)慣れちゃいけないんですけど。


しかし……古賀漫画と比較して、「古賀漫画を超えたか」という基準でこの漫画を読むと、残念ながらまだそこには至っていない、という結論を出さずにはいられません。もちろん、この漫画大好きなんですよ? 十二分に楽しませてもらいましたし、何度も再読しました。しかしやはり自分の心に嘘はつけません。


では、どこが「足りない」のか。それは、「理不尽さ」だと思います。


もうすでに『ロリフェ』は十分理不尽じゃないか、とおっしゃるかもしれません。確かに、一般的な漫画と比べたら、そうだ、と言えます。しかしこの漫画がここまで古賀亮一をリスペクトしている以上(実際、作者自身がHPで古賀リスペクトを表明しています)、やはり古賀漫画のあの理不尽さを超えたか否か、という尺度を持ち出さずにはいられません。その理不尽さとはなにか。それは、上に挙げたセリフからも読み取れると思いますが、もっと具体例を挙げるとすれば、古賀漫画はだいたい次のようなセリフから話がはじまります。


「なぁなぁ!! スカートってすごくねぇ!? パンツと外気が直接触れ合ってるってさぁ/そしてもし俺がブリーフ見えるか見えないかくらいの短いスカートはけって言われたら大いにおじけづくね!! あんたどう思う!?」

第1コマ目からこれです。ここからさらに、

「人が一生の内本やらビデオやらとにかくエロ関係に使う金額っていくらくらい〜!? もしかして外車くらい買える〜!?」「あ、そうそう、あと股間ってフタ開けるとトゲトゲの鉄球入ってるじゃん、あれってさぁ……えっ、俺だけ!? マジで!? ……はぁ、俺だけ……ですかぁ……はい……はい」


こんな感じで続いていく理不尽さなのです。ここまでの理不尽さは『ロリフェ』には欠けている、と言わざるを得ません。無論、フェニックスやカイザーというキャラが平然と出てきている時点で十分理不尽ですが、パクマンさんや音速丸さん(この二人に関しては「さん」づけするのが古賀ファンのマナー)に比べれば、まだ整然としてます。


……ですが、これもやむを得ない話です。まだ松林氏は『ロリフェ』を上梓したばかり(今度新刊が出ますが)。「まだ一作」です。それで古賀漫画のエッセンスを消化して、そして自分の漫画を描いていっている、その時点ですでに称賛されるべきだと思います。


……というかですね、わたしは単純に「嬉しい」のですよ。松林氏のような、古賀漫画の価値を認め、積極的にエッセンスを取り入れようという「古賀チルドレン」が生まれてきてくれるようになった、という事実が。十代の終わりごろ古賀漫画に触れ、熱心に古賀氏を追い続けてきた人間としては。だから、苦言を呈しましたが、それも、「よくやってくれた!」という素直な嬉しさのもとのことなのです。


あとそれから。先ほどから古賀漫画との比較ばかりしてきましたが、古賀漫画になくて『ロリフェ』にあるもの。それの指摘をして本稿を終わりにしたいと思います。それは、「ロリコン」という視点です。古賀漫画にはこの視点はありません。しかし、『ロリフェ』にはこの視点が嫌んなるほど充溢しています。登場する変態たちも、そして作者も、筋金入りのロリコンです。それは、少女たちを見て登場する変態たちが漏らすロリ萌えトークの数々。何より、「少女の描き方」がすでにロリコンのそれなのです。


ぶっちゃけた話、この漫画家、ギャグ漫画家の常として(……というのも古い議論でしょうか? いや、しかし「整い過ぎた絵はギャグには向かない」という不文律にして逆説は今も生きているでしょう。もちろん端正な絵とギャグとのズレを楽しむギャグ漫画を別として)それほど画力が高くはありません。ですが、ロリを描く際には気合いが入っています。ロリの表現には命をかけている、といっても過言ではないかもしれません。絵的には下手かもしれません。しかし、ロリ的には実に「正しい」絵を描いています。松林氏は、この「ロリの視点」ばかりは古賀氏を凌駕しています。そこのところは、指摘しすぎてもしすぎることはないでしょう。


……しかし、『少女素数』にはじまって『ロリコンフェニックス』に終わる、というこの読書日記2010春、何というか、つくづく自分の業の(略。三回目)。


(追記:これは畢竟余談ですが、個人的には全然余談ではなく……実は買った『ロリフェ』第一巻はすでに版を重ねたものでして、あの「古賀亮一推薦!」のオビがついていなかったのです。これは悔しかったですね……。わたしは全然コレクター気質がないので、普段はオビなんか全然気にもしないのですが、このオビだけは欲しかった……っ!! 何よりもこのオビは、古賀氏が自らのフォロワー(というか後継者?)にあたたかなエールを送っている状況証拠として貴重なものであったために、現物を手に入れることが重要だったのです)


読書日記2010・春、おしまい。


本日のBGM:ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス『アクシス:ボールド・アズ・ラヴ』(何でこんなにジミヘン好きなんでしょうね? 自分も、こういう風にファズが使えたらなぁ……)