残響の足りない部屋

音楽旅行と模型人生と愚にもつかないジョーク

風のように異国情緒

たぶん、三十歳を過ぎた頃からか。外国語で遊ぶようになった。それ以来年々、外国語で遊ぶのが増えていっている。毎日、外国語の本を読んでいる。本とは、洋書のことでもあるし、外国後の教科書や単語帳のことでもある。

三十歳も半ばを過ぎると、「中年を迎える虚しさ」についてよく聞くことになる。固定化していく世界観や人間観、という具合だ。私の場合、この外国語遊びが、世界観や人間観の固定化に、健やかな揺さぶりをかけてくれ続けている、と感じている。

一例を挙げれば、私の語学力のクソ貧しさがわかりやすいだろう。例えば街中で外国人の子供とすれ違う。私が今学習している外国語を、もともと母語としている家庭で育った子供だ。その子供が流暢に外国語を喋るのをちょいと耳にして、「私は全然ダメだな」と思う。語彙力もだけど、発音の音楽的流麗さもだ。

ただそこで、意識をなるべく、こうシフトさせる。「私、伸びしろあるじゃ~ん」と。ポジティヴシンキングである。三十歳を過ぎた人間の伸びしろis何?という正論もあろうが、それはさて置く。このように、さて置いてしまえるのが、外国語遊びがもたらす「健やかな揺さぶり」である。三十歳を過ぎたおっさんスキルなのかもしれないけれど。

で、その子供の外国語を聞いて「あ、そういう表現あったのね。自分の勉強、抜けてたわ」とか「なるほど、この言葉はこう使った方がストレートか。なるほど」と、私は素直に思う。随分素直でポジティヴだなぁ、と、我ながらこれを書いていておどろく。ただ、「健やかな揺さぶり」によってこう思えるのは、良いことだと思う。少なくとも私にこの揺さぶりがなかったら、私はもっと鼻もちならない人間になっていたと思うのだ。それが、世界観や人間観の固定化、すなわちダメな中年化なのだということは想像に難くない。

 

なるべく意識して、「知らない(無知)」ということを「伸びしろ(可能性のたのしみ)」と捉えるようにする。しかし、これはある程度意識しての思考であるから、自分の鼻もちならなさは、まだまだあるのだろうと思う。傲慢……知識のひけらかし……といった心性は私のなかにまだまだある。修行が足りない。

ただ、「知らない」を「伸びしろ」と考える外国語観については、けして無理にそう考えているわけでもない。外国語を勉強……いや、外国語で遊ぶことは、知らないことを知っていくこと。その無限の繰り返し。永遠の途上であり、ことばはどんな路上にも転がっているーーそんな、天蓋の星々にも似た、異国のことばの無数さを、今の私は楽しむことが出来ている。それで充分だ。

 

異国。
異国情緒
そう、自分は外国語で何かエラくなりたいわけではない。とくに金を稼ぎたいわけでもない。誰かの役に立てば、それはそれで良いと思える(ちょっとした翻訳や通訳を手伝ったことがあった)。
でも基本的には自分は外国語で遊んでいるだけで。では、この外国語で遊ぶことのたのしさの、中核というか本質は何なのだろう?と思っていた。なんで自分は外国語にこんなに魅せられてしまったのか。

それは、一言で言えば、まぎれもない「異国情緒」に魅せられているのだ、という簡単な話だった。

異国が、自然に普通に異国としてそこに在って。そんな異国に、「ここではないどこか」の風に、自分は興味が止まない。

日頃外国語が楽しいー、とか、ロシア語の語尾がー、とか、ウクライナ語との比較がー、とか言っている私である。単語を覚えたり、文法を学んだりする外国語学習が、自分の「何」に結び付いているのか、というのが、今までやや不透明だった。何でこんなことを自分はしているのだろう、と。

異国情緒、ということに気づいてから、自分の外国語学習が、言葉の学習だけに留まっているわけではないことにも気づいた。むしろ、言葉に付随している異国のイメージや、当地の名産や歴史、地理の知識というものにも、自分は興味がかなりある。

異国をイメージしたい。もっと異国を知りたい。この感覚には覚えがある。自分が子供のころ、はじめてファンタジー系の物語やRPGゲームに触れた時にとてもよく似ている。あの頃自分は、知らない魔法やアイテムや町の描写を、延々と見続けていた。RPGゲームなんか、クリアするのも忘れて、延々と町をうろついたり、飛空艇で空を駆けていた。

そう、自分は異国情緒に魅せられているのだ。昔から今までずっと。いや、今はこの魅せられているものがきちんと分かったからこそ、目の前に広がる「異国たちの全世界」の深さが、より「はっきりと垣間見える」。(変な表現だが、どうもこういう言い方になってしまう)

 

それはこのブログで何度も書いてきた「全世界・全時代・全ジャンルの音楽」を追い求めるのと同じだ。というか、全世界の音楽を求めることこそ、異国情緒を追い求めることの一部に他ならない。自分はまだまだ音楽を聴く絶対量が足りないと思っている。それだけでも果てしないのに、この先、異国の全てを知ろうと考えると、この音楽の量の何倍、何十倍も、世界には様々なものが満ちているのだろうか。概観だけでも相当なものだ。

でも、その一方で、「世界のすべてを知ろう」などとは考えていない。ここで話は最初に戻るが、自分が様々な外国語を極め切ることなど到底出来ないだろう、とも思う。「知らない」という「伸びしろ」があるだけで自分は楽しいし、それで充分なのだ。なんというか、神経症的に、強迫的に「すべてを知ろう」というのは、とても良くない。異国情緒は自分にとって、風のようなものだからだ。

風のように。異国の言葉や話は、何かの拍子に、時たま軽々とこちらに吹いてきて、その香りに魅せられる。なにか懐かしく思うような、甘酸っぱいような。そして風は異国から吹いてきたのだから、異国は遥か彼方に確かに在る。私は今日も、外国語で遊んだり、異国の知識を蓄えたりして、遥か遠くの異国を想う。それで私は充分だ。

 

●参考記事

外国語で遊ぶことについて - 残響の足りない部屋

こんな音楽を聞いてきました その1:アメリカ大陸、ヨーロッパ大陸(世界音楽履歴書2020年現在) - 残響の足りない部屋

趣味外国語、記念すべき10カ国語めにアラビア語に入門したら全く歯が立たないがそれでもリアンナハー・ルガ・ジャミーラ・ワムムティア - 残響の足りない部屋

 

backtolife.hatenablog.com

backtolife.hatenablog.com

(↑ 最近良く読んでいる、記事を日本語と英語で両方書いていらっしゃる「踊る猫」氏のブログ。氏の「英語のある生活」の健やかさを、とても善いものだなぁ……と思える)

 

www.mofa.go.jp

(↑ 外務省の各国駐在大使のインタビューや、各外国語との付き合い方など、大ボリュームで面白い)