残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

(2020年の個人思想)世界の終末妄想、自然世界、ヒトの群れ社会、キャンプ

自分はオカルティック陰謀論な社会観には組したくないなー、と常々考えておりました(おれたちボンクラインテリのための雑誌「ムー」的なアレを参照)
が、オカルティック陰謀論のトピックの中で、ひとつ「世界の終末」妄想形式については、思考実験として考える価値があるな、とも考えておりました。

起こる現象の確率の妥当性について、正確に試算しようと考えているわけではないです。むしろ妄想世界観のおはなし。
「地球の地軸がポールシフトして氷河期突入!」とか、「隕石がドカンと爆弾飛来して氷河期突入」とか、「太陽がちょっとセルフ悪さをして、日光の量が減って氷河期突入!」とか。氷河期好きね。いや好きじゃない。

まぁそのあたりの大雑把な終末を軽く想定して。
そんな(主に氷河期)大変困った災害が起きて、次に起こるのは隣国がリソース(食糧とか)を求めて攻めてくるなー、とか。やはり世紀末暴力か、とか。
いやいや、隣町、隣の県ですら、困った災害になったらどうなるのか、とか。
そんな大雑把な終末世界をぼんやり考えて……

逆に、「では自分ひとりは、どうしようか?」とたくましく考えるようになったのです。
そこで自分はあっさりと、「そしたら、これ以上社会に頑張ってしがみつく必要もないな」と思ってしまいました。
例えれば、ノアのソーシャル箱舟に入れてもらう権利を、声高に社会に対して立てなくてもいいや、と。

で、去年からキャンプをしています。

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私物のテント写真

自分がキャンプをするようになったのは、漫画・アニメ「ゆるキャン△」の影響は甚だしく大きいですが。

アニメ「ゆるキャン△」ポータルサイト


けいおん!」でギターを始めたわけでもない自分ですが、キャンプを始めたのは明らかにゆるキャンです。言い逃れできない。
しかし、根本的な精神というか。
「最後に頼れるのは、自分がこの物理自然世界でいかに生き延びていくかのスキルと力ですな」
という、生物が生きる基本のキを改めて意識するようになったわけです。
ゆえにキャンプをし、サバイバルスキルを磨き、物理自然における対応力をめきめき磨いていっているわけです。キャンプのキは基本のキです。
だがこれは気狂いのキか? この社会ではそう認識されるような思想かもしれない。

しかし、単純な理屈・論理としての話です。何か世界に前代未聞のオカシなことがあったら、その上で生きていこうと思ったら、まず自分で自分の知ってる範囲の限界まで考えて、生存するために頑張って行動する事が最低限必須です。
基本、誰も助けてくれない、って考えたほうが、より安全側(工業用語)です。
ぼーっとしていて、どっかの誰かが助けてくれる、っていうのよりは、より思想として安全側だと思うのです。
まあ、巨大システムが、効率の名のもとに、自分を大雑把に回収するかのような形で救済するっていう線もないではないですが、
「その巨大システムって何よ?」とまず怖くなるところもあります。(システム「AI」かシステム「世間」か、って話ですね)

  • 世界」……Nature。自然世界。人間も含めた、あらゆる植物と動物と、有機物と無機物と、地球と宇宙。物理存在世界
  • 社会」……Social。ヒトとヒトのノード(間柄)が作り出す「群れ」ネットワークの総合

このように定義します。
つまり自分は、「世界(自然)」の中に在ることは間違いなくて、やっぱり死ぬまで「世界(自然)」の中に在るんでしょう。それが物理存在の存在ルールです。
ただ、「社会(ヒトの群れ)」との関わりについてなんですが、さてこれをどう活用していこうか、っていう話が、かなり大きいです。
自分のなかで、いつしか内面化さしてしまった社会、というか。

 

自分は何を考えて、生きていこうとしているのか。(いつしか去勢されてしまった)

 

だいたい、「社会」の論理構成要素を物理的に考えたら、「ヒトの群れ」を最低構成要素にしているんですね。
社会の本質が何ぞや、と考えたとき、「人間の思考が社会」とするより前に(この考えが一般的に強力であるのも知ってる)、
「ヒトの群れ内での、思考や言葉を使った、サル的毛づくろい」とかの文化人類学アプローチをまず押さえておいた方が、より本質として安全側だと思う。

社会がシステムである以上、ある程度の危険性・暴力性ははらんでおります。ワンピースのスモーカー大佐も、「人間が徒党を組む以上、この世に完璧な組織なんざネェ」と言っております。

「人間として生まれた以上、どうしても社会の中で生きていかねばならない」っていう話は、なかなかに妥当性を持ってはいます。
が、「社会から得られるメリット/デメリット」をきちんと腑分けする必要もあると思うのです。
それは、影のフィクサーによるアヤツリ社会の本質を暴くのだッ!という陰謀論でなく(やっぱり陰謀論に組しません)、
「自分は社会のメリットのうち、何を得たいか」
「自分は社会のデメリットのうち、何を必死こいて拒否りたいか」
というあたりの腑分けですね。どこまでが我慢できて、どこまでが我慢毛頭ならんのか。

その答えがキャンプにあるように思えてなりません。あくまで自分は、ね。
どこまでも「自分」ベースなのです。
しかしそれは自分の欲をどこまでも叶えたがるデザイアドライブであることを意味しているようで、実は案外そうでもないのです。
むしろ、自分の「分際(BUNZAI)」を知りたい、という話です。すげぇ落差。
自分が世界において、どの程度の大きさ・小ささ(スケールサイズ)であるか。
何が出来て何ができないのか。そして、何に喜びを見出し、何に耐えがたい苦痛を感じるのか。
そしてヒトの群れ(社会)において苦痛を感じるとしたら、そのうちの「何」に対してなのか。
それさえ回避できれば、むしろ自分は社会において多少は手助けしてやってもいい、
そう思える自分もいました。
また、この人間社会では3K(キツい、汚い、臭い)と言われている仕事でも、ものによっては自分はそうは思わない、ってものが結構ありました。
むしろ逆にそれで多少稼げるなら、3Kを部分的に肩代わり仕事してやってもいいな、と思える自分もいまして。実際、今、仕事の一部でそんなことをやっています。
そのせいで精神が狂うんんじゃないか?と考えましたが、しかし、どう考えても、社会の中で狂う確率のほうが、明らかに高いんですね、自分は。

 

やっぱり、あんまり社会の中で孤独であっても、「寂しい」と感じない人間なんですよ。自分は。
むしろ、人と話しているときに、強烈に寂しさを感じるときがあります。

 

ずーっとひとりでいて、全然退屈しないのです。キャンプは毎回ソロキャンプです。
そして、明らかに人格がやさしくなれているのです。
で、たまーーーに人の里に下りていって、そのやさしさ貯金を使うのです。そんなイメージです。

社会に適応しようとして磨り減る30数年でしたが、ここのところで「世界を理詰めで考えて対処していく」って方にシフトしました。で、キャンプであります。

次回以降もこの話は続きますが、たぶん「考現学」の話になるかもです。あるいはpanpanya漫画の世界というか。あ、それと、コロナウイルスについては、意地で書かないようにしています。これからも書くもんか。