残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

ホームページ更新2020/08/14

本館サイト「アナログホームページ」、サイトデザインを含め、更新しました。
パソコンだろうがスマホだろうが、問答無用で表示されるタグ打ち静的HTMLサイトでございます。

 

redselrla.com

ホムペで書いたように、近々キャンプに行ってきます(キャンプ場予約済)。

何かおはなしがある場合は、ホムペ下部に記載してある掲示板やメール、あとこのブログコメントにでもお寄せください。

勝負師の星座観測

勝負師の思考に、以前から興味があります。

彼らが勝負にかける意気込み。一回の勝ちだけではなく、「勝ち続ける」ための持続法。大局観。拙速に走らず、己をセーブする方法。そして何より、彼らが見出した「勝ち・負け」の定義そのもの。

自分が良く読んでいるのは、梅原大吾ウメハラ)氏の本です。あるいは羽生善治氏の本やときど氏の本、スポーツ選手の自伝やインタビュー雑誌なども。というより、自分は作家のインタビュー本や自伝本、「作者、自作を語る」系の本をよく読むのですが、これもまた「勝負師」本の一環かもしれません。それから、ガンダムビルドファイターズが好きです(唐突)

その一方で、彼らが実際に行っている勝負ゲームそのもの(格闘ゲーム、将棋etc)には、さほど興味がありません。なぜかというと、自分はそもそも「勝負」というゲーム形式が「not for me」と思っているからです。例えば、自分がスポーツなり対戦ビデオゲームをして、だいたい負けますが、何とも思わない。しかしまぐれで勝っても、何とも思わない。というより、負けても勝っても「落ち着かない」。自分は、自分の世界(内的宇宙、こころの箱庭)の構築にしか興味がない、という傾向があるのです。なので、他人の勝負事にも興味がない。

これは自分の弱点だと、素直に思っています。勝負事に対するセンス、闘争心・競争心が「なさすぎる」。

でも、勝負師の思考に興味がある。「限界に挑む」っていうシチュエーションであったり、「バトルフィールドで交わされる選手同士の超越したコミュニケーション」などという、特殊状況での心理が面白い。そして日々戦い続ける勝負師という人生の形に、興味があるのです。

さて、まるまるさんのついったータイムラインのRTで拝見したこのはてな匿名ダイアリーの記事

anond.hatelabo.jp

例によって自分は将棋のルールについて詳しくはありません。将棋史に詳しくないのも当然です。ただ、勝負師の思考に興味がある。

自分のこの「思考」のみに興味がある、というスタンスは、勝負ゲームの見方として、邪道も良いとこだと思っています。勝負師の「思考」の本質は、その対戦試合(ゲーム)そのものにあるのだから、ちゃんと試合を見なさいよ!という指摘もごもっとも。一番良い上澄みだけを拾って味わってる、という指摘も成り立つ。ただ、それはとりあえず置くとして。

藤井新棋聖が勝利し、渡辺二冠が敗れた。事の次第はそういうことです。世間の盛り上がりもそういうことです。そして、将棋を、棋士を本当に愛しているファン層からは、もっと、とんでもなくたくさんのものが見えていた、ということに、いまさらながら思うのです。

将棋新世代が、例えばIT(コンピュータ、人工知能)を駆使した練習&研究を積んでいたり、さらには「IT世代の打ち筋も踏まえた将棋研究」「その上でアナログ的な従来の将棋のスタミナ持続力、大局観」が当たり前に研究されているのが、今の将棋だ、というのは、羽生氏の本であったり、あるいは鍋倉夫「リボーンの棋士」で言及されていたところでした。しかし自分が嫌になるなぁ、こういう些末な知識しか持っていなく、本場の盤上の世界を知らない、というのは。まぁ、上記のようにそこは置くとして。

自分は、このはてな匿名ダイアリーの記事の筆者さんにこそ、感動してしまったんですね。この筆者さんは、渡辺氏が「負けた」からこの記事を書いているんじゃなくて、渡辺明という棋士の生きざまに惚れたファンだから、この記事を書いている。渡辺氏がこれまで行ってきた打ち筋と、研究精神。そして勝負師として、勝負の流れと世間の流れに「なにくそ」と踏みとどまる足腰の強さと意気、意地に。

筆者さんは、将棋を本当に愛している。そして渡辺氏を愛している。将棋というゲームに魅せられている。将棋がこれまで作り出してきた名勝負や凡勝負の数々を記憶し、それを味わっている。その上で将棋という文化を愛している。というかこれが、ある文化を「愛する」ということなんだろうな、と思う。

筆者さんには、この将棋というバトルフィールドの本物の世界が、見えている。

 

藤井新棋聖の旋風が、将棋界に対する世間の注目を上げている。藤井氏が歩む道が王道になるのだ、みたいなムード。藤井の勝利を見ていれば将棋はわかるのだ、みたいなムード。そこまで勝ってなお、兜の緒を締めようと謙虚たる藤井氏はやはり才覚の深み、と思う。もちろんそこで浮かれるのでは、そこまでの才覚、という厳しさもあるとして。

しかし自分は、渡辺氏の敗北、渡辺氏もやはりすごかったのだ、みたいなことを書きたいのではない。

自分には見えない世界がやはりある、ということをここで書きたい。それは皮肉でも、卑屈でもなく、「やはりあったのだ……!」という喜びでもって書きたい。

はてな匿名ダイアリーの筆者さんが、ここまで見ることのできる世界(将棋)というのが、この世に確かにある。そして、そういうのは無数にこの世にあるのだろう、と思う。いや、あるのだ。間違いない。それはたまたま世間の耳目を引いていないだけで、「どこまでも味わい分けることの出来る世界」は、この世にいっぱいある。

将棋という世界は、今回のタイトル戦で、さらに耳目を引くだろう。「裾野が広がった」ということ。その「裾野」が広がって、いろんな少年少女が、勝負師の世界に入ろうとする。いろんな道がある。いろんな人生がある。英雄譚があり、量産型の物語がある。いぶし銀の職人技の世界があり、敗者の世界がある。

まるで星座のように。

おそらく、その星座の煌めきや、無名の星、あるいはダークマターの暗黒を、しかと見据えて、ずっと見ていくんだ、と愛し続ける、ゲーム上の天体観測。おれは見ているぞ、きみらの勝負の行方を見ているぞ、考え、考え、記憶し続けていくぞ、というゲームの天文学。カッと火花散った光年の煌めきを愛し、やがて那由他に消えようともその流星の切なさを愛する。勝負師も、ファンも、彼らは今まさに、そこにつくる。勝負文化がある。

それに比べれば、たかが勝った負けたでわいわい騒いで、あいつはもうダメだ式の評論をすることなど、天文学的に小さい話であります。

自分にしたって、渡辺氏の将棋世界を、こうしてはてな匿名ダイアリーの筆者の方に説明してもらわないと、ついぞわからなかった者です。小ささはさほど変わりゃしません。

 

それと同時に、この記事。筆者の方はこれまでいろいろな棋戦を見てきたのにも関わらず、「今回の試合のようなものは、これから見ることが出来るのだろうか」という驚愕でもって、試合を見ていらっしゃいます。

その、将棋ファンとしての「新鮮」な瞳、というのも、こちらが瞠目してしまいます。つい、過去の歴史と比較してあーだこーだと言いがちなのがマニアです。でも、筆者さんは、「今ここで伝説が生まれようとしているんだ!」というものをしかと見据えている。

 

わたしも、何かを愛したいものだ、と思う。この筆者さんのように、愛と屈託と、ファンとしてのたゆまぬ持続力と、新鮮な瞳を持ち続けたいと思う。やっぱり勝負試合(ゲーム)そのものには興味を示すことの出来ない(not for me)な自分だけれど、せめて自分の愛している分野では、地道に愛し続けようと思ったのが、この記事の感想でありました。

 

※似たことを前にも書いております

ビルドファイターズとオリンピック(1) - 残響の足りない部屋

日記(2020/07/12 日曜)

にっきです。

・このところ(1,2日)で作ったもの

http://redselrla.com/bookshop/bookshop.html

↑ いわゆるSS(ショートストーリー、サイドストーリー)です。HTML静的個人サイトです。自分の創作箱庭の一部です。「ほうき星町」シリーズ、っていうシリーズものです。ドット絵を打ちました。

・メインイベント

●SD改造フィギャー「金床さん」

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かなどこさん(店舗ディスプレイ)

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かなどこさん(自室ディスプレイ)

メインイベントです。これを作ったのは先々月あたりのことなんですけど、

 蝸牛くも氏のラノベ/アニメの「ゴブリンスレイヤー」のキャラクター・妖精弓手を、SD化したフィギャーを作りました。

※現在、ホビーゾーン出雲店さんから、作品を引き取ってきましたので、展示はされていないです。ホビーゾーン出雲店さんでは、次のコンテストが控えてらっしゃるので。

コトブキヤのキューポッシュ・FAガール「スティレット」(すち子)

キューポッシュ FAガール スティレット | フィギュア | KOTOBUKIYA

を素体にしています。パテで髪をエルフな感じに改造したり、ファンタジィに服装をコーデしたり、アーチャー(弓手)っぽく武器をつけたりしました。脇に黒曜石のダガーをつけてるのですが、ほとんど見えないぜヒャホーィ!(涙)

きゅぽすち子は縞パン(しましまパンツ)なのですが、これをゴブスレ作中の通りにキュロットスカート(茶色)にしました。つまり、縞パンのおしり造形を削りました。

「金床(かなどこ)」さん、というタイトルですが、これは妖精弓手の本編中での(主に鉱人導師からの)あだ名です。読めばわかる。どこがぺったん(金床)なのかが。

本当にこれを作っているときは楽しく、コロナ禍のなかでも充実した日々でした。

●キャンプいきたい

梅雨ですからね。蟲のこともありますし。蟲、という字を使っているのでお察しください。秋までには一回くらい行ってもいいんじゃないか、とは思うのですが。

 

●目標を見失いがちであるのは自覚している

SD「金床さん」作成以降、新たな目標を見失い、自分がどんどん腐っていっていますね。これはまずい。自分の人格に、周囲からわかるくらいの腐臭が漂っている自覚があります。ごめんなさい。どうにかしないといけないですね。

●BOOTHの自作CDや委託CDの販売のこと

ページ作成が遅れています。腐臭です。

●がんばる

いや、むしろ、部屋を片付け、目標を作り。そしてそれに向け、スモールステップで毎日こなせるタスクを設定し、手をこつこつ動かすに尽きるのであります。なんだわかってるじゃないですか。さあ次はなにを作ろうか。どこにヒントはあるのか。

●日記を読もう

いや自分が毎日つけてる物理ノートや、ローカル環境でのメモファイルのことなんですけどね。なんだわかってるじゃないですか。

 

思いのほかホムペ更新が進まない

アナログホームページ

8TR戦線行進曲のホームページ

 

(掲題)
はい。
はいじゃないが。
まあ、そもそも更新ネタが今のところはない、っていう話です。
いや、「ちゃんと纏めておくべき事柄」は、山ほど控えていますが。じゃあやること山ほどあるんじゃないですか。

 

それから、Boothで自分のサークルや、委託をしていただいているサークル・バンドの物理CDの販売ページも、現在構築中真っ最中で。

8TRレコード産直小売 - BOOTH

 

わりと、てんてこまい、というかプチ混乱中です。
軸が、創作・趣味活動の軸がブレている。人としての軸がぶれているように。

・もうオタクじゃない


自分がもうオタクじゃないなー、と思ったのが、「次々に物語を摂取できない」自分の性質に気づいてしまったときでして。
自分の中に物語を「設置」したら、あとはかなり自由に頭の中で動かせるのです。しかし、そうするまでに物語を摂取するのに、ハードルがすごい高い。
次々に物語を飲み込んでいけない。物語を読むスピードが遅い。そもそも、自分のリズムとセンスに合わない物語を読むのがすごい苦しい。
「いろいろな物語を摂取して、それらについて考える」のがオタクだとしたら、もう今の自分は「マニアックな作品をいくつか嗜んでいるただの人」っていうあたりではございませんでしょうか。

自分はもうオタクとは呼べないのか。
そうかー、って感じです。
何かを手放した、っていう感じも……ないわけではないです。

ただ、無理して作品に触れる、っていうのは、作品と作者に対して非常に失礼だ、とは、やはり思います。

(2020年の個人思想)世界の終末妄想、自然世界、ヒトの群れ社会、キャンプ

自分はオカルティック陰謀論な社会観には組したくないなー、と常々考えておりました(おれたちボンクラインテリのための雑誌「ムー」的なアレを参照)
が、オカルティック陰謀論のトピックの中で、ひとつ「世界の終末」妄想形式については、思考実験として考える価値があるな、とも考えておりました。

起こる現象の確率の妥当性について、正確に試算しようと考えているわけではないです。むしろ妄想世界観のおはなし。
「地球の地軸がポールシフトして氷河期突入!」とか、「隕石がドカンと爆弾飛来して氷河期突入」とか、「太陽がちょっとセルフ悪さをして、日光の量が減って氷河期突入!」とか。氷河期好きね。いや好きじゃない。

まぁそのあたりの大雑把な終末を軽く想定して。
そんな(主に氷河期)大変困った災害が起きて、次に起こるのは隣国がリソース(食糧とか)を求めて攻めてくるなー、とか。やはり世紀末暴力か、とか。
いやいや、隣町、隣の県ですら、困った災害になったらどうなるのか、とか。
そんな大雑把な終末世界をぼんやり考えて……

逆に、「では自分ひとりは、どうしようか?」とたくましく考えるようになったのです。
そこで自分はあっさりと、「そしたら、これ以上社会に頑張ってしがみつく必要もないな」と思ってしまいました。
例えれば、ノアのソーシャル箱舟に入れてもらう権利を、声高に社会に対して立てなくてもいいや、と。

で、去年からキャンプをしています。

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私物のテント写真

自分がキャンプをするようになったのは、漫画・アニメ「ゆるキャン△」の影響は甚だしく大きいですが。

アニメ「ゆるキャン△」ポータルサイト


けいおん!」でギターを始めたわけでもない自分ですが、キャンプを始めたのは明らかにゆるキャンです。言い逃れできない。
しかし、根本的な精神というか。
「最後に頼れるのは、自分がこの物理自然世界でいかに生き延びていくかのスキルと力ですな」
という、生物が生きる基本のキを改めて意識するようになったわけです。
ゆえにキャンプをし、サバイバルスキルを磨き、物理自然における対応力をめきめき磨いていっているわけです。キャンプのキは基本のキです。
だがこれは気狂いのキか? この社会ではそう認識されるような思想かもしれない。

しかし、単純な理屈・論理としての話です。何か世界に前代未聞のオカシなことがあったら、その上で生きていこうと思ったら、まず自分で自分の知ってる範囲の限界まで考えて、生存するために頑張って行動する事が最低限必須です。
基本、誰も助けてくれない、って考えたほうが、より安全側(工業用語)です。
ぼーっとしていて、どっかの誰かが助けてくれる、っていうのよりは、より思想として安全側だと思うのです。
まあ、巨大システムが、効率の名のもとに、自分を大雑把に回収するかのような形で救済するっていう線もないではないですが、
「その巨大システムって何よ?」とまず怖くなるところもあります。(システム「AI」かシステム「世間」か、って話ですね)

  • 世界」……Nature。自然世界。人間も含めた、あらゆる植物と動物と、有機物と無機物と、地球と宇宙。物理存在世界
  • 社会」……Social。ヒトとヒトのノード(間柄)が作り出す「群れ」ネットワークの総合

このように定義します。
つまり自分は、「世界(自然)」の中に在ることは間違いなくて、やっぱり死ぬまで「世界(自然)」の中に在るんでしょう。それが物理存在の存在ルールです。
ただ、「社会(ヒトの群れ)」との関わりについてなんですが、さてこれをどう活用していこうか、っていう話が、かなり大きいです。
自分のなかで、いつしか内面化さしてしまった社会、というか。

 

自分は何を考えて、生きていこうとしているのか。(いつしか去勢されてしまった)

 

だいたい、「社会」の論理構成要素を物理的に考えたら、「ヒトの群れ」を最低構成要素にしているんですね。
社会の本質が何ぞや、と考えたとき、「人間の思考が社会」とするより前に(この考えが一般的に強力であるのも知ってる)、
「ヒトの群れ内での、思考や言葉を使った、サル的毛づくろい」とかの文化人類学アプローチをまず押さえておいた方が、より本質として安全側だと思う。

社会がシステムである以上、ある程度の危険性・暴力性ははらんでおります。ワンピースのスモーカー大佐も、「人間が徒党を組む以上、この世に完璧な組織なんざネェ」と言っております。

「人間として生まれた以上、どうしても社会の中で生きていかねばならない」っていう話は、なかなかに妥当性を持ってはいます。
が、「社会から得られるメリット/デメリット」をきちんと腑分けする必要もあると思うのです。
それは、影のフィクサーによるアヤツリ社会の本質を暴くのだッ!という陰謀論でなく(やっぱり陰謀論に組しません)、
「自分は社会のメリットのうち、何を得たいか」
「自分は社会のデメリットのうち、何を必死こいて拒否りたいか」
というあたりの腑分けですね。どこまでが我慢できて、どこまでが我慢毛頭ならんのか。

その答えがキャンプにあるように思えてなりません。あくまで自分は、ね。
どこまでも「自分」ベースなのです。
しかしそれは自分の欲をどこまでも叶えたがるデザイアドライブであることを意味しているようで、実は案外そうでもないのです。
むしろ、自分の「分際(BUNZAI)」を知りたい、という話です。すげぇ落差。
自分が世界において、どの程度の大きさ・小ささ(スケールサイズ)であるか。
何が出来て何ができないのか。そして、何に喜びを見出し、何に耐えがたい苦痛を感じるのか。
そしてヒトの群れ(社会)において苦痛を感じるとしたら、そのうちの「何」に対してなのか。
それさえ回避できれば、むしろ自分は社会において多少は手助けしてやってもいい、
そう思える自分もいました。
また、この人間社会では3K(キツい、汚い、臭い)と言われている仕事でも、ものによっては自分はそうは思わない、ってものが結構ありました。
むしろ逆にそれで多少稼げるなら、3Kを部分的に肩代わり仕事してやってもいいな、と思える自分もいまして。実際、今、仕事の一部でそんなことをやっています。
そのせいで精神が狂うんんじゃないか?と考えましたが、しかし、どう考えても、社会の中で狂う確率のほうが、明らかに高いんですね、自分は。

 

やっぱり、あんまり社会の中で孤独であっても、「寂しい」と感じない人間なんですよ。自分は。
むしろ、人と話しているときに、強烈に寂しさを感じるときがあります。

 

ずーっとひとりでいて、全然退屈しないのです。キャンプは毎回ソロキャンプです。
そして、明らかに人格がやさしくなれているのです。
で、たまーーーに人の里に下りていって、そのやさしさ貯金を使うのです。そんなイメージです。

社会に適応しようとして磨り減る30数年でしたが、ここのところで「世界を理詰めで考えて対処していく」って方にシフトしました。で、キャンプであります。

次回以降もこの話は続きますが、たぶん「考現学」の話になるかもです。あるいはpanpanya漫画の世界というか。あ、それと、コロナウイルスについては、意地で書かないようにしています。これからも書くもんか。