残響の足りない部屋

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レヴィ・ストロース死去にあたって

追悼レヴィ=ストロース

レヴィ=ストロース死去……か。
デリダが死んだときも思いましたが、どんどん一時代が過去になっていくな、と。

すごくベタな発言なので照れくさいですが、レヴィ=ストロースを知ったのはやはりご他聞に漏れず「構造主義」という観点からでした。
もうわたしの年代になると、構造主義はポスト構造主義によって乗り越えられ、
そしてポスト構造主義も着々と乗り越えられようとして(言い換えれば完全なる仮想敵として確定されてしまい)、
さてその次は? てな具合になっていて。あー、脱構築脱構築すべきだ、的なー?
あるいは、ポスト構造主義をどう読み解くか(解釈論から残務処理まで)、みたいな検討をしたり、ってな感じで、
もう「いわゆる」構造主義は過去の遺物と化していました。大時代もいいとこ。カビすら生えてブルーチーズの如きになっていましたよ。誰もが蹴倒すことをためらわない。

まあ、「○○イズム(主義)」とはそういうもので、
一度確立されたら(というか、「イズム」という形に「単純化」されたら、と言った方がいいですね)、
まず非難とともにもてはやされて、そして潮が満ちていくがごとくあらゆる方面を満たしていき(繁栄)、
その後、潮が引くようにあらゆる方面から「やっぱりあれは……」的評価を下されるようになり(凋落)、
その後は「すでに乗り越えられた対象」と化して、歴史の教科書に載るだけとなってしまいます。
ですが……。
ですが、「イズム」の死は「人物」「提示された概念」の死ではありません。
そこのところを勘違いしている人が多い……と感じてしまいます。残念ながら。
「乗り越えられた」とされる「イズム」ですが、それが提示した概念は実に未来までを貫き通しているという事実を、
我々は真摯に見つめなければなりません。
「イズム」とは所詮単純化であり、ひとつのラベルに他なりません。本質をこそ見る……それが「学問」の意義では?
彼らが達成したものの真なる価値をこそ見ること。それは論壇の流行り廃りとは全く関係のないものです。

見るべきものは「構造主義」というラベルではなく「構造主義が提示した概念」です。
まさか、その恩恵を忘れているわけではないでしょう。
レヴィ=ストロースは乗り越えられたか?
否。
人類学は方法論として、というか基本的概念としてレヴィ=ストロースが提示した構造主義的人類学の視点を(批判するにせよ)体に刻み込まねば話が進みません(フィールドワークひとつやるにしても)。
また、彼が結果的に行った、学問間の相互連携・学際性という手法の提示。この考え方を、まったくの偏見なく行えている者はどれだけいるか(現在の学問のタコツボ化は言うに及ばず。またこの学際的手法に関しても、どれだけきちんとやれているかどうか疑わしいというのは、ソーカル事件が証明しています)
そして、彼の神話論は今も、現代社会の構造を読み解く上において重要な手がかりになっています。(福嶋亮大氏が『ユリイカ』誌上で連載していた「神話社会学」前半を参照。容易に首肯出来ない点もありましたが(「東方」がポストモダン状況下における神話論的コミュニケーションツール/偽史であるとバッサリ切っているところとかは)、でもずっと読んでいて、とても面白かったです。ちなみに、氏の今度青土社から出版されるこの連載の単行本は絶対に買います)
ていうかこんなこといちいちわたしなんぞが言わなくても……それでも言わずにおれないこの状況は一体何?

レヴィ=ストロースは今も生きている。
それが彼について今最も思っていることでした。
『悲しき熱帯』はもちろんのこと、94年の写真集『ブラジルへの郷愁』とかもじっくりと読んで(見て)みたいと思っていたところです。
そしてこの訃報。
またひとつ、時代/歴史が終わった、と思いました。
とーぜんのことながら、わたしの敬愛している思想家・批評家たちもこぞってこの話題を取り上げていました。そりゃあねぇ……。

それともうひとつ。
何でこの記事でこうやって構造主義を弁護するような発言をしているかというと、
や、単純に「イズム」の流行がその主張(内容)の価値を否定するかのような論調に異議申し立てをしたかったから、というのもあるのですが、
それ以上に、わたし自身、構造主義に恩を感じているところがあるからなのですよ。
構造主義をはじめて知ったとき、「ああ、こういう考えかたを貫いてもいいんだ(あるいは、貫き通してもいいんだ)」という思いを抱きました。
表層の差異を超えて、本質の構造を見よ、そして構造と構造の差異を比較せよ……
この考え方は、わたしにとってちょっとした革命でした。
それ以来、哲学・思想はもちろんのこと、文学や歴史学においても、そして社会、人間に対しても、常に頭のどこかにこの考え方を置いて思考してきました。
そして、この考え方を取り入れるよりもはるかに、対象に対して本質的で、偏見のない、誠実な見方が出来るようになったと思います。
本質を、共通性を、普遍性を、そして最終的にはExistence(存在)へと……。
ただ、一方で「構造」ばかりを見すぎるようになった……というのも、ひとつの欠点になったと言えるかもしれませんが。
また、「構造」を見定める際に、わたしは「直感」というツールを(以前も用いていましたが、さらに)積極的に用いるようになったのですが、これは勘をより鋭くした半面、そこからの論理的思考の発展がおそまつになった、ということもありました。
まあ……反省はしません(しろよ!)。
だってこれが自分だしー。
ともあれ、わたしの精神史において、構造主義が果たした役割は少なくないわけです。
結構素直に、個人的に、恩を感じているのです。(とは言っても、「構造」の考え方は、誰にでも普遍出来る考え方とは思わん。好き嫌いがあるだろうし)
そういうこともあって、今回の文をものしてみました。

何はともあれ、その学問的成果は偉大なものでした。
真の意味でのオリジネイターです。しかし100歳か……。
ご冥福をお祈りします。

本日のBGM:CROW'SCLAW『Blacker Than The Blackest Black』(へヴィメタルの東方アレンジをしているサークルのオリジナル作(インスト)。やっぱりメタルはフレージングと轟音!)