清潔を巡る問答ーー熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』感想その3

 

その1

熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』一読目の感想 - 残響の足りない部屋

その2

『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』感想その2 - 残響の足りない部屋

 

この本の第5章は「秩序としての清潔」です。
「清潔」の分析をします。

 

Q「清潔でなくてはならないのですか?」
A「国民総出で全家庭が皆ことごとくオール・ボットン便所に戻りたくはなかろうでしょう。いやボットン便所もまた清潔への第一歩だったのですよ」

Q「清潔であるメリットは何ですか?」
A「疫病の回避ですかね」

Q「では疫病を回避できたら、そこでクリアっつうことで、どんどん増大していく清潔志向は、ほどほどに解除できないもんですかね」
A「いえ、次の疫病、次の汚濁、次の次の不潔を駆逐していくのが清潔道です」

 

Q「そもそも人間って動物は不潔ではないのですか? 平野耕太は漫画「ドリフターズ」で、戦国時代の人間観として「俺もお前も糞の詰まった肉袋」とキャラに言わせていますが」
A「アレ戦国の蛮族死生観やん」
Q「でも人間という動物の構造は変わっていないわけですよね。おつむに情報をたくさん詰め込んだら、戦国時代の蛮族とは別の知性体になれた、と断言はできますでしょうか」
A「当たり前に人を殺していた時代よりは進歩しているのでは」
Q「そこなんですよ。我々は現代人だ、って言っておりますが、たかだか70年前、世界大戦をやっていたじゃないですか。あの時代の方々を侮蔑するつもりはございませんが、あの時代の民衆の思考回路の極論に「生き残る為の殺人の肯定」は有った、と言えなくもないんじゃないでしょうか」
A「それを発言する時点で現代社会ではギルティの予感がしますぞ」
Q「もうちょい。つまり戦後70年を経て、戦後世代、まして先進国のミレニアル世代にとって、「生き残る為の殺人の肯定」は「漫画か?」というのが基本的思考回路です。だけどこの変遷はたかだか70年でしかないわけです」
A「つまりあなたの言いたいことは……死生観や清潔観といった人間観・世界観のフィジカル側面は、ただの現代人の加速した思い込みに過ぎない、と?」
Q「そこもうちょっとお話で詰めてみません?」
A「いいでしょう」

 

Q「本書の熊代氏はこの章で「秩序・清潔」と「暴力・不潔」を対比させて語っていますが、「秩序」を担保し保障するのは暴力です」
A「芥川龍之介の「侏儒の言葉」でも引いてみますか。---「しかしまた権力も畢竟はパテント※を得た暴力である。我々人間を支配する為にも、暴力は常に必要なのかも知れない。あるいはまた必要ではないのかも知れない」」

※パテント……特許

Q「人間を管理するためにも、清潔は常に必要なんでしょか」
A「いや、そこは違います。清潔はやはり耐えざる社会の衛生メンテナンスによる【善き報酬】にほかなりません。というか、そうであるべきなんです。清潔はステータス画面のグッド・パラメータであったはず」
Q「はず、ですよね。じゃなんで、こんなに息苦しいんですか、清潔衛生志向の現代コロナ禍社会は」
A「やはり清潔を強迫する【強迫性】によるものではないでしょうか」
Q「暴力と強迫の違いは?」
A「単純に、暴力によるやがての破壊を手前にほのめかす圧力……それを強迫と呼ぶのではないでしょうか。語義的には」
Q「強迫性障害によくみられる、過度の圧力反復性は?」
A「……良い指摘です、と言うのもなんですが(苦笑)。つまり清潔という【目的】を完璧に完遂するために用いられるのがそれ、と考えるのが妥当でしょう」
Q「なるほど、完璧に完遂。あなたがおっしゃった清潔道……「次の、次の次の不潔」の駆逐の為」
A「やばいですね、ヘルシングの世界だ」

 

Q「熊代氏は戦後世代よりこの話を進めています。もちろん私が上記で戦中世代のラディカルさを持ち出したのは極論を提示するためでありますが、しかし戦中世代は【自然】の中で闘争を行っていた、ともいえるわけです。現代の衛生社会……人工的管理社会が到来する以前の、【自然】と共にあった社会で」
A「そこはどうでしょうね。熊代氏もこの章の末尾で、500年以上前のエラスムスを引いているわけです。【都市】の誕生と民衆の衛生志向は、常に軌を一にするものであったでしょう」
Q「おっと失礼、これは確かに。しかし、衛生を巡るラディカルさが、この戦後70年で異常加速したのは、異論ありませんね」
A「ありません。この本、つまり熊代氏の目の見る問題提起は、そのあたりの急激な上昇を巡る諸相についての問題です」
Q「【自然】の話ですが、対比されるのは【人工】です。もう少し言葉を補えば、【自然(不潔)】と【人工(清潔)】の対比ですが」
A「少し話を急ぐようですが、それを【自然(不安定、不確定)】と【人口(確定的)】と補ってもよろしいでしょうか。結局、不潔と清潔を巡る話は、人間の「不安定で不確定な自然世界」を御する為の、安全と快適さ……つまり【確定性】を人工的に求める営み、と抽象できます」
Q「具体例プリーズ」
A「例えば便所ひとつとってみても、水洗便所を得るまでに、どれだけの人間の苦労があったか、っていう話です。草原の隅っこで獣やほかの蛮族の敵におびえながら糞をへりだす原始人スタイルから、人間は進歩しました」
Q「我々、うんこの話が好きすぎではないでしょうか」
A「汚言症なんでしょうかねw しかし、【自然】の例示としては分かりやすいんジャマイカと言ってみるテスト」

 

Q「だから【人工】は否定出来るものでなく、【清潔】も同じ。コトは程度問題ではないのでしょうか?」
A「問題は清潔道ーー「次の、次の次の不潔」の駆逐、というラディカル性をどう自覚するか、にあるのでしょう。しかし強迫性障害が一部の人間にしか、そのつらさを正しく認識されていない以上、基本的に清潔を巡るラディカルさは、オーバーキルを常とするのが普通になるでしょう」
Q「オーバーキルが普通、ですか。では次の清潔、次の次の清潔、は……」
A「ザラキめいた即死呪文に近づいてきたなぁ(涙」
Q「現代人は戦争でもしとるんですかw」
A「そこです」
Q「えっ」
A「相互監視社会、ディスコミュニケーション、正論ポリコレ合戦、リスク管理、除菌……実際のところ現代人は相互に【闘争】をしている、というモデルを、もはや早々に当てはめてみた方が、安全側の議論だ、という気が、わたくし、あなたの言葉で急激にしてきました」
Q「これは【市民社会の議論】のレベルではない、と?」
A「「万人の万人に対する闘争」ということばがありましたね。悲しいですが、現状が「そうではない」と言い切れますでしょうか。もちろんホッブズが『リヴァイアサン』で描いていたものと逐一の一致はしませんが、しかしインターネットを見るだけでも、万人が万人に対して闘争してるように見える時があります。どうでしょう」
Q「……じゃあ、どうすればいいんですか」
A「………………」

 

Q「清潔を巡る話が、「万人の万人に対する闘争」にまで行きついてしまったのは悲しい話です。いったい皆誰と戦っているんだ(AA略)、っていう」
A「ここで熊代氏は【清潔】がおかしいのでなく、清潔を維持しながら【排除、阻害、先代からの不合理】を普通の人々に喰らわせるに至ったなにがしかをきちんと検討し、この現代社会の人工的な秩序というシステムそのものをチェックする必要がある、と述べています」
Q「前回の記事でこのブログの管理人はメンテナンスの必要性を言いましたが」
A「それが暴力性や強迫性につながらなければ良いんですがね。少なくとも、現状の清潔社会もまた、ある種のメンテナンスを絶えず行ってきた結果であるのですから」
Q「つまり、闘争に陥らずに、メンテナンスを続けていく【無限の撤退戦】が今求められるというのですか?非常に地味な結論になりますが」
A「いっぱつカマシたれ~、的な革命思想にまずは陥らないのが重要です。というか、一番最初に話を戻しますが、この社会の【清潔】なるものを、自分自身が勝ち取って磨き上げていない(つまり所与の前提となっている)事も、そもそものオカシな話であるのです」
Q「まぁ、自分でキレイにしてメンテナンスした玩具は愛着がわきます……そういう話ですかね?」
A「それを社会にまで敷衍できたら良いですね、という話です。しかし安易に社会参画がどーの、というのもわたしの趣味ではなく。やれる範囲で自分の生活のメンテ。それがそもそもの【清潔】だったはずですから。なによりも問題は「次の、次の駆逐」という清潔強迫性障害なんです」

 

(熊代氏のこの本の感想はまだ続きます)