残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

勝負師の星座観測

勝負師の思考に、以前から興味があります。

彼らが勝負にかける意気込み。一回の勝ちだけではなく、「勝ち続ける」ための持続法。大局観。拙速に走らず、己をセーブする方法。そして何より、彼らが見出した「勝ち・負け」の定義そのもの。

自分が良く読んでいるのは、梅原大吾ウメハラ)氏の本です。あるいは羽生善治氏の本やときど氏の本、スポーツ選手の自伝やインタビュー雑誌なども。というより、自分は作家のインタビュー本や自伝本、「作者、自作を語る」系の本をよく読むのですが、これもまた「勝負師」本の一環かもしれません。それから、ガンダムビルドファイターズが好きです(唐突)

その一方で、彼らが実際に行っている勝負ゲームそのもの(格闘ゲーム、将棋etc)には、さほど興味がありません。なぜかというと、自分はそもそも「勝負」というゲーム形式が「not for me」と思っているからです。例えば、自分がスポーツなり対戦ビデオゲームをして、だいたい負けますが、何とも思わない。しかしまぐれで勝っても、何とも思わない。というより、負けても勝っても「落ち着かない」。自分は、自分の世界(内的宇宙、こころの箱庭)の構築にしか興味がない、という傾向があるのです。なので、他人の勝負事にも興味がない。

これは自分の弱点だと、素直に思っています。勝負事に対するセンス、闘争心・競争心が「なさすぎる」。

でも、勝負師の思考に興味がある。「限界に挑む」っていうシチュエーションであったり、「バトルフィールドで交わされる選手同士の超越したコミュニケーション」などという、特殊状況での心理が面白い。そして日々戦い続ける勝負師という人生の形に、興味があるのです。

さて、まるまるさんのついったータイムラインのRTで拝見したこのはてな匿名ダイアリーの記事

anond.hatelabo.jp

例によって自分は将棋のルールについて詳しくはありません。将棋史に詳しくないのも当然です。ただ、勝負師の思考に興味がある。

自分のこの「思考」のみに興味がある、というスタンスは、勝負ゲームの見方として、邪道も良いとこだと思っています。勝負師の「思考」の本質は、その対戦試合(ゲーム)そのものにあるのだから、ちゃんと試合を見なさいよ!という指摘もごもっとも。一番良い上澄みだけを拾って味わってる、という指摘も成り立つ。ただ、それはとりあえず置くとして。

藤井新棋聖が勝利し、渡辺二冠が敗れた。事の次第はそういうことです。世間の盛り上がりもそういうことです。そして、将棋を、棋士を本当に愛しているファン層からは、もっと、とんでもなくたくさんのものが見えていた、ということに、いまさらながら思うのです。

将棋新世代が、例えばIT(コンピュータ、人工知能)を駆使した練習&研究を積んでいたり、さらには「IT世代の打ち筋も踏まえた将棋研究」「その上でアナログ的な従来の将棋のスタミナ持続力、大局観」が当たり前に研究されているのが、今の将棋だ、というのは、羽生氏の本であったり、あるいは鍋倉夫「リボーンの棋士」で言及されていたところでした。しかし自分が嫌になるなぁ、こういう些末な知識しか持っていなく、本場の盤上の世界を知らない、というのは。まぁ、上記のようにそこは置くとして。

自分は、このはてな匿名ダイアリーの記事の筆者さんにこそ、感動してしまったんですね。この筆者さんは、渡辺氏が「負けた」からこの記事を書いているんじゃなくて、渡辺明という棋士の生きざまに惚れたファンだから、この記事を書いている。渡辺氏がこれまで行ってきた打ち筋と、研究精神。そして勝負師として、勝負の流れと世間の流れに「なにくそ」と踏みとどまる足腰の強さと意気、意地に。

筆者さんは、将棋を本当に愛している。そして渡辺氏を愛している。将棋というゲームに魅せられている。将棋がこれまで作り出してきた名勝負や凡勝負の数々を記憶し、それを味わっている。その上で将棋という文化を愛している。というかこれが、ある文化を「愛する」ということなんだろうな、と思う。

筆者さんには、この将棋というバトルフィールドの本物の世界が、見えている。

 

藤井新棋聖の旋風が、将棋界に対する世間の注目を上げている。藤井氏が歩む道が王道になるのだ、みたいなムード。藤井の勝利を見ていれば将棋はわかるのだ、みたいなムード。そこまで勝ってなお、兜の緒を締めようと謙虚たる藤井氏はやはり才覚の深み、と思う。もちろんそこで浮かれるのでは、そこまでの才覚、という厳しさもあるとして。

しかし自分は、渡辺氏の敗北、渡辺氏もやはりすごかったのだ、みたいなことを書きたいのではない。

自分には見えない世界がやはりある、ということをここで書きたい。それは皮肉でも、卑屈でもなく、「やはりあったのだ……!」という喜びでもって書きたい。

はてな匿名ダイアリーの筆者さんが、ここまで見ることのできる世界(将棋)というのが、この世に確かにある。そして、そういうのは無数にこの世にあるのだろう、と思う。いや、あるのだ。間違いない。それはたまたま世間の耳目を引いていないだけで、「どこまでも味わい分けることの出来る世界」は、この世にいっぱいある。

将棋という世界は、今回のタイトル戦で、さらに耳目を引くだろう。「裾野が広がった」ということ。その「裾野」が広がって、いろんな少年少女が、勝負師の世界に入ろうとする。いろんな道がある。いろんな人生がある。英雄譚があり、量産型の物語がある。いぶし銀の職人技の世界があり、敗者の世界がある。

まるで星座のように。

おそらく、その星座の煌めきや、無名の星、あるいはダークマターの暗黒を、しかと見据えて、ずっと見ていくんだ、と愛し続ける、ゲーム上の天体観測。おれは見ているぞ、きみらの勝負の行方を見ているぞ、考え、考え、記憶し続けていくぞ、というゲームの天文学。カッと火花散った光年の煌めきを愛し、やがて那由他に消えようともその流星の切なさを愛する。勝負師も、ファンも、彼らは今まさに、そこにつくる。勝負文化がある。

それに比べれば、たかが勝った負けたでわいわい騒いで、あいつはもうダメだ式の評論をすることなど、天文学的に小さい話であります。

自分にしたって、渡辺氏の将棋世界を、こうしてはてな匿名ダイアリーの筆者の方に説明してもらわないと、ついぞわからなかった者です。小ささはさほど変わりゃしません。

 

それと同時に、この記事。筆者の方はこれまでいろいろな棋戦を見てきたのにも関わらず、「今回の試合のようなものは、これから見ることが出来るのだろうか」という驚愕でもって、試合を見ていらっしゃいます。

その、将棋ファンとしての「新鮮」な瞳、というのも、こちらが瞠目してしまいます。つい、過去の歴史と比較してあーだこーだと言いがちなのがマニアです。でも、筆者さんは、「今ここで伝説が生まれようとしているんだ!」というものをしかと見据えている。

 

わたしも、何かを愛したいものだ、と思う。この筆者さんのように、愛と屈託と、ファンとしてのたゆまぬ持続力と、新鮮な瞳を持ち続けたいと思う。やっぱり勝負試合(ゲーム)そのものには興味を示すことの出来ない(not for me)な自分だけれど、せめて自分の愛している分野では、地道に愛し続けようと思ったのが、この記事の感想でありました。

 

※似たことを前にも書いております

ビルドファイターズとオリンピック(1) - 残響の足りない部屋

日記(2020/07/12 日曜)

にっきです。

・このところ(1,2日)で作ったもの

http://redselrla.com/bookshop/bookshop.html

↑ いわゆるSS(ショートストーリー、サイドストーリー)です。HTML静的個人サイトです。自分の創作箱庭の一部です。「ほうき星町」シリーズ、っていうシリーズものです。ドット絵を打ちました。

・メインイベント

●SD改造フィギャー「金床さん」

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かなどこさん(店舗ディスプレイ)

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かなどこさん(自室ディスプレイ)

メインイベントです。これを作ったのは先々月あたりのことなんですけど、

 蝸牛くも氏のラノベ/アニメの「ゴブリンスレイヤー」のキャラクター・妖精弓手を、SD化したフィギャーを作りました。

※現在、ホビーゾーン出雲店さんから、作品を引き取ってきましたので、展示はされていないです。ホビーゾーン出雲店さんでは、次のコンテストが控えてらっしゃるので。

コトブキヤのキューポッシュ・FAガール「スティレット」(すち子)

キューポッシュ FAガール スティレット | フィギュア | KOTOBUKIYA

を素体にしています。パテで髪をエルフな感じに改造したり、ファンタジィに服装をコーデしたり、アーチャー(弓手)っぽく武器をつけたりしました。脇に黒曜石のダガーをつけてるのですが、ほとんど見えないぜヒャホーィ!(涙)

きゅぽすち子は縞パン(しましまパンツ)なのですが、これをゴブスレ作中の通りにキュロットスカート(茶色)にしました。つまり、縞パンのおしり造形を削りました。

「金床(かなどこ)」さん、というタイトルですが、これは妖精弓手の本編中での(主に鉱人導師からの)あだ名です。読めばわかる。どこがぺったん(金床)なのかが。

本当にこれを作っているときは楽しく、コロナ禍のなかでも充実した日々でした。

●キャンプいきたい

梅雨ですからね。蟲のこともありますし。蟲、という字を使っているのでお察しください。秋までには一回くらい行ってもいいんじゃないか、とは思うのですが。

 

●目標を見失いがちであるのは自覚している

SD「金床さん」作成以降、新たな目標を見失い、自分がどんどん腐っていっていますね。これはまずい。自分の人格に、周囲からわかるくらいの腐臭が漂っている自覚があります。ごめんなさい。どうにかしないといけないですね。

●BOOTHの自作CDや委託CDの販売のこと

ページ作成が遅れています。腐臭です。

●がんばる

いや、むしろ、部屋を片付け、目標を作り。そしてそれに向け、スモールステップで毎日こなせるタスクを設定し、手をこつこつ動かすに尽きるのであります。なんだわかってるじゃないですか。さあ次はなにを作ろうか。どこにヒントはあるのか。

●日記を読もう

いや自分が毎日つけてる物理ノートや、ローカル環境でのメモファイルのことなんですけどね。なんだわかってるじゃないですか。

 

思いのほかホムペ更新が進まない

アナログホームページ

8TR戦線行進曲のホームページ

 

(掲題)
はい。
はいじゃないが。
まあ、そもそも更新ネタが今のところはない、っていう話です。
いや、「ちゃんと纏めておくべき事柄」は、山ほど控えていますが。じゃあやること山ほどあるんじゃないですか。

 

それから、Boothで自分のサークルや、委託をしていただいているサークル・バンドの物理CDの販売ページも、現在構築中真っ最中で。

8TRレコード産直小売 - BOOTH

 

わりと、てんてこまい、というかプチ混乱中です。
軸が、創作・趣味活動の軸がブレている。人としての軸がぶれているように。

・もうオタクじゃない


自分がもうオタクじゃないなー、と思ったのが、「次々に物語を摂取できない」自分の性質に気づいてしまったときでして。
自分の中に物語を「設置」したら、あとはかなり自由に頭の中で動かせるのです。しかし、そうするまでに物語を摂取するのに、ハードルがすごい高い。
次々に物語を飲み込んでいけない。物語を読むスピードが遅い。そもそも、自分のリズムとセンスに合わない物語を読むのがすごい苦しい。
「いろいろな物語を摂取して、それらについて考える」のがオタクだとしたら、もう今の自分は「マニアックな作品をいくつか嗜んでいるただの人」っていうあたりではございませんでしょうか。

自分はもうオタクとは呼べないのか。
そうかー、って感じです。
何かを手放した、っていう感じも……ないわけではないです。

ただ、無理して作品に触れる、っていうのは、作品と作者に対して非常に失礼だ、とは、やはり思います。

(2020年の個人思想)世界の終末妄想、自然世界、ヒトの群れ社会、キャンプ

自分はオカルティック陰謀論な社会観には組したくないなー、と常々考えておりました(おれたちボンクラインテリのための雑誌「ムー」的なアレを参照)
が、オカルティック陰謀論のトピックの中で、ひとつ「世界の終末」妄想形式については、思考実験として考える価値があるな、とも考えておりました。

起こる現象の確率の妥当性について、正確に試算しようと考えているわけではないです。むしろ妄想世界観のおはなし。
「地球の地軸がポールシフトして氷河期突入!」とか、「隕石がドカンと爆弾飛来して氷河期突入」とか、「太陽がちょっとセルフ悪さをして、日光の量が減って氷河期突入!」とか。氷河期好きね。いや好きじゃない。

まぁそのあたりの大雑把な終末を軽く想定して。
そんな(主に氷河期)大変困った災害が起きて、次に起こるのは隣国がリソース(食糧とか)を求めて攻めてくるなー、とか。やはり世紀末暴力か、とか。
いやいや、隣町、隣の県ですら、困った災害になったらどうなるのか、とか。
そんな大雑把な終末世界をぼんやり考えて……

逆に、「では自分ひとりは、どうしようか?」とたくましく考えるようになったのです。
そこで自分はあっさりと、「そしたら、これ以上社会に頑張ってしがみつく必要もないな」と思ってしまいました。
例えれば、ノアのソーシャル箱舟に入れてもらう権利を、声高に社会に対して立てなくてもいいや、と。

で、去年からキャンプをしています。

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私物のテント写真

自分がキャンプをするようになったのは、漫画・アニメ「ゆるキャン△」の影響は甚だしく大きいですが。

アニメ「ゆるキャン△」ポータルサイト


けいおん!」でギターを始めたわけでもない自分ですが、キャンプを始めたのは明らかにゆるキャンです。言い逃れできない。
しかし、根本的な精神というか。
「最後に頼れるのは、自分がこの物理自然世界でいかに生き延びていくかのスキルと力ですな」
という、生物が生きる基本のキを改めて意識するようになったわけです。
ゆえにキャンプをし、サバイバルスキルを磨き、物理自然における対応力をめきめき磨いていっているわけです。キャンプのキは基本のキです。
だがこれは気狂いのキか? この社会ではそう認識されるような思想かもしれない。

しかし、単純な理屈・論理としての話です。何か世界に前代未聞のオカシなことがあったら、その上で生きていこうと思ったら、まず自分で自分の知ってる範囲の限界まで考えて、生存するために頑張って行動する事が最低限必須です。
基本、誰も助けてくれない、って考えたほうが、より安全側(工業用語)です。
ぼーっとしていて、どっかの誰かが助けてくれる、っていうのよりは、より思想として安全側だと思うのです。
まあ、巨大システムが、効率の名のもとに、自分を大雑把に回収するかのような形で救済するっていう線もないではないですが、
「その巨大システムって何よ?」とまず怖くなるところもあります。(システム「AI」かシステム「世間」か、って話ですね)

  • 世界」……Nature。自然世界。人間も含めた、あらゆる植物と動物と、有機物と無機物と、地球と宇宙。物理存在世界
  • 社会」……Social。ヒトとヒトのノード(間柄)が作り出す「群れ」ネットワークの総合

このように定義します。
つまり自分は、「世界(自然)」の中に在ることは間違いなくて、やっぱり死ぬまで「世界(自然)」の中に在るんでしょう。それが物理存在の存在ルールです。
ただ、「社会(ヒトの群れ)」との関わりについてなんですが、さてこれをどう活用していこうか、っていう話が、かなり大きいです。
自分のなかで、いつしか内面化さしてしまった社会、というか。

 

自分は何を考えて、生きていこうとしているのか。(いつしか去勢されてしまった)

 

だいたい、「社会」の論理構成要素を物理的に考えたら、「ヒトの群れ」を最低構成要素にしているんですね。
社会の本質が何ぞや、と考えたとき、「人間の思考が社会」とするより前に(この考えが一般的に強力であるのも知ってる)、
「ヒトの群れ内での、思考や言葉を使った、サル的毛づくろい」とかの文化人類学アプローチをまず押さえておいた方が、より本質として安全側だと思う。

社会がシステムである以上、ある程度の危険性・暴力性ははらんでおります。ワンピースのスモーカー大佐も、「人間が徒党を組む以上、この世に完璧な組織なんざネェ」と言っております。

「人間として生まれた以上、どうしても社会の中で生きていかねばならない」っていう話は、なかなかに妥当性を持ってはいます。
が、「社会から得られるメリット/デメリット」をきちんと腑分けする必要もあると思うのです。
それは、影のフィクサーによるアヤツリ社会の本質を暴くのだッ!という陰謀論でなく(やっぱり陰謀論に組しません)、
「自分は社会のメリットのうち、何を得たいか」
「自分は社会のデメリットのうち、何を必死こいて拒否りたいか」
というあたりの腑分けですね。どこまでが我慢できて、どこまでが我慢毛頭ならんのか。

その答えがキャンプにあるように思えてなりません。あくまで自分は、ね。
どこまでも「自分」ベースなのです。
しかしそれは自分の欲をどこまでも叶えたがるデザイアドライブであることを意味しているようで、実は案外そうでもないのです。
むしろ、自分の「分際(BUNZAI)」を知りたい、という話です。すげぇ落差。
自分が世界において、どの程度の大きさ・小ささ(スケールサイズ)であるか。
何が出来て何ができないのか。そして、何に喜びを見出し、何に耐えがたい苦痛を感じるのか。
そしてヒトの群れ(社会)において苦痛を感じるとしたら、そのうちの「何」に対してなのか。
それさえ回避できれば、むしろ自分は社会において多少は手助けしてやってもいい、
そう思える自分もいました。
また、この人間社会では3K(キツい、汚い、臭い)と言われている仕事でも、ものによっては自分はそうは思わない、ってものが結構ありました。
むしろ逆にそれで多少稼げるなら、3Kを部分的に肩代わり仕事してやってもいいな、と思える自分もいまして。実際、今、仕事の一部でそんなことをやっています。
そのせいで精神が狂うんんじゃないか?と考えましたが、しかし、どう考えても、社会の中で狂う確率のほうが、明らかに高いんですね、自分は。

 

やっぱり、あんまり社会の中で孤独であっても、「寂しい」と感じない人間なんですよ。自分は。
むしろ、人と話しているときに、強烈に寂しさを感じるときがあります。

 

ずーっとひとりでいて、全然退屈しないのです。キャンプは毎回ソロキャンプです。
そして、明らかに人格がやさしくなれているのです。
で、たまーーーに人の里に下りていって、そのやさしさ貯金を使うのです。そんなイメージです。

社会に適応しようとして磨り減る30数年でしたが、ここのところで「世界を理詰めで考えて対処していく」って方にシフトしました。で、キャンプであります。

次回以降もこの話は続きますが、たぶん「考現学」の話になるかもです。あるいはpanpanya漫画の世界というか。あ、それと、コロナウイルスについては、意地で書かないようにしています。これからも書くもんか。

 

熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』一読目の感想

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

「うわキッつ、うわぁ、重きっつい」

サクサク読めません。身近なトピックばかりが並ぶのに、物理書籍のページを2,3枚たぐって「ホフ」とため息。そして自分の人生を思って、胸元あたりの臓腑がぢんわり重くなり、そこでページをたぐる手が止まってしまうのです。令和2年、本年度トップクラスのヘヴィメタルならぬヘヴィブックであります。むしろ感覚としてはヘヴィ以上にドゥーム。

著者の熊代氏は、精神科医として、現代人の「困った」心理や、オタク/サブカルから見える社会の諸相を描く著書を何冊も出していらっしゃいます。同時にブログ「シロクマの屑籠」で、現代人心理や現代社会のスケッチを何度も描きながら、考察を深めていて、その成果が著作です。

にしても、今回の新刊、今までの本(この文章の筆者は、熊代氏の著作をこれまで時系列順に全部読んでいます)よりも、「重い」のです。
その理由としては、

  1. 本の内容が、清潔すぎて秩序立てられすぎている現代社会が、いかに不自由かについて、実例を次々に出してくる
  2. そしてその「不自由さ」が現代に存在しちまっている、その前提や論理を、きちんと丁寧に分析して論述されている。そのため読者が思う「でもこーしたらいいんじゃない?」を先回りして、「いや前提を踏まえると、この不自由さにも理由はある。そもそもその「理由」から逃れるために、この不自由さが作られたのだ」とこちらに説明がすぐにスッとお出しされる。
  3. そして(2)の問題点、及び「模索、あがき」があるが故に、現代「不自由」社会に対する解決策をズパっと示すことが出来ない、著者の苦悩の姿が「暫定結論」となっている。社会の不自由さに対する「処方箋」がない。

なんだかひとむかs……いや、三(み)昔まえの純文学のような苦悩っぷりであります。暗夜行路か。なので、ソフトカバー314ページ(内、注釈、約30p!)という、今までの熊代氏の著作で一番厚い書籍のページを、繰る。うわキッツ。そしてまたページを繰る。うわぁ、キッツいわぁ。そんなこんなで、すごくのど越しの悪い本であります。ワインをたとえにするのもアレですが、フルボディ級のパンチ力をBKAM!BKAM!と毎ページ事に喰らって、爽快感が全然ない、っていう。
熊代氏、たびたびこの本が「難産だった」とブログやtwitterでこぼしていましたが、それも当然ですわ。

難産っぷりの話でいえば、上記(1)のところなのですが、この本は次々に現代社会の「実例(トピック)」を出してきます。そのトピックのお出しスピードだけを言えば、むしろ「次々」っていう感じで、テンポは良いのかもしれません。ただそれはヘヴィメタル/ドゥームメタルのフルボディ重みパンチがBKAM!と次々来る、っていう話なんですが。きっついわ。どれも事例が重すぎるねん。そしてそんな重い事例をコンパクトに纏めて、次々どん、どん、どんどこどん、と書いていく熊代氏も疲れただろうな、って思うのです。


また、それは現代社会の諸相の「スケッチ」でもあります。かつてZazen Boys向井秀徳は、「俺の目玉が見る景色」こと「冷凍都市」を、彼自身の語彙とリズム感覚でもって次々に活写していきました。

www.youtube.com


今いうた、「実例(トピック)を次々にお出し」というのが、熊代氏における「現代社会スケッチ(素描)」です。それは熊代氏の「俺の目玉が見た景色」でありました。
駅構内の進行方向管理の矢印(12→、上野・秋葉原方面→、新宿駅↑→↓……)、
喫煙者の隔離小屋、
路上のガードレール、
空き地での市民ののんびり徘徊を赦さない「不審者注意!」……

どれも、都会を知る人には「あるある」ですし、同時に「こんなに管理は、忍び寄っていたのか」という話であります。

今、自分は田舎も田舎に住んでいるのですが、たまに同人即売会や、親戚の家に行くので東京に行くと、どんどん「監視社会の神経症」は進んでいっているな、と感じます。これは都会にずっと住んでいない人間だから、より感じてしまうところであると思います。そして、「昔の関東」をある程度知っていて、そのちょっとした「汚さ」をいまだに覚えているから、比較もできるのです。

例えば、20年くらい前の上野駅の地下道で、道の両脇に、昔はきったねーーーッ小さい溝があったものでした。そこに無数のたばこの吸い殻がポイ捨てされていて、ニコチンや人の唾やもろもろの汚れがドロヘドロとなって、「絶対ここの水を吸いたくない」っていう水が、溝にたまっていました。餓鬼の時分のわたしはそういう景色を見ました。そしてこうも思いました。「なんでもっと清潔にならないんだろう」と。

清潔強迫神経症社会2020

清潔ということでいえば、自分は青春の貴重な時期を、「強迫神経症」で棒に振りました。どういう病か、っていうと、自分の場合は、
「清潔でなければならぬ」
「忘れ物など、愚かなふるまいをしてはならぬ」
「汚濁、愚かさは、罰せられるのだ」
「汚濁、愚かさを罰するのは当たり前なのだ」
「だから自分から、ミスを犯さないようにしなければならない」
「間違ってはいけない」「ミスってはいけない」
「何度も確認しなければならない」
「自分は絶対に間違えるのだから、何度も確認しなければならない」
「愚かであったら阻害されるのだ、汚かったら排除されるのだ」
「何度も確認、何度も清掃」

うひー、今思い出しても疲れます! 家の鍵を閉めたり、水道の蛇口を確認するので、いちいち15分は無駄に確認をしまくっていたあの頃! 
病理が極まり、精神病院に強制入院し、朝の洗顔で「顔を洗い、歯を磨く」という事実すらも認識できなくなって、確認のために1時間くらい顔や歯を洗い続け、顔面血だらけになって看護士に取り押さえられたあの頃!
今思うに、そんな自分がよく、この強迫神経症を治せたなぁ、と。今もアレが続いていたら、狂死してましたね。

ところで、清潔志向、「秩序」志向を進めていくと、いずれ強迫神経的なシステム傾向にたどり着くんだと思います。というか、現状のコロナ禍社会が、ずいぶんそんな感じに自分には見えています。自分のアレな過去が、己にそう見させているのかもしれませんが、まぁ。
しかし、「清潔、秩序」のレベルを上げていくということは、ロジック上、「撤退、後ずさり」が許されない、常に前進を求められるということです。上記の自分の強迫神経症が良い例ですが。つまり、「清潔、秩序、あるいは道徳」っていうものは、「よりよき清潔、よりよき秩序、よりよき道徳」のために、より前進せねばならない。

「まぁまぁ、いいじゃん」みたいな穏当なバランス感覚は「悪」「かつての汚濁に戻りたがる反動勢力」とされるのがオチです。「撤退、後ずさり」が赦されないのです。さあ、これのどこに「寛容」というゆるやかな精神が存在するでしょうか?

つまり、「秩序」というシステム化は、このような硬直化……「より良き」を義務化する、「前進方向性の固定化」を求めます。前進、それ以外を許さない。自分は以前より、システムを巡るおはなしや、「システム化、官僚化」していくラディカルな人たちを巡るお話で、しばしば言われる「硬直化(の進行)」は、このあたりにもあるのではないか、と常々思っていました。というか、コロナ禍の今、いや増してそう思います。

一度、そのようにレベルを上げてしまったら、なかなかレベルを下げることは出来ません。下げたら、それは負けであり、「あの汚濁なやつら」に自分が仲間入りしてしまう、って話です。上野駅のきったねぇタバコ汚水のような人間になってしまう、っていう。
これでは、先鋭化していく「清潔、秩序、システム」を、寛容でもって「和らげる」ことが、どれだけ無理筋の無理ゲーなのか、と思わされます。

念のカタマリ

熊代氏の本書「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」……このタイトルからして、その文字面、響きに「余裕」なんてものがありゃしないじゃないですか。だからキッツいなー、と。そして本書が描く「重さ」、「不自由さ」。でもその不自由さの前提たる「清潔、秩序、システム」っていうのは、自分たちがそもそも求めてきたものでありまして。ようは「楽になりたい」っていう。喧嘩や汚濁や、そういった野蛮から逃れたかった。弱い人でも、安全に暮らしたかった。そのためのシステムを作ってきた。ところが、「システム化」は、このように「硬直化、先鋭化(ラディカル)」への方向性を、そもそも内包していた。

この本が描いているのは、その実例(トピック)です。熊代氏の目玉には、これだけの「不自由」が実際に映っていて、確かにその「不自由」で息苦しい思いを感じたんだぞ、と。いわば不自由の息苦しさの言語化であり、まさにスケッチであります。
「重さ」ということでいえば、なんだかこの本、読んでいて、本書自体の物理的重さ(314ページの厚み)だけでなく……マス(Mass=塊、質量、総体)として、わたしの脳みそと心に、ドン! とカタマリが鎮座まします感じがあります。

本書には、わかりやすい思想的な「処方箋」がない、と書きました。「こうしたら良いんだよ」という安易な解決策は述べられていません。そういう意味でも、キャッチーな本ではないです。「ドン!」とシロクマ先生の念のカタマリがここにあります。

せめて処方箋らしき解決への希望として、最後に「これを土台のひとつとして、じゃあ、考えていきましょうか」というあたりで、とりあえず終わっているように自分には思えます。いや、これもこれで自分の読み解きが浅いという自覚はあります。もっともっとヒントはこの本にある。なにせ、現代社会の言語化であり、スケッチなのですから。
ですが、基本的方向性……この本の念のカタマリをまず自分の中に入れて、自分で考えて、そしてこの社会とどう付き合っていくか、っていうことを、自分で考えていく、っていう方向性そのものは、間違っていない、と自分では思います。そういう意味で、読んでいて「知的爽快感」よりも「知的にしんどいなぁ、重いなぁ」って本でありますが、しかしそれ故に確かに「読んでよかった」と思いますし、自分自身「まだ読みが足りない」と痛感しています。

労作ですよ……ってこう言うと、だいぶ偉そうですが。でも、熊代氏はこの本から逃げなかったわけです。同時に、この本にはかなり文学や漫画、哲学・思想書などから、引用が重ねられています。それは、先行するいろんな「人たち」の目玉の見た、社会、世界苦、娑婆に対する見方、ことばを、熊代氏も受け継いだ、ということです。
そんなわけで、自分もまた、この本をこれからも「うわキッツ、あーきっついわぁ」と思いながら読んでいくんだろうな、っていう気がしています。少なくとも、明日からこの社会がラクになることは、さらさらないわけであって。自分もたいがい非-社会的な人間でありますが、それでも一応はそこそこに、しょうがなしに、付き合っていかざるを得ないのが、現代社会です。


ときに自分の立ち位置は、「反社会」ではないのです。「非社会的人間」だと思いますし、それを改善しようともあんまり思っていません。もともと自分の中には、あまり社会に対する親和性が無い、という意味での「非」です。
それでも、安全であるとか、安心の確保であるとか。あるいは世の中にひそかに存在している楽し気なこととか(樫木拓人「ハクメイとミコチ」とか、panpanya先生の漫画とか)。そういったものと上手く付き合っていくことも、それはそれで無為とも言い切れない、というあたりです。暴力や災害に対するある程度の安全・安心があって、趣味も楽しめるわけですから。だからこんな神経社会を壊してやるぅ!な話にも与しませんが、しかし神経社会に自分がヤラれまくって、またびょうきになるのも、これまた勘弁なわけです。

 

人間、最終的には、この世で出来るたのしげな事で、自分を満足させてやれれば良い、と思うんですよ、ほんとに。
しかし、他人に迷惑をかけまくって趣味しまくる、っていうのもこれまたちょっとどうよ、ってぐらいには、一応の社会性は自分にもあります。一気に話の解像度が単細胞脳筋になりましたな!w
でもまあ。他人に忖度される形での、「秩序」を個人の内面にインストールしまくる、っていうのも、もうこの時点で相当ラディカルだ、っていう、ねぇ。難しく書きましたが、世間の奴隷、っていうの、よくない!っていう話です。

強迫神経症にまでなった、変な人生を歩んできていますが、なんだかんだで一応職にもつけて、趣味の創作活動をやれて、時々この神経社会からいち抜けしてキャンプをして、星空のもと自分自身と対話して、さーどうするかこれから、って考えたりしてます。秋や冬になってきたら、またソロキャンをするんでしょうが、夜、焚火をしながら、いろいろ考えるんだと思うんです。ていうかそのためにキャンプしてますし。星月夜更け、自分はどうしたいか。世の中とどう付き合っていきたいか、って、また考えると思います。そのときに、熊代氏の本が今回残した「念のカタマリ」が、何らかの材料となって、自分の心の静かなほむらに薪をくべるんじゃないかな、って思うのですが、ちょっとかっこよく書きすぎですかね。まぁこれくらいはゆるしてくださいな。

(この本についてはまた何か書くかもです)

 

「「若作りうつ」社会」の感想と個人的重い思い - 残響の足りない部屋

(過去に書いた熊代氏の本についての記事)

ごにょごにょ書いてる(壁打ちひとりついったーみたいに運用)

redselrla.com

 

こつこつ制作のホームページ内、ソーシャルに繋がれないマイクロブログシステム(cgiプログラム「てがろぐ」)を用いて、ひとり壁打ちつぶやきを残しています。

お手軽マイクロブログCGI「てがろぐ」:スキン式で複数ユーザ対応 - にししふぁくとりー

さすがに長文を上記マイクロブログで行うつもりはございません。

それから、ブログデザインを、むかしのはてなダイアリーみたいなものにしました。なつかしいですね。