一昨年あたりから、「生活メンテナンス」という考えが、30代後半の自分の人生にセットされることとなりました。(改めて考えたら、遅い方かしらん)
常備菜を作ろうとしたり、風呂の水アカ掃除をこまめにしたり、ペットボトルのゴミ回収シークエンスをより簡略化したり、など。
日常の生活のさまざまな雑用や補修に、もっと目を配ること。雑用や補修でまめに動いたりすることを、ひとつの趣味のようにしてみよう、という考えです。
(2020年に書いた記事)
闇の色は脂肪の白さ --仕事に忙殺される日常、スマホ電子書籍依存、生活メンテナンス - 残響の足りない部屋
「趣味としての」メンテナンス、というのが大事な観点です。
自分の生活をより便利にしよう、効率性を高めよう、という思想で動くと……結局生活メンテナンスは現代社会における「生産性」に寄与するもんだッ、っていう論理になっていきます。
そうじゃない。「趣味としての」メンテナンスをしたいのです。
●アンチ功利主義・効率主義、あるいは猿
自分は、この現代社会の「功利主義」ってやつを、かなりバカに、コケにしたいと思っています。功利主義・効率主義に価値を認めたくない。すこぶる距離をとりたい。
なんでかっていうと、功利主義・効率を思うと、「結局それかよ浅ましい…」と、思ってしまうのです。功利・効率の根幹たる「猿発想」に対し、趣味人としての哲学が激しく「NO」を叫ぶからです。
カネ儲けも、いいね!獲得合戦も、承認欲求も、結局「モテたい、ちやほやされたい」っていう、とても原始的な猿発想ではなかろうか、と。
よく言われますね、現代は変化の激しい時代だ、って。あれも自分、ちょっと疑問に思っています。「変化の激しい時代」? 本質的にやってることは「モテたい」「ラクしたい」ではないですか。結局猿発想をテクノロジーで加速させただけじゃないか、と。
それに対し、わたしはイヤだぞ、と思ったのです。自分の趣味に必要な分だけのおゼゼ(銭)を稼いだら、あとは遊びます。
●やらなければならない、という楽しくなさ(仕事)
しかし一方で、生活メンテナンスについて考えたのです。
従来、趣味に対して、「日常生活」は「やらなくてはならないこと」でした。そりゃあその認識では、楽しくない。
生活……例えば、生ゴミを放置しておいたらヤバイとか。水アカを放置していたら不潔だとか。そういう、後々のめんどくささを、早く解決しておけば、確かにもっと趣味に没頭出来ます。その理屈は正しい。
でも、楽しくはない。生活メンテナンスを「趣味」扱いにしたいのは、このあたりもあります。
結局、日常生活を「やらなければならないこと」としてしまったら、それは「仕事」なんですよね。そして仕事である以上、すぐに功利主義・効率主義が入ってくる。なんだ、仕事が増えただけじゃん、というギャフン感です。
「生活」や「メンテナンス」という持続的観点を、30代後半にしてセット出来るようになった、というのは、良いことだとは思います、よ。
(余談)
SDGsという環境目標の社会活動に関して、思うところはあるのですが、しかし「持続性・継続性(サステナブル)」という概念が現代社会に(ようやく)セットされたことは、良いことだと思います。SDGsはともかくとして、最終的に、「持続」という方向を、文明はきちっと保っていく他はない。現代社会で、もう物質的な発展は、しばらくないのですから……(他の星に植民するとかでもない限り。余談終わり)
●趣味人価値観と非=社会性(社会オンチ)
自分はとにかく、趣味の愉悦を味得するのが、子供のころからの第一価値観なのです。社会で偉くなるとか、安定した立場を得るとか、人脈を広げてちやほやされるとかは、相当興味がない。
あるいは、安定した趣味活動が出来る分だけは、社会的なあれこれは欲しいけど、その分が得られたら、それからあとは社会はどうでも良い、と考えます。
というか、社会に向いていない人間なんです。社会オンチに関わられても面倒だろう社会の方が。非=社会的な人間は、さっさと引っ込んでいた方が社会のためだと思います。
そんなわけで、生活メンテナンスの結果は、あくまで趣味的愉悦でありたい。自分にカネが最終的にもたらされるから、っていう理由では、生活メンテナンスを頑張れない(ほら、社会に向いていない)。
生活メンテナンスを、もっと加速させなくてはならない。メンテナンスとしてやるからには、より過激でエクストリームで愉悦的な「趣味」の方向へ。
ということで、生活メンテナンス2.0というか、エクストリーム生活メンテナンスです。地球上の60億人同接の一大オンラインゲームです。生きていれば皆やってる「日常」というゲームです。
●日常ゲーム2.0
「日常」をゲーム化しよう、と考えました。日常ゲーム2.0です。エクストリーム・ホビーとしての日常生活メンテナンスです。正月なので、いよいよ頭が狂ったようですね。
年が明けてから、この「日常ゲーム2.0(エクストリーム生活メンテナンス)」を自分がどう遊んでいるかを、ちょっとご説明したいと思います。
そもそもこう考える(ゲーム化)に到ったのは、自分がTRPGやゲームブックといった「作り手・GM(ゲームマスター)」と「プレイヤー」の距離が近いアナログゲームのソロプレイを愛好している、という点があります。
また同時に、模型工作を好んでいるということもあります。「モノ(物」を加工する趣味。日常生活におけるメンテナンスの多くは、モノのメンテナンスです。なので、よりモノを愛したい気持ちがあります。
模型工作生活(モデルライフ)、腕の鈍り、安全第一 - 残響の足りない部屋
●スーサイドの敗北設定
日常ゲームの大前提がまずひとつ。
「自殺・自傷行為をしない」というルールを、絶対に遵守しなくてはなりません。
だって「日常を送るゲーム」なのだから、どう考えても自殺や自傷はアウトです。
この前提を設けるということは、自分にとって結構衝撃でしたね。自分は、自己否定のプロなので、すぐ自殺や自傷という考えが頭によぎります。とても魅力(ミリキ)的です。
でも、日常ゲーム2.0を行うのだったら、そっち方面(ネガティヴ路線)は、ゲームデザインとして明らかに問題なので、自殺を「ゲームクリア」として設定するわけにはいかんのです。
それはプレイヤーとしてよりも、ゲームデザイナーとしての敗北です。それは許せない。それはかっこ悪い。なんということでしょう、これまでしょっちゅうネガ思考にあった自分が、こういう前向きなことを考えるようになったとは。
●行動のダイスロール判定
で、生活ゲーム2.0ですが、基本的にゲーミフィケーション(ゲーム化)というのを軸に据える以上、ある程度はエクストリーム要素を入れたいところです。
そこで設定したのが、かねてより懸案だった「ぐずぐず先送り思考」の強制シャットダウンとして、ダイスロールを持ち込みました。
日々「あーめんどくせー(だらだら」「そろそろアレやっとかないとなー(だらだら」ってすること多いじゃないですか。こうやってぐずぐずと、やることを「先送り」してしまって、結局何も出来ない、ってアレです。怖いですね。
あまりにこれが怖いのですが、ちょっとした意志では、この泥沼から出られない。
意志が弱い、というのもそうなんですが、だらだらしているのは「微弱な快楽」に常に刺激されている状態なので、その麻薬性から逃げ出せない、というのもあるのです。
「微弱な快楽」という、なるほど感の高い概念 - Togetter
それに対抗するには何か。
理不尽とランダム性ですよ。
ということで、いつもアナログゲームで使っているサイコロを持ち出します。12面ダイスだぜ!
「めんどくせー(ダラダラ」状態が始まったら、あらかじめ作っておいたゲームシート(予定表)とダイスを持ち出します。
ダイスロール!奇数が出たら、君はまあ、もうちょっとはダラダラしていていいでしょう。
しかし偶数が出たら。ゲームシートに従って、ダラダラをやめて、別行動に移ります。
行動に移らなければならない理由は、はっきり言ってとくにないのです。
自分の本能はささやきます。「もっとダラダラしてようぜ……きもっちえぇだろう……?」と。
しかし、既に骰子の神々は告げました。神の名は「理不尽」と「ランダム性」です。骰子は偶数を出してしまったのです。しょうがないじゃないですか、そういうゲームを作ったのは自分なんですから。
こういう手間をかけて、自分はダラダラ状態から抜け出るようになりました。場合によっては、早く寝るときや、朝起きる時(地獄)もこれを使っている。
これは改善、と言えるのだろうか。改善にしてはインチキゲームっぽい気がします。まぁ、でも、このダイスロールでの決定ゲーム、異様な勢いのある理不尽さが気に入っています。それに、実際行動に移せますからね。さかしらな理由付けだと、またダラダラに戻ってしまうのですが、理不尽な理由だと案外動けて(行動に移せて)しまうものです。この思考行動モデルこそが理不尽ですが……(苦笑