桜玉吉「幽玄漫玉日記」(1~6)
このシリーズは、「防衛漫玉日記」「御緩〃」もあるのですが、まず「鬱の作法」を学ぶには、これ、とわたしは思うのです。(「防衛」は鬱度皆無ですし、「御緩」は末期の錯乱がすごい……逆に、末期の錯乱にいま瀕しているひとは、これ逆にありかもですが)
この本があったからこそ、わたしは鬱を抱えながらも、なんとか生きていくことができました。
この本をなぞってるんじゃないか、って言われたこともありましたが、それでも、「ひとが鬱になったとき、どのようにすればいいのか」ということを、実体験でもって語ってくれた本は、これを置いてありません。
私小説漫画なのですが、作者のことば(主人公)を引用すれば、
「私のうつは 何故か朝がひどい。(布団に倒れる)
アカン。只の寝坊助ではない。高速で襲ってくる駄目想念と戦っているのである。
どうして皆が普通に克服しているようなことで 自分はつまづいてしまうのか。
イカンイカンこういう思考禁止! もう、ぜんっぜんOK! こんな私、アリ! もーなーんにも 問題なし!
アタタタタ 心底思えてない!」
「得体の知れぬ虚無にのしかかられ動けない」
「例年通りのあわただしい年末進行を 淡々とこなし さあ終わった暮れと正月は自由だ。何をして過ごそうか
などと思っていた矢先
いともかんたんにストンと
心が落っこちた」
「もっともハタから見ればただじっと固まっているだけなのでこれほど地味な闘いもないのだが。(中略)敵が来ると まるで動けない。」
「やらねばならぬ用事も色々あり、やろうと思うのだが、まるで手がつかない。人としてもうアカンです。ごめんなさい」
「(おかゆだけ食ってPCのソリティアやってる生活)食欲があるのが救いだと思う。こんな生活でメシを喰わなくなったら、まるでゆるやかな自殺ではないか」
「問題は 思考の届かぬもっと深い処からやってくる黒い触手にとらわれ 身動きできないでいることなのだ 理屈でどうなることではないだけに、ただ嵐が過ぎるのをじっと待つのみ」
……重い。重い。
でも、鬱を抱えている人間にとっては、「これは嘘ではない!」と直感できる……これが自分が思っていることなんだ、と。
また、長らくこの作者は筆を動かせずにいたのですが(やっぱり病気)、現在ネットカフェ住まい(!)で、書きあげた作品集が去年でて、業界を驚かせました。
「漫喫漫玉日記 深夜便(しんやべん)」
これは……もう、ある意味で、「境地に辿りついた」作品でもあります。
すべてをさらけ出し、淡々とした生活を送る、作者の日記。
でも……明らかに、何かが、壊れ切っているのです。
ーーわたしは、この作品(深夜便)を、支持します。
この枯山水のような境地は、文芸性でもあり、「壊れた人間のシブ味」でもあり。
でもまずは、「幽玄~」から読んだほうがいいと思います。なぜこれほど、この作者が壊れていったのか……それを、桜玉吉は、独特過ぎるユーモア(玉吉キャラ、玉吉語)でもって、「ギャグ漫画」に仕立てるのですから!! ほんとですよ、こんな紹介してますけど、この漫画、ギャグですよ!
個人的にはちくま文庫版の全集7巻(評論巻)をおすすめしたいとこですが、それは敷居が高すぎる(笑)とくに文学プロパーでないひとには。
ひとことでいえば……芥川のtwitterです(笑)
いえ、冗談ではなく。アフォリズムという形式で、すごい短い警句みたいな感じで、いくつものすごーくひねくれた思考が次々に。
「侏儒の言葉」は、いろんな思うところを自由に、しかし凄く鋭く。
「或一群の芸術家は幻滅の世界に住している。彼らは愛を信じない。良心なるものを信じない。ただ昔の苦行者のように無何有の砂漠を家としている。その点はなるほど気の毒かもしれない。しかし美しい蜃気楼は砂漠の天にのみ生ずるものである。百般の人事に幻滅した彼らも、大抵芸術には幻滅していない。いや、芸術と言いさえすれば、常人の知らない金色の夢はたちまち空中に出現するのである。彼らも実は思いの外、幸福な瞬間を持たぬわけではない」
ーー表現者で、この言葉に救われるひと、というのは、数多いと思います。あるいは、芸術を信じているひとも。
「ズタボロに死に瀕していく」のを私小説にしたのは「或阿呆の一生」ですし、「歯車」……いわゆる「後期芥川」ですが、今現在鬱状態にあるひとにとって、薬のようにきくのは(わたしはこれがきいた)、侏儒の言葉でしょうか。
「西方の人」は、芥川なりのキリスト伝です。
キリストを「敗北した天才詩人」と捉え、その天才の姿は、後世無残にも死んでいったキリストなるものたちの象徴であった、という、独自すぎる見解です。
例えば、中原中也も。ニック・ドレイクも。カート・コバーンも。
芥川の解釈によれば「クリスト(この作品中ではこう表現される)」だったのです。
で、これらの芥川の思想は、通読したひとで、芥川にメンタリティが近い人ならすっとわかるのですが、一般人には「なぜそのような神経症的な思索をする?」と、疑問に思われるかもしれません。
というわけで、これです。
山川直人「澄江堂主人(ちょうこうどうしゅじん)」(上・中・下)
芥川の「闇の」伝記漫画です。
正直、芥川関連、明治・大正の文学に関する知識がなければ読みにくい漫画でありますが、それでもヴィジュアルに「鬱に、周りの無理解に、狂っていき、死んでいく」のを知るにはーー痛いほど、です。
なんか長くなってきたので、最後にひとつ。
ジェフ・ダイヤー、村上春樹(訳)「バット・ビューティフル」
レスター・ヤング、モンク、パウエル、ウェブスター、ミンガス、チェット・ベイカー、アート・ペッパー……ジャズのジャイアント達。
その彼らが、いかにこの現実世界で、ゴミクズのような扱いを受けてきた、の……これは伝記なのか?
それはあまりに小説タッチ。なにせ、伝記というには「実際にジャズメンたちが動き、その場を見ているかのように、小説のように」書くのですから。ノンフィクション以上に。
はっきりいって、異常な本。訳者ですらそれを認めています。
しかし……そこから感じることができるのは、本物のブルース。「痛み」「悲しみ」という名のブルース。
表現者は、孤独で、どこにも行けない。ただ、それでも目の前に立ち上る蜃気楼を見るだけ……ある意味で、芥川が言った通りですね。
それでも……それでも、追い求めなければならない。
「――こんなに傷つき、痛めつけられて、と彼女はやっと口を開く。それでも……それでも……
――それでも?
――それでも……美しいわ(But...beautiful)」