残響の足りない部屋

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外国語で遊ぶことについて

30歳を過ぎてから、いろんな外国語に触れることが趣味になりました。

いま、「外国語に触れること」と書きました。一般でよく言われる「外国語勉強」の方が、通りが良いのだとは思います。でも自分の外国語との関わりは、「勉強」という言葉で表すような一生懸命さや真面目さは薄いので、「外国語に触れること」と書きました。「外国語と戯れること」でも良いし、「ちんたら外国語で書かれたものを読むこと・ダラダラ外国語の音を聞くこと」というのは事実として非常に的確に表していると思う。

ともかく、外国語で遊んでいます。うん、これが一番しっくりくるかな。

多くの方にとって、外国語は「きちんと学ばなきゃいけないもの」とされています。もちろん、外国語の読み書きのレベルを上げるためには、きちんと学ぶことは必要です。

でも、そう思い込むあまり、脅迫されるように外国語を学び、外国語が自らにとっての重しとなってしまうことも、よく見られることです。だったら、自分のようないたって呑気な「外国語で遊ぶこと」も、それなりに意味はあるんじゃないか?とも思うわけです。ということで、趣味としての外国語をここで書いてみます。

●外国語の何が楽しいのか

うわ、いきなりの難問設定しちゃいましたネ自分。でも、外国語に触れて、いつだってそれで楽しくやっているのだから、この設問に答える意味はあります。

端的に言って、その楽しさは「いろんな国の知らない言葉を、見たり聞いたりするのが楽しい」ってことに尽きると思うのです。

外国語の四大要素……読み・書き・リスニング・発話、の各部門のレベルは上げるに越したことはありません。もちろんその通りなんです。でも、再び申しますが、それを強迫的に行うのでなく、楽しみながらやっていきたいと思っています。

「いろんな国の知らない言葉を見たり聞いたり」ってことに興味を持つっていうのは、「未知」に対する興味なのですが。ようは外国語……例えば文字や文章を見て、「面白そう」っていうのが第一に自分は来るんです。「イヤだなぁ」ではない。

わたしがこう思うのは、はて何でだろう。わからない。それに、こういう「外国語が(街中に)ある」ってことを忌避する人も居るってことも知っております。まぁそういう人のことはともかくとして、自分はいつの間にか、「外国語がある」ってことを面白がれる人間に育ってしまったようです。

面白いんですよね。知らん言葉を知るっていう営為そのものが。それは、ランナーの「走るのが気持ちいい」、水泳選手の「泳ぐのが気持ちいい」っていう、根源的な「快」に近いと思う。

ただ、自分は「勝負・競争の精神」っていうのが非常に欠落している人間なので(嫌悪の前に、欠落っていうレベル)、外国語のレベルで勝負しよう競争しよう、って気はまるでございません。

だから外国語を勉強する自分が凄いとも思っていない。むしろ「ま~たこんなことやってるのか!」っていう「余計なもの」意識すらあります。例えるなら、暇つぶしに顎のヒゲを指でポツポツ抜いて「うわ、こんなに抜いたのか」っていう感じの「ま~たこんなことやってぇ~」というやつ。外国語勉強を誇る気になれないっていうのはそれです。

でも、世間では外国語勉強っていうのは「とても良いこと」とされているので、自分とのギャップがあります。自分はただ、個人的な「快」をちょこちょこやっているだけに過ぎないので。

なので何かの話の流れで「へー外国語勉強してるんだ、凄いね」と言われると、逆にこちらが凄いバツが悪いのです。「こんな自分を誉めてくれる貴方の度量の方が凄い」と素直に即レスしてしまいそうになるけども、相手にとってはこういうレスは卑屈に受け取られるみたいだから黙っています。バッドコミュニケーション。

外国語の本質はコミュニケーション……なのか?

そう、そこで自分はちょっと疑問に思ってしまうわけです。以前、自分が尊敬している長年の友人が、講座に通い、一年間中国語を勉強されました。外国語を趣味とする自分は、非常にシンパシーを覚えたものです。

で、講座に通われている友人氏が、「外国語は結局、コミュニケーションじゃないですか」と仰ったのです。その時に自分は即レス出来なかったのですが、「……?」とちょっと疑問に思ってしまいました。

友人氏に反論するつもりは毛頭ないのです。友人氏は非常に真面目に講座に通われ、日々ご自宅で予習・復習をされていました。素晴らしいと思います。その日々の功夫クンフー)の果ての「外国語はコミュニケーションである」というお考えなら、それは非常に尊重したい。

ただ自分にとっての外国語(に触れること)は、コミュニケーションの要素がかなり「無い」な……と、何度も考えて、やはりそう思ったものなのですから。

外国語を見て、読んで、聞いて、面白がっている(インプット)。逆に、自分が身に着けた外国語で、創作をしてみる(アウトプット)。

例えば、拙い外国語で文章の下書きをしたり(英語やドイツ語で文章を考えると、だいぶ文章の内容や構造が変わるんですよ)、TRPGのオリジナルキャラクターを作ったり(その外国語の文化圏のキャラって設定で)。

「他人が読んで最低限わかるようなレベルで」ってことを意識することが、即ちコミュニケーションなんだよ!……と言われると、まぁそりゃそうかもしれませんけど……とこちらもお答えしますが、レス声は小さくなっていきます。「他人が読んで最低限わかるようなレベル」って、コミュニケーションにかける意識としちゃ、下から数えた方が早くねっすか。

そりゃ、外国語を身に着けたってことは、それだけ当該外国語を話す外国人の方とコミュニケーションをとれるってことではあります。実例。前に、ストリートミュージシャンの演奏を聴いていて、聴衆の中に外国人の方もいました。ミュージシャンの人に「ちょっと曲の意味やMCを通訳してくれない?」と頼まれて、ガタガタ通訳もいいとこでしたが、それでもまぁ向こうが「あぁなるほど」と笑って言ってくれるくらいのことは出来たんじゃないかと自惚れます。

ここで書いたようなこと……そりゃそういうことも出来なくもないですが。でも、それは、結局自分にとっては副産物なんですよね。「コミュニケーションのために外国語勉強を頑張る」ことは自分には出来ないと思うんです。おお、クズ発言きたな……さすがメッキのコミュ強、真に誠なる非=社会的人間であります。

それよりはむしろ、本を読みたいのです。本を読むということは、作者とのコミュニケーションである!というお話なら、うん、そうかもしれない、とレス出来るかもしれません。

外国語原書の現場本番読書

そもそも日本語の読書にしても、自分の場合「ま~たこんなもん読んでるのか」という感じで、人に誇れるものでもないなぁとは思っておりますが。多少は文章を書けるようになりましたが、それも所詮副産物です。上と同じこと書いてんな……。

ともかく、外国語で書かれた文章や書物の読書をしています。今は、こないだイギリスから届いた、スティーヴ・ジャクソン&イアン・リビングストンの『ファイティング・ファンタジー 火吹き山の魔法使い』『ソーサリー!1 シャムタンティの丘を越えて』を読む、っていうかゲームブック攻略しています。ほらこれのどこが凄い読書なんだいって話です。

いつまでも教科書ばかり読んでいるのではなく、「あらかた基本的なところを押さえたら、さっさと外国語の原書や海外のブログ記事を読んじまった方がいい」と自分は思っています。「現場・本番」にすぐ行ってしまうという。

教科書をずーっとドリル解くみたいに勉強する方法は、自分には合いませんでした。学校式の学習スタイルが合わない人間ですね。無論のこと、外国語のレベルを上げるということは、結局「知っている単語の数や、文法(表現)を増やし続ける」ということです。なので、単語&文法の勉強は、いくら外国語で「遊ぶ」からといって、やはり必須なわけです。

しかしあまり言われていないことですが、単語&文法の機械的暗記、学校ドリル解き的暗記は、「文脈(コンテキスト)がない」という地味な弱点を抱えています。日本語では同じ意味なのだけど、外国語では確実に違ったニュアンスがある、っていうパターンよくありますよね。

これをどうにかするには、とにかく現場・本番の場数を積み続ける他ありません。そういうわけで、自分は原書や海外ブログ記事をガリガリ読んでいった方が、楽しくレベルを上げることが出来ました。いわゆる「精読or多読」の話ですが、自分は「多読本番の現場を恐れない」というスタンスですね。もちろん、きちんと精読するのもまた楽し、というスタンスでもあります。どちらも大事。

「現場・本番」スタイルのもうひとつ良いところは、まさに現場・本番なので、自分の限界がすぐに知ることが出来る、っていうことです。すぐ読めない単語、意味を掴みにくい表現、ってものが出てきます。それを「恥ずかしい」ととらえるか、「やったぜ、知らない単語や表現を覚えるチャンスだ」ととらえるかで、学習スピードの差は飛躍的に出てきます。

そう、そこで教科書を「使う」のです。今自分が知りたい単語・表現がそこに書かれている可能性はあるどころか、可能性の塊なのですから、教科書は。そこに至って初めて、教科書の項目を暗記する意味が出てきます。

●外国語と「恥」

とりわけ日本人にとってなのでしょうか。外国語、とくに英語をうまく話せない、読めない、っていうことで、「恥ずかしい」と思うのは。上手く話せなかった、恥ずかしい。あいつより英文が読めない、情けない。こんな自分は恥だ、と。

何回も聞いてきたセリフです。この日本という国で外国語を勉強すると、「恥」の感覚に襲われることが多いです。例えば英語で「ネイティヴ的にはこう表現しなくちゃいけない」とか。

もうやめませんかそういうの、って思うのです。こう言ったところで、この恥の帝国・日本では相変わらず「外国語をミスると恥ずかしい」でずっと覆われ続けるのですが。それでも、「恥、と考えるの、もうやめましょう」と言いたいです。

なんでそう、外国人ネイティヴと「ペラペラトーク」をするのが理想、否、今日からでも出来なくちゃいけないんだ、そうしなくちゃ恥だッ、とかって考えるんでしょうか。

まぁこれはね、日本人にとっての「舶来意識」ってものがあるんですよ。光は海外より来る、っていう意識が古くから日本人にはあります。昔は中国(隋、唐の時代)でした。今は欧米です。

良く聞かれますよね。「欧米では●●(進んだ事例)だから……」っていう言い回し。欧米だからって正しいとは限らないでしょうに。ともかく、なんでか日本人は「本物」ってものを、海外(の人)に譲り渡してしまいます。そのくせ、日本にしか無いもの(文化、風習)をやたらと誇りたがります。外国の人が日本に溶けこもうとするのを「ガイジン」と呼びます。

やめませんかこういうの。もっと外国語……言葉を「雑に」扱いませんか。具体的には、ある程度雑に通じてれば、ダサい発音だろうが、スペル間違っていようが、もうOKにしませんか。日本語もそのようにしませんか。外国人の片言表現をネタにして笑うのやめましょう。

あなたは海外に行ったとき、外国人の片言日本語並みに、その土地の外国語を片言でもしゃべれるのですか。正直、わたしは無理ですよ。わたしはポルトガル語を、日本に出稼ぎに来ているブラジル人の片言日本語並みに、運用することが出来ません。ポルトガル語、自分の外国語勉強の中でも、結構力入れてるんですけどね。それでもまだまだ全然です。

外国語の現場で、あざ笑うのやめましょう。マウントとるのやめましょう。「恥」の意識をやめましょう。はっきり言って、言語学習の邪魔なんだそういうの。

でも恥の帝国・日本で、「恥」の感覚を捨てるのて難しいですよね。本当に難しい。

ただ、自分は、外国語に触れるようになって、少なくとも、世間で日本語を頑張って使って生活している外国の方々には、優しくなったと思います。自分は彼らほど外国語を喋れないからな……っていう厳然たる事実を、しばしば思います。ふらりと外国に行ける時代じゃ今はないですが、たぶん自分はいつか外国に行きます(原書古本と中古レコード・カセットのため)。そしたら、彼らほど外国語を運用できはしないのです。そのことは容易に想像がつく。だから、彼らのことを笑うことは出来やしないのです。彼らは今の自分以上に確実に頑張っている。

 

●絵の勉強は外国語勉強である

未知や能力不足を、「快につながるチャンス」ととらえるか、「恥」ととらえるか、っていうのは、だいぶ違うなーと改めて思います。30歳あたりで、このあたりが上手く自分のなかで整理できたのは、良いことでした。

ただ、自分は外国語ではそう思えるんですが(それくらいのレベルには達した)、例えば「絵を描く」ことでは、まだまだこのレベルには達していないのです。

自分はたまに絵を描く練習をします。絵を描けないコンプレックスをもうこれ以上じゅくじゅく膿んだ傷口にしたくないので。

なので、なるべく自分の絵の下手さを「恥」と思わないようにする。そして「最低限他人に何を描いた絵なのかわかる程度の絵」になればよいな、っていう雑さ。まずこの2つを意識し、勉強していくようにしています。

なんだ、偉そうに外国語の話をしましたが、「絵という言語」においては、自分もまだまだ過ぎるっていうことですね。いや、絵は外国語ですよほんと。

絵の機能は「美」と「図示」の二つに分けられることに気づきました。人の視覚を魅了する「美」と、人に描いた絵の意味を分からせる「図示」。で、自分はまずは「図示」の方面をきちんとやっていこうと思っています。これは最低限の必要事項ですから。そういう意味で、自分の外国語との交わり方が、絵の勉強にも役立つのだなーと最近思っております。