残響の足りない部屋

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絵・漫画が描けないコンプレックスからの脱却について

この文章では、あるコンプレックスにまつわる嫉妬の地獄について書きます。そしてどうか願わくば、同じコンプレックス、嫉妬に苦しんでいる人たちにこの文章が届いて、ほんの少しでも楽になる手助けが出来れば、と思っています。この文章が同胞たちを救えるなんて言えません。しかし何かしらの参考データくらいになればよいと本当に願う。同胞たちがコンプレックス地獄から抜け出せるための指針をどうか同胞たち自身で掴んでほしい。なぜなら、同胞たちの嫉妬の苦しみは、この筆者たる自分が、「真綿で首を切り締める」思いで心身を焦がしたから、よくわかるのです。

そのコンプレックスは、「絵・漫画が描けない」というものです。

嫉妬歴史

いつの頃からだろうか、「自分には絵画スキルがない」と思うようになったのは。自分の絵の下手さに自分自身でイヤになる、という。

そのくせ漫画やノベルゲーム(美少女ゲーム)などで、目が肥えるからいけない。素晴らしい躍動感の漫画や、流麗で繊細なタッチの美少女ゲー原画。そして思うのです。「自分は絵が下手だ」と。絵師の先生たちのような「絵を描ける」人生は、自分のこの人生では与えられなかったな、と。

苦しかったです。脳内にはいろんな創作イメージが湧くのです。キャラの心情の情景が、世界の風景が。浮かぶけれど、自分には表現手段がない。せめても文章(小説)の情景描写で、表現しようとしました。何作も長編小説を書きましたが、結局文章は文章です。「絵を描いている」わけではない。

模型(ジオラマ)を作っても、音楽を作っても。この「絵、漫画が描けない」コンプレックスだけは癒せなかった。渇きが満たされない。そりゃそうです。「絵を描いていないから」です。

自分は絵が下手です。でも絵を描かないことには、このコンプレックス、渇き、絵師への嫉妬……絵への渇望は、満たされないことにようやく気付きます。36歳です。もう絵を、漫画を描くしかない、と悟ります。しかし、ここから実際に絵を描くまでにさんざん迷いました。足踏みをしまくった。

描くしかないのになぜ迷うか。それは「怖い」からです。自分の下手くそな画力を目の当たりにするのが怖い。素晴らしく美麗な漫画やエロゲ原画を見まくって、肥えてしまった自分の「眼」が、自分自身の下手くそな絵を許せない。許せないということは自己否定です。そうなるのは容易に想像がついたから、怖かった。清水の舞台というか、断崖絶壁に足がすくんでいるくらいの怖さでした。自分の心の中では。

最終的に「描く」ことを決めたタイミングは、今ではちょっと思い出せません。なにせ恐怖で頭がぐるぐるしていたのです。ただ、いろんなちょっとした手段で、ハードルを下げて下げて下げて、「ええいッ!もうッ!」って感じでやけくそで処女作漫画同人誌「雨とハープシコード」を描きました。

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今この作品を読み返すと、明らかに画力は下手です。本当に下手です。でも、それでも「漫画コピ本同人誌を一冊でっち上げることは出来た」という成功経験が、自分をほっとさせてくれました。嫉妬で熱くなったコンプレックスの氷が、ある程度「溶けた」のです。そのことは自分を本当にほっとさせてくれました。これ以上、漫画やイラストを見て、嫉妬で身を焦がさなくても良い、と。

以下、漫画を描くにあたって、「役立ったこと」「下げたハードル」を列挙してみます。それは最初のひとつを除いて、ほぼ技術的なことなので、コンプレックスの同胞の皆さんも応用できるものだと思います。

●20年近くオリジナルの箱庭世界で遊んでいた

つまり、漫画で描くべきキャラ、設定、世界観はすでに出来上がっていた、というのは、最終目的(作品完成)ということで考えると、かなりのアドバンテージだ、と今さらながら気づきます。漫画を描きながら、キャラや設定で迷うことがない、というのは、かなり「楽」なのかもしれません。しれません、というのは、自分は漫画の描き始めから、オリジナル世界観が在ったので、それ以外のやり方を知らないので、比較が出来ない、という意味です。

でも考えれば、これは二次創作漫画でも同じですね。キャラや設定があれば、あとは自分なりの解釈やシチュで漫画を描けば良い話です。「二次創作から漫画をはじめよ」というアドバイスが、世に確かにあります。そういえば、自分オリジナルの世界観と言いましたが、わたくしにしたって、「オリジナル世界観の二次創作漫画を自分で描いている」感覚が確かにあります。

そういう意味では、まずキャラや設定を、オリジナルでも二次創作でも「決めて」しまってから漫画を描くのは、良いのかもしれません。

●資料を用意しまくった

手持ちの写真集・資料集・画法本・図鑑や、ネット検索を駆使して、漫画作中のアイテムの「お手本」を逐一見ながら描きました。もちろんトレスはありませんが、「自分は見なけりゃ描けない」「自分は見なけりゃ描けない」と強く念じました。

思えば、画力がない人が、資料を見ずに想像だけで描くなんて、ほぼ自殺行為です。この場合の自殺行為とは、防具を身にまとわずに銃弾飛び交う戦場にヒョイと出かけるという意味合いです。

「画力がない」ということは、目にしたものを正確に描けない、ということはもちろんなんですが、それ以前にそのアイテムを「ぼんやりとも描いたことがない」ということです。だって絵を描いてこなかったんですもの。脳内にあるモデルを紙に線描することもしてこなかった。紙にアタリを付けてデッサンすることもしてこなかった。おおまかな描線を下書きとして、さらに細かく線を加えて描いていくこともしてこなかった。

これは責めているわけではなくて、「してこなかった」のだから出来ないのは道理である、という再確認です。痛いですね。ではどうすれば良いのかというと、「ラクに」描くための努力をしよう、という話です。

資料をトレパクするのは問題ですが、資料を良く見て自分で絵を描くことが問題なら、絵画表現って何なのだ、って話です。資料は見て良いんです。ペン1本だけでスラスラスラ~っと一筆書きで描ける神絵師がこの世にはいますが、とりあえずその存在は忘れましょう。同胞たち、今わたしたちは自分の作品……絵を、漫画を描きたいのです。「神絵師が一筆書きで描けるスキル」は確かにこの世にありますが、それを想定・想像するのはやめましょう。ついつい脳裏に浮かんでしまいますが……否ッ!大事なのは自分の作品なのですッ! 同胞よ、自分の絵を、漫画を描きましょう。

資料は「ぼんやり見る(シルエット把握)」にも、「詳細に見る(ディテール把握)」にも、どちらにも役立ちます。むしろ、役立たせようと思って世の中のモノを見ると、何だって資料になりえます。路上のアスファルトや、雑草なんて、どれだけ情報量が多いか。今まで自分はぼんやりとしか世界を眺めていなかった!ということに愕然とします。そして、「こりゃ退屈している暇はネェな……!」と、これから得られる情報量にゾクゾクしてきます。

ところで、こうして少しでも資料を見ながら描いていくと、神絵師がいかに凄いか、っていうことに気が付きます。自然と神絵師を嫉妬ではなく尊敬するようになります。その尊敬は、嫉妬のような心泡立つものでなく、ファンボーイのような「キャー!」でもなく、もっと静かなものです。本当に凄い人が頑張って今日も努力してるんだな、よし、自分も頑張ろう……と自然に思わせてくれるのです。

●自分に合った画材を

わかってる、わかってるねんで、デジタル(デジ絵)にした方が完成度は高くなる、っていうのは。どこまでも細かく描けて、UNDO(やり直し)も自在、っていう。

でも、どうにも自分の場合、デジ絵では「発想」が出来なかったのです。PCやペンタブレットや、スマホタブレットPCを用意したのですが、デジタル絵の画面をいじっていても、漫画のコマひとつ「発想」できなかったのです。なので自分は、「ある程度までアナログで描き込み、ゴミ取りなどの修正やデジタルトーンだけデジ絵で」という手法でいくことにしました。

この選択はどちらかというと愚かな選択だと思います。フルデジタルにしたほうが絵の画面の出来栄えは確実に良くなるのは解っているのですから。それでも、自分は「絵、漫画を楽しく描きたい」ということに焦点を絞りました。自分に合わない手法で無理してレベルの高い絵を描こう!という完璧主義は、自分をどこへも運んでいかないだろうな、と思ったからです。

あくまで自分の場合ですが、アナログ画材と紙で原稿を描いていくのは、とても楽しい作業でした。絵をアナログで描いていると「発想」するのです。指先の感覚過敏があるのか、どうも自分はデジ絵のツルツルした感触が、「発想」するには向いていない。逆に、ゴミ取りの修正をするには、「こりゃデジタル万々歳だわ」と、デジ絵に頼り切っています。

ともかく、自分は絵・漫画を「楽しく」描きたいのです。コンプレックスの解消に、さらなる苦行を持ち込みたくなかった。嫉妬を殺すために苦行で対抗する、っていう世界観はキツいなぁ……と。それよりももっとラクに、楽しく、自分が心なごむやり方でやった方が、今の自分には良いだろうと判断しました。ある程度の作品画面レベルの低下という、犠牲を払ってでも。

一番大事なのは、絵、漫画を描くことを、好きになることなのですから。

●この作品で個人的に何を描きたいか

自分が「漫画を描きたい」と思うようになったのは、panpanya先生の漫画作品がきっかけです。上記の「アナログ絵も良いよ」と思う根拠も、panpanya先生の影響です。panpanya先生といったら「背景」です。ノスタルジーの郷愁と薄暗い狂気の甘美を併せ持つあの背景です。

さて、漫画を描くにおいて、多くの人にとっては漫画は「テーマやメッセージを伝えるための表現手段」でしょう。自分にしたってそこはある程度同じで「自分の脳内にある様々な情景を、紙(二次元)に落とし込みたい」と思っています。

しかし自分は、漫画を描くという手段そのものを愛したかったのです。何かを描くための苦行としての漫画、ではなく、「漫画を描いているその瞬間が楽しい趣味」としての漫画をやりたかった。

これはかなりアマチュア的態度であるのは明白ですが、とにかく今の自分は「絵が描けないコンプレックス」から脱却しないといけない。その脱却はなるべく楽しい物であるに越したことはない……という理屈です。

自分にとって「漫画を描く楽しさ」を味あわせてくれるのは、背景を描くことでした。マニエリスム的態度、といったら言い過ぎですが、背景を描くのは楽しいので、その楽しさを充分に味わおう、と思ったのでした。そんな感じで作ったのが第2作「仙境ヤマナシ旅行記」でした。

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「たのしいことをしよう」これがモットーです。そうでなければ、絵、漫画描きというのをあなたの生活に加えたところで、ただあなたの人生に苦行が加わっただけです。

 

●方法論の技術的分解

そーはいっても、ある程度絵が描けないことには、絵は描けないのです(トートロジー)。同胞たちはおっしゃるでしょう「とにかく絵が描けないんだよ!」と。わかる、わかるぞ。自分もかつて叫んでいた。「とにかく絵が描けないんだよ!」と。

しかし……この「しかし」を言うのは心苦しいのですが。あなたが目と手を持っていて、その二つが使える以上、絵は描ける可能性はかなり高い、と言わざるを得ないのです。例えば、目と手が使える人は、文字が書けると思います。アナログ筆記で文章を書く、とまでいくとちょっと疲れるかもですが、少なくとも俳句や履歴書くらいの文字量は書けるはず。

これはバカにしている話ではなくて、「文字が書けるならなぜ絵が描けないのか」というのは、考える価値のある問いだ、ということです。

絵には、二つの機能があります。「意味」を表す図示的機能と、「美しさ」で人をトロけさす美術的機能、と。

もともと文字にしたって、書道があるように、文字の「美しさ」でひとをトロけさすことが出来ます。その一方で、文字の基本的な意味は、情報の伝達です。

絵も一緒なのです。絵をどこまでもシンプルに「二次元上の像」と捉えましょう。例えば道路標識などを想像してみてください。ピクトグラムと呼ばれるように、あの標識は「美しさ」でトロけさせようとするものではありません。しかし、標識の図は、「止まれ」「一方通行」など、意味がわかります。

これが「図示的機能」……「何が描かれている絵なのかわかる」というものです。それはほとんど文字と同じ情報の伝達です。(象形文字の歴史を補助線として考えても良いです)

絵が描けない人は、「図示的機能」と「美術的機能」の両方を一気にゲットしようとしているから、すぐに神な絵に到達できない自分がイヤになるのです。自分や同胞たちは、まず絵の「図示的機能」を学ぶことから始める必要があります。すなわち、美しくはないけれど、何が描かれているかわかる、シンプルイラストです。ポンチ絵とも言う。

それは確かに「美しく」はないです。神絵師のようにトロけさせる絵ではないです。でも、図示的機能にまずは振った学習方法をすれば、少なくとも人に、絵で情報を伝えることが出来ます。それを重ねれば、漫画が描けるようになります。トロけさせる絵ではないですが、それでも漫画は漫画です。

このようにまず図示的機能のシンプルな絵を、脳に蓄えることが必要です。同時にシンプルな絵を紙にラクに描くことも必要です。シンプルな絵を「覚える」のです。言葉を覚えるように。

おそらく、絵が描けるようになる、とは、この図示的機能を持つシンプルな絵を「単語」のように覚えることです。まずインプットし、アウトプット出来るようにする。そして単語を組み合わせて、文章にしていくように、シンプルな絵を組み合わせて、やがて複雑な絵にしていくのです。

この手段の理屈は、自分は、趣味の外国語勉強のメソッドから援用しました。外国語学習の王道にして究極は、「スムーズに、暗唱を仕上げる」ことと「世の中にある何でも、その外国語で表現してみる」を繰り返すことなのです。外国語で読める事&自分で表現できることを、少しずつ、しかし確実に増やしていく。そして絵の場合の「暗唱」「表現」は、シンプルな絵を考え、描けるようになり、脳内に保存することと全く一緒なのです。

おそらく、ひとつの絵、ひとつの線は、言の葉に、凄くよく似ていると思うのです。そして言の葉である以上、絵を構成するものは、かなり理詰めで分解していける。

……と、まずは信じましょう。絵を描くにはセンスとか絵心が必要とか、まずは置いておいて、「図示的機能を持つシンプルな絵」という言語を学んでみましょう。そこまで絵のハードルを下げる必要があるのです。

我々は、いつしか絵を神話や魔法の領域に置いてしまっています。そうじゃない、絵、漫画、これは単純な「技術」なんだと。少なくともそのように追い込める領域はかなりある。全部が全部センスや絵心という神の魔法というのは、あまりに救われない話でありますよ。

凡人でも、絵は描けるのです。絶対描けるのです。描こうと思えば描けるのです。問題は手段が悪かっただけなのです。

最後に……、

●人の評価を完全完璧にアテにしない

これは、あくまで「絵が描けない」コンプレックスからの脱却の話です。自分が絵を描いたからって、他人から誉めてもらおう、ちやほやされたい、承認欲求を満たしたい、っていうのは、完璧に除去しましょう。そっちに幸福はない。

ありえない話です。我々が絵が描けたからって、神絵師と同じような扱いを受けるわけがない。そこの自惚れは除去しましょう。

とにかく「自分は絵が描けたんだ」っていうほっとした感情を大事にしましょう。これは、今この文章を書いている自分こそが、一番大事にしたいと願っている感情です。あの日の焦燥に焼かれたコンプレックス嫉妬にまみれた自分、というのを忘れたくない。自分は漫画同人誌を二冊描いたけれども、それは結構幸運なのだ、という風に思うべきだ。傲慢になりたくない。

とにかく「絵、漫画を描けないコンプレックスから脱却」出来た……のなら、それで目的はオールオッケー的に解決されたのだ、と。それ以上に承認欲求を満たそうだなんて、虫の良い話がありません。

……本当にそう思っているかお前は?って問いたくなってます? ええと、これに関しては、自分は本当にそう思っています。コンプレックスを癒せた。それだけで本当に満足しています。

だって、あの焦燥感・嫉妬から、抜け出せたんですよ!あれがどれだけ苦しいか、同胞のあなたが一番よくわかるでしょう! あの感情ですよ!四六時中漫画やゲームの絵を羨んで、自分には表現が出来ずに、けれど漫画やゲームに対する愛を消したり捨てたりすることの出来ない、ほとんど呪いに近いあの感情ですよ! 忘れるものか!

それを本当にどうにかしましょうよ!だって辛いじゃないですか!この苦しさをずっと抱えて、死ぬ前に「ああ悔しいな……」って思うの、ひどすぎるじゃないですか!人生として!

実際の話として。一冊同人誌を仕上げると、これくらいの画力の向上がある、っていう、非常にバカらしいほどウケるビフォー&アフター画像があるので、最後に貼って話をおしまいにします。お読みいただきありがとうございました。

 

ビフォー

漫画同人誌を描く前(本気)

アフター

漫画同人誌最終ページ