前回のつづきです。
●クンフーのメソッド
気を整え、拝み、祈り、構えて、突く
一連の動作を一回こなすのに当初は5~6秒
一万回を突き終えるまでに初日は18時間以上を費やした。
突き終えれば倒れるように寝る
起きてまた突くを繰り返す日々
二年が過ぎた頃、異変に気付く
一万回突き終えても、日が暮れていない
齢50を越えて、完全に羽化する
感謝の正拳突き一万回、1時間を切る!!
かわりに、祈る時間が増えた。
山を降りた時、ネテロの拳は
音を、置き去りにした。
冨樫義博「HUNTER×HUNTER」二十五巻
もっとも、自分はこの領域(ネテロ会長=作中最強クラス)にはいかないでしょう。
そして、いかなくても、ある意味では問題ではないのかもしれません。
それが、前半でいった「ステータスと幸福は直結しない」の論です。
ステータスと幸福が直結した場合、それははじめて当人の幸福になります。
わたしはそれを「とりあえず、自分が持ってる盤やエロゲを全部レビューしよう」と、「暫定目標(ステータス)」を設定しました。
それが「果て」かどうかはわかりません。いや、そもそも世の中には無数の盤やエロゲがある以上、物理的/計測的な「果て」ではないです。
ただし、「自分にとってのメルクマール」ではあります。今日たまたま、(チェコ好き)さんが、このあたりの目標設定について、実に鮮やかな記事を書いておられるのを目にしました。
目標PV到達記念! 『(チェコ好き)の日記』の行方は…… - (チェコ好き)の日記
それは、文中でも(チェコ好き)さんが仰っているように、世間的な成功とか、客観的な成功というのでは全然なく、(チェコ好き)さんが設定して、そのラインに到達したことを、素直に喜ぶ、というものです。
これ読んで、この「設定し、更新し、設定し、更新し」というのが、まさにクンフーのメソッド、道理だよなぁ、と思ったものです(氏のブログはクンフー論とイコールじゃないですが)
イヤラシイ言い方をすると、自己満足なんですよ。が、自己満足大いに結構。自己を満足させられる術を持たない人間が、いかにして「幸福」に辿りつくか。
……それにしても、幸福幸福ばっかりいって、おまいさんは宗教か、って言われそうですが、いや、違うんですよ。
「自分にとっての最大幸福を設定すること」
これのみなんです。
それが、わたしにとっては、自戒的・束縛的な、枷を課すような生き方……クンフーであり、祈りです。
なぜ「自己を律する」必要があるかについては、前半で「そうしないと自殺するから」と書きました。
しかし、闇属性の人間が即自殺するか、というと、違う。問題は、それまでに膨大なカルマを自分のなかに溜めこんで、結局、死ぬときに「俺の人生後悔だらけだったな……」となるのが、目に見えているからなんです。
人生における一番の問題が死、だと言われます。しかしある宗教(原始仏教)では、死が問題ではない。そればかりか、世間で言われる犯罪すら「悪」ではない、といいます。
一番の問題はというと。
死ぬときに後悔することなんです。
例えば、これ完全に問題発言なんですが、自爆テロを「幸福に生ききって」行った人間は、これ、認めたくないですが「幸福」なんですな。
例えば、これも問題発言ですが、子供のために身を削って働いて死んだとして、「なんでこんな苦労ばかり……」と思ったら、それは仏教的には「悪」なんです。
もちろん、自爆テロ、許せませんよ。
でも、純然たる「闇属性」のひとは、この「絶対的に死んでって、絶対的に幸福だった」っての、ちょっと憧れません? 憧れない、っていいきるのは、闇属性の場合、ちょっと考えられません。道理とか倫理とかは、まるっきり別として、です。
もちろん。
それは他者の幸福(生きること、これからの人生の可能性)を剥奪する行為ですし、彼(テロリスト)が行った一連の行為が、世の中に更なるカルマや憎悪をまきちらすものでもあります。よって、大局的な見方によれば、やはりテロは悪です。いくら個人的に幸福だといっても。
ようするに、個人の幸福、と、社会の要請(法律)というのは、このあたりが「落とし所」です。
すべての人間は幸福になる権利がありますが、「幸福になるための義務を果たさなかったらアカンよ」というところでしょうか。
幸福になるための義務とはなにか、といったら、それはひとによって違います。
あるひとは、体を鍛えることが、最終的な幸福に繋がるのだったら、そうすべきでしょう。
ブロガーでアクセス数大好きなひとだったら、それが「本当に、ほんとうに、ほんとうに」自分の欲求だったら、それをすべきでしょう(大抵は、ちょっと違ったところに、そのひとの本当の欲求があるんですけどね)
そして……自分を律し、自分を変えて、世にある音楽やエロゲから滋養を得て、自分をマシにしていくことが、
「少なくとも自分の選択肢の中では、まだマシなもの」=「真の幸福に近いと思う」
のだったら……これわたしですね。
それをすべきなんです。
なにをするか、は、個人で考えろ、と。
ただし、死ぬとき後悔すんな、と。
誰もが死にます。わたしのように、病気を持ってて、過去に何度も死にかけた人間にとっては、死というのは、身近です。(自殺未遂も何回もありますし、発作で肉体的に死にかけたこともありますし、入院中の廃人経験もあるので精神的にも死にかけたこと何回も)
だからすげー不思議なんですよ。世の中の皆が、死について考えるのを放棄していることを。死が「いつか」やってくる、って考えてることを。
違いますよ。
死は、明日にでも、いや、別に三分後に通り魔に襲われて死ぬことだってありますよ。
クンフー論をわたしが設定しているのは、恐らくこのあたり……自分の命に対する未練が、ひとよりも大分少ない……どころか、あんまりない、ってところだと思います。
つまり、自分の命が失われることは、大して怖くはない。それよりも、クンフーによる実験で、自分のQOLが変わる可能性のほうがたのしみ。
だって、精神病で、死ぬ以上の恐怖を、さんざっぱら味わってきましたから。それこそ、地獄の発作が一晩続いて、終わりが見えないとき
「これ以上の苦痛が続くのなら、もう人生終わってもいいや」
ってのを、かれこれ数年にわたって、二日に一回起こるような人生を続けたら、そりゃあ、死が近くなりますよ。命、軽く見ますよ。
「あなたが自ら消した命が、あいつが死ぬほど生きたかった未来だ」
って言葉もありますが、それわたし以外の人間に対して言ってくれないかな? ほぼ毎日、視界も体内も牙をもったゴキブリや毛虫に蹂躙される幻覚幻聴痙攣を続けるような発作体験をしてみなさいって。しかもそれが、「どの夜」にやってくるかわかんねえんだぜ? 通り魔が帰り道に25%の確率でいるってなもんですよ。
そんな異常な人生を送ると……まあ個性的かもしれんけど、こんな個性いらんよ。
あ、そうだ、つまりクンフーってのは、「平凡を獲得する」ための手段なんです。
だいぶ、社会適応が遅れましたしね、ビョーキのおかげで……
そんな人間が、クンフーによって自分を許すことができたら、そりゃあ、「幸せ」へのショートカットといっても過言じゃない。
まあそれをするには、ある程度の健康があってこそですが……つまり、自分は、さっき述べたような発作は、おくすりのチェンジで、なんとか克服することができました。
でも、「まっとうな人間」には、まだ遠い。少しのストレスで、すぐ崩れる。
だったら、自分の人生を実験台にして、「どう変化するか」を面白おかしく見てやろうじゃないか、みたいな。
恐らく自然に任せていたら、自分はまた狂うだけだろうから……
そう、自分がクンフーを選ぶのは、自分の命ってものを、軽く見ていること。命そのものよりも、自分の人生のQOLの方が大事。
そこまで考えてる人間に対して「やっぱり命あってこそだよ」とかって言うひとは、「わかってるよ」としか僕は答えない。そしてもう話したくない。ここまで書けば、ケンジョウシャの人間だってわかるだろっ!!
ああ、クンフーのメソッドから大分離れた。
でも、自分にとってのメソッドは、すごい簡単で、
1)全力で作品と相対する
2)全力で作品を考える
3)全力で作品のことをブログに書く
4)以下ループ
正直、この論を書いてるくらいだったら、M3で買った盤のレビューしたい(笑)
でも、記事を望んでいらっしゃる方もいるし、それに、自分も考えをまとめたかった、というのもある。だからクンフー論については、考えの発展が無いかぎり、もう書かないかな……(もちろん、発展があればその都度書きますし、御質問にもお答えします。はてなブログはどうやらはてなユーザーしかコメントできないようなので、twitterか、もしくはメール(ghost24hyあっとまーくyahoo.co.jpまでどぞー。自分も、このブログ、他のひとがコメントできるようにしてみますので……)
でも、メソッドはもっと書いてもいいかもしんない……と、そこで、ネテロ会長のあの修行をまた引用します。
あのですね、自分、このように腐った文(国語力がない文)なんですけど、それでも、いまこの記事書きだして40分なんですけど、4000字書いたんですよ。
これって、自分にしては、長足の進歩で。前は一時間以上かけないと、こんだけは書けませんでした。
もちろん、内容薄い文だから、っていうのはありますけど、上の四つのループを半年こなしただけで、ここまでいける、っていうのはあります。いっときは一時間で、なぜか一万字いけたこともあったり……なかなかクレイジーだな……
修行、っていうのは、そういうものみたいです。
で、メソッドについてですが。
そこでわたしは「いいとこさがし」をします。
悪いとこをあんまヘイトしても、しょうがないのですよ。自分が向上しないから。「幸福」じゃないから。
悪いとこを指摘(ヘイトでも)して、あげつらって、「俺様の方が頭いいもんねー!」とかってして、本当にホメオスタシスが保たれるひとだったら、いいと思うんですよ。世の中には、そういうひとだっていますしね。そういうひとに、ずいぶんけなされてきたわたしですが、「まー、そういうひとも、結構カルマを溜めてるんだなー、ネットの外ではずいぶん辛酸をなめてるんだろうなー、弱いんだろうなー」って思ってます。
皆、どこかでは強くて、どこかでは弱いです。平野啓一郎の分人主義的な考えでしょうか……
「分人」主義でいこう!――平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』 | BLOB
これ(いいとこさがし)は、いいこちゃんをしようとしてやってるわけじゃなく。
むしろ逆なんです。
「てめえの幸せのことしか考えてねえ」
そう、わたしは自分のクンフー=自分の幸せしか考えてません。
その作品から何を求めて、何を読み解こうが勝手。褒め殺しとよくいわれがちなわたしのレビューですが、「俺が幸せになったんだし、俺が成長できた、それの記録なんだから、そのように書いてるんだ、文句あっか?」という、ひどいスタイルなんですよこれ。だから、感謝もときに痛い……w
でもさー、他のひとのことまで、まだ修行してる身が、考えられませんヨ。
それに、自分「メンター志望です!」っていう人が大っきらいなのですが、そも「師」っちゅうのは、目指すもんじゃないでしょう。「師」っつうのは、結果として成るもんであって……
そう、「今を生き切る」こと。
そこに、ひとは魅せられるのです。クリエイターの作品が輝いてるのは、そこに「生き切った煌めき」が、どうしようもなく見えるからです。たとい退廃の美であっても。
respect、には二つの意味があります。
ひとつは「尊敬」、もうひとつは「ある【点】」です。
所詮、ひとはひとの全部を見ることはできませんし、なかなか過去未来まで全部見通して尊敬(リスペクト)することはできません。
でも、ひとつの点(リスペクト)に対する尊敬(リスペクト)だって、結構大変ですよ?だって、自分で【点】を発見しないといけないわけですし。
だから、わたしはヘイトしてる暇がないんです。その作家・作品の点(リスペクト)を愛好(リスペクト)するしかないから。
●祈り
祈りは願いと違います。
すげえ問題発言をしますが「神様助けてください!」は、実は汚い願いなんです。
勇者「だいたい何でかあいつら何かを犠牲にすれば
何か得られるとか本気で信じ込んでるから始末に負えない。
それは要するに何かを犠牲にすれば、貰えて当然って云う
さもしい乞食根性だっていい加減気が付けって……」
それは「神様お金を下さい!」と同じです。
さもしい乞食根性……その通りです。
このあたり、序盤のメイド長×メイド姉の「奴隷/人権問答」でもありますが……
神は、あなたを救いません。
あなたが、神という存在……今回の記事の発端となったべるんさんの言葉を借りれば「概念モジュール」を採用して、あなたがあなたを救う、そこに価値があります。神の価値とは、あなたが再生(フェニックス・ライジング)をしたターニングポイントと努力を、ひとが再解釈したもんなんです。
難しくいってしまいましたかね。
管理人の「思考の大本」を説明をしていきます。 - 猫箱ただひとつ。
(ここの8のところです)
神、とは、所詮概念です。
また、あなたが信じている(仮にあなたが有神論者だとして)神は、あなたが作り出したものでは、大抵は、ありません。あなたが先人から受け継いで、当人なりの解釈をほどこしたもんです。
どの宗派を選ぶか、どの教義を選ぶかは、あなた自身です。
問題は、宗派が救うのでもなく、教義が救うのでもなく。
あなたの絶えざる努力が救うのです。要は宗教はヒント集。「考えるヒント」というか。
あなたは、絶えず幸福を……あなたにとっての真の幸福を求めなくてはなりません。そのためには、むしろ逆に「カルト宗教」にとっての罪悪「自己懐疑」を、どこまでもしなくてはなりません。自己を疑いなさい! 自己の幸せ、自己の望み、自己の環境、自己の遺伝……すべてを疑いなさい!
意外に……自分の悩みってもんは、あるとき、別の角度からブレイクスルーできるもんなんです。精神病のひとつをぶっ壊すことが出来た(治療できた)自分がいうんだから間違いない。
でも……わたしだって、こんなんですけど、努力したんですよ? 生きる(正確には、苦痛を減じる)ために。
「願う」ひとは……それがさもしい乞食根性であるひとは、救われません。
救うのは、あなた自身です。
なぜクンフーからこれに接続するかというと。
ネテロは「突く」ことだけを選ぶことも出来ました。でも、彼には「感謝」がありました。
それが彼をそだててくれたということ。
その慈愛・滋養は、彼にとって、ただの「発想の源泉」ではありません。ある意味では、恩人。親。恋人。つれあい。
その感謝をもっと得たい……というよりは、
親友みたいな「対象(ネテロの場合は「武」、わたしの場合は音楽、エロゲなど)」
と、
親友みたいな、それにまつわる「感謝」。
それが、彼の中で渾然一体となって、「もっとこの感覚と一緒にいたい」と思わせるのです。
そこから、真の「求道」がはじまります。なにせ、それは枷でもなく……「このあったかな概念といっしょにいたい」ですから。
それは穏やかな境地。
そこから無数の人生哲学を引き出せる境地。
それが、わたしは「祈り」の境地だと思いました。
なにかの対価を求める「願い」じゃなく。
たとえ、相手(武、音楽、エロゲ)があんまり答えてくれなくても、「自分で」相手の美点を褒めて、自分のためにして、自分のクンフーを磨く……それが、現時点で見い出した、わたしの「クンフー/祈り」論です。
マア答えてくれなくても、って書きましたが。
答えてくれるんだよなぁ……不思議なことに。
クンフー/祈り論、当座はおしまい。