残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

「何者かになりたい」とか、天啓とか、ルサンチマンとか人生とか

「お前は何者だーっ!?」と問われたら、「永遠に遊び人で、テキストサイト管理人だーっ!」って答えたいんです。

 

●熊代亨氏の新刊(既刊全部読んでる)

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熊代亨氏(シロクマ先生)の新刊「何者かになりたい」を読みました。何で読んだかっていうと、自分はこの人の出す本を、無条件に読むことにしているからです。2012年の処女作の「ロスジェネ心理学」からずっとです。
昨年、この強迫清潔時代の社会を素描(デッサン)した「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」の感想(まがいの文章)をこのブログで3回ほど書いたんですが、自分はまだ咀嚼しきってないなーと感じています。

 

熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』一読目の感想 - 残響の足りない部屋

『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』感想その2 - 残響の足りない部屋

清潔を巡る問答ーー熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』感想その3 - 残響の足りない部屋

 

ところで、自分は今35歳なんですが、簡易自分年表を書くと、

大学・大学院(中退)

家業の仕事&小説家志望

ネットでものを書く

突然作曲が出来るようになって、同人サークル活動を開始

ひとりTRPG(←イマココ!)


という感じでこれまで生きてきました。


今(なう)、自分は「何者かになれたのか?」って問うてみました。
そんですぐわかったのが、「こうやって自分のことで、何者問題を出すのって、久々だなぁ……」と思ったものです。


思えば、かつては散々「自分は何者かになれるのだろうか」「何者かにならなくてはならないんじゃないか」と考えていたものでした。
ある時は「社会において仕事をしていれば何者かには、もう成れているんだろう」と安易に考えて、自分を納得させようとしたときもあります。
けれど「自分の根源の表現欲求が社会的に成就せねば、やはり何者にもなれていないだろう」と考えもしました。目は逸らせなかった。


ところが、最近はどうも、何者問題について考えることがなくなってしまっていました。確かに、最近自分は安定はしている、とは思います。多分。
こうやって考えないってことが、即ち何者かになれた、ってことなのでは?という風に背理法じみた言説もあると思うんです。うーん……びみょい……(微妙い)。
どうだろう。どのタイミングで「気にならなくなったのか」。

●30歳で突然始めた同人作曲

例えばひとつ挙げられるポイントとしては、2015年の秋に、突然「作曲」を始めた、っていうのがあります。
それまで、自分は楽器で遊んではいたのですが、どうもオリジナルの作曲が出来ないーっ、才能ないのかなー、自分の人生そんなものかなーと思っていたのです。

ところが、夜中、ケミカル・ブラザーズのアルバム「We are the Night」を聞いていた時。

ある時ふと「音と音を、パソコンで重ね合わせれば、それで曲って出来るんじゃない?」と思ったのです。とりあえず楽器とパソコンを用意して、その通りに音を重ねてみました。


……出来ちゃった。

それ以来6年間、どういうわけだか創作同人サークルを立ち上げて同人即売会でオリジナルの同人音楽CDを発表するようになってしまいました。現在までで、アルバム2作、EP(多めの量のシングル、ミニアルバム)6枚を作りました。最新作は、EPを2枚同時制作&発表しました。何をやってるんだ35歳。

じゃあ自分=「同人作曲家」みたいな何者になれた、っていう風に結論ですか。そうですか?どうですかッ? 

いや……そこじゃないんです。全然違う。

自分は作曲家としての才能より、リスナーとしての才能の方があると思っています。CDを合計8枚(作)制作して、そこが覆るかと思っていたら、別に覆りませんでしたね……。
それよりも、上記のようにそういう「良く分からない天啓(エピファニー」が人生には起こる場合もある、ということを自分は言いたいのです。たまたま自分はそれをキャッチ出来た。それで、生きがいがひとつ出来た。それは、自分の人生を生き生きしたものにしてくれましたが、しかしそれで「何者かになれた」とは、あまり思えていないのです……。

 

●社会人ロールプレイ

むしろ、いつの間にか自分は、社会をやたらに怖がらなくなったなー(感慨)、っていうのの方が、大きいような気がするのです。
同人活動をするために、仕事をするのですが、いよいよ仕事を手を抜くわけにはいかないなーとも思うようになりました。「同人活動にのめり込んで、仕事がおろそかになる」ってパターンは、なぜか行きませんでしたね自分の場合。

学生時代から、いろいろ病気を持っていました。ある程度生活できる、っていうところで、仕事をちゃんとやるようになりました。
そのあたりから、一応社会人ロールプレイ(コスプレ)が始まったんですね。


「社会人」というキャラロールを重ねて「へー」とわかったのが、「みんな結構頑張ってるんだな」っていうこと。少なくとも、自分の同業者には寛容になりましたね……自分が持っていた「お客様意識」がどんどん減っていきましたね。そういう類推が出来るようになりました。
あるいは、仕事相手と気を遣ったり遣われたり、フォローされたり、こちらもしたり。
毎日の仕事の手順を、少しずつ効率化していったり。

正直、自分が作曲できるようになったことよりも、「社会の末席で少々はやれた」ってことの方が、「何者問題」を無効化さしていったなー、という感じがします。プラスを積み上げていったというより、マイナスを除去していったニュアンスです……。そうか、自分も発達したんだなぁ……適応したんだなぁ……

別に「社会と仲良くしよう、世間を愛そう」ってしたわけではないんです。
今も、社会とは距離を置きたく思っています。もともとの自分の性質が非=社会的傾向が相当あります。反社会的、ではないです。反抗するほど、社会というものに価値を見出していないんです。昔から。
ただ、「そんなにビビらなくてもええやん」と、どこかで思えたんでしょうね。それまでの自分は結構狭いところでビビっていたと思うのです。

 

●自分忘れ、何者忘れ

「何者かになりたい」っていうのは、「ひとかどの人間としてリスペクトでもって見られたい」と、言葉を開いて翻訳してみます。
話が前後しますが、自分は、小説を書いていたときは、痛切にこれを感じていました。小説を書いてプロになって一発逆転だーっ、みたいな。うわぁ。
何らかのルサンチマン見返し欲望があった。……薄々は「チャラにはならんぞ」とは思っていても、「でもなってみなくちゃわかんないじゃないですか……」と無理に自分を奮い立たせていました。

なるほど、無理をしていたんですね。そりゃ何者にもなれんわけだわ。
それに比べて、作曲の時ののーてんきな無理のしていなさが、対照的です。
また、社会人ロールプレイの時の「一歩一歩さ」というのも、そんなに間違っていなかったのだ、と。

変な話です。「自分探し」ならぬ「自分忘れ」=「何者忘れ」みたいなことを続けていたら、いつの間にかほんとに忘れてしまっていて、気づけば何者かになっていたのか、という。
じゃあ、どうやったら「自分忘れ」「何者忘れ」が出来るのか、って言われたら、わたしは答えられないんですが、この本『何者かになりたい』は、しっかり答えてくれるんですよね。さすが。

本によれば、「何者かになりたい」とは「アイデンティティの獲得をしたい」ということになります。
そして、「げげっ、自分にはアイデンティティがないッ!」と気づいた時の危機(クライシス)を回避するなり、あらかじめ備えておくなりの「努力」をした方がよい、というおはなしです。サカナクションのこの曲のような状態が笑えない状態になる前に、と。


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わたしのことで言えば、ずーっと社会と没交渉で小説を書いていたり、社会人経験を踏まずに同人活動にハマリこんだり、というルートにもし入っていたら、自分は今も「何者問題」で怨嗟の声を上げていたと思います。まず間違いないな……

ようは、創作活動と「おっさん化」を自分はうまく組み合わせたのかもしれません。社会人ロールプレイをすることで、レベルアップで自分は「おっさんスキルツリー」を上げたな、と思うことがあります。その結果がおっさん化です。
そうすることで、自分は、同人サークル活動で、「何者問題」を結構回避できたのかもしれません。同人活動って、この「何者問題」の蟲毒の壺みたいなものがあるじゃないですか。おそろしい。

いや、自分にしたってトラブルがなかったわけじゃないですよ。でも、一応サークル活動、作曲歴が、6年続いたってことは、それなりに「健全さ」はあったのではないかと……(と思いたい)。

 

自分は世慣れているわけではないです。未だに社会人ロールプレイがよわよわです。でも、まったく出来ていないわけでもないようです。
こないだ、長年の友人の結婚式に、ありがたくもオンラインでお呼ばれしました。その時、友人のひとりとして軽いスピーチも振って頂いたのですね。おお、自分の社会人ロールもここまできたか、と。


そこで自分はトチりましたね~(笑) あがってしまって、脳内で用意していたスピーチ文が、ポーン!と消し飛びました脳裏から。自分が結婚式にお呼ばれしたのがこれが初めてとはいえ、しかしなぁ……。むしろ友人の新郎氏に、フォローしてもらってその場をナントカ収めたという有様です。ごらんの有様だよ

とはいえ、それでも自分も発達・適応していくわけです。今度からはスピーチのテキスト原稿を用意しよう、それを読み上げよう、と固く決意しております。自分のべしゃり能力(トーク能力)は高くないぞー、と肝に刻む。それでひとつ自分も賢くなったわけです。

今、自分は何者かになったのか?
どうでしょう。でも、今書いた「スピーチの原稿を用意しよう」と反省し努力しようとしていることは、間違っていないと思うんです。その営為を続けていこうと思えてることが、「自分は何者か?」の答えを言語化するよりも、もっと大事だと思っています。ほんとに。

その上で、自分はどうなりたいか。どういうアイデンティティを構築していきたいか。
どうせ他人がどう思うかは知ったことではなく、また、他人を操作することはものすごい無理筋です。無理ゲーです。やれるもんならやってみろな難易度です。
だったら、自分がどうなりたいかを真剣に考えて、トライ&エラーをするしかない。

そこでやっぱり自分は、「昔ながらのテキストサイトをやっていたいなぁ」と思うわけでした。えっ、いまはてなブログにこの文章書いてるのに? これから頑張りますとも。
作曲したり、ひとりTRPGしたりしながら。そのリプレイを、ひとりで淡々とテキストサイトに綴っていくという、昔ながらの、世間と没交渉テキストサイトです。
上記の新郎氏は、20年前から、良いテキストサイトを、この令和の今も運営されているのですから。
自分は、15年以上前に、その姿にあこがれたし、今なおその気持ちは強くなっている。

 

やりたい事がある、っていうことは、この「何者問題」の一番の特効薬かもしれませんね。ただ、その気持ちを健全に保っていき続けるっていうのは、これまた一大事であります。
じゃぁそういうものが無かったら。未だ見えぬアイデンティティを獲得したかったら。

この本には、「地味なトライ&エラーを重ねていって、少しずつ自分を改善していき、いろんな可能性を得ていく」とか、「おっさん化にもひとつの理がある」とか「地道に泥臭く重ねていこう」ということが書かれています。いちいちごもっともだ、と思います。
と同時に、この本って、なんだか熊代氏の著書『認められたい』の裏版、進化版、のような気もするんですよ。

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結局、「社会的・客観的な」何者かになりたい、っていうのは、誰かに良い意味で「認められたい」っていうことですから(「主観的な」何者、はまた別ですが)。
でも、認めさせてやるッ!っていう不安定で危険な人を誰が認めるんだ、っていう話で。それよりは、こつこつ自分がやりたいことや、自分が成りたいようなロールモデルに向けて努力していくことを重ね続けて、いつの間にか認められたら、その時ひとは「何者かになっている」んだと思います(こっちが「主観的な」何者、の健全な方)。

かくいうわたくしは……本当に何者かになったのでしょうか。
どうなんだろうね。さっきは「それより、今やりたいことや、改善したいことがあるから、そっちに意識をやっていたい」って書きました。それは本当にそのように思っているのですが、でも答えをズラしてしまったような気もしなくはないです。少なくとも、今、「何者かになりたい」と強く、歪むほど希求している人(ルサンチマン)がこの文章の読者だとして……そういう人に、何を言ってあげられるんだろうね、って今思いました。

言えないよなぁ……。言えないですよ。何を言っても、「いまが楽で、楽しい奴の、上段からかます戯言だろッ」っていう精神。そのルサンチマン精神はすごい覚えがあるから。
ただ「戯言じゃないぞ」とは言いたいかな。自分が今、この安定に至っているのは、戯言だけじゃ絶対辿りつけなかった。戯言の強度だけでは。君も知っているだろう、戯言にすがるしか出来ない時であっても、その戯言は本当はそこまで強くもないから、虚勢を張ってしまうっていうことを。

言えるとしたら。わたしは、かつての自分のそういうルサンチマンの時期を忘れているわけではない。あの頃の自分に何らかの贈り物をしたい、と今も強く思っている。それは本当なんです。
そして、そうやって忘れていないってことは……かつての自分がしてきた、正当な努力、間違った努力、見当違いの努力、変な決意、「こんなもの買ってどうするんだ」みたいなジャンク品、かつての自分が見聞きしてきたいろんなもの……それらを忘れていない、っていうことですし、それらは確かに「安定した何者」へ至る、かけがえの無い宝だった、ということです。

頑張って生きていれば、人生どうにかなると思います。パッと散らしたくなるのを何百回、何千回我慢してきたか。その時の破壊衝動は全部本物だったさ。
あるいは、自分がここで書いていることとか、この本『何者かになりたい』で書かれていることも、どこかに「自分を騙しだまし、前に向かせていく」みたいなところがないか?っていったら、「け、結構ある……」としか言えないとこもあります。

ただ、そこを言ってしまえば、自分はこの熊代亨氏という書き手の本を、全部読んでいるのです。シロクマ先生としてのブログも。つまりそれは「この人の言うことは、聞いてみよう」っていうことです。そう思い続けて、この人の文を読んできました。血肉とする価値のある言葉だった。だからずっと読んでる。
「えーっ」と思うような言葉でも、自分に与え続けてみて、それで自分が良い方向に変わったことだって、何回もあったのです。そういう「書き手への信頼」が生まれることだって、その後の人生であったりする。
だから手練手管でどーにか自分を前に向かせていくのは、それはそれで全然アリだし、そうやって信頼する文章家の言葉が自分を作っていくのも、良いことですし。

「えーっ」と思うことは、まだまだ続いていくんだろうな、って思います。
そう思うと、故に、だから、まだ自分は「何者かになっていない」のではないか、って思っちゃいますw
最短距離で「何者か」になるのではなく、それよりも、毎日の道草を楽しんでいければ良いですね。……今はそのことばっかりを考えています。

 

※もちろん、その毎日の市井の道草をのんびり眺め続けるのが、物理的に精神的に神経的に、この現代社会で難しくなってきていることを描いたのが、「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」です。やっぱこの本重いわ。