残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

闇の色は脂肪の白さ --仕事に忙殺される日常、スマホ電子書籍依存、生活メンテナンス

なにせ一日が、速い。

家業の仕事をしている。朝起きて、家の中の工場で仕事をする。そして気が付けば、午後15時になろうとしている。まだやる事はある。だから、自分のこと(趣味活動)は出来ない。
少し休んで、それから家事をする。18時になって、自分含めて家族4人分の夕食を作る。家族4人分+来客分の夕食の片づけ(食器洗い)をする。

20時からは自由時間だという。でも、もし可能ならば、少し遠くにある別の仕事場に行って、仕事のための練習(修行)をした方がいい。実際、そうするときもある。
でも、疲れた。
自室に戻る。ひどく汚く、臭い部屋だ。部屋に放置してある、昨日の夜食の皿から漂っている。見なかったことにする。
冷え切っている。暖房をつける。部屋が暖まるまで、じっとしている。足が凍えているので、靴下を脱ぎ、両手で揉む。やや血行が良くなる。唐突に、そういえばこの世には性欲というものがあったな、と思い出す。そして夜の暗みを感じる。

こうやって夜の静かのなかで、腰を落ち着ける。だいたい、無意識的にスマホスマートフォン)を手にとっている。画面の中では、電子書籍か、インターネットブラウザがある。

電子書籍は、amazonKindle、楽天Kobo、BookWalker、DLSite電子書籍、DMM電子書籍メロンブックス同人電子書籍、COMIC FUZ(芳文社電子書籍)、それからいくつかのpdfファイルを使っている。noteのアプリも入れていいだろうか。その時々でポイントが溜まっているサービスに、若干の色を付ける感じで課金して、電子書籍を読む。KindleはUnlimitedサービスに課金登録している。

これだけ電子書籍のアプリを入れて、課金している額が、一般的と比べて、多いか少ないかは知らない。だが、確実に「活字依存」をしている。読書人界隈で言う「活字中毒」というのとは、自分の場合、ニュアンスが違うように思えてならない。自分の「活字依存」には、より、ネガティヴな意味合いがある。ついスマホをを手に取って、文字を眺めて、ほっと自らを慰撫している。そういえばこの世には性欲というものがあったな、と思い出す。電子書籍活字依存、実に性欲と似ている。

そして電子書籍やネット記事を読んでいれば、もう21時30分を過ぎている。「22時まではまだ30分ある!」と反射的に思うが、20時からの貴重な自由時間を、すでに1時間30分以上も棒に振っている事実の重みを感じ取れ。噛み締めろ。そう電子書籍にも書いてあった。神妙な面持ちの意識になって、ふと気が付くと腰がピリピリと痛い。


腰痛だ。ヘルニアではないが、一カ月前にぎっくり腰をやらかしている。そうでなくても、毎年冬は、腰痛が酷くなるのだ。毎日の肉体労働、しかし運動不足。自室の床にあぐらを組んで姿勢悪く座り電子書籍、そして潰れた煎餅布団での就寝。枕は合っていない。
今年の腰痛は特にひどい。去年ほどの寒さでない暖冬だ。だが一応の冬の寒さは、体を冷やす。というより、脂肪を冷やす。そういえばここしばらく、大便の排泄の後の尻拭いの時、うまく体が可動していないように感じる。今思えば、それはサインだったはずだ。こうやって自分はいろんなサインを見逃している。大便をひり出すとき、スマホ電子書籍を読んでいる。「学び」とか「気づき」とかだからどうしたというのだ、と叫びたい。むしろ排泄した大便、洋式便器の中の水に落ちた大便。その情報を分析せよ

こうやって、毎日、時間を無駄にしている。長い目でみて、健康もムダにしている。
気付けば、一日、何も「創れて」いないことに気が付く。毎日、「創りたい」と思っている。今日こそ模型ジオラマを、今日こそ作曲(最低でもコード進行とリズムトラックだけでも)、今日こそホームページを、今日こそ同人誌を……。そんな夢に縋って、この1,2カ月、同じ日々を過ごしている。

↓(ホームページ)

www.redselrla.com

Twitterをやめて時間がとれたはずなのに、ホームページの作成ひとつ成し遂げられていない。結局、twitterをやめて得られた時間は、すべて「息抜き休憩(スマホ電子書籍&ネット)」と「生活メンテナンス」に費やされている。

生活メンテナンス。自分のなかで最近芽生えた思想だ。よく「丁寧な暮らし」と、ネット民から揶揄される言葉ではあるが、ようは「衣服をきちんと畳んだり、汚れを落とす」「食事調理の前に、事前に素材を切っておく(効率化)」とか、「風呂場や洗面台といった水回りの衛生レベルを上げる」という、「日常生活」のクオリティを上げる、というのが「生活メンテナンス」と自分が呼んでいるものだ。
これはあくまで「趣味」としてやっている。日常生活のクオリティを上げることが市民として大人としての成熟にして義務! という考えから距離を置いている。「所詮、●●よ…」というニュアンスだ。靴を磨かなくたって死にゃしない。まったくそうだと自分は思う。所詮靴磨き程度よ。

ただ、たまたま自分は「物(モノ、人工物)」が好きなので(愛)、メンテナンスをしているだけである。メンテナンスをすれば、その「物」の現在の情報を、より一層把握することが出来る。情報を把握出来るということは、その「物」の状態の良し悪しが分かり、仮に悪い部分があったとして、その都度修正していけば、「物」の致命的な破壊(カタストロフ的自滅)を、だいぶ先まで伸ばすことが出来る、という道理である。

だが、それにしたって所詮、メンテナンスである。そこまでしてメンテナンスをする道理もあるか、と反論されれば、そっと顔を伏せ「うーん」という苦笑をするしかない。潔く捨てて、潔く新品を買う。それが効率である、それが経済である、と論を言われたら、論破出来ようはずもない。
趣味でメンテナンスをしているにすぎない。だから皆もメンテナンスすべきだ!と言えるはずもないし、言いたいとも思わない。

伝えたいことはない。自分は思っていたよりも、「他人に物事を説明して、その人に納得してもらいたい」という気持ちが、相当薄いということに、気が付いた。「他人は変わらない」という確信ばかりが、自分の中で濃縮されていく。「論破」など、どこの話だろう。


他人を変える、というのは、自分の意志だけではどうしようもない行為だ。「他人を変える」とは、むしろ、他人と自分との共同プロジェクトだ、と認識したほうが、ずっと事実に即していると思う。だから、その人の状況・状態をよく観察して、その人のタイミングを見計らって、上手にプレゼンを行う必要がある。もしくは暴力の香りめいた圧を少しずつかける必要がある。
あるいは、その人から、すっと離れることを選ぶか。実は、9割の場合において、自分は「離れる」を選ぶ人間だ。

電子書籍やネットをスマホで読むのは、「自分のメンテナンスそのもの」では、ない。あくまで指針と情報を得るだけであって、本当に自分を救いたかったら、行動に移さねばならない。「わかった」とか「学び」とか「気づき」なんて言っているだけではダメなのだ。言葉は、ことばに過ぎない。大切なのはことばが「現実になる」ことであり、それが「自分のメンテナンスそのもの」なのだ。具体的には、大便をひねった後で尻拭きを行う際に、脂肪や腰痛で体が動きにくくなっているのが無くなったら、その時「自分のメンテナンス」は為されたということなのだ。

自分の心にはすぐに、鬱が忍び寄る。その闇の色は白い。多分、脂肪の色なんだろう。それなら納得できる。

生活メンテナンスは、各々の生活や、心の個性によってやり方が異なる。自分の場合常に濡れ雑巾を持ち歩くことが、自分に合っていた。
また、スポーツ雑誌(「ターザン」の780号)を読んで、ストレッチを行っている。筋トレの領域(負荷をかけたトレーニング)にまではまだ達していない。頭をつかって、自らの状態を把握し、今の自分に適合したストレッチをこまめにする事だ。重要なのは「腰痛を治す」のが目的なのだから。そこを見誤ってはいけないよ。自分の体、そして心も、物をメンテナンスするように、治すことだ。そのやりかたが自分には合っている。だから他人のことも、そういう意味で「物扱い」していきたいと思うのだが、それはどうなのだろうか。