読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

残響の足りない部屋

同人DTMとか模型庭園とかエロゲとかの日記

現代美術/音楽における視覚と音響の統合――KANATA氏の作品をめぐって

●KANATAさんとの馴れ初め

 

KANATAさんの作品のyoutubeチャンネル

KANATA SUZUKI - YouTube

 

去年の暮れから今年のはじめに入ってからかしら、東京藝術大学の先端芸術表現科に在籍しておられるKANATAさんと、よくtwitterでお話をさせていただいてます。最初は確かKrik/Krakを通じてでした。自分のレビューにありがたくもご興味を示していただいたという御縁で。

で、KANATAさんが現役藝大生ということで、「作品見せてもらえませんかー?」とこっちが迫って、先日、その一端を御紹介いただいたのですね。

それは、まさにアートでした。twitterプロフ欄に「聴覚と視覚が交錯する媒体について」と表記しておられるように、ただ音楽を、音響実験をやるだけではない。

積極的に視覚表現・実物マテリアルとの融合を図っておられる、まさに現代美術、現代音楽のエクスペリメンタルな方向を志向されておられたのです。

かてて加えて、KANATAさんはこの若さ(まだ二十代手前)というのにもかかわらず、重度のヴァイナル・ジャンキー(レコードマニア)であられて、しかもプログレや同人ゴシックを専門……いや、正直ノビヨ師匠とクリムゾンとジェネシスをぼちぼち聞いてるわたしからしたら、とても歯が立たないくらいの重度プログレッシャーであられました。その音楽趣味からは、同じ音楽マニアとして、刺激を得ています当方勝手に。

 

で、今回の記事は、そのKANATAさんの作品を巡って、わたしなりに「現代美術とは?」「現代音楽とは?」ということを考えさせられたので、それを素人なりに記述してみたいと思います。

わたしは美術的には、よく見ていたのは、主にヨーロッパの印象派や、その前後ばっかりなので、現代美術の体系的な知識はほとんどないのですが、逆にそういうトーシロだからこそ、何か書けるもんがあるんじゃないか、って思って、書きます。

ではモードを、友人モード(KANATAさん)から批評モード(KANATA氏)に変えて……

 

●KANATA氏の作品を聞いてのファーストインプレッション:twitter

 

先日、KANATA氏の作品を聞いたとき、まずtwitterでさくっと感想を述べました。まずそれを引用します。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

@kanata_psyclone 拝聴しました。……興味深く、個人的にはこのレトロフューチャー感と実験音響は、かなり好みの方向性です!またブログに記事としてまとめさせてください!いまはツイート連投でとりあえずメモを

 

KANATAさん@kanata_psyclone のプログレ音響作品を聞いています。興味深い! エレクトロニカアンビエントが今まで見過ごしてきた分野……クラウトロックはニカアンビは取り込み済みでしょうが、70sプログレの音使いと湿った音響を取り入れるのはまだかと存じます

 

 

(RT)まずこちら。シンセパッドとグリッチノイズからはいるのがまさにクラウトロック・ジャーマンを強烈に意識さすも、その後の表層におけるノイズと、背後のドローンが調和しつつも不穏。

 

そこに敢然と、英プログレ直径のムーグ系シンセ(オルガン系)が! 全体の湿り気音響が、このバッハ的に天地を轟!と鳴らす音色とあわさって、荘厳です。そのオルガン音色は植松伸夫ライクでもあり。前面と背面の音の入れ替わり

 

 

(RT)また面白いことしますね。さすがヴァイナルジャンキー!しかし、これはある意味で、フランスのcolleenの近作の、オーガニック・エキゾ・エクスペリメンタルに「図らずしも」近づいていて。いまcolleen引用します

)
Colleen - The Weighing Of The Heart - YouTube

 

 

(RT)これは圧巻ですねえ。隠しきれない「歌心」「シンセ精神」が溢れています。80s的プログレ…もですが、個人的には初期喜多郎姫神…和ニューエイジを思い出しました。KANATAさんが崇拝しておられるエドガー・フローゼ=タンジェリン・ドリーム、のイディオムの継承の系譜です

 

ジャーマンの系譜をあえてトランスの方向にいかないのがKANATAさんのファンダメンタリズム的なプログレッシャーとしての矜持でしょうか。クラウトロックがテクノへと変種していったなかでの、エクスペリメンタルなシンセサウンドの研ぎ澄まし。YMOの行った音色探求。

 

わたしにとっては、そういう意味で非常に好感がもてます。ゲーム音楽からプログレやニューエイジ、姫神に入ってきましたから。そしてフィルターの使い方もうまいですね。ダフトパンク的手法ながら、それをおおもとのプログレ感を活かす方向。

 

いいもの聞かせていただきました。KANATAさんは「音と視覚の融合」を専攻されておられるので、この感想/批評は片手落ちですが、このようにご自身のプログレ者ぶりと、現代エクスペリメンタルを融合させ、安易な「現代感」に頼らず、硬派を往く姿勢のよさ!それでいて音色は懐かしく甘く

 

※ここまで3月3日分。次はさらに後日、発表された実験音響について

 

 

 

@kanata_psyclone お疲れ様です。こちら、「タゴ・マゴ」の後半部や、ノイバウテン思い出しました。KANATAさんのどの作品もそうですが、これはとくに実際のビジュアルマテリアルがないと詳しくは判断できませんね……

 

@kanata_psyclone ただフィーリングを述べるなら「救い」ってものがハナからないような乾いた音響に聞こえます

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

こんな感じの感想でした。

 

さて。

まずKANATA氏の音響実験/曲をお聞きになられた方は「え? ロック的ビートも、わかりやすいメロディーもない?」と思われるかもしれません。

もっとも、アンビエント系を好んで聞かれる方だったら、それがふつうなのでしょうが、しかしアンビエント……とくにエイフェックス・ツインを通過してのゼロ年代以降のアンビエントエレクトロニカという耳で聞いても、なんか異質な感じを受けるのではないでしょうか。

それは二つの理由があると思います。

まず第一に、KANATA氏のプログレ志向。KANATA氏は70s~80sあたりの古典プログレに非常に精通しておられて、しかもレコードでそれを聞いて(耽溺されて)おられます。ほとんどそれは、あの湿った音響/音色が体に染み込んでいるレベルで。プログレの美学をフィーチャーする方向性は、ユーロロックリスペクトの徒にはありますが(サンホラとかね)、「音色」「サウンドプロダクツ」まで志向するのは、よほどこの世界がお好き、という。

しかもそれを、現代的エクスペリメンタル――現代美術・現代音楽と融合させる、というユニークな取り組み……と部外者からは思うのですが、KANATA氏の中ではごく自然なことなのでしょう。

自分がこれまで得てきたマテリアルや教養を、表現の形にしたら、ごく自然に出てきたみたいな。

 

そして第二に、そもそもこれらの音響は、映像や実物マテリアルがあって、それと音響を融合さす形での「アート」だということ。

だからわたしは、KANATA氏の音響をこうして聞いているわけなんですが、そも、それは片手落ちの批評なんですね。歌舞伎とか能を、演じている音だけで批評するみたいな。

ただまあ、それを言ってたらなにも書けなくなるので、例えるならオペラをレコードだけで批評するみたいな、そんなスタンスの批評になってることをご了承ください……。

とはいいつつも、やはり片手落ちなのは、この表現が「総合芸術」だからなんですね。視る・聞く・体感する、を全部感得して、はじめてひとつのアートになる、という。

現代美術・現代音楽は、その方向性が多くなって……いや、むしろそういうふうに「全部ひっくるめて、ひとつの体験(エクスペリエンス)」を得てもらうことこそが、アートである、という考えがあります。思想というか。

 

●現代における現代音楽/現代美術の意味

 

一般大衆は「わけわからん」なものだと思います。現代アートというものは。

具体例は、「芸術・美術」世界へのもっともすぐれた誘いとしての、きゆづきさとこ「GA 芸術科アートデザインクラス」でも、現代美術については「基本わけわからんもの」として取り扱われている事実、です。

 

 

「GA」について現代美術は、「とりあえず触れてみて、自分で【これはなんだろう?】と素朴に感じてみること」が第一義なんじゃない? と説きます。わたしも同感です。

 

さて、現代美術がこういう「基本わけわからんもの」になったのは、系譜としてキュビズムダダイズムがあるからです。曰く「芸術は既存概念の破壊だ!」みたいな。

そっからシュールレアリズムにいって「超現実こそが芸術だ!」みたいな。(この「超」は、「超すげー」の意味ではなく、「現実を越える」の意味です)

サルヴァトール・ダリ、マックス・エルンスト……現実を解体して、再構築して、現実の中の「妙さ」「おぞましさ」をまざまざと表すスタイル……このあたりから現代美術ははじまりました。

 

それまでの美術は、「現実を再現する」「現実を美化する」があったのです。曰く「自然の美しさを描け!」という。

それがキュビズム、フォービズム、ダダイズム、シュール、などなどが出てきて、「現実の脱構築、再構築」を、アートの意義である、という考えがでてきました。すげーざっくりした美術史観ですが、そんな感じです。

 

 

で、これはわたしの考えですが、それら「旧来の美術ぶっ壊し」派の時点では、まだ「シンプルに難解だけど、やりたいことはわかる」というのが社会通念だったと思うんです。

 ところめが、世代が下がっていくに従って、これら「ぶっ壊し」すらもひとつの「スタイル」になってしまったんですね。ダリ的な描き方(耳とか)、ジャクソン・ポロック的な描き方(無茶苦茶的な)……後世の彼らは、先達のぶっ壊しを模倣することからはじまった。

で、模倣しながら(ある表現スタイルで描く)、さらにその模倣もとを逸脱する。

で、さらに後世は、その「模倣の模倣」をさらなるスタイルと定義し、それを模倣しながら、さらにその模倣もとを逸脱する……以下ループ

それがこの現代美術の数十年……というのは、美術を専攻、とくにKANATA氏のように、先端美術を志向されておられる方からしたら憤慨ものでしょうが、外部(非プロパー)からしたら、このあたりから「難解さ」が生まれているようなものだと思うのです。

一言でいえば「そんな歴史的意味、言われないと知らんガーナ共和国」です。

 

いえ、それを断罪するつもりはあんまないのですが、さて、それは「誰の役にたっているのか」……もっといえば「そのアートは誰を救っているのか」。わたしは、そういう気持ちを、ぼんやり抱いてしまいます。

 

それは現代音楽でも同じで。

「先達の実験/破壊/逸脱、の文脈の上になりたっている意味性」という聞き方をしなければ意味がわからんちんな音楽……ただでさえ「単なる音響実験」「なんか恐怖映画のサントラみたい(この表現はby村上春樹)」と評される現代音楽ですが、そういったマニアックな系譜の話されても、やはりこっちも知らんがな、です。

お勉強しなけりゃ、あかんのか? その美術/音楽は、コンテキスト必須で読み解かなきゃあかんのか?

専門家はいいます。「そうだ」と。

そりゃあ、現代美術が世の中から離れていきますわなぁ……このあたりが、「現代美術/音楽はわけわからん」の一端かと思います。

「歴史を知ればわかるよ!」と言われても、それはそれで傲慢な物言いのように聞こえます。

 

 

さて、さらにモードを変えます。

わたしがdisってるのは、現代アートに対する「それでいいのだ」的開き直りであって、そもそも現代アート作品自体は、わたし大好きなのです。先にGAの「見方」を紹介しましたが、わたしもこの見方で見てます。美術館とか、画集とかで。あるいは、アンビエントエレクトロニカ、現代音楽とか聞く際にも。

わたしのような理屈屋にしては珍しいですが、しかしわたしの場合こうも思っているわけです。「芸術作品は、基本的に独立したものである」と。

歴史性とか、先達を意識した意味性とか、そんな考えたくないのです。わかったらわかったでめっけもんみたいな。それよりも、「そこにあるもの」を見たい。聞きたい。それで、自分が幸せになれたり、刺激を得れたらそれでいい。そういうふうに超わがままな見方をしています。

非常に不勉強な見方ですが……でもアートってそんなもんでいいんじゃないかなぁ、って思うのです。飯を食ったら上手い。力が出る。そんなのと同じように、いいアートを見たら、気合いが入る。心が洗われる。

確かにわたしは理屈でもって鑑賞するタイプですが、それでも結果が「なんか力(リキ)が入る」なら、それでいいじゃん的な。それで今日その時から頑張れることが出来ればいいじゃん的な。あと、そのネタで、曲解だろうがなんだろうがブログをこうして書いて、自分の人生に活かせればそれでいいじゃん的な。非常にプラグマティズムというか、自己中心的。

で、そういう見方で、KANATA氏の作品を、見ています。

 

●聞くことと体験すること

 

まだKANATA氏の作品を、「統合的な形」で【体験】してないのですから、判断してしまっていいのか、と思うのですが、しかしあのいくつかの音響/曲を聞いて、非常に刺激を受けたのです。

それはプログレの新たなるアート的解釈という意味でもあり。

また、音色や音響の懐かしさ(湿った感じ。上記ツイートで書いたような)が、非常にわたし好みだったので、「いい、いいぞこれ!」と思ったのもあり。

また、自分自身、音響的な曲作りをしてるというのもあり(自作詩、詩小説、散文詩、オリジナルキャラのBGMとして)、KANATA氏のやってることが、自分のとは方向性が違うながらも、先達として「なるほど! こういうのもアリなんだね!」と、実際的な刺激を受けた……というか参考になったというのもあり。

それはひとえに、KANATA氏の作品が、「硬派」「背筋のよさ」「本気」が感じられたからなんですね。

もちろん、実際のマテリアルとの融合をこの目で見てないから、そこんとこはまだ何も言えませんが、このハンドメイド感……KANATAワールドの確立具合、どこか密室めいた湿った暗い世界、それに浸り、感じきる鑑賞をして、「アートというもの」「アートに真剣に取り組んでいる精神」に、わたし自身のアート精神、詩人精神が、キックされたのですね。

 

 

少し話はずれますが、「聞くこと」と「体験すること」は、ちょい違うのかもです。

ポップソングを聞くことは、テンションをあげあげにすることです。ウェーイな。もしくはメロウにすることです。しんみり~な。それも、それで人生のBGMという意味で、必要なものです。わたしもしょっちゅう、BGM聞いてあげあげで文章書いてますし。仕事するときには必須ですし。

それに対し、こういったアートの「体験」は……頭というか、感情というか、聴覚・視覚の使いかたが違うと思うんです。

さながらそれは、ポップスを聞くことが「物語を楽しむ」ことに近いとするなら、アートの体験は「物語の中に没入する」ことに近いんだと思います。

自我の没入。

「物語を楽しむ」は、まだ自我が「テキストの外」の安全圏にあって、自我vs物語、みたいな感じで、楽しむことができます。

対し、「没入する」は、自我がアートの中に取り込まれるというか、自我とアートの境目がわからなくなる……少なくともわたしは、アートを……とくに現代アートを見ている/聞いているときは、そんな感じで接しています。

イコール、それは「体験する」です。

ジミ・ヘンドリックスは「Are you experienced?」と、1stアルバムで喝破しました。「君は、体験したことがあるかい?」と。ただポップネスを聞くんじゃない、見るだけじゃない、物語を楽しむだけじゃない……アートを、サイケデリックを、総合的・統合的に体験(エクスペリエンス)するんだ――。

 

Are You Experienced?

Are You Experienced?

 

 

 

体験、とは、経験です。

肉体に、精神に、もろに食い込むものです。そして、それで人生が変わってしまう、ことです。

そこには、他者の「意味の押しつけ」「歴史的意味のオベンキョーの押しつけ」が、邪魔になってくるのですね。先の章でわたしが「知らんガーナ共和国」とdisったのも、そのあたりにあります。

 

 

KANATA氏の作品……音響と視覚の融合……それは、すなわち「体験/経験」です。ポップネスでだまくらかすものではない……ということは、以上の議論でもって納得していただけたでしょうか? 

しかしながらKANATA氏の場合、ポップネスを捨て去っているわけではなく……いや、そのポップ感覚が、プログレであったり、レコードといった「モノ」に対するふぇティッシュな感覚であったり、といった領域に属していて、そこが個性なのです。

アーティストは、そも、オブセッションがあります。オブセッションという「芽」から、巨大なアート伽藍を作るのです。ガウディのように。KANATA氏のこれまでの歴史というのをわたしは存じませんが、非常に個性的な半生を送ってきておられると思います。(だって20まえでヴァイナルジャンキーでプログレッシャーでディスクユニオン通いつめてるんだぜ?)

そして……視覚と聴覚を融合させる。その道に、本気で進もうとされている。硬派に。わたしのアート魂をキックするくらいに。

 

●視覚と音響の融合

 

ぱっと思いつくのはコーネリアスであったり、ROVOです。わたしの場合。

 

)
.Gum .Cornelius - YouTube

 

)
CORNELIUS - OPENING - BREEZIN' (ULTIMATE SENSUOUS SYNCHRONIZED SHOW) 2 - YouTube

)
ROVO YAON 08 DVD Trailer - YouTube

)
[LIVE] ROVO 「PYRAMID」 後半五分の神懸り的演奏 - YouTube

 

「見る」ことと「聞く」こと、それがひとつの「体感」「体験」することにオーガナイズされること。

それは現代において突如として現れたわけではなく……その大伽藍は、やはりワーグナーの楽劇ですね。

)
ワーグナー〈リング・チクルス〉ラインの黄金 予告編 - YouTube

 

それは、前述したように、「体験」としてのアートです。

そこには、メロディーというものは、必ずしも絶対条件ではありません。むしろ音響……「音の幕」でもって表現する、というのも、ぜんぜんアリ……というか、ひとつ決まったときは、それはもう、すごいです。

なにしろ、それは「世界のただなかにいる」と、同じなのですから。

そう……現代アート、とくにKANATA氏が行おうとしておられるのは、世界の現出。そして体感。だからこそ、あの音響には(とくに「loop」と「Circuit」)には、「うん、これだ!」という世界観があります。

だからこそ、わたしの片手落ちの批評が、悔やまれるのですが(笑) いつか機会があったら、ぜひKANATA氏の「統合アート」を見て/聞いてみたいですね!

 

現代アートにおいて、意味は、自分で見つけ出すものなんです。どこか、それは同人ゴシック系の「謎とき」にも似ています(だからKANATAさん、サンホラとかKrik/Krakとか御好きなのかしら)

 

体感すること、意味を(自分で)見い出すこと、そしてそれを自分の生活に活かすこと……もっといえば、自分の世界観そのものを、アートでもってぶっ壊してみること(笑) マゾい感覚かもしれませんが、アート見るからには、それが醍醐味でしょう!

 

というわけで、残響は、KANATA氏のアート活動を、贔屓目抜きで、期待しているのです。