路上観察入門の日々(コロナ禍において)

●コロナ禍に対して言いたいことはなかったのですか?

この1年、当ブログではほぼコロナ禍について語ってこなかったことを、ひそかに「よっしゃ(ガッツポーズ)」と誇りに思っております。なにせ創作以外で自分がネット発言している場所は、当ブログしかございませんから。
多少の例外としては熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な社会の不自由さについて』感想文1~3で、コロナ禍で変異した社会を前提にして書いたところはありますが、それくらいかなぁ。

熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』一読目の感想 - 残響の足りない部屋

『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』感想その2 - 残響の足りない部屋

清潔を巡る問答ーー熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』感想その3 - 残響の足りない部屋

なぜコロナ禍を話題に出さなかったかというと、ノンシャランな趣味人としての自分を保っておきたかったから……というのが非常に大きい。
それと、「より一層の清潔」を志向する社会を見ながらの、過去の強迫性障害の自分を思い起こしてしまう論調だと、ブログを読んでいて実にしんどいから……というのもございます。

わたくしはバカをやっていたかったんですねー。コロナ禍の社会であっても。コロナを「語らない」ってことが、自分なりの政治的態度でした。この社会状況において、社会を語ることは、否応なく「社会にコミットしていく」のと同義だと、わたしは思っていました。
そうじゃない。自分自身はもっと、社会と距離を置きたいのです。最低限の食糧、水、電気、ガス等のインフラを共有使用出来て(原義の「共有」。シェアってテン年代現代語が嫌いです)、図書館と病院に行けたら、後は文句はない。もちろんそれこそが「社会にコミットしていく」ことの表れですが、「積極的に社会にコミット」したくはなかった。生活費を稼いで、あまり会話をせずに、ひたすら自分の趣味をしていればよい。何度もこのブログで書いていた「非=社会的」になりたい、というのはそういうことです。
社会のインフラを維持するということの為になら努力は出来ます。むしろそっちは率先して行いたい。でも社会(絆っ!)ってやつを自分のこころに内面化はしたくない。


さて、その趣味とは何か、というと、これまで通り創作活動であったり、読書や音楽鑑賞、模型工作というのは変わらないのですが、この2,3年で自分には「路上観察」という趣味が増えました。

路上観察考現学

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海辺の道路

今、いろんな面白い本はあります。しかし、そんな面白い本の数々に比肩するくらい、路上が熱い!(自分の中だけで)


例えば、道路。そう、皆さんが日がな外出するときに歩いているアスファルトの道路。この情報量の多さといったら凄い。電柱と電線が区切る空の青さが面白い。道路に記されている白い太文字の注意が面白い。アスファルト自体の経年劣化が面白い。そんな道路を割る形で草なんか生えていたらそのコントラストがめちゃくちゃ面白い。草……そう、草。雑草。花、樹木。有機物の生え方も実に面白い。

そして、ただ路上を観察するだけでも楽しいですが、「路上をスケッチする」絵画表現を前提として観察すると、楽しみはさらに増す……構図や色彩、草の形や分類を細かに見ることの出来る「目」が生まれるので、倍率ドン、さらに倍!的に面白い!
車も面白い。タイヤのホイール、ボディの流線、排気ガスに震えるマフラー。
標識なんて、路上の宝であります。ぽつんと立っている「とまれ」の標識、制限速度の標識。ピクトグラムそのものといえる標識。その切なさを見ていると絶頂すら覚える。

 

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山林キャンプ地での石段

それは例えば赤ん坊が、この世をはじめて見て、やたらと好奇心を爆発させるのに似ているんでしょう、この路上観察という趣味は。
もっと言えば、どうして自分はこういう情報量の多さを、これまで「当たり前」の名のもとに、これまで見過ごしてきたんだろう……という。

じゃあこれまでの人生は無価値だったのか?余計な情報をインストールしまくりでしかなかったのか?
違う。わたくしのこの30余年は、今のこの路上観察の楽しさに至るためにあったのだ、と思う方が楽しい。人文学の知見、漫画・絵画の構図。音楽の「神は細部に宿る」エモーション。全てが紐づいている。大樹が地に根付き、空へ延びるかのように。

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山林キャンプ地2

どの人間も、路上には当然飽きます。だって毎日歩くような道ですもの。飽きないほうがおかしい。
ところが自分は、改めて、じーっと眺めてみることに楽しみを見出してしまった。panpanya先生の漫画の影響ですし、いわゆる「VOWタモリ倶楽部」的な物の観方が自分の中にもともとあったとも言えます。これは、たまたま自分の視点・観点が、ズレただけの話なのかもしれません。
しかし、新しい視点・観点がひとつあれば、路上が輝いて見える。本をちょっとは読んできた自分が、「本と同じくらい面白い」と路上を思えているだけの熱が、ここにある、ここに居る、という。
おそらく、視点・観点をズラしてみることこそが重要なのです。固着化してしまったこれまでの視点から。
そしてそれは、「それまで」の人生が無価値だったわけではない。むしろ「それまで」の知見に新しい意味が見出せる。押し入れに眠っていたガラクタが一気に宝の可能性に変わった瞬間です。少なくとも自分の音楽趣味に「Vaporwave」が入った時から、リアルに押し入れに入れてたビデオテープ(VHS)が宝の山になりましたよ(笑

なんってったって路上は無数にある。自分の住む町にも何本、何十本も道路があるのに、隣町、市、県、国、隣国、大陸、世界……と考えていくと、もはや無限である。人間が扱える数ではない。
それでも人間は記録する。記録し、遠くの世界にある情報を、どっかの同好の士に向けて書き綴る。それはとても意義のあることと思える。

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コロナ禍において、ステイホームが言われるようになった都会では、路上観察者はいかがお過ごしでしょうか。
自分が住んでいる山奥の村では、ステイホームも何もあったもんじゃない、ナチュラルボーン・ソーシャルディスタンス=過疎村なので、雪が積もって路面が凍結していない限り、ちんたら冬の路上を観察することが出来ます(今年、シマーネ農業王国は大寒波の猛吹雪なのです)。
人間万事塞翁が馬と申しますが、これまでこの村を呪ってきた自分でも、この状況を「結果的に」利用出来ているのは、否定できない。
正直まだ、ぐちゅぐちゅにぬかるんだ雪解け泥の路上に美を見出すまでには修行不足なわたくしですが、いずれはそれも楽しめるようになれば幸いと思える。
まぁ正直、前述したようにpanpanya先生の漫画の受け売りから始まったこの路上観察考現学ですが、それでも日々を楽しめているのは嘘じゃない。
とはいえ、それを他人に認めてもらいたいとか、他人にも楽しんでもらいたい、とかは考えません。ただ自分が自己満足で楽しんでいるだけです。でもその楽しみを、未来の自分につなげていきたいと考えています。
このコロナ禍の社会状況で、なかなか難しいのは「自分を機嫌よくさせること」かと思います。なかなかの無理ゲーになってきました。己の精神衛生を健やかにするってことは。つい社会を論じたくなります。社会問題に義憤でもっていっちょ噛みしたくなります。
そんなときの自分自身は、やはり路上を観察すべき時なのでしょう。人間の欲徳とかとは、ちょっとズレたところにある路上のアスファルトや雑草を。

 

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