残響の足りない部屋

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Twitterの本質

Twitterというwebサービスが仕様の悪化により、Twitterを離脱し別のSNSに引っ越ししよう、と考える方々がそれなり多いようです。

私残響個人はTwitterを2019年の12月に止めた者です。2つあったサブアカウントも削除しました。あとは創作の告知&連ツイ小説用アカウントだけ残して、Twitterから離脱しました。

www.redselrla.com

↑ 2019年に書いたそのあたりのくだり

その創作アカウントがあるんだからアナタまだTwitterやっていない?と言われそうですが、私のインターネット意識は確かに「Twitterからは手を引いた」です。この創作アカウントで、「中の人の意識(日記)」としてちょろっと漏れることはあります。それもほぼ「生存報告」という感じですけれど。先日のシマーネ農業王国の大雨災害の時、文字通りの生存報告をTwitterでしました。これはお役立ち。

でも「タイムラインに居ない」という状態が常態としてこの数年間確立してしまいました。Twitterをやっていらっしゃる方々ならこの「タイムラインに居る」という感覚がどういうものかおわかりでしょう。

そういう、ちょっと遠くなったものとしてのTwitterを、少し考えてみます。Twitterは私にとって本質的に何だったのだろう?

 

(1)往来

私がTwitterを定義するのはまずこれです。「往来」。イメージ的にはヨーロッパ中世やアジア地方都市のマーケットの路上です。

俗なる流れの中に、聖もあれば性もある。騒がしいけれど、静かに歩く人も居ないわけでもない。商売の機運、勘違いスピリチュアル、若人の向上心、妬み、性欲。ただ疲れている人、大道芸人、ぼーっと路上を眺めている人…そういうもろもろの人が行き交う「往来」。Twitterと聞いて私が即座にイメージするのがそういうのです。

だからTwitterの定義というのは、幾多のアカウントが織りなすタイムラインが数として「賑わっている」のがまず前提なのです。今、他のSNSに引っ越しをされている方々がいらっしゃいますが、この往来の賑々しい熱気と同じものは、現時点では他のSNSにはなかなかないでしょう。上海アリス幻樂団の楽曲を引用すれば「あの賑やかな市場は今どこに ~Immemorial Marketeers」ってな具合です。

いろんな人がいるという事は、いろんな事が起こる、っていうことです。まぁそのあたりのTwitter出来事史はここでは書きませんが、そういういろんな出来事や出来事の残り香が総体となって往来の熱気というものを作ります。

俗なるストリートの熱気。これに人間なかなか抗えません。私だってこの往来、路上を楽しみました。でも、それに疲れてしまうというのも、そんなにおかしなことでもないでしょう。なんてったって騒がしいのです。往来なのです。人の行き交いはそれだけでエネルギーです。そこには可能性があり、やりとりがあり、喧嘩だってあるのです。そういう小規模なカオスがTwitterにはありました。

 

(2)野原

一方それとは別に、いろんなアカウントがそれぞれの花を咲かせた「野原」というイメージも私は持っています。これは「(1)往来」が、それぞれのアカウントの行き交うコミュニケーション、という点に着目しているのに対し、この「(2)野原」は、それぞれのアカウントの「表現」に着目して、それぞれの「花」と呼んでいます。そういうイメージです。

もっともこの野原は、かなり粘菌が多いようにも思えます。しかしそういう粘菌がやがては植物のエネルギッシュな勢いとなってもいます。あるアカウントの誠実な一声にどれだけの表現者が励まされたでしょう。その逆もありますが。しかも粘菌らしく湿度の高い。

そんなあんまりカラッとしていないTwitter野原ですが。それでも充分に湿気はありますから、植物の生育は活発で、時に美しい花を咲かせます。でも花ですから命は短いのも常です。枯れたりもしますし、腐ったりもします。とくにこの数年、コロナ禍があって、よく腐ったそうじゃないですか、いろんなアカウントの方たちが。

2019年に私はTwitterから手を引いたのですが、このタイミングで手を引いて本当に良かった、大正解だった、と今思っています。そう、その後にやってきたコロナ禍。インターネット、SNS社会がとても酷い疑心暗鬼になった頃。私はこの時期、全くSNSに手をつけていなかったので、ほぼノーダメージで済んだといってもいいぐらいで。たまにブログなどから漏れ聞こえてくるSNS瓶詰地獄の様相だけで充分でした。

そのスタンスは今でも変わっていなくて、創作告知アカウントもDMと告知の時だけログインするようにして、あとは即座にログアウトしているような使い方なのですが。それだけでも(自分にしては)かなり往来の情報が入ってくるなぁ、と感じる程です。情報が入ってくる度に「関わらんとこ」と思っています。

Twitterの美しい「花」にタイムラインを通してリアルタイムに触れることは、朝摘みにも似た瑞々しい感じすら得ます。時に感傷的にもなります。その朝摘みのリアルタイムさは、ちょっと懐かしくなることもあります。

 

ところで、最近のTwitterの仕様変更で、ログインしないとどのアカウントの投稿も見られなくなってしまいました。これは困っています。ホームページやブログを持っていらっしゃる方々はサイドバーあたり(形式はブログによって様々)にTwitter個人タイムラインを埋め込みコードで貼り付けていらっしゃいますが、そこで近況を数ツイート分チラ見することが出来ないのは、Twitterをやっていない者として地味に困るのです。

ああそうそう、Twitterをやっていないと、いろんなブログで話題となっている物事が即座にはわかんなくなります。「例のアレ」みたいな表現で話題になっているネタをTwitterタイムラインを通じて把握していないので、いちいち各ブログやtogetterを通じて裏取りをしないとブログで書かれている記事の意味すらわからなくなる、っていうことが結構ありました。今もあります。なるほど、今のネットはTwitterありきになっているんだなぁ、という発見があります。

 

●他のSNS

じゃあ残響さん、あなた他のSNSに移動しないの?って聞かれそうですが。

私は今の告知用アカウントを、今のようにDMと告知だけで運用していますが。それが無くなっても別に良いし(DMで繋がっている方々とは、各々諸氏と別の連絡方法がほぼあるし)、と思っています。

というか他のSNSが「SNSソーシャルネットワークサービス)」である以上、もう自分はいいかな、と思っています。そこが特有の美しさを持つ「(2)野原」であればちょっとチェックしたくもありますが、しかしそこが「(1)往来」であれば、もうしばらくは賑やかなところに居るのはいいや、っていう意味合いです。ニーチェツァラトゥストラを気取っているのではないですが。ていうか私の場合だったら逆バージョンですね。ツァラトゥストラは山から往来に下ってきましたが。むしろ私の場合は老荘思想か。あるいは陶淵明の帰去来辞か。

今私が居るのは創作の個人ホームページですが。確かに往来が懐かしくなる時は、まだあります。でも自分が個人ページに引きこもろうとしたのですから、そこに後悔はなく。ちょっと寂しい? このちょっとした寂しさは個人ページ管理人が抱えるべきものだとも思いますけれどね。ただ、これはどちらかを選ばねばならない類のものです。

往来でうまくやれば、賛辞を得ることもあるかもしれません。

引きこもり個人ページをやっていて、大勢の人々から賛辞を!っていうのも無理筋でしょう。

これはどっちかを選ぶしかないんですよ。両方を取ることは出来ません。そして私は引きこもり個人ページを選びました。私にとっては、それで良かったと思っています。

だから、「他のSNSに行く」っていうのも、あるいは「個人サイト回帰」っていうのも、今はどっちもなかなか安易にはし辛いと思いますよ。

むしろこのタイミングは、ちょっと考え直すいい機会かもしれません。

皆さんがTwitterで何を欲していて、何を美しいと思っていて、何を、誰を大事かと思っていたか、っていうことを一度棚卸しして考え直し、そこで見据え直した哲学のもと、ご自身が次に行くところを考え、征く、というのが一番良いかと私は愚考します。