残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

ネタバレがわからない

わたくしはネタバレを全然嫌わない人間です。そればかりか、仮にネタバレレビューがあったら、ネタバレをさっそく読んでしまって、よりその作品への期待が増すタイプです。

よく「ネタバレを先に読んでしまうのはもったいない!」と言われるのですが、その気持ちは全然自分には当てはまりません。もったいないと感じたことは今まで全然ないのです。

何がもったいないのか、というと、作品に対する「はじめての感情」はまっさらであるべきだ!という考えに基づくもったいなさなのでしょう。それから作品に搭載されているギミック(トリック)に初見で触れて驚いてほしい! その感情こそまっさらであってほしい!……という。

これもわたくしには当てはまりません。わたくしは物語やギミック、トリックで「驚きたくない」のです。

たぶんわたくしは物語とよばれるものを「研究」したいのだと思います。物語、というよりはキャラの人格や、世界観というものを「研究」したいのですね。なので気に入った物語を何度も何度も読み込むのは当然です。もし自分が「驚きたい」のだとしたら、それはキャラの人格で、今まで見えていなかった部分に改めて気が付くとか、世界観で今まで分かっていなかった部分が深まる、ということであるとか。町やダンジョンの設定をより知ることが出来た、とか。

理屈としては理解できるのです。「まっさらに物語にびっくりしたい!」という人たちの気持ちは。そしてその人たちの気持ちを否定なぞさらさらしようとは思いません。でもそれなら、まずは物語をゲットしたら、目の前のネットを完全に閉じようぜ、とは思います。ネットを見ながら物語に触れようとして、ネタバレ嫌いっ!とするのは、どちらかというと彼らの「この物語王様たる自分に配慮しなさいっ!」という傲慢な気持ちというものを考えてしまいます。

ギミック、トリックで驚くことは気持ちいいじゃないか?と問われたら、自分は「いや、気持ちよくはなかったです」と答えます。「へー、そう。よく考えたねこのギミック」とは感心しました。確かに。でも、自分が重視しているのは、キャラの人格であるとか、世界観の諸相の深みであるとか、エモーショナルな情景であるとか、です。過去に触れた「ギミックが凄い!」物語であっても、今思い返すのはそのギミックの瞬間風速的な凄さよりも、細部のエモーショナルな情景、例えば夏草がそよいでいたり、とか、指先が触れあう繊細さであったり、とか。そういうことばっかり思い返します。むしろ、「ギミックが凄い!」と言われている物語でも、そのギミックだけに注力しているなぁ、と感じたら、むしろ文芸・文学としては志が低いのではないか、と感じてしまいました。辛さだけを競っているジャンクフードみたいに。

そのように自分は、物語で「驚く」ことを全然重視していないのです。どちらかというとその「驚く」ことは、自分は音楽のアドリブ演奏とかで満たされているのかもです。ジャズとかの。

物語で「どきどきわくわく」する、というのもあんまり求めていません。この先はどうなるんだろうっ!?っていうのは、自分の読み方として、あまり感じたことがないな、と思います。むしろ自分はさっさとページのラストをパラパラめくって、まず物語ストーリーの大筋を把握したい人間です。そして、自分にとっての物語は、むしろそこからはじまります。話は理解した。キャラを把握した。世界観の諸相を垣間見た。さぁこれから解像度を上げていくぞ、という作業のはじまりです。そこからの「研究」がどきどきする。

そんなわけなので、自分には「好きな物語」というのが少ないです。読書好き・小説好きの皆さんのように、次々に物語に手を出していけないのです。自分の場合、今(令和4年)は、一年に2~3冊出るゴブリンスレイヤーの新刊を読めば、もうその年の小説読書数の上限に達します。これ以上はもう小説をほぼ読めない。小説向きの脳をしていないなぁ、と思います。

ただし、一度好きになったら、物凄く何回も読み返します。今ゴブリンスレイヤーを例に出しましたが、たぶんゴブリンスレイヤーを読み返したのは、50回じゃきかないと思います。100回いってるかどうかはカウントしていないのでわかりませんが。蝸牛くも氏の文体、語り口が好きなのですね。あのテーブルトークRPGGMゲームマスター)然とした語り口が好きなのです。そして四方世界という世界観と、ゴブスレさんたちが好きなのです。

ええと、ネタバレ論議からちょっと遠くにいきましたが。ネタバレを先に読んでほしくない!派の人たちは、たぶん「まっさらに楽しんでほしい」という気持ち……そういう善意を持っていらっしゃるんでしょう。その善意は尊重したいとは思います。でも、物語をどう読もうが、読み手の自由ですからね。わたくしはネタバレを踏んでも全然ダメージがなく、むしろネタバレのおかげでその作品に対する興味がより一層増した、と思える人間なのです。彼らの言う「まっさら」さはないですね。わたしは敵か。敵なのか。

敵……そんなわたくしの楽しみ方は「他人の評価を前提にしている、物語読者として低級な存在だっ!」と言う向きもあるんでしょう。お前は自分の意志ってものがない!という論。ヘイトスピーチもたいがいにしてくんないかな、とは思いますが、まぁいいや。言葉は通じまい。しかし、自分も気を付けないといけないとは思っていることがあって。ついやらかしてしまうのが「他人にネタバレを無自覚に教えてしまう」というところ。それも善意で。

例えば、ゴブリンスレイヤーの新刊のネタを、まだ未読の人に対して「この●●ってとこ面白かったっすよ!」とサラっと口にして「おいおいっ!まだ読んでないっ!やめてください!」と言われたことがありまして。確かにこれは自分が悪かったです。確実に悪い。ネタバレ好きなのはあくまで自分のみであって、他人がネタバレでイヤな思いをするのを侵害する権利は絶対ない。

そういう風に、自分の「研究」スタンスは、知らず知らずのうちに人を傷つけているかもしれんなぁ、という反省はあります。こうなってくると、他人と物語を語り合うのもちょっと控えた方が良いんじゃないか、って思った時もあります。

なかなかにデリケートな話になってきましたが。それに、わたくしは「こういう奴もいる」って話を書きたいだけであって、「こういう奴も許容してくれ!」と訴えたいわけではないのです。もとから少数派ってことは理解していますし、異端だっていうこともです。認めてほしい、とは思っていない。

さらにダメな点として、自分としては、上記の「どきどきしたくない」「研究したい」「ネタバレどんどん踏みたい」っていう物語への態度を、全然改める気はないのです。ここでこうして書いているのも、そんな自分の態度を再確認するだけなのです。ひどいな。

なんでこんな人間になってしまったのか、自分でもよくわかりません。例えば、幼少期に絵本や児童文学の「読み聞かせ」を受けてこなかった、っていうのはあるかも。幼少期、図鑑ばっかりを読んでいました。なので事物に対する興味ばっかり発達して、「物語」に対するセンスを欠如したまま育った面がある、という仮説。

それから読み聞かせの欠如、ということでいうと、やっぱり自分は物語エリートじゃないんだなぁ、って最近よく思います。次々に物語を読んでいけないのです。他人から物語を薦められても、すぐに読めない。すぐに読もうとすると凄い苦しい。脳内でいろいろな情景を展開しないと「読んだ」気になれないので、読むのにも時間がかかる。小説以外だったらこんな苦労はしなくていいのに……とウクライナ語の教科書を今日もガリガリ読むのですが(黒田龍之助「つばさ君のウクライナ語」)

物語エリートじゃない……自分はちょっとこのことで、心がきしむことはあります。よく皆さんは、次々物語を読めるなぁ……と。たくさんの物語を脳内に、心の中に蓄えておけて、思考する際に物語を引っ張ってこれるなぁ、と。そういう物語エリートに対するちょっとした羨ましさはあります。どうして自分はそうじゃないんだろう、と。

自分で物語を作っている(最近はとくに漫画描き)から、それもしょうがないんじゃないか?と考えもするんですけど、でもそれでもやっぱり、物語を次々に読める「物語エリート」には自分は成れないんですね。結局それは「オタク」じゃない、ってことにもなります。こういう結論は自分にとってはちょっと心の痛い話であります。

それでも、物語というものを、自分がどう付き合っていったらいいか、というのは、考えていかねばならない話であるのですが。最近思ったのが、外国語原書の小説だったらまだ読めるな、というのが。どうせ読めない外国語なので、遅く読むしかない。読んでも100%理解出来るか、っていうとあやしい。でも外国語を読んで、少し理解出来たら嬉しいな。それは「研究」スタンスに似ています。なんだ結局自分のスタンスはこれかよ、って思いますが、うーん、こりゃもうしょうがないのかな。