残響の足りない部屋

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『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』感想その2

熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』一読目の感想 - 残響の足りない部屋

↑感想その1

 

著者さんのブログ

 

自分はもともと埼玉県の南東部某所、関東の国道沿いタウンのあたりに住んでいました。東武線を数駅くらいで東京都足立区に入り、10駅も過ぎれば上野あたりに乗り付けられるあたりです。感想その1で、在りし日の駅構内の汚ったねぇ側溝を描写しました。側溝の様子はだいたい上野駅も竹ノ塚も草加も似たようなもんでした。

現在、いろんな事情で自分はシマーネ農業王国というウェストサイドオブジパング~西日本~の僻地に住んでいます。後述しますが、すべてに納得して住んでいるわけではございませんが、現状ベターな選択肢、程度には納得はしています。

ところで、自分が幼少期を過ごしていた埼玉県南東部某所のあたりをレポ写真ったブログがありまして、ドゥーミーな眠れぬ夜更けに延々と写真や解説記事を読んでしまっていました。その街並みのその寂れっぷり、廃墟っぷりの凄いこと。自分も数年前、幼年期を過ごした故郷を今一度見てみん、と、このエリアを一通り自転車を借りて回ってみたのですが、まぁ、確かに相当寂れておりました。その数年前の実地見分を思うに、このレポ写真ブログの視点・筆致は少々書きすぎではないか?と故郷へのひいき目で思うものの、しかし……地続き的な納得性はあると言わざるを得ない……と思ってしまうのも事実で。そして、レポ写真ブログは、わが故郷に全く縁もゆかりもない方がレポートしているのですから、明らかにこのレポ写真ブログの筆致のほうが「客観的な姿」と言わざるを得ない。

今となっては、幼少期を過ごしたあの某所タウンに、自分の親族は一人も住んでいません。数年前再訪して、その事を改めて思い知り、そしてこの寂れ方の客観性をもって、いよいよ自分の故郷が失われていっているんだな、とつくづく思うようになりました。

現状、自分にしたら「そうか」としか言いようがない。

 

さらに言えば、某所タウンの中心地的なところが、現在アジアンタウン要素が強くなっていってる、とそのレポ写真ブログで読みました。現在わたしは趣味でフィリピノ語(タガログ語や英語をベースにしたフィリピンの公用語)を学んでいるのですが、レポブログの街頭写真の看板に書かれている文字を見て「おっ、ここサリサリ・ストアじゃないか(フィリピンのべんり雑貨屋みたいなもの)」みたいな情報がサラっとわかる程度には自分もフィリピノ語が身に付いたのか。

現在、全日本的に各地の町でアジアンクラスタ、ブラジリアンワーカーの流入が進んでいますよね。自分は今、シマーネ農業王国というところに住んでいますが、この土地でもブラジル人、ベトナム人、フィリピン人の出稼ぎ労働者がとても増えています。業務用スーパーの張り紙にブラジル・ポルトガル語が併記されているのにも普通になりました。

自分は外国語を趣味で学んでいるので、そういうフィリピノ語の文字やブラジル・ポルトガル語の文字を見ると、知的テンションがマジガチアゲ上がってぢーっと見てしまうのです。最近、多少読めるようになってきて、しばらく「よしよし」と自分を誉めてやります。ベトナム語の入門書もこないだ買ってきたのですが、まだまだチュ・クォック・グー(ベトナム語のラテン字表記)も覚えていない状態なのでまだまだ。

しかしフィリピノ語にしてもポルトガル語にしても流暢な会話はまだできないですね。その一点だけで自分にとってすでに外国人労働者の方々は尊敬に値するのです。自分はそこまでフィリピノ語やブラジル・ポルトガル語をしゃべれないぞー書けないぞー、と。フィリピン人やブラジル人の餓鬼にも劣るとはこのことだ。そして現状、英語がそこそこ通じる国でないと自分が生きていくのもムズい。ましてフィリピンやブラジルに行って生きていけるか、と想定するとさらにムズい。そう考えると余計に出稼ぎに来ているフィリピン人やベトナム人やブラジル人の方々を凄く思う。

そういったフィリピン人、ベトナム人、ブラジル人などの外国人労働者の「痕跡」を、埼玉県南東部タウンにおいても、シマーネ農業王国においても、一般民衆は「異物」と思っているようで。この国際化社会において、それらは異物。えっ、じゃあシマーネの方々、国際化じゃないほうがいいのですか?と問うたら、いやそうではない、と。国際化は歓迎だ、と。

でもさぁ、世間にフィリピノ語やブラジル・ポルトガル語の表記が増えることが「国際化」じゃないの?って問うたら、シマーネの皆さん、「それはちょっと……」っていうんですよね。矛盾していますね。しかし……みなさんの言うことというのは、つまり「欧米が浸透していくのが、正しい国際化」って無意識に定義してる節があって。フィリピンとかベトナムとかブラジルとかの経済的に日本より後進している所が流入してくるのは、「異物」として見てしまう感覚的定義。

現状、自分にしたら「そうか」としか言いようがない……。

 

例えば、上記のようにして国道沿いや団地の(ニュー)タウンは劣化していき、再開発がない限り、もとのように発展することはない。というか、この場合「リセット」と書くのが適当か。

(ニュー)タウンが劣化していく、というのは、抽象的な言い方になるが、汚濁や歪みや軋みが増え、インフラは古いものとなっていき、住む人はどんどん巣立っていく。どんどん、時間の流れに取り残されていく。そこに自己再生能力はない。まして、住んでいた住民が自主的に改善しようにも、その発端となる地域風土への愛がない。自分にしたって、あの埼玉県東南部のニュータウンを事情により離れさせられなかったら、こうまであのニュータウンに恋々と思慕しているかわからないところがある。

劣化していくニュータウンであるが、「都市として」止まるわけにはいかない。そのためにはいくつかの「めんどくささ」を受け入れないと、都市は都市として一定の活性を維持することが出来ないらしい。そのひとつが「コンプライアンス」の導入であり、もうひとつが外国人労働者クラスタの受け入れ。

コンプラとは何か?といったら、そりゃ「健康的で清潔」を志向する「道徳的な秩序ある社会」を達成するための……ルール、基準、相互監視、自主規制、「証拠」と「論理」をたてに相手を詰めていく正義手法、といった、まぁ、「不自由」ですわね。

そして外国人労働者クラスタは、労働者とあるだけあって、都市の稼働における熱である。都市というものを経済を回す稼働機関ととらえるならば、炉にくべられる何か、というか。上級国民が押しつける何かを担う人々、というか。

コンプラの徹底は、すなわち不寛容であるのは言うまでもないですが、ではどこまで徹底すればいいのか、というと、このあたりの「エンド・オブ・コンプラ」について議論がされたことはあったでしょうか。熊代氏の本書が沈鬱なのは、エンド・オブ・コンプラの行きつく地点を予測予言しているからであると思うのです。

精神医学にとって「不寛容」さ、というのが憎まれるものであるのは、今さら言うまでもないんです。でも、じゃあどうやって「寛容」になれるのか、っていうと、これはすごくムズい。日本社会が金欠になってる以上、どっかから資本駆動システムの「熱源」を引っ張ってこないとならない。ていうかせめてテメェらの苦労をどっかのだれかにおっかぶせたい。そーして寛容になれるんじゃね大発明!?って理屈。

……そうか、としか言いようがない。

そうか、そうか、つまり「貧乏」になったのだな、という指摘は正しい。

まあ自分としてもその議論の着地点はリアルでまっとうだな、と思うんですよ。日本だって貧乏になった。米国でトランプ大統領が大統領になったのも、自分は単純に米国が「貧乏」になったから、とシンプルに思っています。英国ブリクジットも。で、貧乏になったから、じゃあどうするか、っていうのがここからの議論だと思います。貧乏から目を背けて、余計に浪費するっていうのがいわゆる「貧困層」のパターンだ、っていうのは皆さんわかってるじゃないですか。

思うよわたしゃ、何よりメンテナンスが必要なんだ、と。これは工作趣味者としての意見でもあるし、外国語趣味学習者としての意見でもある。

社会においてそのメンテナンスは何か、というと、都市のインフラストラクチャだけじゃない。都市が変化していく風景をぢっと見つめる目や。かつて「平穏」があったとしたら、まずその平穏の手触りをしっかと心の中に留めて、じゃあこれからの平穏を作っていこう考えていこう、という意志や。皆さんお嫌いの「異物」と目している外国人労働者は本当に異物なのか。彼らには彼らの事情があって、こちらにはこちらの事情がある。少なくともちょっとだけ外国語をかじるだけでも、その「事情の大変さ」っていうのは、感情的に推察は出来る。しんどそうだな、程度でも。

こういったことをひとつひとつやってくほうが、はるかに建設的だと思う。多分自分が生きている間で変革するこたぁないとは思うけど。それでも。

でも今日も汚濁をぶっつぶすポリコレ合戦だったり、異物を排除する外国人差別だったり。もちろんそれだけ余裕・寛容がない、というのは、貧乏だから、その日が大変だから、ストレスたんまりだから、っていうので、今日もまた日々は過ぎる。

コロナ禍の社会は、自分からしたら「潔癖症が止まらないッ!」と見える。当然、潔癖症は止まらないものである。キレイキレイが病的に止まらないから潔癖症という不寛容なのである。

どうやったら「雑」になるのだろう?と思う。この場合の「雑」とは、都市のインフラをメンテナンスしながらも、雑然とした生き生きさが常にある状態で、かつ、いろんな種類のひとたちが雑に豊かに交わっている地点、を想定している。古い言葉で「雑民」というのを思い出す。誰もが雑民なのだと。それは日本上級国民が貧乏に堕ちた、という意味ではない。誰もがそもそも皆雑民なのだ、神聖スマートピープルはこの世にはそもそもいないのだ、というリアルな視点から始めないといけない。当然神聖スマートピープルのサブ従属ピープルもいない。「名誉白人」なんていない。誰もが日々のめんどくささに耐えているんだ、と。ある人はこころのやまいか。ある人は資金繰りか。ある人は家庭の事情か、ある人はどうしようもなく受け継いでしまった己の卑しいエゴか。

自分は今、シマーネ農業王国でなんとか暮らしています。いつ自分もコロナ村八分にされるかわかったもんじゃありません。自分は他人に期待することをどんどんやめています。他人に期待して、世間価値観を自分の中にインストールしていったら、どんどん自分がおかしくなっていってしまいそうです。多分、世間に飲み込まれたが最後、メンテナンスは真の意味では為されなくなるのでしょう。

自分は、手入れ、メンテナンスをしっかりしていたい。自分は非=社会的人間ですが、しかし社会の敵(反社会的)たろうとは思っていません。非=社会的であるくらいに距離をたもって、はじめて社会と落ち着いて関係を保てる。外国語を学ぶのもそうですし、社会風土風俗をぢーっと見てる、というのもそうです。

社会は劣化しているかどーかはともかくとして、貧乏にはなりました。でも、いやだからこそ、メンテナンスが大事だと心底思います。一発逆転という価値観を捨てましょう。多分、一発逆転は「貧乏」改善にも起こりませんし、「潔癖症推進」社会の改善にも起こりません。このブログを見ている方でメンタルヘルスを病んだ方々や精神科医の方々がどの程度いらっしゃるかわからないですが、こと潔癖症強迫性障害の治療で「一発逆転」はマジでなかったじゃないですかこんちくしょーーーーーーッ!(血涙

 

メンテは本当大事。多分メンテで経済がドカンとアゲアゲになることはないですが、でも下がることは……とここまで考えましたが、社会のみんなのコンプラって、皆さん「これがメンテだッ!」と思いながらやってんのかしら。多分そうなんだろうな。こわいな。

じゃあ正しいメンテ法って何かいな、っていうのですが。自分も知りたいっすよ。
せめてまず「神の一手(一発逆転)」はない、と認識し、地べたに座って一個一個。そんで余裕をもって自分にできるメンテをしていくほかないなーっていうごく当たり前の結論になり、それは皆さんもうすでにこの社会で皆やっていることで、その努力に頭がさがりますし、これ以上、を求めるのも酷だ。だからこそこの本の熊代氏も悩んでいる。社会のリソースは少ない。社会の雑民の精神的リソースも少ない。どうすりゃいいねん。

基本的に「多様性」は疲れる。

自分はこのブログで再三語っているように「全世界全時代全ジャンルの音楽を聞こう」と決心して早15年たちました。この音楽趣味(旅)の基本となっているのが、「世界は多様である」ことを当然として認識し、その当然さを「喜ぶ(愉悦する)」っていう態度なんですよね。これ、自分は当たり前のようにずーっと抱いている考えなんですが、結構奇跡的な考えでもあるな、と。だから自分すげぇって表明したい思いは、このブログを読んでる読者のみなさまが思ってるよりずっと「ない」です。

いやね、「多様性を楽しもう」ってあたりで決着結論できればいいんですよ。でも、現状みなさん、それ単純にできないじゃないですか。自分にしたって音楽や外国語趣味があるからそう思えてる、半ば強者の論理だ、っていう自覚はありますし。国際親善交流ってホント大事だなーってそういう文脈で思うんですけど。

だからやっぱりね、本書でも書かれているように、タイトルにある「健康」「清潔」「道徳」「秩序」っていうののアップデートが必要なんですよ。少なくともこれらを一回分解せにゃならん。本書は社会のスケッチをしていますが、本質はこの「分解」を狙っていると思う。機械をメンテするには一度分解しなくちゃならんでしょ的意味。

わたしたちは、もっと社会の構成「部品」を分解してみたらいいんですよ。いろいろ自分なりに分解していって、その部品のどっかに、愛おしいと思えるものがあったらめっけもんで。自分は音楽や外国語だった。あるいは都市の風景であったりとか(panpanya先生の漫画はほんと最高ですね)

あなたが何を愛するかはわかりませんが、少なくとも社会しゃかい、と大文字で大上段にたってメンテしようっ!っていうのは、実はちょっとしんどいんじゃないかと思うのですよ。もう社会の上から変革革命はちょっと置いておこう。たぶんポリコレが原理主義になるのはそのあたりのでっかい正義が悪さをしている。それよりはこうやって社会の諸相を部品として分解してみて、どっかに愛せるものが見つかったら、それを地道にメンテしていく。うん、このあたりが非=社会的な趣味人としての自分の結論として着地出来るとこですわ。

 

(熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』の感想はまだ続きます)

 

ホームページ更新2020/08/14

本館サイト「アナログホームページ」、サイトデザインを含め、更新しました。
パソコンだろうがスマホだろうが、問答無用で表示されるタグ打ち静的HTMLサイトでございます。

 

redselrla.com

ホムペで書いたように、近々キャンプに行ってきます(キャンプ場予約済)。

何かおはなしがある場合は、ホムペ下部に記載してある掲示板やメール、あとこのブログコメントにでもお寄せください。

勝負師の星座観測

勝負師の思考に、以前から興味があります。

彼らが勝負にかける意気込み。一回の勝ちだけではなく、「勝ち続ける」ための持続法。大局観。拙速に走らず、己をセーブする方法。そして何より、彼らが見出した「勝ち・負け」の定義そのもの。

自分が良く読んでいるのは、梅原大吾ウメハラ)氏の本です。あるいは羽生善治氏の本やときど氏の本、スポーツ選手の自伝やインタビュー雑誌なども。というより、自分は作家のインタビュー本や自伝本、「作者、自作を語る」系の本をよく読むのですが、これもまた「勝負師」本の一環かもしれません。それから、ガンダムビルドファイターズが好きです(唐突)

その一方で、彼らが実際に行っている勝負ゲームそのもの(格闘ゲーム、将棋etc)には、さほど興味がありません。なぜかというと、自分はそもそも「勝負」というゲーム形式が「not for me」と思っているからです。例えば、自分がスポーツなり対戦ビデオゲームをして、だいたい負けますが、何とも思わない。しかしまぐれで勝っても、何とも思わない。というより、負けても勝っても「落ち着かない」。自分は、自分の世界(内的宇宙、こころの箱庭)の構築にしか興味がない、という傾向があるのです。なので、他人の勝負事にも興味がない。

これは自分の弱点だと、素直に思っています。勝負事に対するセンス、闘争心・競争心が「なさすぎる」。

でも、勝負師の思考に興味がある。「限界に挑む」っていうシチュエーションであったり、「バトルフィールドで交わされる選手同士の超越したコミュニケーション」などという、特殊状況での心理が面白い。そして日々戦い続ける勝負師という人生の形に、興味があるのです。

さて、まるまるさんのついったータイムラインのRTで拝見したこのはてな匿名ダイアリーの記事

anond.hatelabo.jp

例によって自分は将棋のルールについて詳しくはありません。将棋史に詳しくないのも当然です。ただ、勝負師の思考に興味がある。

自分のこの「思考」のみに興味がある、というスタンスは、勝負ゲームの見方として、邪道も良いとこだと思っています。勝負師の「思考」の本質は、その対戦試合(ゲーム)そのものにあるのだから、ちゃんと試合を見なさいよ!という指摘もごもっとも。一番良い上澄みだけを拾って味わってる、という指摘も成り立つ。ただ、それはとりあえず置くとして。

藤井新棋聖が勝利し、渡辺二冠が敗れた。事の次第はそういうことです。世間の盛り上がりもそういうことです。そして、将棋を、棋士を本当に愛しているファン層からは、もっと、とんでもなくたくさんのものが見えていた、ということに、いまさらながら思うのです。

将棋新世代が、例えばIT(コンピュータ、人工知能)を駆使した練習&研究を積んでいたり、さらには「IT世代の打ち筋も踏まえた将棋研究」「その上でアナログ的な従来の将棋のスタミナ持続力、大局観」が当たり前に研究されているのが、今の将棋だ、というのは、羽生氏の本であったり、あるいは鍋倉夫「リボーンの棋士」で言及されていたところでした。しかし自分が嫌になるなぁ、こういう些末な知識しか持っていなく、本場の盤上の世界を知らない、というのは。まぁ、上記のようにそこは置くとして。

自分は、このはてな匿名ダイアリーの記事の筆者さんにこそ、感動してしまったんですね。この筆者さんは、渡辺氏が「負けた」からこの記事を書いているんじゃなくて、渡辺明という棋士の生きざまに惚れたファンだから、この記事を書いている。渡辺氏がこれまで行ってきた打ち筋と、研究精神。そして勝負師として、勝負の流れと世間の流れに「なにくそ」と踏みとどまる足腰の強さと意気、意地に。

筆者さんは、将棋を本当に愛している。そして渡辺氏を愛している。将棋というゲームに魅せられている。将棋がこれまで作り出してきた名勝負や凡勝負の数々を記憶し、それを味わっている。その上で将棋という文化を愛している。というかこれが、ある文化を「愛する」ということなんだろうな、と思う。

筆者さんには、この将棋というバトルフィールドの本物の世界が、見えている。

 

藤井新棋聖の旋風が、将棋界に対する世間の注目を上げている。藤井氏が歩む道が王道になるのだ、みたいなムード。藤井の勝利を見ていれば将棋はわかるのだ、みたいなムード。そこまで勝ってなお、兜の緒を締めようと謙虚たる藤井氏はやはり才覚の深み、と思う。もちろんそこで浮かれるのでは、そこまでの才覚、という厳しさもあるとして。

しかし自分は、渡辺氏の敗北、渡辺氏もやはりすごかったのだ、みたいなことを書きたいのではない。

自分には見えない世界がやはりある、ということをここで書きたい。それは皮肉でも、卑屈でもなく、「やはりあったのだ……!」という喜びでもって書きたい。

はてな匿名ダイアリーの筆者さんが、ここまで見ることのできる世界(将棋)というのが、この世に確かにある。そして、そういうのは無数にこの世にあるのだろう、と思う。いや、あるのだ。間違いない。それはたまたま世間の耳目を引いていないだけで、「どこまでも味わい分けることの出来る世界」は、この世にいっぱいある。

将棋という世界は、今回のタイトル戦で、さらに耳目を引くだろう。「裾野が広がった」ということ。その「裾野」が広がって、いろんな少年少女が、勝負師の世界に入ろうとする。いろんな道がある。いろんな人生がある。英雄譚があり、量産型の物語がある。いぶし銀の職人技の世界があり、敗者の世界がある。

まるで星座のように。

おそらく、その星座の煌めきや、無名の星、あるいはダークマターの暗黒を、しかと見据えて、ずっと見ていくんだ、と愛し続ける、ゲーム上の天体観測。おれは見ているぞ、きみらの勝負の行方を見ているぞ、考え、考え、記憶し続けていくぞ、というゲームの天文学。カッと火花散った光年の煌めきを愛し、やがて那由他に消えようともその流星の切なさを愛する。勝負師も、ファンも、彼らは今まさに、そこにつくる。勝負文化がある。

それに比べれば、たかが勝った負けたでわいわい騒いで、あいつはもうダメだ式の評論をすることなど、天文学的に小さい話であります。

自分にしたって、渡辺氏の将棋世界を、こうしてはてな匿名ダイアリーの筆者の方に説明してもらわないと、ついぞわからなかった者です。小ささはさほど変わりゃしません。

 

それと同時に、この記事。筆者の方はこれまでいろいろな棋戦を見てきたのにも関わらず、「今回の試合のようなものは、これから見ることが出来るのだろうか」という驚愕でもって、試合を見ていらっしゃいます。

その、将棋ファンとしての「新鮮」な瞳、というのも、こちらが瞠目してしまいます。つい、過去の歴史と比較してあーだこーだと言いがちなのがマニアです。でも、筆者さんは、「今ここで伝説が生まれようとしているんだ!」というものをしかと見据えている。

 

わたしも、何かを愛したいものだ、と思う。この筆者さんのように、愛と屈託と、ファンとしてのたゆまぬ持続力と、新鮮な瞳を持ち続けたいと思う。やっぱり勝負試合(ゲーム)そのものには興味を示すことの出来ない(not for me)な自分だけれど、せめて自分の愛している分野では、地道に愛し続けようと思ったのが、この記事の感想でありました。

 

※似たことを前にも書いております

ビルドファイターズとオリンピック(1) - 残響の足りない部屋

日記(2020/07/12 日曜)

にっきです。

・このところ(1,2日)で作ったもの

http://redselrla.com/bookshop/bookshop.html

↑ いわゆるSS(ショートストーリー、サイドストーリー)です。HTML静的個人サイトです。自分の創作箱庭の一部です。「ほうき星町」シリーズ、っていうシリーズものです。ドット絵を打ちました。

・メインイベント

●SD改造フィギャー「金床さん」

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かなどこさん(店舗ディスプレイ)

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かなどこさん(自室ディスプレイ)

メインイベントです。これを作ったのは先々月あたりのことなんですけど、

 蝸牛くも氏のラノベ/アニメの「ゴブリンスレイヤー」のキャラクター・妖精弓手を、SD化したフィギャーを作りました。

※現在、ホビーゾーン出雲店さんから、作品を引き取ってきましたので、展示はされていないです。ホビーゾーン出雲店さんでは、次のコンテストが控えてらっしゃるので。

コトブキヤのキューポッシュ・FAガール「スティレット」(すち子)

キューポッシュ FAガール スティレット | フィギュア | KOTOBUKIYA

を素体にしています。パテで髪をエルフな感じに改造したり、ファンタジィに服装をコーデしたり、アーチャー(弓手)っぽく武器をつけたりしました。脇に黒曜石のダガーをつけてるのですが、ほとんど見えないぜヒャホーィ!(涙)

きゅぽすち子は縞パン(しましまパンツ)なのですが、これをゴブスレ作中の通りにキュロットスカート(茶色)にしました。つまり、縞パンのおしり造形を削りました。

「金床(かなどこ)」さん、というタイトルですが、これは妖精弓手の本編中での(主に鉱人導師からの)あだ名です。読めばわかる。どこがぺったん(金床)なのかが。

本当にこれを作っているときは楽しく、コロナ禍のなかでも充実した日々でした。

●キャンプいきたい

梅雨ですからね。蟲のこともありますし。蟲、という字を使っているのでお察しください。秋までには一回くらい行ってもいいんじゃないか、とは思うのですが。

 

●目標を見失いがちであるのは自覚している

SD「金床さん」作成以降、新たな目標を見失い、自分がどんどん腐っていっていますね。これはまずい。自分の人格に、周囲からわかるくらいの腐臭が漂っている自覚があります。ごめんなさい。どうにかしないといけないですね。

●BOOTHの自作CDや委託CDの販売のこと

ページ作成が遅れています。腐臭です。

●がんばる

いや、むしろ、部屋を片付け、目標を作り。そしてそれに向け、スモールステップで毎日こなせるタスクを設定し、手をこつこつ動かすに尽きるのであります。なんだわかってるじゃないですか。さあ次はなにを作ろうか。どこにヒントはあるのか。

●日記を読もう

いや自分が毎日つけてる物理ノートや、ローカル環境でのメモファイルのことなんですけどね。なんだわかってるじゃないですか。