残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

引用論「1。引用論におけるニヒリズム」

※連載です。

全部で44000字あります。(この回は9400字)

芸術・表現における「引用」について書いたものです。

 

1-1。ダニー・ボーイ

 

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

 

 

 村上春樹世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドで、最も感動する場面は? と、世のハルキスト――を通り越して、あまねく読書人に問うてみたら、恐らく一位は、「世界の終わり」パートの「僕」が「僕」を取り戻すシーンであろうと存ずる。ほとんどこれの印象が強くて二位三位が思い浮かばないくらい。(「ハードボイルド・ワンダーランド」パートのラスト、「私」が自らの終わりを許容していく静けさも、わたしは静かに心打たれる、と思うのだが)

 所詮人間は失われ続け、損なわれ続ける存在である――あまりにも村上春樹作品では、このオブセッションめいたメッセージが頻発する。というか自身が過去運営していたHP「村上朝日堂」で、読者のメールに対して、そのように己の作品の一貫したテーマを語っているくらいなのだから相当なものである。(「作者、自作を語る」の信用度の論議は今はさておく)

 その、失われ、損なわれ、修復不可能なまでに傷ついた結果、自己を記憶喪失にも近い形で喪った「僕」が、自らを取り戻すのが、小さな小さな、古い手風琴(アコーディオン)を弾きながら、アイルランド民謡「ダニー・ボーイ」を歌うことによって、である。

 「世界の終わり」の世界(=壁の中の町)においては、音楽というものが現象として存在しない。空気振動がもたらす音の表現=音楽、に、【意味がない】。感情が失われた世界において、表現/芸術が意味をなくすのも道理ではある。

 それでも「僕」は、失われた感情を、喪われた「僕自身」を求める。あたかも、ジャンプで月まで届かん、と表現するにも等しい、カミュが説いたシーシュポスの神話めいた不条理な努力である。

 それでも、それでも、それでも、「僕」は「僕」を取り戻そうとする。結果、それは成功する。

 失われたものを取り戻すのは、人生を重ねれば重ねるほど、不可能の度合いが増してくる。だがそれゆえに、取り戻したい、という強い思い……執念が沸く。「熱烈なる愛国者は、大抵亡国の民である」と、芥川龍之介が表現したように。

 しかし世界は限りなく残酷な装置である。我らは知っているのだ。もう取り戻せない。仮に何らかを得たとしても、それは模倣(イミテーション)であり、仮想体験(エミュレーション)に過ぎないことを。理屈ではなく、直感で、体感で。偽ることの出来ない悪心めいた感覚が告げる。ポーの鴉のように「またとない(ネヴァーモア)」と。

 それが人生だ、と韜晦するのが大人だと。老いを重ねた老獪な処生術だと。だが……だが……だが……! そう、その無言の呻吟。

 僕が僕を取り戻すことがそれほど感動的なのが、この「人間的な、あまりに人間的な」体験に寄らないはずがなかろう。

 

 そこで、「ダニー・ボーイ」である。

 この場面には、この曲以外、あり得ない、と断言する。うさぎおいしの懐郷の「ふるさと」でもダメだ。ベートーヴェン最大の人間賛歌「第九」の第四楽章でもダメだ。「イマジン」でもダメだ、「イエスタディ」ならまだ近いかもしれんが。「天国への階段」もダメだ。「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」? さすがにそれはない。

 どの名曲を挙げてみても、ダニー・ボーイ以外に「ハマる」とは思えない。

 理由はいくらでも挙げられる。事実、この論考では、その理由を挙げて挙げて挙げまくる。

 だが、それだけでは説明にならない。理由を挙げたところで、探偵が犯人を究明するかのように、証拠を挙げてはいおしまい、では何の意味も持たないのだ。それこそただの「引用」にすぎない。

 おそらく過去の引用論、比較文芸論、比較論が陥ってきた陥穽がここだ。

 探偵は証拠を並べる。だが、証拠を並べただけで事件は解決するだろうか? 犯人に罪を認めさせるだけでもまだ足りない。犯人の人間的原罪に光を当ててあぶり出し、そのような人間を可能な限り少なくしていくことを、登場人物も読者も含めた我々「ひと」が誓う、そのレベルにまでいかない限り、真に事件は解決しないのではないか?(虐待の連鎖、とか、復讐の連鎖、みたいなものがあるのだ。人間には)

 あらゆる批評は、「犯人当てっこ」「証拠探し」を最終目的にしてはならない。では何をせねばならないのか?――そこまで明確に書かねばならないのか? 

 もちろん、こう「ぶった」からには、わたし自身がそれを遵守せねばならない。それを貴君は見届けていただきたい。それをもって、この論考と、残響という自称批評家を断じていただきたい。

 

 

 1ー2。 なぜ「それ」ではなくてはならないのか

 

 再びダニー・ボーイに返る。なぜここで流れるダニー・ボーイがこれほど感動的なのか。

 先ほど述べた約束を守ろう。まず、音楽批評の立場からダニー・ボーイを論じてみる。

 

 ダニー・ボーイはアイルランド民謡である。つまり、正式には「ポップ・ソング」と表するのはいささか正確ではない……が、間違ってもいない。

 もともとトラッド(民謡。トラディショナル・ミュージック。この場合、北欧ケルト音楽、のイメージを思い浮かべていただければ十分である)としてのド定番ナンバーであったこの曲、大抵アイリッシュケルトの定番曲コンピレーションには入っていると思う。

 が、この曲はレコード技術/文化の発達と共に、全世界に響くようになった――例えば世界的大ヒットのレコード、ビング・グロスビーの歌唱でもって。


Bing Crosby- Danny Boy (1945) - YouTube

 それから、もう何年経っただろう。少なくとも数十年。民間で伝承歌として聞いた者が祖父母になり、ポップスとして聞いた者が父母になり、そして今に至る。三世代、あるいはもっともっと。

 それだけの音楽であった。懐郷と郷愁、それを深いメロディと、浪々とした歌唱で響かせる。憐憫はなく、あくまで【過去に過ぎ去ったもの】を、懐かしむかのような。あるいは悼むかのような。

 あらゆるトラッドがそうであるように、ダニー・ボーイの歌詞は、さまざまに代えられて歌われる。そのすべてをさらうことは不可能だが、少なくともわたしが見た限りでは、「ダニー・ボーイ」という、ひとりの失われゆく人間(象徴)に対する、深い思いを持った内容だ。ヘヴィメタルとかヒップホップのリリックのそれではない。俺の男根はマッチョだ的な。

 以上が、この曲のバイオであり、歌詞の基本的傾向である。

 

 さて、楽譜をもとに、音楽解析をしていこう。

 

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五線譜のほうと、タブ譜のほうを、同時に見ながら解析していく。

 この曲はアップテンポで歌われることはなく、まず五線譜の最初に、「センチメンタルに」と指示文すらかかれているほどだ。

 ヴァース(Aメロ)の音形は、ゆったりとしたカーブを描く。それを訥々としたベースラインが支える。少なくとも、ある種のメタル(メロディックスピードメタルグラインドコア、カオティックコア)やジャズ(フリー・ジャズ)のように、音の上下移動が小刻みかつ、高速で移動したりはしない。

 

※ある種の音楽の例


Sonata Arctica - San Sebastian (lyrics) - YouTube


Ornette! - Ornette Coleman [FULL ALBUM] [HQ ...

 「オーダーニーボーイ……」という、最初のイントロのゆるやかな上昇から、次の連符の山の形の流れが、郷愁と切なさをさそう。

 途中、少々キーが変わるようなそぶりを見せながら、サビに入る。この胸を締め付けるようなフレーズ! 高らかに歌いたいところだが、むしろここは自分の心と向き合う部分なのだ。感情の高まりは、自分の鏡なのだから。

 

 コード解析をすれば、まったく単純なコードばかりである。テンションコードもディミニッシュもない。あるのは、ほとんどを締めるメジャーと、時折のマイナー。それだけである。

 ひとつの曲をメジャー、またはマイナーのコードだけで作るのは、コード理論的に「ほぼ禁じ手」であり、最低限のトニカ→ドミナント→トニカのドミナントモーションすらなし得ないのだから、普通多少の「揺れ」を持たせるのだが、しかしそれにしても単純なコードだ。文字でたとえれば、ひらがなだけで書かれているようなものだ。ギターをかじった者であるならば、およそ誰もが弾ける。

 事実、この曲が与える印象は、単純さと同一の、木訥さである。

 だがこの曲が、スリーコードパンクのような「イージーさ」になっていないのは、やはりメロディの懐郷と切なさ、暖かさによるものだろう。

 タブ譜を見れば、連符部分とレガートで伸びやかに歌いあげる部分が、規則的に混在しているのがわかる。というより……それだけしかない。

 コード進行において、C→G→Em→Am→Dというのは、ほとんど定番のもので、しかも弾きやすい。運指も楽だ。(というより、この曲が定番にしたのだ)

 だが……。

 わたしは確信する。「僕」が歌ったダニー・ボーイは、本当に心に染みいる歌唱であり、演奏であった、と。

 単純さは、簡単さではない。

 今一度これがトラッドである事実を思い返そう。この単純さは、長い時を経て、これだけ「凝縮された」のだ。

 その、歴史に名を残した、あるいは名を残さなかった「楽士」たちが、受け継いできたメロなのだ。歌なのだ。(定番にした、とはそういう意味だ)

 ダニー・ボーイとは、そういう歌なのだ。

 

 では、なぜ「ダニー・ボーイ」でなくてはならなかったのか?

 

 ここまでで、いかにダニー・ボーイのシンプリティと、その歴史性、世界的普遍性について語った。

 だから……この曲はここにおいて引用される価値がある、というのが、まあ一般的な引用論の「落としどころ」だろう。わたしが「犯人さがしの証拠あつめ」といったのは、そこだ。

 だがそれでは不充分なのである。

 歴史がある。それはわかった。美メロである。それもわかった。音楽性が高い……もうわかった。

 なのになぜ、「この曲でなければならなかった」のか。

 わたしはそれを問いたい。

 

 この場合、一番に挙げられるのは、歌詞の問題あたりだろう。文芸においては、作品に音楽が引用される際、大抵は歌詞内容か、その音楽の時代的な受容体験(個人の、よりは、集団の、を前提とした)でしか、引用がされない。

 さもありなん。所詮文芸は「音」を排除したところにある芸術ジャンルである。むろん、韻律は無視できないし、そも、文体のテンポというものは、意識的なものよりも、体感的なものである。

 それをほかの作家よりも、最も強調して述べていたのが村上春樹である。彼はたびたび、文体……文章なるものは、「リズム」がないと話にならない、と述べている。どんなに意味のある文章であっても、リズムがないと人は読まない。そしてリズムを担保するのは、その作家の「耳の良さ」である、という主張である。音楽知識というよりは、音楽体験の絶対的多寡。リズムを、ビートを体にたたき込ませること。

 はて、誰が、文芸批評において、そのようなことを述べていたであろうか。よしんば述べられたとしても、それはだいたいにおいて、文体論の余録として「この作家のリズム感はすばらしい」の一言で片づけられる……ほかないくらい、文芸において「音」なるものの感覚を記述するのは難しい。

 話はずれたが、結局、そのくらい、文において「音楽そのもの」を現出するのは難しいのだ。だとするならば、

引用するならば、歌詞(文学的内容)と、時代的/社会的体験、ということになる。

 後者についてであるが、それがそれほど大事か、というと……結局音楽なるものが「耳で聞いて、自分で判断するほかなく、かつそれを言語化できる者がほとんどいない」状況において、ある音楽作品の一般解を求めるとすれば、その最大公約数的な言説をとるしかない。それが音楽そのものの本質かどうかはともかく、そうするしか「読者に、文章を読ませて音楽を頭に鳴り響かせる」方策はないように思える。

 

 さて、以上ふたつ。歌詞と時代状況。音楽に対する文学的・社会学的アプローチ、と言い換えてよろしい。そしてこのふたつは、それほど「分かれる」ものでもない。文芸の価値が時代によって変化するのならば、歌詞の解釈が時代によって変化するのも当然であろう。

 もっとも、歌詞は、曲を担保として存在しているのだから、文芸よりも、解釈の方向性が、極端にバラケることはない、とも言える。

 ただ一例をあげるとすれば、「その当時どうでもいい意味でしかなかった歌詞が、後代、解釈が変わって文芸性を付与される」こともある。演歌、歌謡曲、ブルース、ヒップホップの類がそうである。通俗曲(ポピュラーミュージック)の歌詞の文芸価値が「それなりに把握」されるには、わたしの見たところ、おおよそ数年から十年はかかる。それでも早くなった。今は、ポップスの歌詞を通じて、時代性を計るメソッドが確立されているから。先人の音楽ライター、在野の音楽愛好家によって。(論壇において通俗歌詞論など、学者、評論家のコレクトな仕事とは、この国では見なされてこなかったではないか)例えば演歌の文芸的解釈(=「艶歌」)論ひとつにせよ、ほぼ五木寛之が独力で成し遂げたようなものだ。

 なぜそのような現象が起こるかというと、音楽のクラシック化である。俗に言えば懐メロ化。

 ある文化……ここではとりあえず音楽を例にとるが、それがクラシック(古典)とされ、芸術的に神格化される理由は、わたしにはほぼひとつしか見受けられない。

 【若いころの愛好者たちが、エスタブリッシュメントになった】

 ただそれだけの理由である。よくいわれる「そもそも内在していた芸術性が、時代に追いついた」「リスナーの耳の柔軟性が増した」「音楽に対する人間の感受性が進化した」……

 ……進化? まあ、コレクトと思えるものが少しでも広がったのなら、進化と呼んでもよいが、しかし、昔若人であった彼らが大人になり、上でいわれるようなことが、どの音楽ジャンルでもいわれる。似たようなことは文芸でもいわれる。漫画、映画、その他もろもろ。

 それは、ジャンルが内在する、芸術的真正なるものの、発露によるものではない。単なる時代状況の変化である。若人は大人になり、社会的地位を増し、自分たちが好きなものを好きと臆面もなく言えるようになった。大人になったぶんだけ、自己正当化も可能になった。反論に対して、絡め手で対抗することも。若いころ、「大人」たちからの迫害に対して、暴言で返すしかなかったのとは違って。

 ではそのもと若人たる大人は、次の世代にどうするのか? より柔軟な感性でもって、次の世代を……やっぱり前の世代と同じように、「新しい音楽」を、迫害するのだ。

 あまりにもその例が多すぎるので、ここではいちいち「引用」することもしない。パンク、ヒップホップ、テクノ、ボーカロイド、あたりを述べておけば十分であろう。

 

 そのように予防線を張った上で、歌詞の文芸性、および歌詞の引用可能性に話を戻す。

 ある時代を描く上において、その時代の象徴的な歌詞を引用するのは、手垢がつきすぎた方法であるが、間違ってはいない。

 が、全部の歌詞を引用するわけにはいかない。その中のワンフレーズあたりである。パンク小説だったら、「ノー・フューチャー」のように。

 このように論じていけば、「引用とは、先行する偉大なる作品から、一部分だけを好き勝手にはぎ取るようにして【簒奪】する行為でしかないのか?」という反論がでるのだろう。

 わたしは答えよう。Da.然り。

 では、そのような方法論にやたらと頼るような作家・作品は、低俗なのか、という再反論が出よう。

 わたしは答えよう。ニェット、否。

 論考の流れ、結論とまでは言えなくとも、わたしの立場は見えてこられたかと思う。簡単にまとめると、

 

 1。ベルクソンの【純粋時間】や西田幾多郎の【純粋体験】めいた純粋な芸術(体験)というものは、娑婆に存する以上、難しい。というか不可能。

 1ー2。にもかかわらず、それを志向しない限り、芸術は【ひとの作る高み】の意味を失ってしまう。

 

 2。時代状況からは逃れられない。意地の悪い見方をすれば【時代状況をヘイトし、アンチ】になったとして、その方法論もまた、時代状況の一部なのである。事例:不良文化(ヤンキー)、オタク文化(これについては4。で詳細に述べる)

 

 3。音を文章で表すことは不可能に近い。

 

 これまでの文をざっと概観すれば、以上のようなものになる。

 では。

 なぜ。

 ダニー・ボーイの引用が、わたし(と多くの人々)に感動を与えるのか。

 上記の考えに則れば、引用という方法論は、確実性と倫理性に欠けるといわざるを得ない。なのに、古来なぜ引用は繰り返されてきたか。身も蓋もないことを言ってしまえば、原テキスト(世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド)において、歌詞の引用は「なかった」。よって、今まで述べてきたテクスト(歌詞)主義の論法は、ここで潰えた。

 そしてわたしは、これから、引用という方法論が、より、いかに立脚点があやふやなものかを、さらに論を進める。放置していた「純音楽的な立場」から。それをもって、この章の終わりとしたい。

 

 1ー3。「知らんがな」

 

 ひどいタイトルだと思うだろう、貴君は。もちろんこの小論パートのことである。

 が、ダニー・ボーイの……あるいは「名曲」を、純粋に、歌詞に囚われず、音楽批評として、楽理を援用しつつ、いかにその楽曲が優れていて、引用される価値があり、称揚しつつ、論をまとめる……ことにしても、結局、その歌を聞いたことのない人間にとっては、

 「知らんがな」

 の一言なのである。

 そして引用論……引用という行為のもっとも残酷な面がここだ。どんなに我々批評家が論じてみせても、どんなに作家が随をこらして引用してみせても、それを知らない人間にとっては、

 「知らんがな」

 で、片づけられてしまう。

 引用とは、ついに、その程度のものなのである。だがなぜひとは、それでも引用をするのだろうか……? 引用について語るのだろうか……?

 

 わたし個人の話をしよう。ケーススタディとして。

 わたしが「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を読んだのは、大学時代。村上春樹に入っていったのは、実はエッセイ「村上朝日堂」からなので、正当なハルキストとしての入り方ではない。高校時代にも、読んだは読んだが、「風の歌を聴け」「ピンボール」「羊」……の、初期三部作。ノルウェイの森は、ヒット作ということで避けていたバカ高校生であった。ちょうどそのとき、「海辺のカフカ」が出て、高校時代、村上春樹の機運が高まったのを記憶している。わたしも読んだ。しかし、正直にいうと、それであってもエッセイのほうを、よく読んでいた。

 それでもいつしか、村上春樹の本質は小説……長編小説にある、と、ごく当たり前のことに至って、主立ったものは、系統的に読んでいった。そして、この本を、大学時代に読んだ。感動した。打ちのめされた。それまでの本でも打ちのめされていたが、たぶん村上春樹で最初に致命的に打ちのめされたのは、これだろう。そこから高校時代に読んだものも、再読していって、もちろん打ちのめされた。近々出た「アフターダーク」「東京奇譚集」にも打ちのめされた。

 

 ときに、わたしは、1ー2。において偉そうに音楽批評をしたわりには、「真剣に音楽を聞き始めた」のは、これまた大学時代なのである。その経緯については省くが、それまでゲーム音楽、流行のクラブミュージックあたりしか聞いていない人間が、ジャズやオルタナ・パンク、クラシックをはじめ、全世界全時代の音楽を愛好するようになり、ほとんど狂ったように音楽を聞き始めた。具体的には、その入れ込みで親を泣かせた。

 そして、ダニー・ボーイを知ったのは、そのような「全世界音楽探究」であり、大学時代の「世界の終わり~」を知ったときと、ちょっとくらい後のことである。

 ……というわけで、ポップスとして、ましてやトラッドとしての重要性を、ダニー・ボーイに対して、それほど深く知っていなかったのである。

 

 さて。

 そのような微妙なタイムラグがあるとはいえ、一応は読書家(文学専攻の大学生)として、また、音楽(レコードマニア)として、ダニー・ボーイを、一応は知りつつ、その上で、一番最初のように「感動」した。

 この音……この曲しか、ありえない、と断言できるほど。

 それの理由は、非常に陳腐な表現になってしまうのだが、わたしにとっては、「ダニー・ボーイがダニー・ボーイという曲であったから」というように表現するしかできないのだ。

 あまりにもハマってしまった、その楽曲。自分でも未だに不思議なのだが、そのハマり具合は異常であった。

 ではなぜ? 

 他のセンチメンタルな曲ではなく、ダニー・ボーイしか考えられなかったか?

 

 当時、わたしは英語というものが苦手であって(今は多少読み書きはできる。一応海外のミュージシャンとtwitterでやりとりしたことがあるが、それでもそこらのぼんやり高校生より、まあ読めるくらいである)、で、リスニングが超絶苦手であった。……要するに、ダニー・ボーイの歌詞の内容を全然知らなかった。

 それでも、感動した=曲がハマった、のは、ひとえに楽曲の美しさが、物語のラストの情景と、あまりにハマった

からである。それだけでしかない。わたしがダニー・ボーイに感動したのは。

 では、楽理の面から、この曲を、引用論として追求していけばよろしいではないか……と、貴君は思われるだろう。正直、わたしも最初はそうするつもりだった。その意味で、さきほどスコアを読みといた。そこから「犯人探しの証拠集め」であっても、何かのヒントを探そうとした。

 が、その後、自分が、所詮、多少レコードマニアであったがゆえに、ダニー・ボーイをある程度知っているがゆえに、この感動がある、としか言えないことに気がついた。

 それがゆえの「知らんがな」である。

 いま、どれだけの人間が、ダニー・ボーイを知っているだろう? 確かに民謡として根付いている。全世界(欧米を中心として)。だが、それが日本人全体に確実に根付いている、とは、言い切れまい。実際、大学に入るまでのわたしが、知らなかったのだから。そういう人間が、少なくともわたしひとりくらいは、いたのだから。

 よって、どれだけ楽理を追求して、ダニー・ボーイを称揚したところで、楽曲を「知らんがな」のひとにとっては、まさにそのような論議は「知らんがな」であるのだ。村上春樹の音楽センスに恐れ入ることはできても、それは畢竟、「情報」である。それが無駄とはいわないが、だからといって、感動の度合いが増すとは言えないのだ。トリヴィアルな知識にすぎないのだから。

 例えるなら、この小説が、江ノ島近くの海沿いの町で書かれ、当時村上春樹が住んでいて、よく近場の「ホノルル食堂」で昼食を食べていた、という情報と、大差はない。(村上、吉本由美都築響一のへんてこ紀行文「東京するめクラブ 地球のはぐれ方」での述懐より)

 

 引用もとを知らない人間にとっては、引用をしたところで、基本的に感動が保証され、バーストされるわけではない、というのが、この小論での要旨である。

 それでは……「それでも」、なぜ、ひとは(作家は)引用をするのか。