残響の足りない部屋

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何かを尊く思うこと −−熊代亨『「推し」で心はみたされる?』感想

私は熊代亨氏(シロクマ氏)の文章を長く愛読していて、新刊が出たら無条件に読むことにしています。そんなわけなので新刊を読みました。

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昔の話をさせてください。私が年若い学生の頃の話です。この本を読んで思い出しまして…。

私は当時、リアルタイムでCLAMPカードキャプターさくら」という漫画を読んでいました。とくに中盤からの、さくらちゃんと小狼くんの恋物語にハマります。いわゆるカプ萌え観測です。純粋でかわいい少女とツンデレ美少年。このカプ妄想をしていると、現実での嫌な出来事が浄化されていくような感覚を覚えました。夜な夜な布団の中で甘美なイチャラブ妄想をしては、その分入眠が安らかになるという。

やがて「CCさくら」は、恋物語の成就という形で完結します。そこから私はさくらちゃんと小狼くんのアフターエピソードオリジナル妄想をさらに繰り広げます。どうやって小狼くんと桃矢(さくらちゃんの兄)を和解させるか、とか。イラスト集2巻の風邪ひいて心細い小狼くんへの桃矢お兄ちゃんのお見舞いがあったじゃないか?素晴らしいエピだが足りぬわぁ!とか思いながら。

そうやって毎晩毎晩「CCさくら」世界の妄想を続けて半年。…いい加減ネタが尽きました。だって物語が完結しちゃってるんだもの!

ここで、現実の私はリアルに異様な虚脱感・空虚感をおぼえました。甘美なイチャラブ妄想を逃避先としていた私です。(当時は続編たるクリアカード編など影も形もありません)。でも、当時の私は、ネタ切れによりこれ以上の妄想は出来なかった。そして心に去来したのは虚脱・空虚の感情でした。「あ、なくなっちゃったんだ」という。

今思えば、これを現代の用語に言い換えると「推し」の卒業とかサ終(サービス終了)、あるいはアカ消し、活動終了、とほぼ同じものだと思います。当時の私は、その虚脱感を適切に取り扱える術を心得ていなかった。

どうやってその虚脱・空虚感から回復したか、というと、今度は赤松健ラブひな」にハマって、けーたろ×なるのカプにハマったから生き延びました。そして「ラブひな」も完結しました。もちろん私は同じようにその後半年くらい、ひなた荘世界を舞台にしたオリジナルアフターエピソードを妄想しまくりましたが、完結によるネタ切れは如何ともし難かった。

 

これじゃだめだ、と私は思うようになりました。作品による、外部からのカプ萌えインプットだけに全てを頼るのは、安定度の確率は低い。いづれ他の作品(カプ)にハマっても、完結したらやがてネタが切れる!妄想世界が終わってしまう!

そこで、私は自分でオリジナルの世界とキャラを作り、自分の創作世界で遊ぶようになりました。オリジナルの箱の中に注ぎ続けるのならば、自分の妄想遊びを終わらせる必要がなくなる! 自分の妄想熱量が、虚無の中に吸い込まれ消えて虚脱感を覚えることはなくなる! 自分にとっては、これはある種発明的でした。

そんなわけで私はオリジナル創作をするようになり、その後、葉鍵ゲー(LeafやKeyの美少女ノベルゲーム)に同じようにハマって以前と同じくイチャラブ妄想をするようになっても、オリジナル世界と並列して楽しむことにより、「ネタ切れ」の虚脱感を心配することがなくなったのでした。よかったよかった。

 

…という話を、この本『「推し」で心はみたされる? 21世紀の心理的充足のトレンド』を読んで、まず最初に思い出しました。

ここでポイントとしたいのは、私という人間は、「推し」で妄想をするのが現実逃避の常道とする人間だったということです。それはほぼ一貫している。

私はたまたまオリジナル世界観の創作、という方向にいったから、この虚脱・空虚感問題はいつしかクリアされていきました。じゃあ「創作」こそが病める現代を救う処方箋なんですねッ?…という話に結びつくのでもないのです。

私はCCさくら世界やラブひな世界、こみっくパーティー世界やKanon世界に逃避することで、ハードな色彩に感じていた現実からの癒やしを得ていました。あの世界(たち)には本当に感謝しています。あの世界とキャラは本当に素晴らしかった…私の「推し」は素晴らしかった。

ですが、ここに問題があります。

 

・推し妄想による「逃避」だけで、現実との対峙が済む話じゃない

 

イチャラブ妄想は、結局甘美な逃避です。それで何が悪い? 妄想自体は全然悪くないです。

ただ、私は何回も「完結=ネタ切れ」→「虚脱・空虚感」のパターンを踏み、そのたんびに空虚感を抱くという良くないことになっていました。私は夢中になった世界観・キャラ=「推し」への逃避に、妄想の世界で依存してしまう傾向にあるらしい。

「現実世界との和解」をどこかでしなくてはならなかった。私の場合は、創作世界をどんどん作り上げることが、ひとつの解決の糸口になりました。なにせ、現実には創作のネタが山程あります。言語、地理、魔術、文化、天候、風景、工芸品、機械…。それらをいちいち勉強して、創作世界に盛り込んでいくだけで、ネタ切れの心配は全然ない状態になっていたのです(笑) ネタ切れ問題が、現実に対する興味関心を引き起こし、自分から勉強をするようになっていった、という話ですね。

 

↓ noteで書いた、その創作世界観の話です。

note.com

 

さて。本書のテーマは書名にすでにありますが、「推し」で心はみたされるか? これは「満たされます」と言えます。

が、そもそもの自分の「推し方」は、何度も再考する必要があるかもしれない。あるいは言い換えれば、推している「自分」のポテンシャルや健康状態を、ある程度冷静かつ客観的・定期的に測って、「いま、自分は健やかに推しを推しているのだろうか?」と自問する必要すらある、のだと思います。

 

本書でも熊代氏は、現代の「推し」文化の良い面も悪い面もきちんと指摘した上で…それでも節度ただしく「推し」を推すことで、自分自身を良い方向に導いていける、と主張します。

なぜなら「推し」を推す心の持ちように、理由があります。私達が推す時に「尊い」という言葉がありますが、何かを尊く思うことは、やはり基本的に良いこと……尊く思うこと自体が尊いのだ、という話に基づく、と私は思います。

何かを尊いと思うこと。それは「好き」からいくらかはみ出して、自分の人生に「推し」存在を取り入れたいと積極的に思うことです。それは「貢ぐ」とは違います。ほとんどこの場合の「尊い」とは、リスペクト(尊敬)の意味です。「好き」や「愛」の中に、リスペクトの感情が内包されています。

先に述べたようなカプ萌え観測ですら、私はリスペクト(尊敬)が内包されていると思っています。とくに私のようなカプ観測趣味の人間は、素晴らしいカプを見て「尊い…」と浄化されるような気持ちになります。

彼/彼女らが作る(限定された)世界観は本当に素晴らしいものである。でも、もしかしたらその世界観に学ぶことが出来るのかもしれない。少なくともあのカプのように静かで丁寧な生活を愛せるようになりたい、とか。言葉遣いを丁寧に出来たら、とか。そういう風に、カプ萌えをきっかけにして、私自身の生活を正していくことは、ささやかだけども愚かなこととは思えない。このあたり、私がオリジナル創作をして「現実世界を勉強するようになった」くだりと同じものがあります。

 

この本の第4章は【「推し」をとおして生きていく 淡くて長い人間関係を求めて】、第5章は【「推し」でもっと強くなれ 生涯にわたる充足と成長】というタイトルです。人生に対する処方箋です。「推せばそれで全てハッピー」なんて安易な文章を熊代氏が書くものですか。

きちんと現実に向き合う。そして「推し」への感情の奥底がリスペクトである以上、「推し」の所作や思考、ことばから、汲み取れるものはいっぱいあるはずだ、と。

そして、私達の身の回りにいる普通のひとたち。家族。職場関係。そういった関係性の中にも、「推し」への萌芽…リスペクトへの可能性は常にあるのだ、という話を本書ではなされます。「推し」を尊く思える精神ーー仏教における「発心」に近いものなのかなぁーーがあれば、その健やかな精神はきっと周囲の人々へのリスペクトという形をとれるかもしれない。なかなか思えなくても、頑張ってみれば、案外見つけたりするものなのかもしれない。なんか鍵ゲーでも「CLANNAD」思い出してくるな。実際熊代氏もそういう文脈で「CLANNAD」に対して幾度も尊敬を込めて言及されていますし。

 

つまるところアレだ。私が過去の推し活のネタ切れで虚脱・空虚になっていたのは、作品の完結によるものだけでもないかもしれない。作品や推しカプがもたらしてくれる様々な善きものを、私自身の現実生活にうまく結びつけられていなかった…少なくとも当時は。私自身の修行が足りず、オタクとしても未熟。また、自分自身が今どういう健康状態にあるかの把握も不足していた。そういう話なのでしょう。

良く「推す」ことは、自分自身の中のリスペクト(尊敬)精神を、正しく誠実に取り扱うこと、ということなんでしょう。なんだか道徳的な話になってしまいましたが、いや、この話は私は間違っていないと思えた。盲信でも、「貢ぐ」でもない。「推し」の輝きを、対岸の輝きとするだけでは、足りない。自分自身の人生に活かせ、学べる余地はかなりある。

「推し」への逃避や依存じゃないんだ。「尊い」と思えるリスペクト精神を誠実に取り扱っていけば、いつしかきっと人生も良くなっていく。ここでそういう風に自身を「律する」みたいな道徳的な書き方をすると、ちょっと苦行みたいで息苦しいなぁ、って思われるかもしれませんが、そうではないです。

「推し」を尊敬するとは、推しの作品・表現を楽しみながら、正しく「推し」の輝きを私たちが一人の人間として理解することです。盲目的にハマるだけでは、正しく理解は出来ていない。「キャー!」とファンボーイするだけだと、ちょっともったいない。「推し」の彼/彼女らをきちんと見据えて、自分の人生に活かせるところを学ぶ。

私にだって学べるのだ、人生に活かしたいのだ!という。誰かを「尊敬する」というのは、まずそこからはじまりますから。それは自分自身を諦めたり、逃避したりするのとは真逆の精神性です。彼/彼女ら「推し」だって、きっと我々がそうやって健やかに向上していくとするのを、心の中できっと応援して……我々を「推して」くれる!と思いますよ。

本書を読んで、そんなことを思いました。何かを尊く思うことは、それ自体が尊い。私はそう思います。

 

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