かつて私は自分自身の生き様として、芸術至上主義をうたっていました。芸術に触れて良さを賛美し、自分もそのような芸術を作り上げるんだ、と夢想することは甘美でした。何より、現実世界から逃避できるというのが良かった。現実世界、つまりは「生活」することから逃げるという。
そんな大学〜大学院生だった十数年前を、今思い出します。芸術…大量の本や音楽を摂取しまくり、いちいち感激する。その一方で自分の生活や社会参加の問題点や、自身の精神安定やこころの病から目を背けていた、あの頃。そして、自分の作品を何一つ生み出すことが出来ていなかった事。
要するになにかから…いや、もう分かっていますね。「生活」から。自分自身のリアルから目を背けていたのです。
そんな日々を遠く離れて、現在の私はなるべく「生活」を改善していこうと思っています。何回かこのブログでその試みは「日常ゲーム2.0」とか「生活のプログラミング」と称して書いてきました。
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人間としてまっとうにならなければいけないぞ自分……というのはもちろんなんですが。ただ、こういう生活改善を「世間的にいっぱしの男にならねば」という「べき」論に追従する、という話にもしたくないわけです。そういう社会的「べき」論を内面化もしたくない。「●●じゃなきゃだめなんだ!」式の「べき」論で自分をいじめぬきたいんじゃないんだ…! 私は、私自身の問題点を、着実に改善していきたい。生活改善・生活革命に、愛の視座を入れたい。
そんなわけで本書、済東鉄腸氏の新刊「クソッタレな俺をマシにするための生活革命」は、なんだかかつての自分と、この数年の「生活」を愛するようになった自分自身の事を、再確認していくような感じで読破しました。
済東鉄腸氏は映画ライターであり、「日系ルーマニア語」の小説家です。映画紹介ブログ「鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!」を運営し、ルーマニア語で小説創作をされています。
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そして処女作「千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話」を一読、外国語趣味者としての私は大変感激したわけです。その記録は以下の記事で書きました。この本の内容は、書名のままです。紹介が凄い楽だな…!w 唯一書名で表れていないことがあるとしたら、済東氏のルーマニア文化に対する熱すぎる熱、尊敬、愛、文学精神です。
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さて本書「クソ俺」(公式略称)は、済東氏がいかにして自分自身のリアル、現実…「生活」を愛していけるか、というこころみを記述した本です。本書前半部では「理論編」と題してジェンダー論、フェミニズム、クィア論、ケア考察について語られ、後半部「実践編」では済東氏の日々の生活【改善】エッセイが綴られます。
理論編では「俺は間違っているかもしれない」と、自身が内面化してきた男性性を検討します。済東氏がハードコアなのは、ただジェンダー論やフェミニズムやクィアの本を読みました紹介します…で収まることなく、時に批判的に、時に自己を破壊的に脱構築・再構築せんばかりに論考を読み込むことです。その読み解き方と自己改革の苛烈さが印象に残ります。
前著「千葉ルー」(公式略称)では、済東氏の勢いは、ルーマニア芸術文化に対する愛の迸りという形で表れていました。それが本書「クソ俺」を読んだら、「ここまで読み解くんだなこの人は」と、その読みのリアルさ、ハードコアさ…もっと言えばその読解には「革命」のザラついた鉄火場の臭いがする。このひとはどこまでもマジ(真剣)だ。
そして実践編で、読者は済東氏の生活圏への愛を見ることが出来ます。どれだけ済東氏が地元のショッピングモール・ニッケコルトンプラザ内の書店・有隣堂を愛しているか。ダンベルを買って筋トレする時の、ダンベルへのひそやかな友愛。千葉ルーの時から、済東氏が愛を表明する時、彼はいつもポジティヴです。もちろん先に述べたように「革命」的に本を読むことが出来るだけの批判的知性を備えた氏ですが、それでも愛するモノ・人を語る時の著者は、とてもポジティヴであり、対象への尊敬の念を感じさせます。
これも千葉ルーの時から自己言及されていることですし、本書でも改めてその「いささかの問題性」について語られていますが、済東氏の文体は「俺、俺、俺、俺」というように、「俺が俺について書くぜ!」という勢いです。それを一面では独善的な露悪的文体であると評することも可能です…が。
済東氏の本:千葉ルーもクソ俺もじっくり読むと、この著者はそんな「俺!」性を自覚的に使って文体に勢いを出す…と同時に、自身の「俺!」性をも批判的に読み込んで、この現実世界にある「俺!」性……時にマッチョイズム、時に男性性中毒といった悪しきものになりがちな男性性に、カウンターパンチ入れるように批判的に読み込む!その結果、「善き人間性とは?」という倫理的思索へと繋げていく…ということがわかってきます。済東氏の文体は、そう単純な戦略でない。
とはいうものの、その「俺!」性が現実社会、「生活」とどう繋げていくか、というのは、済東氏にとって大きなテーマでした。だって、文章上でいくらきちんと「俺!」を使って素晴らしく楽しい文章を書いても、現実の生活で「俺」を落ち着けていなかったら、フェイク野郎であることはすぐに見抜かれてしまいますから。著者済東氏自身もですが、彼の愛する生活圏の人々にさえ。
そういう意味では、結構「さらけ出している」本です。といっても本書の題材にあるようなトイレの小便器や陰毛ケアそのものの題材の卑近さが問題なのではなく、トイレの小便器に宿っている現代社会の問題点や、「落ち着いて」陰毛ケアをする時のちょっとした安らぎ。そういう済東氏の思考の「文脈に」こそ、この本の旨味があります。その文脈とは、全くイコールで「生活」そのものなのです。
「クソ俺」では、すべて済東氏のリアルから話題がひねり出されています。済東氏もかつては「生活」から目を背け続けてきた方です。でも目を背け続けたままでは、本当になにもない、と悟った方です。この本には、そういった小さな勇気がところどころに記されています。それがなぜわかるか、といったら、この感想文の筆者たる私残響が、この7〜8年間、自身の「生活」を改めて見直して、「これはおろそかにしていいものではない」と痛感するようになったからわかるんです。
本や音楽を聞きすぎて、芸術至上主義になると、生活にリアリティがなくなるんですよ。生活は「済ませるもの」というか。とりあえず社会で生きていくための「手段」。例えば、みずからが悪臭を放つ体臭人間であるのは嫌だからそれは回避するけども、それ以上はない、という効率主義が宿ってきます。体を風呂で洗うのは、とにかく脱臭の為の「手段」。それは、悪くはないですが、愛がない。自身の体を丁寧に洗い、自分の体を慈しむ。そんなことのない手段としての風呂…それはひとつの例ですが、こういうのが重なっていったら、いつしかそれはセルフネグレクトになっていきます。
生活のいちいちを愛すること。ささやかな事こそ大事なんだ、と。私自身がこういう発想になったのは、いろいろあります。panpanya先生の漫画や路上観察・考現学。ウメハラ氏(プロゲーマー・梅原大吾)のスモールステップ的修行法。森博嗣博士の「思考の庭」哲学。普通の世の中にあることばをいちいち対象とする外国語学習……などなど、いろいろな作品や考えから示唆を受けて、「生活を愛そう」と思うようになり、今の私があります。私なりの「生活革命」があります。
しかし私も、この生活革命に至るまでなんだかんだ時間・年月がかかっております。一朝一夕ではない。その間、世間や社会に対するビビリや絶望、自分のこころから発するコンプレックスに対処しまくりでした。正直こわかったです。誰かが自分のことをバカにしてるんじゃないか、とか、自分を陥れてやろうとしてるんじゃないか、と。私、私、私、私。
そんな私地獄からの回復ですが、自分の場合は、一度どこまでもソリッドに「自分は独りだ」ということを突き詰めて考えたことが大きかったです。考えたというか、ソロキャンプをしたというか。
私は数年前から「ゆるキャン△」に安く影響されてキャンプをはじめました。今に至るまでソロでやっております。そしてキャンプをやるたんびに思うのが、「協力してくれる方々のありがたさ」です。ソロキャンをしている時、誰も助けてくれません。そりゃそうです、独りですもの。それを選んで来ているのです。自分がなにかミスって怪我でもして、でも対処するのは私ひとり。当然です。それがソロキャンです。
でも、そんなソリッドな状況だからこそ、他人のありがたみが身にしみます。ちょっとした親切、管理棟のスタッフさんとの会話。もっと言えば隣のサイトで人がただ居る、ってことすらちょっとした心の安らぎになります(他のサイトの客とちゃんと友好的に出来てる前提ですが)。過去、完全に独りで山の中でキャンプした時、周囲に獣の存在感のざわざわを感じながら夜中過ごした時は流石にこわかった…w
そういう「自分は独りだ」をちゃんと経験して、私は改めて自分のソロ性を愛するようになりましたし、同時に人の、家庭のありがたみもわかるようになりました。ちょっとした意識改革ですが、私にとっては「革命」でした。
本書「クソ俺」で済東氏は、私よりももっと深く苛烈に、しかし愛でもっていろいろな人やモノをきちんと捉え直し続けようとしています。その結果、少しでも自分をマシにする生活革命を成し遂げようとしています。自分を縛る一番の檻は、自分自身だったのか。「理論編」でさまざまな文献を用い、批判的に男性性と自分自身について検討し続けてきた著者ですが、「自分という檻」の強烈さは、結構なものがあります。
でも生活をやっていく。なぜなら、生活は自分で「作っていく」ことの出来るものでもあるから。そうして作っていって革命を起こした自分の生活は、どこもフェイクでないから。生活をやっていくことは、空理空論の戯論を弄ぶのではけして無いのだ。私達は…おそらく、悪しき戯論をやりすぎた感すらある。そしていつかその生活の滋養から、本当の芸術だって芽吹くはず。私の現実逃避は、逃避ではない…現実【離陸】であるんだ!と、昔誰かが言っていたのを思い出します。
本書の最後で、著者済東氏は長年付き合いづらかった両親と、少しでも交流していこう、という行動に出ます。これは引きこもり的には物凄い革命です…。私もめっちゃわかる…。親だからこそ、上手くやることの出来ない部分ってあるんです…。そもそも自らの檻である男性性とか強権的家父長制であるとか、いろんな問題の原始の母胎であるし…。それでも、済東氏が出た行動を読み、まるで滋養のある温泉のお湯に触れたかのような、じわ〜っとした感慨を得ます。ああ、この本読んでよかったなぁ…という感慨です。
俺、俺、俺、俺、と済東氏は書き続けます。時に自己批判をしながら。それでも済東氏がモノや人を見る/看る時の愛は、溢れんばかりです。ルーマニア語しかり、生活革命しかり、済東鉄腸文学を読むということは、彼の熱と愛を受け取るということです。