前回のお気に入り音源記事
最近わたしの音の暮らしはこう 〜2023秋に向けて〜 - 残響の足りない部屋
前々回
最近わたしの音の暮らしはこう 0824夏 - 残響の足りない部屋
●近況(病状)
寒いですね。冷え込み厳しくなってきて、先日風邪をひきました。
年の瀬・師走で仕事に穴を空けられないなぁ、新作漫画も描きたいしなぁ、と、このタイミングでの風邪はまずい! なので頑張って早めに治しました。
ところが風邪が治ったら今度は腰痛が差し込んできました。常時ピリピリ痛。一番ひどい時は、足元に置いた小さいゴミ箱をひょいと持ち上げる時「グワァッ」と重い痛みがきますから。これもマズい。
そういうわけで現在は腰痛の自己治療です。なるべく休養に徹したおかげで、なんとか腰は治りつつあります。屈伸などの静的ストレッチが効いています。こうした「攻め」の自己治療が出来ることがうれしいですね。
さぁて、そんな風に腰を治しつつあった矢先に、これを書いている本日の日中は仕事用のPCがヤバめの状態にッ!何とか仕事伝票を出したはいいものの、仕事メールの復旧がッ!どうする?こうする? そんな時の一曲はこちらッ!
よわいさかな「はたらきたくない!」
ピコピコできゅーとなサウンド、かわいいヴォーカルは音楽的同位体「可不」(バーチャルシンガー「花譜」の声の歌唱ソフト)、歌詞は社会の闇、倦怠感、疲労感です。
前にご紹介したもちうつね氏の曲もですが、私この1年結構こういうサウンド聞きましたね。毒や虚無の世界観の上で(あるいは内包して)いわゆる「Kawaii」系のほわほわピコピコ疾走サウンドを展開する曲。年が明けたら今年も恒例の「2023年に良く聞いていた音楽」をやります。
●最近わたしの音の暮らしはこう 2023年冬
アメリカ民謡研究会「戻れ戻れもどれもどれも。」
その年間記事でも書くつもりですが、今年の年間ベスト曲はこれかなぁ、と。まだ今年2023年に出る曲はありますが(更新されたらそれはそれで最高)。
全天球の虚空に響いていくシンセサイザーのリフ&メロディの荘厳さ。見果てぬ夢か。あるいはもう戻らない切望の悲しみか。
リズムは一定に軽快に進み、合成音声にしか出来ないおどけた喋りが、どうしようもなく「手の届かなさ」や「戻らなさ」といった諦念(あきらめ)を感じさせます。
それでも、それでも…!ともがくように何かを希求する姿。そういう虚空の荘厳さにやられました。
アメリカ民謡研究会の曲の中でもメロディアスな一曲ですが、単なる「キャッチー寄り」なわけではないです。むしろアメリカ民謡研究会・Haniwa氏の新境地と言ってもいいとすら思います。それはかつてのスタイルをさらに練りこんだ先の進化系として。
↑ 過去(2020年)に書いた記事
和ぬか「絶頂賛歌」
いや~、令和に入ってからの昭和レトロ再評価とか、シティポップ再評価。そんな風に昭和~平成初期の歌謡ポップスを完全に咀嚼しての「令和の歌謡ポップス」を、こうして力強く自信を持ってドンとお出しされたら。
とにかくキャッチーです。調子こいた夏のせっくすソングと言う側面ももちろんあるんですが、それよりもナイーヴな歌唱、キャッチーなフレーズ、盛りの夏の妖しさ、歌謡性、それらを高度なラテン味アレンジメントでビシっとまとめてくれると「良しッ!」となります。これが令和のポップスです。
令和のポップス(ポップ・ミュージック)は本当凄い。基本路線としてレトロ再解釈とか、ニューウェイヴ歌謡曲とかっていう方向なんでしょうが、何せシーンのレベルが高い。それでいてコアなロックやテクノも元気だというのだから。メジャーとアングラ(って今も言うのかなぁ)、新人とベテランが、それぞれ相互に健全に影響しあっているように見えます。それは良いことだと思います。洋楽コンプレックスも、かつてほどには無くなってきていると思う。そしてそれで良いと思う。
そりゃ、「またレトロでエモい路線?」っていう風に感じる方の気持ちも、ちょっとわかるんですが。しかし私の立場としては、「レトロでエモい路線」は嫌いじゃなく、そして現在のようにレベルが高いので、特に文句がない、です。我ながら安穏とした立場やのぅ、とは思いますが。これもLo-fiの美学にハマっちまった残響さんだからなぁ。
100s「世界のフラワーロード」
なんか最近、このアルバムをよく聞き返してるんですよ。Lo-fiの流れというよりは…多分それはないわけではないけど、Lo-fi直系じゃない。
2009年に発売された時ももちろん買って聞いてるんですが、その時ハマりきれなかったんです。凄いってことはわかるんですが、その時の自分とちょっと距離があった。自分のリアリティと…いや、自分の人生と、かな。距離があったのは。
中村一義が見ているのが、「幼少期の自分(が育った原風景)」というのは2009年当時からわかっていました。。しかし私(残響)自身は、その当時、まだ自身の「幼少期の自分」に向き合いきれていなかったのです。当時は当時で余裕がなかった。持病とか大学院中退とか。その日を生きるだけで精一杯でした。幼少期の事がとても大切なんだとわかっていたにも関わらず、向き合えるだけの余裕がない。
なんだかんだ私が実際に「幼少期に育った町」へ再訪できたのが、それから5年経ってのことでした。それまで日々ドタバタで、また持病を治すのも時間がかかりました。でも、なんとか再訪が出来て、世話になった人とも再会できて。そこから、「幼少期の自分」を、ある程度自分の中で位置づけられるようになってきたのです。
そんな風にして、ようやっと私は自分の幼少期と向かい合い、ある程度相対化し、冷静に見れるとこは見て、その上で過去を慈しめるようになりました。この過程を踏まなければ、アルバム「世界のフラワーロード」は、私の中でちゃんと位置を占めることが出来なかった。それくらいこのアルバムは自分の中で「判断保留」にしていたアルバムでした。
今なら、中村一義がこのアルバム全体で言いたかったことが何なのか、っていうのがわかるような気がする。というか、私も自分の原風景なるものを、ちゃんと見れるようになったからこそ、中村一義の原風景も「なるほど」とか「そうだね」って感じで見れるようになったと思うのです。
確かこのCDのジャケットの帯に、「あなたの中で生き続けるアルバムでありますように。」と書かれていました。本当にそうなっていたアルバムなんだなぁ、と深く思います。
●SF小説その後
SF小説ですが、「赤いオーロラの街で」を楽しく読みました。そして伊藤計劃「ハーモニー」を買いました。サミュエル・ディレイニーの「ノヴァ」もKindle洋書で(安かった)。
また、前の記事でご紹介したfeeさんのブログ「止まり木に羽根を休めて」にて、とても有難いお勧め記事を書いて頂けました。現在、この記事に従って少しずつSFを読んでいっています。改めましてありがとうございます。
次回あたり、そろそろ現在のSF読書状況をちょっと書こうかな?と考えています。