残響の足りない部屋

もっと多く!かつ細やかに!世界にジョークを見出すのだ

ガールズ&パンツァー「愛里寿・ウォー!」読解考察

【筆者の2016/5/29現在のガルパン経験値】

・本編はリアルタイムでは見れなかったが、BS11でのテレビ再放送とバンダイチャンネルとアマゾンプライムビデオで何回も見た
・劇場版は、映画館で3回見た。
・DVDを買った。アマゾンで予約して。1回通して見た。

・「これが本当のアンツィオ戦です!」も当然見た
・本編パッケージDVDはまだ買ってない。なお、ウチにBD試聴環境が整ってないため、本編BDも持ってない。
・「月刊戦車道」は買おうとしたときには売り切れだった
ガルパンでガキ以来の戦車模型に出戻った。今ではほぼ毎月「アーマーモデリング」買ってる。こないだ買い逃したBT-42を再発でゲットした。今はプラッツ(ドラゴン)のまほティーガーI作ってる。
・コミカライズは、「リトルアーミー」は、I、II、両方読破した。「リボンの武者」も読破した。「マジノ戦」はまだ。才谷屋版コミカライズはまだ一巻だけしか読んでない。「らぶらぶ作戦」は読破した。
・サントラとドラマCDもまだ買ってない。配信で「Dreamriser」と「Piece of youth」は買った。
・大洗には行ったことはない
・推し:恋の呪文はミカアキミカアキ

 


さて、発売前に予約したひとたちは、劇場版ガルパンBD/DVD届きましたね。今は、おもっきし見まくってることと思います。
ですが、劇場版本編を見るだけで、おしまいかい……?まさかね。
我々は、なぜパッケージを買ったか?もちろん、あの興奮を、いつでも見返せるというのはあります。ガルパンおじさんの粘着力をなめるな。
だが……そう、そうだ!
映像特典の「愛里寿・ウォー」が、俺達を待っているのだ……!

この読解・考察記事は、ガルパン初心者を最初から振り落としてガルパンおじさん・おばさん向けに特化しています。
「西住流と島田流の関係」「なんでIV号戦車があんこうやねんww」という人を最初から想定していません、読者として。ガルパンマニアにだけ向けた記事です。
では、ガルパンマニアになにを訴えかけたいかとういうと……

「愛里寿・ウォー」、最高だったな!

ということです。
そういうわけなので、この記事は、徹頭徹尾「愛里寿・ウォー」、ひいては「ガルパン」の礼賛にすぎません。アンチはさっさと帰ってください。

なお、記事の進行は、基本、「愛里寿・ウォー」の物語進行と共に語っていきます。画面キャプは張りませんので、暇な人は、愛里寿・ウォー見ながら、この記事読んでみてください。

でははじめます。パンツァー・フォー!


●主題歌「DreamRiser

上記のように、ガルパン本編のDVD/BD持ってないもので、映像特典の「○○・ウォー!」を見たことがなく。
というわけで、「○○・ウォー!」シリーズで、このように主題歌が流れる仕組みになってるかはわからないのですが、とにかく、のっけからTVシリーズのように「タカターン!」と主題歌が流れ、あのOPになる、っていうのは、なんとも懐かしい。

(※主題歌「Dreamriser」「Enter Enter MISSION!」「Piece of youth」が、「島田愛里寿」という少女とどのように関わっているか、についての考察は、本筋とは離れるので、記事末尾で補足という形で取上げます


●学園艦が戻った

お話は、愛里寿が「大洗に転校したい、高校生活送ったことなかったから」ということで、愛里寿が転校してくるとこからはじまり、愛里寿が来て、見て、楽しんで、そして物語は終わります。なんというシンプリティか……

さて、学園艦ですが、愛里寿率いる大学選抜戦を終えて、無事に学園艦は彼女たちのもとに、名目ともに戻ったようです。これでまた、小役人メガネが策を練って「やっぱアレなし」にしたら、流石に「もうええかげんにせんかいっ!」と怒鳴りたくなります。

劇場版であのような感動的な「学園艦が戻った姿/みほの心からの笑顔」が、絵として写っている……わたしはあれを見て、例えようもなく感動的だったにも関わらず、どこか一抹の寂しさを覚えていたのも事実です。
それは「ああ、もうガルパンは、これ以上はなく、ここで終わりなのだな」
という寂しさです。

去年の冬から今年初旬にかけて……劇場版を見るまで、なんか、この劇場版がやってる、ってこともあって、ガルパンはこれからも延々と続くのかな?というイメージめいたアトモスフィアを一瞬感じていたのです。ですが、劇場版見て、確信してしまったのですね。
「ああ、もうガルパンは、これ以上はなく、ここで終わりなのだな」
ということを。それだけ感動的なラストであったのですが、しかしファン心理としては、さびしいものを覚えていたのも事実。

で、今回の愛里寿・ウォーでもって、「これからもあるよ!」というふうに心をウキウキさせて……は、いません。ぼく。なんといても、これはサイドストーリーなのですから。
ただ、ファンとしての心理はともかく、学園艦がいつもと同じように戻ってきた、ということ。それは、彼女たちの戦いが無為ではなかった、という何よりの証左でありました。だから、いつもの学園艦の呑気な描写に、ちょっとした安堵……というか、安堵と静かな感動(劇場版を経ての持続的な感動)を勝手に覚えたわたしでもあるのです。


●愛里寿は誰からも嫌われていない

それにしても、愛里寿は皆から好かれています。というか溺愛されています。
会長が手元に大事そうに備えている写真。それは大学選抜戦のあとの集合写真ですが、一番真ん中に愛里寿が写っています。ヴォイテクと一緒に。よく見れば、会長が愛里寿の肩に手をかけているようにも見えます。みほは、愛里寿からのボコ……「勲章」を持っていますね。

「え”? 島田愛里寿が転校してくる?(イヤだなぁ面倒だなぁ)」というのではなく。誰一人としてそんな感情を表してはいません。
「え、島田愛里寿が転校してくる!?やった、楽しくなるぞっ!」
という、嬉しさしか、大洗の面々からは伝わってきません。

さて、愛里寿といえば、大学選抜のリーダー。「敵」でした。
なぜ、これほどみんなから、喜ばれ、溺愛されているのでしょうか。

「そりゃあ愛里寿たんが超ぷりちーだからじゃっ!」
と愛里寿オタのひとは豪語しそうですが、ちょいおまいらもちつけ。いや、それを否定なんて、全然出来ない……ましてや「愛里寿・ウォー!」を経ての我々には、愛里寿のぷりちーを否定できるわけがない。

が、論点がずれてます。
「なぜ大洗の面々は、愛里寿を溺愛するか?」

まず、逆説的ですが、愛里寿が「強大な敵」だったから、といえます。戦車的に。
それほど、愛里寿は強かった。ボコの歌を歌いながら、単騎で乗り込んできてからの、超無双は、ガルパン至上例をみないものでありました。
さらに、指揮官としても相当の腕前。アズミ・ルミ・メグミという大学のエース級を完全に掌握しての指揮。
そしてやはり、最後の西住姉妹との激突。あの最強西住姉妹を一人で相手して、互角以上に渡り合うという、戦車乗りとして作中最強クラスの腕前。
まさに、覇王的な存在であります。

ですが、愛里寿は強大な敵ですが、「あくどい悪さ」は一切していないのですね。ここがポイントです。
つまり、学園艦つぶしや、戦車戦の妨害は、あの小役人メガネが全部やっているのです。ガルパン劇場版での『悪」……というか、戦車道にはずれた、こすっからい行為というのは、全部小役人メガネがやってる、というふうに、「敵の強さ」と「敵のあくどさ」が分離しているのです。

ところで、以前自分が見た面白い考察のひとつに、
「なぜ島田千代ママ(ちよきち)は、愛里寿が試合に負けたのに、ボコミュージアムのスポンサーになったのか」というのがありまして。
それは、単純に娘かわいさの親バカ、というのもありますが、しかし、
のない戦いを、娘にさせてしまった」
という、仕方なしとはいえ、親……まして戦車「道」という、人格育成も含めた武道の体現者・島田流家元(愛里寿の師匠)としての、罪の意識、というのが、千代ママにある、という考察です。

あの選抜戦は、ガルパン作中の世間からも言われているように、義のない戦いでした。大洗を「つぶす」ものでした。策というか、こすっからい作為というか。そんなものを、めっちゃ動員して。
「あの戦いは、ほぼ大洗の公開処刑」というふうに言ったひともいます。
英雄の首を撥ねる首切り役人は……大体、ヘイトをくらいます。キリストに槍をぶっさした役人が、後世、いい描かれかたをしないように。
再度いいますが、悪は、小役人メガネなのです。愛里寿は……「たまたま」使われた最強の武器、だっただけなのです。

そういうことを、大洗の面々は、皆知ってたわけですね。というか、ここまで考察しなくても、「わかってるよっ!」と、大洗の面々には一蹴されそうですね。これもまた、大洗の面々の魅力でしょうか。(妄想

そして、戦車でもって正々堂々と戦ったら、そこには友情が生まれる、というのが、この作品のテーマのひとつです。百の言葉よりも、一回の戦いで全てを悟る。
だからこそ、大洗は、島田愛里寿を、溺愛するのです。強さを……その中にある、愛里寿の姿を、戦いを通して感じ取ったから。


●桂利奈の演技派

ウサギさんチームは、はじめて入る「後輩」に色めきだちます。そこで面白い挙動を見せたのが、ウサギさんチーム随一の脳筋……というかアホの子の桂利奈です。
なんというか、「こうだったらかわいいよね、後輩愛里寿」を完璧に演じきってみせました。まさかこれほど、演技派だったとは思いませんでした

強引にその理由を考察してみると、彼女は特撮とかが好きなようで。それでもって、こういう演技が旨くなったのかなぁ、と、一応は理由付けしてみますが、やっぱ強引かな……。

それにしても、そこからの流れるような桃ちゃんdisには、惚れ惚れするような、まさに伝統芸能のような滑らかさがあります。そこで言われてる桃ちゃんの欠点って、何一つ間違ってないんだからまったくもうw


●風紀委員はもう麻子が大好きなんだから

風紀委員トリオは、愛里寿が「不良」だった場合どうしよう、という想定をします。
ですがここでまた演技をするのですが、その演じた姿というのが、ほとんどまったく、麻子にそっくりなのですねw

ああ、そど子(たち)にとっては、麻子が「不良」の典型例なのだな……と。というか、風紀委員たちにしてみたら、あの穏やかな学校で、麻子程度の不良が「不良の典型」になるのだから、よほど大洗というのは、呑気な学園なのだなぁ、と。エリカやアリサなんか転校してきたら、もう大変ですよね。


●自動車部

ええと、ぼくはミリタリは好きですが、自動車には詳しくないので、ここでの専門ネタは割愛します。もっと詳しいひとが解説してくれることを望みます。しかし、ここで島田ちよきちが出てきたのは「なぜにw」と笑ってしまいましたね。一切……いっさい、大洗の面々とのカラミ、なかったでしょ、ちよきち!!

 

●ボコ好きのテンション

ボコと聞いただけでテンションが上がる、軍神西住殿であります。ボコについては、このあとの「お泊り考察」でしますので、ここでは割愛。

 

●愛里寿の弱さ

今回、今まで無敵だった愛里寿の「弱点」が次々と現れます。
船酔い、トマトソース、チーズ、アンチョビ、オリーブオイル嫌い……まさに子供!
バレーもそんなに好きでない……。
別にネタを並び立てているわけではないですが、結構好き嫌い激しいのね、と思わされます。しかしわがまま前回、ということもない、演出の絶妙のさじ加減ですが。むしろ、ここでちょっとのスパイス的な「好き嫌い」を演出することによって、もともとお姫様的な愛里寿の人物造形に、お姫様的な深み(きらびやかさ)が付与された、と考えるのは、俺も愛里寿に相当毒されてきたロリ魂だというのか……!!

しかし、よく考えてみれば、劇場版では、愛里寿というのは「完璧に強い」としか描かれていません。
このあたり、……まだドラマCD第五巻を聴いてないのでなんともいえませんが、継続ミカが、本編での完璧超人スナフキンぶりから、どこか抜けてるキャラ、へと属性が、ドラマCDで付与された、という風の噂をききました。

これと似ているとこはあって、ようするに、愛里寿の最強性を、これ以上喧伝する必要はないのです。それはもう劇場版でおなかいっぱいです。
むしろ、弱点……抜けているとこを描写することにより、よりいっそうの魅力を!ロリ的魅力を!というとこが、今回の弱点描写において重要なのです。

しかし……「愛里寿・ウォー!」の恐ろしいところは、弱点を描写することなど、序の口だというのです……「お泊り」で描かれた愛里寿の上限を突破した、殺人級の可愛さといったら!!!


アンツィオの魅力

なんでこいつらいるねんww
しかし、アンツィオだったら、いてもサモアリナン、と思わせるところがあって、俺もアンツィオに毒されてるな……としみじみ。

それにしても、すげなく愛里寿に断られておきながら(アンツィオの食を否定するって、全否定じゃないですかーーー!!!)、ほぼノータイムで残念会に切り替える切り替えの速さ、タフネス! これぞアンツィオアンツィオたる、陽性の理由ですわ。だから皆、アンツィオが好きになってしまうのです。


●学校紹介

皆、自分のことばっかり……ですが、これは「自分たちの流儀で愛里寿を迎えよう」というとこの、証左です。
皆が、「転校生にはこうしておけばいいだろう」ではなく、自分たちの流儀で楽しんでもらおう、ということをしています。まさに愛里寿溺愛です。その理由はさっき語ったから、繰り返しません。

ですが、さらに上を行くのが、あんこうチームであって、この少女たち、一番「ふつう」な対応をするのです。
なんというか……まあ、あんこうチームって、歴女チームやネトゲチームのように「これ!」っていう特色はないです。ですが、彼女たちは、「大洗で女子高生の友情生活」を一番楽しんでいる、といえるチームではないでしょうか。

そのことは、本編でもう散々描かれたのですが、しかしよいものは何度見てもよいものです。放課後、愛里寿を誘って、お茶したり、鍋を囲んだり。
なんというか、ここで「Piece of youth」が流れてもいいくらいの平和な姿に、おじさんは涙ですよ。まさに、「いつもの放課後」が「大切なピース」であるのです。このときの画面描写は、夕日の光が複雑に幻想的で、しかしやさしくて、とてもいい感じです。

島田愛里寿にとって、「普通」とはなんでしょうか。このことは、末尾での「主題歌と島田愛里寿」でもまた語りますが、島田愛里寿は、「普通」とは、とにかくかけ離れた天才少女です。飛び級、戦車道の家元の娘、天才指揮官/天才戦車乗り……。

でも、そんな少女が……いや、そんな少女だからこそ、「普通」の生活にあこがれていた、ということがいえます。
ある意味で、それはみほが普通の生活、に憧れていたのと、ほとんど同じかもしれません。いや、同じでしょう。

みほは、過去の重い失敗から、逃げるようにして、「普通」を得ようとしました。
逆に、愛里寿は、別に逃げてないのですね。逃げてはないですが、しかし、「別に逃げ場所もなかった。安らげる場所もなかった」とは、言いすぎでしょうか?

言いすぎかなぁ……ちよきちも、そんなに鬼のように厳しい母親には見えない……あ、いや、神経質かもしれんがw
ただ、彼女が生まれ持ってしまった「才能」という道は、彼女の人生に「普通の穏やかさ」を与えるものではありません。

天才の孤独」というものがあります。あまりに能力、才能が隔絶しきっているからこそ、普通のひとの生活ではいられない、普通の時間の流れではいられない、というものです。
それは、すごい緊張を強いる時間の流れであり、生活です。
ましてや、ただの天才ならともかく……愛里寿は、十年に一人レベルの天才。飛び級は、みほ・まほですら出来ないのです。
(戦車道の天才と、お勉強の天才はまた違うでしょうが、それでも「隔絶した能力・頭脳・才能」は、やはり、戦車道に影響を及ぼさないわけにはいかないでしょう)。

そういう意味で、「別に逃げ場所もなかった。安らげる場所もなかった」……のが、愛里寿であった、とわたしは考察します。
……ボコ以外は。


●みほとのお泊り

かわいい……ここで愛里寿がボコパジャマに着替えて、みほの家で楽しく過ごします。かわいい……殺人級の可愛さや!

しかし、ボコの秘蔵DVD(西住殿の口から「秘蔵DVD」という言葉を聴くことになろうとは……)を、暗がりのなか、みほと愛里寿、二人でじいぃいぃぃいぃっと見るのには、さすがに二人の「心の闇」を垣間見ますねw

もちろん、上記で考察したように、みほと愛里寿、この二人の天使……じゃなかった(いやマジ天使!)、天才は、「孤独」ゆえの「ストレス」を抱え、「逃げ場・安息の地」がそんなにありません。ゆえの、ボコ趣味であります。

……とはいっても、それでも、ボコはなぁ……w いつにも増して、サツバツとしている秘蔵DVD。やっぱりボコはボコられる。

これまで、ボコでしか、内的ストレスを浄化することの出来なかった二人でありました。
しかし……就寝時、愛里寿は最高の笑顔を見せます。それはボコを話題にしたものではなく、みほが発した「友達と一緒にすごすのが、高校生活では一番たのしい」という言葉に、です。

これは、愛里寿もまた、みほたち大洗の面々との、「友達」になれた、ということ。
そして愛里寿とすごせたこの1日もまた、「高校生活で一番楽しい」ひと時に違いなかった、ということです。論理が理詰めでめんどくせえですが、こんなことは言わなくたってわかるよなぁ!
そりゃあ、愛里寿もまた、天使の笑顔になりますよ!


●……しかし、入学せんだった

入学しなかったオチが、「大洗の生徒になってしまったら、みほと戦えなくなる」から、というのは、超論理でした!
が……もちろん、愛里寿は、大洗の面々と過ごした1日を、価値ないもの、と思っているわけではありません。あの笑顔がそんなわけでは!

むしろ、「戦車道の試合」もまた、「友情」の営為なのです。いや、愛里寿……生粋の戦車乗りにとって、「戦車道の試合」こそが、友情の姿に他ならないのです。最も友情を確かめ合えるのは、戦いのなかで。

まさに、「戦車道には、人生の大切なことが全て詰まってる」のです。
永遠のライバルと言う形にこそ、意味がある……!

しかし、それにしても、他の学校に愛里寿入学できるんだろうかw


●愛里寿・ウォー!というタイトル

ここまで長らくお付き合いいただいて、ありがとうございました
さて、記事の結びとして、タイトル。
これは、実はトリプルミーニングでしょう。

(1)愛里寿を獲得しようとする、大洗の面々の戦争
(2)愛里寿の戦争的な可愛さ
(3)愛里寿……うぉぉおおおおおおおおおおおおお!!!!!(叫

(2と3、同じやないか!!)
ひどいオチ


●補足「主題歌「Dreamriser」「Enter Enter MISSION!」「Piece of youth」と、島田愛里寿という少女の夢」


本文中で述べたように、この主題歌、いずれも「みほたちの歌」であります。どこまでも。
「じれったい夢」は、愛里寿には似合いません。さくっさくっと、夢はかなえていってしまうのが、天才です。
世間の「無関心」は、島田愛里寿に似合うものか。天才の挙動は、ニュースになるほど。

そう、とにかく「DreamRiser」は、負け知らずの少女、天才・島田愛里寿には似合わない。

「失敗して」「落ち込んで」……愛里寿はこういうことをするでしょうか?あの天才が?
元気出せ「気にしない」……最初から愛里寿は気にしてないでしょう。

そう、また、「Enter Enter MISSION!」も、負け知らずの天才には似合わない。

では、これらの歌は、島田愛里寿には無価値なものか?
ここで、島田愛里寿もまた、「DreamRiser」である、との考察をします。

「明日を変えていくの 過去最高にドキドキしてる!」
これは、「DreamRiser」二番の歌詞ですが、愛里寿もまた、大洗の平和さを、ひとつの「夢」ととらえ、この学校に転校することを、ドキドキしていたでしょう。

そう、愛里寿は完成していますが――まほお姉ちゃんとその点似ています――しかし、それでもあの大学選抜戦を通して、また変わっていこう、という決意を、その小さな胸に抱いているのです。
その前を向こうという、精神。そこが愛里寿の素直さであり、輝きであり。老獪に「これでもういいや」という諦めは、愛里寿ではないように思えます。

愛里寿だって……まだ愛里寿は13歳です。

「もっと強い可能性になれ」!
そう、何かに……戦車道に、鼓舞されたのでしょう。そうでなければ、世界はずいぶんと薄ら寒いじゃないですか。

そして、愛里寿の夢は……?
愛里寿は、別に戦車の修羅としてしか、生まれてきたわけではありません。日常の幸せの欠片をもまた、拾いながら生きていくことに、少しずつ目覚めた少女なのです。
それが、「愛里寿・ウォー!」の言外の意味であり、ここで「Piece of youth」に繋がってきます。

この大洗での日々が、また「ぼくらの欠片」のひとつであり、それが「ぼくらの未来 作ってく」であるのです。

この先、また、愛里寿は大学選抜のリーダーとして、世界に羽ばたいていくでしょう。そこで、連戦連勝もあるでしょうし、敗北もあるかもしれませんが、それは、今のガルパンでは、語られない物語です(……案外、「リボンの武者」がサラっと語ってしまう可能性もなきにしもあらずw リボンなら……w)。
しかし、まだ愛里寿も、「誰も知らない 進化系の今」である、ということ。彼女もまた、そのような可能性(Mission)に向かって「Enter」であることは……って、ちょっとギミックじみた書き方が過ぎたかな。

それにしても、デフォルメ愛里寿とセンチュリオン、可愛すぎじゃないですか?

 

オイィ!?クソ長文魔・残響が、てめえの長文癖を後悔しだしたぞぉっ!?

ぼくの悪癖に、「ついつい長く引き延ばす」というのがあるっぽい(ニアリーイコールで、「余計なことを書く」)。これは創作小説でも、こういうブログでも、評論(レビュー)でも。
長くすればそれだけ、そのぶんだけ物語れるという保証があるんだゼ、と信じていたフシがある。
なぜだろう?別にそうだとは限らないのに。

 

文章によって、物事の、伝えるべき要素が、1、2、3、4、5、とあったとして。
「1~5」の伝えるべき要素を全部伝えきったら、基本「伝達」は終了である。
さて今ここでぼくは紙を広げ(比喩的な意味で)、ここから「1~5」を順番に伝えよう……としてないのが、ぼくの常だ。
ぼくは、思いついたままに書く。そりゃあ順番を決める構造構想とかがめんどいってのもある。他人のことをあんま考えてないってのもある。……それと、ぼくは「1~5」以上のことを書こうという高望みをしているのかもしれない。

 

なんというか。「伝えたいおっきなもの」っていう概念があって。
これは5つくらいじゃ収まんないぞ、という思いこみがあって。伝えたいことの事実っていうのは、だいたい5つくらいなんだけど、でもそれは個数であって、実際の質的なものは、10も20も面積でかいぞ、というか。
でも、それがそもそも錯覚なんだよね。

 

おっきなもの、を分割することから、論理的理性的な、構造でもって書くという営為がはじまる。
ぼくは、こういうことをあんまりしない
分割すると、夢が……おっきなものへの夢がなくなってしまうからか。でも、そんなんでなくなるような夢は、たいした夢じゃないことは確かで。

 

だいたい、ぼくの長文におけるウィークポイントはここだ。
整理すれば、
・残響はおっきなものを書きたがる
・残響は論理分割をめんどがる
・結果、よくわからないモノが書き上がる。読みにくい

ってとこだ。

 

長く引き延ばす。

あるいは、ぼくは自分が「分割し、論理でもって、結論を出す」という能力に、内心欠けていることを、見たくないからか?
それかもしくは、長文指向にしてれば、自分がいつかたいしたモノをかけるんじゃないか、っていうふうに、夢見がちな人間でいたいのか。
どちらにせよ、ロクなもんじゃない。

 

文章を他人のために書くひとだったら、はじめからこういうことはないのだ。わかりやすく書くから。
ぼくは、そういう親切心が足りない。人徳がないなぁ。自分の話ばっかりというか。そう、文章で、自分の話をしすぎてしまう。他人の話はよく聞くけれども、その実他人に向けた言葉で語らない。これがポイントだ。

これは、改善がきくのかな?わからないな。それなりに努力がいりそうな気がする。

 

そもそも、だいたい長い文章をひとは読んでくれないって時代に、どんどんなってる。
5000字で限界だってさ。そんなんじゃ、残響なんて書き手は、そりゃあ迷惑だろう。

たまーに、自分の文章を読んでくれた、ってひとがいるんだけど、そのひとがぼくの文章のどこに面白味を感じてくれたのか、っていうのは、結構知りたい。少なくとも、ぼくは、ぼくの文章があんまおもしろいとは思えないからだ。そして、最近とみにーー自分は、誰にも、価値あることを伝えてないんじゃないか、って思うからだ。

俺はすなわち飛び道具文章マン、ルルル卑怯攻撃、とまではいわないけどさ。

 

もうちょっと言えば、ぼくのこの、他者への配慮心のなさっていうか、人徳のなさ。
それを突き詰めていえば、「誰かに伝えたい」って気持ちが、そんなにないのかもしれない。自分で、自分を把握したい。その一念で、ぼくは文章を書く。

……うーん、自分って、やっぱ承認欲求の少ない人間だったかw しかし、創作の原点のひとつたる、「誰かに伝えたい」って気持ちすらない、っていうのは、これ書くまで思ってなかったんで、以外であった。

 

俺の俺に対する文章。
とはいえ、それを読むであろう未来の自分というのも、また他人であるから、未来の自分が最低限わかりやすく思える文章というのは大事、っていう理屈もあって。
でも、それは「自分メモ」としての体裁が整っていればいいのだから、ああ、よけいに自分が「他者を意識したわかりやすく、おもしろい文章」を書こうという努力からは遠ざかるのであった、とっぴんぱらりのぷう。

 

あと最後に、長文ということでいえば、自分は以前、長文すごいねー、と言われたことが何回かあって、それで得意になってたことがある、のは自白しよう。
ただ、自分の長文が、「とくに内容がないよう」って気づいたとき、ああ……恥ずかしい……って思ったのも事実ね。
とくに、自分は長文でもって「おっきなもの」を取り扱おうとしてたのだけど、実際の文章では、そのおっきさが、ちっとも現れていない、というふうに感じ取ってしまったとき。この無力感ね。

 

ぼくは、ぼく自身だけに固執した文章を書いてたからダメだった、というのは、ようやくわかってきたところだ。
他者、というのを、まず文章的に念頭におくことで。他者のために文章を練っていったり、長文を少なくしていくことによって、きっと、「おっきなもの」に対するより有益なアプローチを得ることができるんじゃないか、と。そうだ、きっとそうだ。
文章とは、やはり対話であるのだから。そして対話から、いろんな可能性は開けてくるものであるのだから。

しっかし、具体例のない抽象的な記事になってしまったな今回……。

身体も心もダウンしていた二週間、癒しとなったHP/ブログ記事

どうもです。最近、「ほぼ」ネットを離れていました。というのも、身体と心が実に不調でして。正確に書けば、心がまず超不調になって、そこから身体がめきめき・バリバリ不調になっていった、という。古傷は痛むしよぅ。

で、そういう状態でネット……とりわけSNSをやると、自分の心身に悪影響を及ぼすばかりか、他人・フォロワーの方々にもバリ迷惑をかけるので、「しばらくネットせんとこ」と思ったのです。

静かな二週間をすごしていました。

ただ、ネットをしない、といっても、それは「無制限にネットサーフィンをしない」「そこかしこから溢れてくる、ネットゴシップに触れない触らない」「新たに情報を仕入れない」というもので。ネット使いを9割落とす、という。

……定義的にいえば、「まるっきりやってない」わけではなかった。そんななかでも、例外的に読んでたHP/ブログ/ネット日記、はありました。なんでぇ、ネットやってるんじゃねえか、と言われそうですが。でもそれまでの「PC開けばネット、タブレット開けばネット、スマホでもネット」というネット中毒めいた状態から比べると、使用頻度は明らかに9割以下になっていました。それに、大体、ネットづきあいのある方々のHP/ブログを、私的ブックマークから直に開いていったので。

今日は、そんな、自分的にしんどかった日々を癒してくれたHP/ブログを、備忘録的に書いてみます。

 

止まり木に羽根を休めて : この大空に、翼をひろげて 感想(バレあり)

feeさんのブログ。feeさんについては、過去に「エロゲーマー諸子百家」で書きました。

シリアスゲー・シナリオゲーを愛好される硬派ゲーマーのfeeさん。「やっぱラブラブルはあかんかったか……」と思う反面、「蒼の彼方のフォーリズム」あたりからの「空を夢を巡る、爽やか青春物語」を、わかりやすく魅力的に描いてくれました。あまりよくないルートは、これまた第三者からしたら「アチャーやらかしちまったか」と思えて笑え(笑っちゃいけないんだろうけどさ)、成功したルートは、まさに大空を悠々と飛ぶかのような気持ちのよさがこっちまで伝わってくるかのような、物語読みとしての喜びが伝わってきます。

 

mywaymylove00.hatenablog.com

カナリヤさんのブログ。カナリヤさんについても、過去に諸子百家で書きました。

全曲レビュー!さすがはオルタナ・ロック者や!

自分は、ちょっといろいろあって、音楽を語る筆を折ってしまったのですが、こういう熱の入ったファン魂の記事を読むと、ああやっぱ音楽について語るのっていいなぁ、と思えますね。

歌詞の考察、音像の考察。バンドの過去から未来への、ファンとしての歴史性をたたえながら、小ネタもしっかり拾いつつ……ってことが当たり前のようになされていますが、それこそ「ファン魂」の発露、と思い、ああこれこそが音楽ブログの基本的な精神だよなぁ……俺どこで道を間違えてしまったんだろう……と淡い悔恨を覚えながらも、カナリヤさんの記事は、「やっぱ、もっと音楽聴いてみたいなぁ」と思えるものでした。

 

M.Mの部屋

エロゲレビューサイトです。先日10周年を迎えられました。拍手!

誠実にして穏やかな筆致、それでいて「考察派」の面目躍如たる筆致。読んでいて「ああこれこそエロゲレビューの正道よ……」としみじみ。やっぱり、エロゲは、プレイして楽しい、レビューしてたのしい、というものでした。しみじみ。どこかで、自分、SNSエロゲ語りをしてて、強迫的に「語らなくちゃ!」という意識があったんですなー。

そんなM.Mさんのサイトに関しての細かな賛辞は、先日の10周年日記で書いちゃったから、ここでは割愛。(ていうかごめんなさいいきなりこんな長いの書いて……)

 

rikukaikuu.com

ミリタリーゲーム・アニメ系まとめサイトの、「ガルパン」記事をよく読んでました。かめば噛むほど味のあるアニメやでガルパンは……。恋の呪文はミカアキミカアキ……(百合黒魔法

 

elephant.2chblog.jp

SSまとめサイトの、やっぱり「ガルパン」ssを読んでました。

とくにこのSSはすばらしい。人格の「道」を表すものとしての、戦車道……それを巡るしほママの苦悩と喜びの日々を、時系列に沿って描く……まさにサイドストーリーよ。

 

www.pixiv.net

ガルパン二次創作漫画。

もうこれ正史だろ。

 

(2016.05.13)(tour)穴門山神社に行ってきた - Marumaru's TinyPlaza

 

まるまるさんのHP(ブログ?)の旅行?散歩?レポ。ほのぼのしていていいですね。とてもいい。和む。和むことこそが、今の自分には必要なのだ……。あ、M3レポ……俺も……書かなくちゃと思いつつも……

 

Nagale's Homepage「岳流」

……の日記

わがエロゲ師匠のページ。エロゲーマー諸子百家でも書きましたね。こちらも和む……というか毎日更新、ほんと助かります。ぼくが。和やかな日常を書かれていて、それがほんと和む。さっきから和む和むばっかり言ってますが、逆説的にこの二週間~一ヶ月が、どれほど心和まない日々だったのかという。

 

 

以上、こんな感じでネットを見ていました。

ネット中毒になってない人には、「なんでぇ、ネット見てるんじゃないか」って思われそうですが、

ガチのネット中毒の方にとっては……息するようにネットをするひとにとっては、「この2、3週間、これ以外のネットってほっとんど、まったく見なかったんですよ」って言ったら、すごい驚かれることと思います。

なにしろ、twitterをしていないのだから、そういう「ネットを漫然と見ていて、リンククリックしてネットサーフィン」ってことをしていない。あたかも、良質の雑誌を何度も読むかのごとく、上記記事、hp、ブログを何度も読んでいたのです。それは「ネットユース」というよりは……もっともっと個人的な、何かでありました。それもそれで、悪くない……ばかりか、自分を結構救ってくれるものでした。

記事を書いて/更新してくださった上記の方々、ありがとね。

もうちっと、ぼくは休みが必要かもですが、体力気力が戻ったら、ぼくもなんか書いてみたいと思います。

 

2016/4/29 APOLLO MUSIC AREAライヴレポート

鉄は熱いうちに打て、兵は神速を尊ぶ……ということで、今日行われたライヴレポートを書きます。

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参加アーティストは、

霜降り猫

土曜日と人鳥とコーヒー

ミズタアイコ

という、関西・神戸勢の遠征ライヴでございます。

 

●そもそもなんでこのライヴ聞こうと思ったの?

 

自分は、以前、大阪のポストロック/シューゲイザーシーンにとても興味をもったことがありまして。

それはこのブログでも何度か書いております(一部記事が、今ネット上にありませんが、追ってまたサルベージします)

modernclothes24music.hatenablog.com

 

また、このシーンのライヴにも、大阪まで参戦しにいって、見てきたこともあって。

(ライヴレポはこちら)

modernclothes24music.hatenablog.com

 

で、このライヴで、実は土曜日と人鳥とコーヒーのベーシスト、氏家(うじけ)氏とお知あいになれて。そこから、土曜日と人鳥とコーヒーを聞き込んで、こういうレビュー書いたり

で、去年も、土曜日と人鳥とコーヒー(どよぺん)は、島根に来ているのですね。霜降り猫と一緒に。霜降り猫のバンドメンバー氏の出身地ということで、凱旋ライヴを、松江カノーバでやりまして。それも見に行きました。どよぺんと霜降り猫は、シューゲイザーと、轟音オルタナ、というふうに、またジャンルや音世界がかなり違うながら、仲良く、しばしば対バンしているそうです。このときのライヴも、両者鬼気せまるものがありました。

そこから一年。今回も、この関西のポストロックの雄は、島根にきてくれました。っていうかねぇ……こういうのはすごくありがたい話しで、だいたい島根って、アーティストのライヴがスルーされる地域なので。鳥取のほうがバリやりますよ。

それだけ、このバンドたちは、地続きの、手渡しのライヴを大切にしている……現場感覚のミュージシャンだということなんですな。

 

●ライヴレポのまえに

 

今回、久々に音楽について書きますが、まあちょっとしたことがあって、このところ1年ばかり、音楽について語ることをやめてきました。封印っちゅうか、筆を折ったというか。もう「作り手」になったこともありますし、過去のミスっちゅうか過ちっちゅうか出すぎた真似というか、そういうあれこれが、ぼくの心のなかでいろんな形をとって、ぐちゃぐちゃしていて、音楽を素直に語ることができなくなっていました。

 

でも……先日のM3でも、今回のライヴでも、やはり良き音楽は良き音楽。そういうものを、素直に言語化することが、自分にとっての、またひとつの喜びでもあった、と今再確認している状態です。

というわけで、素直に書こうと思います。筆を、今一度。

 

●ミズタアイコ

Discography

↑音源はこちら

 

このアコースティック弾き語りの女性シンガーは、今回始めて聞くひとでした。どうくるのか、という期待というか、疑問がありました。この面子とくるんだから、変則チューニング&ループシステムを使った、フアナ・モリーナ/アルゼンチン音響派的なのでも驚かないし、テクニカルタッピングを駆使した技巧派でも驚かない。

しかして、今回ミズタ氏のスタイルは、ストレートに歌を響かせる、至って王道のシンガーソングライター弾き語りスタイル。余計な仕掛けなしに、ギターと歌だけ。

で、実際聞いたときも、特殊奏法とかもなく、普通の弾き語り歌唱スタイルなわけです。しかし、退屈はせず、どんどん聞き込んでいきました。

理由としては、まずギター・ストロークの強靭さ。いやぁ、ホネがありますね。流麗、というよりも、ゴツンゴツン、ガシッガシッと響かせるギター奏法。そのダイナミックさにパワーを感じます。

と思いきや、歌唱も基本ストレートなのですが、「歌詞の主人公のキャラ」を忠実に再現する歌唱であります。どういうことかというと、裏切られて、弱弱しく嘆くキャラの場合は、その通りに、「うた」としての強度を捨てても、本当に嘆いて泣きそうな感じに歌うのです。このヴォイシングは達者だなぁ、と思いました。

しかしそれも、すべてはギターや歌を通して、歌の「世界」を表現するため。メッセージ込みの世界観を表現、っていったほうがいいかな。一つの短編を読んでいるかのような感じすらありました。そういうことでいえば、アレンジも達者なのですよ。ギターの低音弦をでベースラインをぐいぐいやってくとことか、「うーんこういうの好き」って素直に思えます。

3曲めから5曲めからのたたみかけは、ロッキンでありながらストレートアヘッド、閉塞感はないけれど、しっかりシリアスでダイナミック。とくにラストの曲の「一歩も後に引かんぞ」の勢いは、心に残りました。やはり弾き語りは音楽の基本にして完成形よ! そこに物語性ものれば……!

 

●土曜日と人鳥とコーヒー

 

音が……揺れる……幻想の光……。

昔、ぼくはこのバンドのことを、「轟音版the cure」って言ったのですが、それはどよぺん側にもウケてくれたようでw そのような、独特の白昼夢めいた耽美性をもったシューゲイザーバンドです。

そしてやはり自分は2曲め、「ニーナ」で泣く

youtu.be

この郷愁を深く琴線をゆさぶるメロディ、コーラス、ギター。「もう取り戻せないんだけど」という白昼夢の幻影!

音がたゆたっている、yuki氏の高音voと氏家氏のコーラスがあいまって。ていうかイントロからして泣くねん。「うわぁもう泣くぞこれ」っていう。

そこから轟音

ビリビリと服が振動する!(大マジ)

今回、前回のライヴを踏まえて、身体にちょっと楽をさせるために耳栓を持ってきました。これが役に立った……。ずいぶん身体が楽でした。まあときどき、マゾヒズム心が首をもたげて、耳栓外してみましたが、耳がビリビリ!

音楽の風圧である……。しかし、今回、ドラムが交替、ということになりましたどよぺん。前任者であったミヤモト氏のドラムが、どよぺんのリズムと世界観を、アンカーのように固定するものであったら、今回のイサノ氏のドラムは、全体を保ち構築しつつ、前へ移動さすような、そんな感じの変化がありました。

そこがより顕著だったのは、三曲め、「mahāparinirvāṇa」で、この曲はどよぺんのなかでも、長尺ノイズインプロがある曲。でも一瞬たりとてダレなかったのは、リズム隊がかなり動くからなのかなぁ、と思ったり。今回のノイズパートは、いつもに比べかなり長かったですが、変幻自在の妖しさはそのままに。

んで、最後。4曲目……

あの、ライヴ始まるまえに、ぼく幸いにも、どよぺんメンバーとお話しする機会があったのですね。そこで、氏家さんが「Boris聞きましてね」って話をされて。「Borisの轟音のあとには、今までの轟音の大きさじゃ満足できない」って氏家さん、語っておられました。こ、これ以上音でかくなるんかい……とおののきましたが。

そして4曲目で、……リフ?ロッキンなリフ? そして疾走!轟音!

た、たゆたってない、音が!轟音は轟音でも、直線的に突き進む轟音だ!ぶっちゃけ俺いつ「キルミスター!」って叫ぼうかと思った(やらんかったけど)w

どよぺんの新機軸であります……しかし、やはり轟音の申し子よ、このストレートアヘッドな轟音もモノにして、鬼気迫る。今までの幻想たゆたいこそないものの、この勢いは良しっ!モグワイだって疾走もあればたゆたいもあるでしょうっ!

そして、感極まったのか、なんと最後に、暴れるギターとベースが、そのままの勢いで、ガシャーン!とそれぞれの楽器をぶつけ合う! おいおい、どよぺんってそういうキャラだったかいな!wダイジョブかおい。

とまあ、最後、狂乱するどよぺんでありました。こいつら獣を心のなかに飼ってるぜ……。

 

霜降り猫

 

このバンドは、

www.youtube.com

オルタナらしいキレキレのギターに、柔軟なリズム隊、というオルタナギターロックの王道ながら、メロディには歌謡センスを堂々と取りいれる(節回しが歌謡クサいんじゃなく、歌謡のウェットな音の質感を取り入れる、って感じ)、激情を主とするスリーピースであります。

このバンドも音がでかい。やはり俺は耳栓をする。が、テレキャスターとベースの絡みが、よいのよこのバンドは。変拍子キメをやっても安定感がすごくて「イェア!」って感じだし、ドラムは常に安定しているし。

また、ベースがバキバキに動いたり、それでいて結構歪んでいたりして、素直にかっこいい。そこから、テレキャスターが暴れる!怒涛のノイズギターインプロをかましたり、バキバキのカッティングをかましたり!

途中、「静かな曲やります」っていいましたが、静かじゃねえw しかし、激情一本なパンクではなく、叙情をこの曲ではしっかりと描いてくれました。上にあげたスタジオ音源では、線細いのかな?と懸念するかもですが、ライヴでは音域全方位にぶっとい音をかましてくれます。っていうか、スリーピースとは思えん音の厚みだ……。

なんといっても、絶対に後には引かん、的なサムライの意気込みがすごい。トリということもあるのでしょうが。会場もノっておりました。ステージングも、モニタースピーカに足かけて動きまわるので、派手。

ミズタ氏とは違った形での王道でストレートですが、やはりこういうバンドはヘタにテクニカルでごちゃごちゃやるよりも(実際は結構テクニックかましてますが、基本精神として、ね)衝動と激情と不退転でGO!って感じでストレートにやるのが一番ですなぁ。ロッキンですなぁ。

 

●久々のライブでよかった

 

三者三様……!

まさにその言葉が似つかわしく、それぞれのキャラがまるで違いますが、どれも音楽性がシリアスでストレートでロックしてるので、こちらも「聞くぜっ!」と思わせるライヴでした。

やっぱり、こういうふうに音楽聞くといいですね。そんで、自分はやっぱりポストロックが好きなんだな、と思わせてくれるライヴでした。よし、自分も自作曲をがんばろう、創作がんばろう。そういうふうに、健全な力を与えてくれました。

あとは……やっぱ、ぼく30歳なんですけど、やっぱこれからライヴいくときは耳栓もっていこうw(こんなオチ

 

ネットコミュニケーション個人史

前々回と前回のつづき。

modernclothes24music.hatenablog.com

 

modernclothes24music.hatenablog.com

 

とはいっても、今回は、以前の記事のような負のアウラだだもれ、ということもなく、淡々とネット個人歴史と、それにまつわるネットユース、ぷらす個人の意識の変遷を語っていきたいと思います。

 

時系列順に書いていったほうがいいと思うので、さくさくと。

 

ゼロ年代前夜

 

だいたいぼくがはじめてネットに検索打ち込んだワードっていったら、「カードキャプターさくら」についての情報でした。ああこの時点でいろいろとお里が知れるぞウィンドウズ98se。(なつい!)

しかもグーグルじゃなくて、トップページだったMSNで。その当時はYAHOOって名前は聞いたことはあっても、具体的に何をしてるとこか、っていったらワケワカメで「なんか新しそうなことしてる!」っていうのでしたな。

ああそうそう、CCさくらの検索結果でしたが、何をトチ狂ったか、MSN検索は「CCさくら女装コスプレページ」をたたき出しましてな。うおーいこれはいったい何なんだ、目の前のディスプレイから映し出されるは、CCさくらのオッサン女装。そこから、「ネットってやつは、どうも現実世界とイコールじゃないっぽい」というのは肌身で覚えたというか。あるいは「リアルの奇妙な乱反射がネットなのだ」というふうに覚えたというか。

 

というか。

そもそもネット=電脳空間、というのが、パラダイスで平和でユートピア、というもんじゃない、っていうふうに思っていたのは、大清水さちの「ツインシグナル」という漫画ででしょうな。

ネットにはアングラもありーの、カオスもありーの、といったものだ、ちう固定観念がありまして。

 

そういういろいろを経て、ネットに対する固定観念は、わりとはじめに出来上がって……たちの悪いことに、それが対して間違った固定観念でもなかった。とりわけゼロ年代前期までの「ねちっと、じっとりしたネット」では。

 

テキストサイト

 

まあ侍魂とか。

考えたら、この侍魂でも、エロゲについて語られていたんですな……。それだけ当時のネットでは、エロゲが「共通テキスト」になっていた、というか。まあそれも葉鍵ゲー限定かもしれませんが。

今考えたら、大体の個人サイト所有者は、エロゲをやっていたと思うのですが、「ものすごく手を広げて」エロゲをやっていた、というのとはまた違う、というふうに思えます。葉鍵ゲーを中心として、萌えゲーだったりシナリオゲーだったり。というか、あからさまな萌えゲー、と、ドシリアスなシリアスゲー、というのが未分化だったというか。端的に例を述べれば、萌えゲーやってても、だいたいひとつか二つは、ルートで結構な鬱傾向にあるシナリオがあったり、とか。

当時は、もうエロゲも成熟していた、という認識……そうか、当時からもうあったのか、「エロゲ衰退議論」は……。まああったのですよ。そのなかで、自分にあったエロゲを皆探していましたね。

テキストサイトの話しから、一気にエロゲの話しになってってますが、この「自分で探していく」っていうのが、当時のテキストサイトの管理人たちの流儀でもあり、またユーザの流儀でもあったかと思うのです。今のように「なんとなくのアトモスフィア」が絶対的になってなくて、商業的なアレコレも……まああったけど、今ほど支配的ではなかったかと。

だからこそ、当時あれほどベンチャー企業的にぼこすこ新ブランドが出来てって、というか。

 

テキストサイト……テキストサイトとは、なんだったか。少なくとも、今のブログブームであるとか、ブログ飯であるとか、ブログマネタイズであるとか、とかはまったく違うものだったかと。

 

・だいたいわかってきたぞ

 

ぼくもぼくで、当時のネットが懐かしくてしょうがない、って類のひとみたいです。だからといって、今のネットで育んだ付き合いとかっていうのを、当時よりも低きにおく、ってことは絶対思ってませんが。(そう見られてしまったら、それは誤解です)

というか、当時のことをこれほど思っているのは、ひとつには「当時からの付き合い(10年近い)のあるサイト管理人さんがいる」からで。同じ境遇を記憶しているひとがいて、そのひとが今もネットで息をしている、ということは……ある意味で「自分のネット史」を知ってる、というか。自分もそこにいたんだよ、ってことの証、というか。変な話ですね。

たしかパスカルがいってたのかな、「モンテーニュの時代では、世の中にどんな本があって、どんな学問ジャンルがあるのか、ほとんど把握できてたけど、今はそんなことはとーてい無理!」っていうのは。

パスカルの時代からより、よりとんでもなく時代を経ている我々にとっては、じゃあ今ってどーなのよって話でw

でも、今のネットユースを考えて……「これはネットのなかにある情報だな」「これはネットの外にある情報だな」って、区分けて考えることって、ぼく、もう出来なくなりました。なんかネタを振られても、ネットをしっかり検索すればだいたいは出てくるでしょうし、それでも骨子の部分はネットには改ざんして書かれているでしょうし……くらいのことしか言えなくなってしまいました。

昔のネットユースでは、どこか「全能感」みたいなものがあって、広大なネットフィールド、といえども、その「最果て」というか「だいたいの国土」みたいなものを皆把握していたと思うのです。その中心が2chだったり、有名テキストサイトだったり、で、案外全体国土ってもんは狭かった。もちろん、最深部というとこは今も昔もあって、その深さたるやとんでもないものですが、その「最果て」の深さは皆「全部」を知ってるわけではないものの、「最果て」があることは知っていたり、とか。

というか、「最果て」がすぐ自分たちの裏っかわにあった!的な発見もまた、当時のネットユース的なものだったかもしれません。まあその原理は今も変わらないわけで、ネットまとめサイトが「【速報】ネットの片隅でこんなサイト発見wwwwww」系の「最果て」サイトのこつこつした更新を、一気にあざ笑う、みたいなパターンは今もあるわけで。

ただ、その「最果て」を「今から生み出そう!」という気概はすごくすくなくなったかなぁと。見出すのもね。

 

・ああそうか、なんでこういうネットユースを語りだしたのか、ぼくは。その理由

 

自分は自分なりに「最果て」に対する憧れがあったのですな。

最果てサイトの管理人は、とくべつな人ではありますが、同時に「自分たちと地続き」の人間でもありました。だからこそネットをやってる、という論法で。

10年続ける、ということは、言葉では簡単ですが、やるのは至難のわざ、ということをこの歳になってしみじみ思うわけで。

じゃあいまからしろよ!の言葉はまったくそう、で。しかし……今から身体とネットの組成を組みなおす、というのもまた難しく。

 

twitter以後

 

twitterで語るひとが増えて、そっちのほうが主流になってって。というと、個人サイトとか、コメ欄とかで議論する、って方向が減っていって。

それを嘆いているのかな、ぼくは。そういうふうな「嘆きの物言い」をぼくは否定していたけど。そもそもサイトコメ欄における長文やりとり、ってもんが「最善手」ではないからこそ、twitterが出てきているわけだし。

それでも、どうしようもないほど、かつての長文やり取りが懐かしくなってしまうのは、なぜかな。

そのときは、「俺vs管理人」っていう、ある種の錯覚があったのかな。でも、これを錯覚と呼びたくはなくて。……これは錯覚ではないだろう!

もちろん、twitterで、「俺vsフォロワー」の関係性でもって、お互いの文脈を戦わせることもあります(それはバトル、というよりは、やはり「議論」でしょう)。ただこれも、だいたいの場合が「袖触れ合うも一期の縁」みたいな感じで、刹那といえば刹那。でも……考えれば、長文コミュにしても、同じく刹那、でありましたよね。

 

そうか、またわかってきた。ようは、ぼくは弱くなったのだ。自分がオタとして屹立した観念をもって、意見をもって、「俺はここにいるんだ!」ということを、あの当時は発していた。それが、SNSでもって「まあ、みんな、ここにいるんじゃね?」って感覚が普及して、前みたいに「この一期一会の関係性だけど、俺のオタクとしての意見を、この際だからぶつけさせてもらうぜ!」っていう刹那の暴力にも似た、長文コミュは、薄まって、薄まって、というものかもしれない。

 

まあSNSというのが、そういうふうに「コミュニケーションを薄めて(馴れ合い化さして)、偏在化さす」……いつでも、どこでも!というふうな方向性のものなのだろうから、この「長文議論コミュ」っていうのが、時代の仇花としてパッと咲いて散った、っていうことなのかも。

 

でもなぁ。

やっぱり、自分の場ってものは、そっちにあった、と思うのが、ぼくなのですよ。だから、こんなに3回もブログ記事をこしらえて、当時を懐かしがったり、当時のひとたちから嫌われることを恐れたりしている。

 

ネットコミュニケーションとエゴのこじらせ

modernclothes24music.hatenablog.com



前回の続き。フーハハァ眠い!眠いが、なんか書きたくなってしょうがないので、書く。自分はなんでネットをし始めたんだっけ、と思ってしょうがないから。
自分はなんでネットをしたんだっけ。そりゃ最初は……もう12年か……最初は「新しいものだ!」「最先端がコンピュータだ!」っていう概念があったさ。そのうちにアングラへの興味っていうのがありましたね。そこからエロゲ/オタ文化へ一直線でしたわ。体系だった把握までは無理でも、「なんかここに可能性があるらしい」ってことは感じていました。


そこから、いざほかの人とコミュニケーションをとってみる、までに、時間がかかりました。自分にとってネット上の人々っていうのは、コンテンツ作者も、レビューサイト管理人も、サイト掲示板常連も、みなひとりひとりが、「舞台にあがってる人たち」の感覚があった。役者さん、というか。自分がそこに入っていっていいのか、の感覚。


だからROMが長かったネー。その間、結構自意識をこじらせてしまっていた。で、自分がネットにはじめて書き込んだとき……そのときの内容はともかく、テキスト表現が、実に痛々しい。「神!」とかってやたらと使ったりして……。


ようは、自分と文章と他者、との距離感がつかめていなかった。


それは今はどうか、というと、まあ多少は「慣れた」といっていい……とうか慣れなきゃ、おまえ12年間なにをしてたの、っていうか。
ただ、過敏症にはなった。こじらせがよけいひどくなった、というか。ああ、じゃあ、自分はネットをよき方向には使っていなかったのか。そうじゃない、そうじゃないんだ、自分はネットでよき人たちと会うことができたんだ、いささかなりとも孤独から脱することができたんだ、可能性ってやつを、広がりってやつを得ることができたんだ。それは嘘じゃない。


ただ、その可能性と広がり、を、自分自身の手で、より開拓していく方向……自分自身を表現していく方向、に、もっといってもよかったよなぁ、と今ちょっと思う。
まあ自分のこれまでなんて、なるようにしかなってこなかったのだけど、それでも「もうちょっとなんか……」っていうのはある。ネットは自由だという思いをもう一度取り戻せ。何がインターネット生態系だ。ネットのしきたりだ。空気ってなんだ……ネットにまで空気か。


あるのは、古きネチケット(この言葉を使うのも久しぶりだ)。それだけで十分だと思う。それさえも十分に守れていないのが俺なのだから。俺はそこに立ち返れ。そして、井戸端会議の参列者にだけなってるのをやめろ。


ふと気づいたときに、自分の好きなコンテンツの「語り」の場を、ためすすがめつして見ている自分。それはそれでいいものだ。自分が好きなものを、同じように好き、と語り合っているひとたち。自分よりも豊かな表現でもって、以外な表現でもって、好き!を語り合っているひとたち。そのひとたちはぼくにとって眩しかった。
彼らにも彼らなりの人生はあるのだろうけど、自分(ぼく)のよーな他人にはそれをビラビラと見せない強さが彼らにはあった。ただ「好き!」を語っていた彼ら。


今のネットは……いや、今のネットユースがどう、といってもしょうがない。キヨラカに、マネタイズになってってる方向をいってもしょうがないし、向こうもこっち(ぼく)には興味があるまい。
反発しあう磁石のように、強烈な違和感どうしが語り合っても……。
ぼくは、ぼくのネットコミュにケーションを、もう一度考えなくてはならない……ということもなく。
ぼくと語ろう、としてくれてる方々を、てきとーにあしらうようなまねだけはしたくない、ってだけだ。ぼくはそのようなことを訓戒しなくちゃならんまでに、墜ちたか。


なんでこんなことをウダウダ書いてるか、というと、やっぱりリアルでこういうことをウダウダ考えているからで。文体も論理もかなぐり捨てて、とにかく思ったことを吐き出す。韻律(ライミング)も語彙も気にせずにとにかく書く。書くということに己がある。己の限界は、今このようにして書いてるものだけだ。それ以上に己はない。自分の可能性、ってやつも、このかかれたテキストにしかねえ。「もっとマシな自分」はない。「もっとコミュニケーション巧者な自分」もない。「テキスト巧者」な自分もない。「思想的に豊かな自分」もない。「表現者としての豊かさ」もない。ああ、今ここにしかない。可能性ってやつは、限界を見据えたところにしかない。そして今の限界は、まさしくここだ。もっと文章を練って、思考を練ればもっといいものができるって? 君はそうかもしれんが、ぼくは今こうやってジャズアドリブをするかのごとく、言葉を吐き出すほかねえ。息(ブロウ)を吐き出してメロディらしきものをつかみ取っては、それを自分だって、詐称するんだ……。


なんの話か。コミュニケーションの話だ。
まあもっとも、自分はコミュニケーションだけに全振りしているスキル人間をヘイトしているのは事実で。まず人格なり、そのひとの固有スキルなり、固有コンテンツなりがあって、そこからコミュニケーションははじまる。コミュ術なんて所詮は潤滑油だ。(コミュマナー=ネチケット、とはまた別ですよ)
そう、自分が固有コンテンツを耕しきれてなく、結果自分がどんどん墜ちてってしまってるから、ひとは……かつて和やかに会話していたひとたちは離れていったのではないか。
じゃあ、ネットが、SNSが悪いんじゃない。自分が悪いか。その自分の悪さに、自分自身が耐えられないというだけだ。


どうも自分は自分を攻撃するのが得意でしょうがない。テンサイだ。その攻撃の弁舌を、ほかのもんですればいいのだろうが、どうも自分にいく。自分を攻撃すれば許される、という論理。だけど最近はその論理も破綻して、ただ自分を殺せば、なんかよくなる、というふうに信じ切っているのだからこまる。


それでいて、自分の攻撃性を、つぶさに観察して、小説にでも仕立てることも……できず。攻撃性を、音楽に仕立てて、ひとを熱狂さすことも……できず。
ただ、こういうコンプレックス文章を、吐き出すようにして書くだけ。そこまで墜ちたひとを、過去の自分はどう思うか、ということもまた、考えても仕方なく……わかりきったことだ。

コミュニケーション。
そこに祈りも介在せず、いつしか「当然」もなくなってしまったこと。まあそのようにして鈍化した存在に自分がなってしまったから、生き延びられているのだろうが、それはそれとして、いつか仕返しがやってくる……違う。だれか、がそのように悪墜ちするんじゃない。自分が、自分を攻撃するタネをもっと拾ってくるだけだ。


文字が文字としてこの紙面を黒に埋め尽くす。そんなに怨念のなか生きているようになってしまったのか。生きてるのなんて楽しくねえよ。


なんつうか、自分が自分であるだけで、自分を肯定できたら、ってほんと思うよ。
そうじゃないから、自分が何かをつくらないと、自分を肯定できない、って信じ込んでるから
そして、だから、作る手が、止まる。止まったら、よけい自分を攻める。攻撃。否定。そんな自分。
自分は自分にこだわりすぎてる、ということだ。もっとエゴを離れろ、結局エゴは作品の出来を損ねる。
そうはいっても、自分を動かしてるのはエゴだ。何かの奉仕として生きたい自分もいるけれど、それは結局肥大化したエゴの裏返しだ。それは俺が一番よく知ってるよ。
もうこんなエゴなんていらない。石炭のように、くべてしまえばいいのだ。そして表現のスチームエンジンをわかせ、なんでもいいから作ってしまえ……。もう考えたくない。考えたくない。考えたくない。
「若さ」なんて、もうないよ。気づいたときには失ってたよ。あるのは、「これまでの惰性」という慣性上の動きだけだよ。そんなベクトルだけの存在に墜ちてしまったのかよ。
誰を愛することも忘れ、誰を大切に思うことも忘れ、ただこのようなポエムにだけ自分を託して、これなんかが自分の限界で……ひどい。


疲れたので、また今日はここで記事書くのやめる。こんなの書き続けて、どうにかなんのかな自分は。ああ、また自分のことを考えている……