残響の足りない部屋

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「数学ガールの秘密ノート」最新話241-242回が禁断のヤバみーー数学という権威、暴力、あるいはノナちゃんは銀色サヴァンなのか

このおれがノナちゃんだ!

失礼しました、興奮のあまり意味不明な書き出しをしてしまいました。でも、やっぱり自分(筆者)はノナちゃんですよ……(伏線

 

↓今回(今週)のお話(2018/11/23金曜から、一週間無料閲覧可能)

 

cakes.mu

 

結城浩氏(プログラミング書や「数学ガール」シリーズや、数式混じりの読解しやすい文章の作法についての本を書いていらっしゃいます)の、webマガジンサイト「cakes」での連載、「数学ガールの秘密ノート」。

www.hyuki.com

cakes.mu


このcakes連載は、最新話だけ無料で、あとは有料課金方式です。
本体「数学ガール」における、数学のエッジーで豊かな知の深みを徹底的に議論していくのとは違い、「秘密ノート」は、日常のちょっとした疑問から、「数列」や「微分」「ベクトル」、あるいは数学考古学、などの数学の一領域をたのしく概観していく、という初心者向けのシリーズです。

で、先週から今週で、「無限のキャンバス」と題した「数学を学ぶ」数学トークなお話の回になったのですが……正確ではない。
「数学を学ぶ」というよりは……「恐ろしい数学をなんとか教え込む」……ちがう、「トラウマレベルになってる数学から、トラウマをなんとか除去させようとする」……もっといえば「学校教育や世間における【いわゆる受験のための数学】教育から、数学のたのしみっていうものを、なんとかカケラでも見いだせやしないか」というか……。

はい、つまり、「数学嫌い(意味不明)」少女を、どうやって癒していくか、という、ある種禁断の数学話になってくるわけです。

登場人物を整理しましょう。この話限定で進めるので、ミルカさんやテトラちゃんは抜かします。ていうかこの場に黒髪才媛ミルカさんが居たらどーなるんだ……(恐ろしさに頭を抱える)

「僕」……主人公。数学が好きで得意。「教える(ことを通して、相手と一緒に数学をたのしむ)」ことに、自身の可能性を見出しかけている。「悩み」担当。

「ユーリ」……「僕」のいとこの「妹ポジ」な天真爛漫中学生にして、ある種のひらめき直感型の天才肌なところがある。パッと見複雑な理論モデルを論理的に追っていきそうになるとめんどくさがる(先輩たちの手を借りていけば、論理を追うことは出来る)

「ノナ」ちゃん……新キャラ。「ユーリ」の友達。絵が得意で絵画の知識もある。数学が嫌い。数学が意味不明。学校数学の点が悪い。


基本的に、数学ガールというのは、「数学好きの少年少女たちの数学愛トーク」なわけです。
ミルカさんや「僕」は数学が好きで得意。それに対し、これまで後輩のテトラちゃん(数学は好きだけど、得意ではない)や、ユーリ(数学に興味があるし、ひらめき直感才能もあるけど、めんどくさがり)が、「数学が好きだけど苦手(寄り)」な対比がありました。
先輩たちが、後輩を導き、逆に後輩の発見から先輩も教えられる、という。

ところが、ノナちゃんは、その前提にすら立っていない。
とにかく「数学が嫌い」「苦手」「意味不明」
しかし、「興味が持てない」わけではないのです。それは、学校の友達であるユーリが話す、ちょっとした数学トーク……というか、「数学モデルな考え方、世界観」に、ノナちゃんは興味を持っているらしく。

ここに救いが一つありましたね……。こういう風に「数学にポジティヴな何かをほんの少しでも感じ取れる経験」があったということは、この時点で相当ラッキーです(後述伏線)。「そんな経験さえなく、数学を押し付けられた数学劣等生」がこの世には山ほどいるのですから……。

 

「僕」は、ユーリの頼みもあって、ノナちゃんに数学を教えようとします。
で、まずは「僕」はノナちゃんは数学のどこが苦手か、どこが嫌いか、どこが意味不明か、理解度は……と、分析的に聞いていきます。


やっちまった。
ノナちゃん、弱気になっていきます。というかオドオドしていきます。ユーリには「早口になりすぎ!」と注意されます。

 

さて、ちょっと本文を読んでもらえたらわかるのですが、このノナちゃん、いわゆる数学ガール的な、あるいはいわゆる理系的な「才気煥発」なシャープさは、まるで感じられない人物造形です。何を考えてるかわからなく、ぼんやりしているように見えて、実際返ってくる言葉もぼんやり……もっとはっきりいえば「ニブそう」……もう露悪的に言えば「頭悪いんじゃないのこいつ」。ってレベルで。もっとひどい言葉もあるのですが、さすがに書くのはやめましょう。

ノナちゃんは、数学に恐れを抱いています。
それも、どこまで「数学そのものに対する恐れ」なのか、「数学教師、世間の大人、に対する恐れ」なのかわからない。混然一体としたまま……というか、腑分けして分析しようにも、恐怖が先に出る。あるいは、もともとノナちゃんは、分析的な思考を、ひどく不得手にする人間、と思います(こちらが基本路線でしょう)

そしてもうひとつ。ノナちゃんは、非常に「アーティスティック」な人間である、ということ。数直線のグラフで、座標の話をしたときに(数学の基礎ですね)、点の「」を考え出したのです。
色。カラーです。BECKの新譜です(関係ない)
「そんなこと数学にはなんの関係もない」と、普通の……数学を普通に治めてきて、赤点とったことない普通のひとたちは、思うでしょう。

さあ、ここから本題に入ります。
なんで自分が、今回の秘密ノートにこれほど注視しているか。
自分(筆者)こそが、ノナちゃんに他ならないのです。


●計算障害の自分語り

 

まずはじめに、自分は、今でこそ、数学が好きな人間です。最近買った数学関連の本は、フィッシュ「巨大数論」森田真生「数学する身体」、 林 晋、八杉 満利子「情報系の数学入門」、 マーカス・デュ・ソートイ「素数の音楽」、ってとこです。最近は、巨大数の殴り合いを楽しみながら、数学の情報系/コンピュータ援用の方面を勉強したりしてます。いや、最近3Dモデリングとかを始めてて、とくにボクセルアート(3Dドット絵)やRaspberry Pi積んだ電子工作とかやってると、簡単なプログラムを書く必要もあったりするので。

 

ただし、九九が本当に出来ません。正確には、計算障害です
例えば、ぱっと3×8、と考えてもても、答えがわかりません。乗算の偶奇法則から、22か24か26、というアタリはつけているのですが、大穴で28の可能性もあるし……とかっていう風に、九九を半分以上リアルに忘れていますし、「暗算計算するくらいなら、電卓やスマホを探し出して、計算機する」というハックを公言してます。
いまだに繰り上がりの概念でビビっています。

皆さんすぐお分かりのように、数学は、小学生はなんとか「意味もわからず丸暗記」で乗り切りましたが、苦行。そして中学、高校で、数学についていこうとしたものの、やっぱりだめ。赤点の連続。15点を越えることは、ほとんどなかったのではないかと。

数学……自分の人生のある時期までの数学は、「権威の武器」っていうイメージでしたね。とくに高校はひどく、「受験勉強」のスキームのもとに、「数学するたのしみ」なんてどこ吹く風で、とにかく「テストで点が取れるように、問題を解いて解いて、宿題でも解かせて……」っていうものでした。

そして「権威の武器」のもうひとつは、自分の父親にもありました。自分の父は、暗算が物凄く得意で、理系の大学で電子工学を勉強していたこともある人でした。その暗算の得意さを活かして、商売の道で相当上手くやっていた人間でもあります。あっという間に頭でパーセンテージの暗算をはじき出して、いろんな分析をするのが得意な人でした。
そういう父から、さんざんバカにされたものです。自分の「数学できなさ」……というより「算数できなさ」は。父は結構自由な人間でしたが、「計算が出来なければ人生を渡っていくのに不都合だ」という考えを持っていて、それは上記の商売をやってるとこからも、容易に類推できますね。小学生のころ、自分は「これくらいの計算が出来なければ、●●するぞ!」と、脅されたものです。父なりの教育だったのでしょうが、自分にとっては暴力でしたね。

 

なんでこれほど、数学……算数が、計算が出来ないのか。
ノナちゃんと同じなのです。自分は、数の「色」とか「形」とか、関係ないことが、頭の中にバーーーッと一瞬で発想する頭なんです。

 

どうも、30歳を過ぎてからようやく、「自分の数の捉え方は、ひとと相当異なっているらしい」ということに気づきました。
例えば、「3」は、どう考えても自分の頭の中には、黄緑色のカエル(蛙)なんです。
「4」はわりとダークな色の赤紫の鋭角的な図形なんです。「6」は同じような色で、もうちょっと丸みを帯びてる。「8」は無論のこと群青色です。背景が白い。「9」も黄色でしょう。「13」は白と緑(ビリジアン)の若干ストライプ風味なセスナ機です。そんなイメージにわりと似ている数字は「17」なんですが、17のセスナ機はもっとメカニカルかな……。

 

(2017年秋のついーと。1年前も同じこと言ってた)



そうですね、今適当に、「3027」って打鍵してみましたが、これのイメージは……ええと、「30」あたりが緑の草原っぽく、そこに「2」があるからちょっとラズベリーの果実が低い位置にちょこんと咲いてて、「27」あたりで南欧っぽい樹木が、黒にも近い曇天に向かってそびえている、っていうものです。風は西南から吹いていて……
……って、こんなこと書かれても意味不明ですよねw
でも、自分が「数」というものを認識し、考えるとなると、こういう余計なことばっかりを自然に考えてしまうのです。
どうもこれって、心理学でいうとこの「共感覚」に近いものがあるらしく。

そんなことばっかりを考えていては、当然数学なんて出来ませんね。

 

また、ノナちゃんは今回の話で、最後にこう言います。「僕」が「(点を座標で表す、数学モデルという)アイデアを理解することは大切」とノナちゃんに説いたら、

 

ノナ「アイディアを理解するって、どういう意味なの……」

 

と問われ、「僕」は逆にびっくりします。

わかるわ……ノナちゃんの云うことよくわかるわ……。もちろん、次回の話でノナちゃんはこの言葉をまた違った意味で言うかもしれませんが、自分はこう捉えました。

 

「アイディアは一発で【見える】ものだから、理解するっていうものなの?」

 

という風に。そう捕捉すれば、ノナちゃんの「アイディア」と「理解」の間を結ぶのに困惑する、っていうのがわかります(次回以降がまだわからないのでこれは仮説ですスイマセン)

 

しかしそう仮説したら……
自分(筆者)、あるいはノナちゃんのような人間にとって、アイディア(無からの発想、連想)は日常茶飯事で、いつも頭の中が爆発してます。アイディアに困るってことはないです。枯れ葉を見ては何かを思いつき、午後のカーテンがふわりと舞って空中に光の粒がちらばったその瞬間に何かを幻視する。そんなのは、当たり前だったのです。自分たちの生活では。
でも、そういうのは、当たり前じゃなかったようです。

ノナちゃん、多分、アイデアには困らないだろうけど、「問題解決」には相当に困ってるだろうな、と思います。なにせ、今回「僕」のとこの扉をたたいたのも、数学苦手、という「問題解決」に他なりません。
もーとにかく、我々はアイデアは閃くけど、問題解決は苦手です。スケジューリング下手です。自分が何に迷ってるか、っていうのもわからない。


なんだか長くなってきたので、あと一つだけ書いてから。
自分の問題点のさらなるひとつが、「クイズが嫌い」っていうのがあります。これも実は30歳前後になってようやく気付いたのですが、自分は「●●を解いてみましょう(解いてみよ)」と提示されたら、「もういいです」と思って興味をなくしたり、この提示を大人や権力者の「強制」と捉えたり、というパターンを踏んでいます。
さらには自分は、「自分で手を動かして試行錯誤して学んでいく」のは大好きですが(工作とか)、「誰かに教えられるのが不得意で、覚えもすこぶる悪い。ほぼ忘れる」という法則すらあるのです。
自分は、別にアンチ権威主義というわけでもないですが、「自分の邪魔をしてくれるな」という思いが、ほとんど幼稚園以前のころからあります。趣味で工作とかをするのの、邪魔をするな、と。そして、「自分の好きな趣味の時間を安全かつ確実に確保する」のなら、大人や権力者が「やれ」というものは素直に聞いておいて、そして自分の好きな趣味の時間を確保しよう、という考えになります。

いやー、これは「学校教育」と相性が悪すぎる。というかなんでこういう人間がよくもまあ長年学校に通っていたものだよな、と。自分は、工作も、コンピュータも、文章も、数学も、科学も、運動も、作曲も、他人から教えられたもので身に付いたものは何一つとしてなく、全部「独学」で身に付いたのです。
別に、だから「学校教育は無価値」とは断言は絶対にしませんが、しかし「学校教育がこれほど合わない人間という、希少例が自分」であった、とも言えます。じゃあなんで学校制度からドロップアウトせんだったのか? つまりは「学校は義務」と捉えていたんですね。義務ならしょうがない、一応言うことは聞いてるふりをしておこう。そしてあとで自分の好きなことをしよう、という。

 

好きの反対は嫌いじゃない、無関心だ。
という言葉があります。真実だと思います。

 

まあ学校のことはここまでとして、しかしノナちゃんが、「僕」の分析的な早口問いかけに拒否感を示したり、「例示を作ること、それすらも強制に聞こえる」くらいの、大人社会に対するビビり&究極的な無関心。こういうのが、自分のことと思えてならんのです……。


でも、よくノナちゃんも、自分も、
「それでも」数学をやってみよう、と思いましたよね。まったく。

 

我々は、己が見る夢には、ほんと一生懸命になれる人間です。ノナちゃんの絵のように。ジョルジュ・スーラの点描理論、自分も小学生のときに熱心に解説文を読みましたし、スケッチブックやマリオペイントで再現もしましたよ。
そういう「己が見る夢」が何なのかを知るには、自分で「権威」とか「暴力」「バカにされる」ことから、自分を守らねばならないのです。ところが、共感覚もちとか、アーティスティックだとかな人間って、なかなかそれを確立すんのが難しいですよ。あるいは、バリアを確立しすぎて、今度は逆に超かたくなになったりもしますし。

独特な感性でいながら。それでいて「知の世界」の豊潤にもアンテナや回路をつないだままにするには。こればっかりは個別の人生としか言いようがないですし、ノナちゃんラッキーだったね、まあ自分も30過ぎてなんとか数学好きになれたよ、とは言えます。でも、「そうじゃないままずーっと」な人が、この世には山ほどいて。数学憎し、という。そういう人たちが、次世代の権威となって、「数学嫌い、憎い、無関心」な子供を増やすのかなぁ、って考えると、ほんとなんかなぁ、って思います。

可能性というか、せめて「ラッキー」に触れる事の、多からんことを。多分ですけど、結城氏が今回このような難題禁断に挑んだのも、「数学は数学好き(向いてる人)だけで楽しんでいればいいんだよ!計算障害はきえろ!」という明るい暴力性・排他性のようなものにアンチテーゼ……ということでもないな。今回のお話に、そういうアゲインスト(叛逆)の匂いはない。
むしろ、「苦手なままでいいけど、嫌いにならないでもいい」とか「苦手なひとは、苦手なひとなりに楽しみ方がある」というか。
それほど数学の世界は、あまねくひとに開かれているんだ、と。好きに数学をたのしんだらいい。義務こそ、競争こそ、権威こそ、数学(のたのしみ)のまったき敵なんだと。そんなものでひとつの公理系も出来るものか!

そんなわけで、この記事は「好きに数学をたのしみましょうね」というあたりでどっとはらい。自分は「3」をカエルと認識するこの脳を治すつもりはないですし、「3」をカエルとみなすような世界をアートで作ればいいだけの話です。そうすれば、アートしていながら、実は自分なりの数学をしてる、って話すらにもなってくるんですから。数学とアートは、「融和・融合」という方向性だけではなく、そんなやりかた(相互独立・相互参照)でも仲良くなれる。そんなふうに考えて、今日も数学をたのしみましょう。